激動の時代のプロパガンダ・オリンピック
オリンピックの歴史(3)


1928年アムステルダム大会~1936年ベルリン大会

- 映画とオリンピック、幻の東京大会 -

 19世紀的な世界は第一次世界大戦以降急激に変化し始め、それと同時にヨーロッパ文化の黄金期も終わりを迎えることになります。そして、オリンピックは新たな世界のリーダーとなったアメリカのロサンゼルスで開催され、その成功を目撃したドイツは、自国での開催によって、ゲルマン民族の偉大さを世界に知らしめることを考え始めます。
 こうして開催されたベルリン大会は、ドイツの力を世界に示すことになり、それに追随するイタリアや日本も自国でのオリンピック開催を計画します。ところが、それが実現するよりも先に、再び世界は戦争に突入。第二次世界大戦の始まりにより、オリンピックはその後戦争が終結するまで開催されなくなりました。平和の祭典のはずのオリンピックを政治利用したドイツは、自らその崩壊を早めたのかもしれません。



<冬季オリンピックの始まり> 
 20世紀初め、ウィンター・スポーツの中心は北欧、ノルウェーとスウェーデンでした。スポーツ自体が限られた人のための娯楽だった時代、ウィンター・スポーツを楽しむのはごくごくわずかの人だけだったといえます。そのため、クーベルタンもウィンター・スポーツをまったく認めていなかったため、冬季オリンピックを開催するという発想はなかったようです。
 IOCの委員でもあったスウェーデンのヴィクトル・バルク大佐は、単独でウィンター・スポーツの祭典を企画し、「ノルディック・ゲームス」を開催しました。これが冬季スポーツ国際大会の原点となりました。
 その成功にヒントを得て、パリ大会の組織委員会はアルプスの旅行業者やフランス政府からの支援を受けて、冬季オリンピックをシャモニーで開催すると宣言します。すると、16カ国から250名以上の参加があり、予想以上の盛り上がりをみせます。一部の業者の利益のために行われる一部の人だけの大会にしかならないと考えていたクーベルタンは、当初は冬季大会の開催に反対でしたが、それだけの参加があったことから認めざるを得なくなりました。
 こうして、シャモニー大会は正式に第一回冬季オリンピックとして認められることになり、1928年にスイスのサンモリッツで次回大会を開催することも決定しました。その後、冬季オリンピックへの参加者が増え、認知度が上がる中で、元祖のノルディック・ゲームスは、オリンピックに吸収されて行くことになります。 
<1928年アムステルダム大会> 
 当初、アムステルダムでのオリンピック開催に対してオランダ国内では反対意見が多かったようです。特に厳格なプロテスタントの間で、オリンピックは元々古代ギリシャの宗教儀式と結びついた文化であり、キリスト教とは相いれないと、考えられていたからでした。
 反対派からの了解を得るために組織委員会は、大会期間中も日曜日は競技をやらないという提案を行うなど妥協案を提示します。結局、開催の了解を得られたものの、国からの資金援助は得られないことになります。
 幸いにして、オランダの経済は好調で、貴族階級、企業、国民からも、海外からも資金援助があり、無事に大会準備が始まります。そして、そのためにメイン会場となるスタジアムが建設されることになり、オランダの建築家ヤン・ヴィルスに依頼されました。彼はスタジアム以外にも周辺のデザインを行い、これがオリンピックにおける総合デザイナー的存在の原点となります。
 さらにこの大会から、初めて夜間照明がガス灯から電気照明に代わり、街全体が美しく輝く舞台となり大会を盛り上げることになりました。
 サッカーでは南米サッカーの活躍が続き、決勝ではウルグアイとアルゼンチンが激突。再びウルグアイが金メダルを獲得しました。しかし、サッカー界のプロ化の波は世界中に広まりつつあり、アマチュア・サッカーの価値は低くなって行きます。そのため、FIFAはプロ選手も参加できるワールドカップ・サッカーを開催します。(第一回はやはりウルグアイが優勝します)
 この大会でもアメリカの競泳界のスター、ジョニー・ワイズミュラーは大活躍。大会後、彼は活躍の場をオリンピックからハリウッドに移すため、引退を決めます。
 中長距離のスター、ヌルミも1万メートルで金メダルを獲得しますが、多くの競技会出場の際、費用を受けとっていたことが明らかになり、1932年のロサンゼルス大会への出場資格を失います。
 オランダ国民の厳格さもあり、この大会はナショナリズムの盛り上がりによる混乱は少なかった。閉会の際、新聞にこう書かれていたといいます。
「アムステルダムは道徳の破壊から救われた。ソドムとゴモラのように破壊する必要はなかったということだ。間近で見れば、真っ黒く描かれていたはずの悪魔の姿はそれほど邪悪ではなかった」 

<映画とオリンピック> 
 1896年第一回オリンピック・アテネ大会の年は、リュミエール兄弟による映画誕生の年でもあります。しかし、1900年、1904年の大会映像は撮影されていません。
 1906年のアテネ大会では、ゴーモン、パテ、ウォーリックという映画会社が撮影を実施しました。ただし、ほとんどその時のフィルムは残っていないようです。
 1908年のロンドン大会ではニュース映画の製作会社が競技を中心に撮影。マラソンでイタリアのドランド・ピエトリが役員に支えられながらゴールインする有名な場面も映像としてしっかり記録されています。(金栗さんの映像はほとんどなかったようですが・・・)
 パリ大会の記録映画「オリンピック大会 Les Jeux Olympiques」は、ベルナール・ナン監督による記録映像で3時間に及ぶ大作。
 アムステルダム大会の記録映画「オリンピック大会 De Olympische Spielen」は、ヴィルヘルム・プラガー監督にって大会を1時間にまとめた作品です。
 こうしてオリンピックの記録映画は、しだいに大きな役目を果たすことになり、その頂点を極めることになったのが、レニ・リーフェンシュタール監督の「民族の祭典」でした。
 そのスケールの大きさは、ベルリン大会のスケールの大きさと同様、それまでの記録映画とはまったく異なるレベルのものでした。
(1)組織委員会(特に宣伝相ゲッペルス)から全面的協力を得ていたため、莫大な予算規模と才能あるスタッフに恵まれたいた。
(2)製作のための技術的、美術的レベルの向上。
 この時代になって可能になった様々な撮影技術を使うことができたことが、それまでにない映像を可能にしました。
 飛行船を使った空中撮影。陸上トラックの横にレールを設置。ランナーと共にカメラが動くことが可能になった。
 選手を下からのアップで撮影するため、競技場に塹壕を掘ってカメラを設置した。
 ドイツのお家芸ともいえる高性能望遠レンズを使用した選手の顔にまで迫る迫力あるアップ映像。
(3)開会式の演出、舞台の素晴らしさ。(大会史上最高の専用スタジアム)
(4)監督レニ・リーフェンシュタールの天才的なセンスは、1939年ヴェネチア国際映画祭でムッソリーニ賞を受賞しています。(最高賞) 

<新たなオリンピックの時代> 
 1932年ロサンゼルス大会と1936年ベルリン大会は、実に対照的な大会となりました。
 「黄金の州」カリフォルニアの形式ばらない気楽さ対ドイツのプロイセン式堅苦しさ。
 前者は財源が乏しく、アメリカ政府の資金援助も少なかった(世界恐慌の真っ只中だったことも、もちろんありますが・・・)
 後者はドイツの国庫から大量の資金が投入され、大蔵省のうるさい役人でさえ監査できなかったといいます。ここで使われた4000万ライヒスマルクという数字は、それまでのオリンピックすべてにかかった費用を合計した額を上まわるものでした。
 ところが、この二つのオリンピックには共通点もあります。
 一つは、どちらも民族と人種の優劣をスポーツで示そうとした劇場だったということ。
 二つ目は、競技会から生まれる様々なエピソードと並んで、人種と民族に関する作り話が巧妙に演出され、以前のオリンピックとは比べものにならない規模で広まったことです。
 ベルリン大会の関係者は、ロサンゼルス大会がオリンピック大会というスペクタクルを新しい理念やイメージやメッセージを世界中に発信する媒体として利用していたことを評価。そこから多くを学んで利用したのです。
 新聞、ラジオ、通信設備の発達もあり、この二つの大会では、メディアを利用した世界中で広報活動を行う初の大会でもありました。特にベルリン大会では、ラジオ中継が本格化し、一部ではテレビ中継が実施されると言う革新的な大会となりました。

 ロサンゼルスとベルリン大会において、オリンピックはメディア向けイベントとしての頂点を極めた。そうなったのは第一次世界大戦の前後数十年間で驚異的に成長した新しい大衆的な文化産業に引っ張られてのことであり、また、オリンピックを利用したり支援しながら増大する商業と国家の力の後に従った結果だったといえる。・・・ 
1932年ロサンゼルス大会 
 この大会は大恐慌のさなか、ヨーロッパより遥か離れたアメリカの西海岸で開催されたため、参加選手数は1500名を切り、前回大会を下回ることになりました。ただし、そうした状況を補って余りある派手な演出が行われ大会を盛り上げました。経済的に世界のトップに立とうとしていた新興国アメリカによって、オリンピックは一気に商業主義に波にのみ込まれることになりました。コカ・コーラの広告は街中で行われ、大会を盛り上げますが、クーベルタンの望むものとは遠くかけ離れたものになりつつありました。
 競技会以外にも、夜のパーティーが毎日どこかで開催され、選手や関係者を喜ばせました。それらのパーティーにはご当地に住むハリウッド・スターたちがホスト役で登場したのですから、喜ばれたのは当然でしょう。ベラ・ルゴシ、ローレル&ハーディ、マレーネ・ディートリッヒ、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、ウィル・ロジャーズ・・・
 地元アメリカは金メダル41銀メダル32銅メダル20と他国を圧倒しました。しかし、そんなアメリカの大勝利に皮肉を言っていた人物もいました。
「この国に初めて奴隷を連れてきた人は、きっとオリンピックを念頭に置いていたに違いない。白人はアフリカ人に粉砕された。メダルを獲ったのはアフリカの黒人か白人女性ばかりじゃないか。ゴルフやブリッジやカクテル作りなら白人の独壇かもしれないが」
ウィル・ロジャース(俳優、カントリー歌手)
 確かにアフリカ系アメリカ人は差別され、マスコミにはほとんど取り上げられないながらも大活躍を見せました。
 エディ・ゴードンは、走り幅跳びで金メダルを獲得。エディ・トーランは、100m世界新で金メダル、200mでも金メダルをとり、黒人ランナーとして初めて人類最速の称号を手にしました。

<日本選手の活躍>
 黒人選手同様、マスコミによってほとんど無視される存在だったのが日本人選手でした。そうでなくとも外交関係が怪しくなってきていた日本から来た選手がオリンピックで活躍するとは誰も思っていなかったようです。ところが、南部忠平が陸上の三段跳びで世界新を出して優勝。西田修平が棒高跳びで銀メダルを獲得。バロン西と呼ばれてアイドルとなる西竹一が馬術の障害飛越で金メダルを獲得。さらに競泳では古橋らの活躍で6種目中5種目で金メダルを獲得すると一気に日本人選手への評価が高まります。体格的に劣る日本人の活躍に地元のアメリカ人も大きな感動を覚えたようです。(そこはさすがアメリカ人です)
 日本側にとっても、このオリンピックでの活躍は予想以上だったようで、スポーツによる外交の意義に気づくきっかけとなりました。1940年のオリンピック開催地に東京が立候補することが、この大会での活躍で決まったとも言えます。

 大恐慌の中、多くの国民がオリンピックの開催に批判的でしたが、125万人分のチケットが売れ、200万ドルを超える興行収入をあげ、経営的にも大成功となりました。そのうえ、選手村の備品や用具もすべて売りに出され完売。実に無駄のないオリンピックになったようでした。ここで再びウィル・ロジャーズの言葉で締めましょう。
「この大会が所詮はロサンゼルスの土地転がしだなどと思ってやってこなかったアメリカじゅうのみなさん、あなたたちはだまされていた!どこから見てもこの国始まって以来の最高のショーを見落とすなんて。ああ、もったいない!」

<選手村の誕生>
 ロサンゼルス大会で初めてオリンピックのために選手村が作られました。
 この大会以前は、開催地のホテルが宿泊のために用いられていました。しかし、選手村を作ることで選手を一か所に集中させることにより、宿泊費、食費、交通費などを1人2ドルに抑えることができました。ただし、最大の効果はそこが出場選手たちにとって素晴らしい交流の場となったことです。国際的なそのコンセプトは「オリンピックを苦行の場と考えず、昔ながらのアメリカらしく、思うままに・・・パーティー気分で楽しんでもらう」でした。
 多くの選手たちはまだ若くナショナリズムに毒されていないので選手村での体験は国際平和のために確実に意味をもったはずです。  
<表彰式の変遷>
 ロサンゼルス大会で初めて3段の表彰台が使用され、国家を演奏しながらのメダル授与式が実施されました。
 ではそれまではどうだったかというと・・・
 1896年のアテネ大会では閉会式でまとめて表彰が行われ、優勝者には銀メダルとオリーブの枝の束、2位には銅メダルとオリーブのリースが、マラソンの優勝者には銀の優勝カップと古代ギリシャ風の壺が授与されました。その時、受けとる側もタキシードと黒ネクタイが基本とされていました。
 1900年パリ大会ではセレモニーはなく、メダルとカップが1年後になって送られたそうです。
 1908年ロンドン大会で初めて金、銀、銅のメダルが授与されましたが、その時はまだ表彰台もなく、国旗の掲揚もなく楽団による国家の演奏もありませんでした。
 1928年アムステルダム大会で初めて国旗の掲揚と国家の演奏が行われましたが、まだ表彰式はありませんでした。
 1932年レークプラシッド冬季大会で初めて表彰台が登場
 同じく1932年のロサンゼルス大会では、1500mの金メダリストとなったイタリアのルイージ・ベッカリは表彰台でファシスト式の挙手を行いました。ナショナリズム発揚の場として、表彰式が早くも利用されました。
 1936年ベルリン大会では、マラソンで優勝した韓国人ソン・ギジョンが植民地として支配していた日本の国歌を表彰台で聴かされる際、下を向き続け反抗の意志を示しました。
 1968年メキシコシティ大会では、あの有名なアフリカ系アメリカ人ランナーによる「黒い手袋」事件が起きることになります。  
1936年ベルリン大会 
 ドイツは1916年にベルリン大会を開催するはずが、第一次世界大戦のため中止となります。その後は敗戦国となったためIOCから追放されていました。
 1931年のIOC総会でベルリンが1936年にアドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任すると、雲行きが怪しくなります。オリンピックの組織委員会の中心人物テオドール・レーヴァルトはユダヤ人でした。その上、ナチスは元々オリンピックに対し批判的でした。
「オリンピックとはユダヤ人が白人を陥れようとする陰謀である」
 ユダヤ人への締め付けは強まっていて、あらゆるスポーツクラブからユダヤ人は排除されてゆきました。しかし、スポーツによって白人(ゲルマン民族)の優位性を示し、ドイツの地位を向上できると考えたゲッペルスはオリンピックの利用を決断します。
 ヒトラーは大会のためにベルリンの街を大改修する計画を立て、建築家のアルバート・シュペーアに街全体の改造を依頼します。オリンピック・スタジアムは11万人を収容する巨大なものとなり、その他にも水泳競技場、ホッケー場、馬場、テニスコート、総合体育館、野外劇場、18万人を収容できる巨大グラウンド「マイフェルト」などが巨費を投じて建設されました。
 ナチスによるユダヤ人への差別は明らかでしたが、IOCのトップであるバイエ=ラトゥール伯やその後IOC会長になるアメリカのエイベリー・ブランデージらもユダヤ人への差別意識を持っていて、ナチスの正体をあえて黙認します。それでもナチスの非人道的な行いは、アメリカでも知られ始めため、全米体育協会やキリスト教団体などがドイツでのオリンピック開催に抗議。アメリカ選手団に対し、ベルリン・オリンピックへのボイコットを呼びかけます。1934年にはボイコット運動はアメリカ全体に広がりますが、ブランデージや政界の保守派は、そうした運動を抑え込み、ベルリン大会の開催を後押しし続けます。
 1936年冬季オリンピックがドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで開催されます。ところが閉会式から数週間後、ドイツはベルサイユ条約を無視してラインラントに軍隊を進めます。ところがその暴挙に対し、フランスと連合国軍が報復攻撃を行わなかったため、ドイツ国内ではヒトラーへの支持率が急増することになりました。そうなると、ドイツ国内でヒトラーを止める者はいなくなり、いよいよオリンピック・ベルリン大会はヒトラーが世界に対して自らの意志を示すための巨大な舞台装置になるのでした。

<幻の人民オリンピック>
 1936年3月、ヨーロッパで最後までベルリンでのオリンピック開催に反対していたスペイン共和国政府が中心となり、「オリンピックの理想を守るための国際委員会」が開催されます。その会議において、ベルリン大会をボイコットし、その代わりにスペインで「人民オリンピック」を開催することが提案され、世界各地に招待状が送られることになりました。それは右派勢力に乗っ取られたベルリンに対し、左派勢力が示した解答ともいえました。
 そしてベルリン大会にぶつけるかたちで、規模は小さいながら多くの参加チームがスペインに集まりました。ところが、ちょうどその頃、フランコによる軍事クーデターが勃発。スペイン中が戦場となる中、多くの選手たちがバルセロナの街に閉じ込められることになり、中には兵士として共和国軍のために戦う選手も現れることになります。こうして「幻の人民オリンピック」はスペイン戦争によって消し去られることになったのでした。

<仮面をかぶったオリンピック>
「きたる8日間は並外れてにぎやかに明るく過ごさなければなりません。ベルリン市民は気さくな笑顔で心からうれしそうにオリンピックのお客さまを迎えましょう」
ドイツ労働戦線からの布告

 ベルリン大会中、ナチスによる人種差別に対抗するかのように多くの黒人、ユダヤ人選手が活躍しました。特にアメリカの黒人スプリンター、ジェシー・オーエンスは陸上の短距離で4つの金メダルを獲得。ハンガリー代表のユダヤ人選手たちも大活躍しています。(走り高跳びのイボヤ・チャーク、水球のメンバー2人、レスリング・フリー・スタイルのカーロイ・カルパーティ、フェンシングのイローナ・S=エレクとエンドレ・カボシコ)
 しかし、こうした選手たちの名前がドイツ国内の新聞などに載ることはほとんどありませんでした。それよりも、ドイツ選手団の活躍を報じるだけで新聞は大忙しでした。ドイツは大会中、金メダル33個、トータルで89個ものメダルを獲得しています。
 ただし、当時人種差別を行っていたのはドイツだけではありませんでした。ドイツに対し、自由主義の主役として参加したはずのアメリカもまた人種差別に関してはドイツと大差はありませんでした。
「ニグロが陸上競技を得意とするのは白人より霊長類に近いからだ」
こう言ったのは、ゲッペルスではなくアメリカ陸上チームの副コーチ、ディーン・クロムウェルです。

 大会期間中、ヒトラーだけでなくゲーリングやゲッペルスなど、ナチスの大物たちは連日自宅で豪華なパーティーを開催し、海外関係者や選手たち、そして記者たちをもてなし続けました。8日間の期間中、ベルリンの街からはユダヤ人を差別するポスターは取り除かれ、トーマス・マンやシュテファン・ツヴァイクなど発禁扱いになっていた本も書店に並べられていたといいます。不気味なほどに、ユダヤ人、黒人、同性愛者への差別は一時的ながらなくなっていました。
 こうして仮面をかぶったオリンピックは無事に終了。ほとんどの記者たちは、大会の裏側を知ることなく終わり、ベルリン大会は世界中に好意的に伝えられることになりました。 
<聖火リレーの誕生> 
 聖火リレーは、この年のベルリン大会で初めて実施されました。発案者は、大会事務局長のカール・ディームでした。古代と現代のオリンピックを結ぶため、アテネから火を運ぶリレーを行う。ベルリン大会では3000人のランナーによってリレーが運ばれることになりました。、
 アテネのオリンピア、ブルガリアのソフィア、ユーゴスラビアのベオグラード、ハンガリーのブダペスト、オーストリアのウィーン、チェコのプラハ、そしてドイツのベルリン。アテネからのこの聖火のコースは、5年後にドイツ軍が南ヨーロッパへの進軍する際のコースと重なっていました。皮肉なことに、平和の象徴であるレースを逆走することにより、世界大戦が始まるのです。
 

<幻の東京大会> 
「アメリカに真の日本を理解させるには、彼らに勝って実力を示さねばなりません。いくら筋道立てて話しても無駄です。アメリカ人は、オリンピックで日の丸が掲揚されるのを目にして初めて日本の強さがわかったのだと思われます」
佐藤隼人(アメリカ領事)

 ロサンゼルス大会での陸上、競泳での日本選手の活躍により、アメリカにおける日本人の評価は一気に高まりました。その状況を目にした日本政府関係者は、日本でオリンピックを開催すれば、一気に世界中に日本人の優秀さを示すことができる。そう考えました。
 1932年、日本は正式に1940年オリンピック開催地に立候補。開催地を決めるためのIOCでの決選投票では、北欧フィンランドのヘルシンキ26票、東京37票と勝利を収めました。いよいよアジア初のオリンピックの開催で、嘉納治五郎の夢がかなうことになりました。
 ところが、1938年、中国での日本の戦線が拡大し、陸軍主導の政権により国家総動員法が制定されます。実質的な戦争状態に入り、政府は大会開催を返上することになりました。ヘルシンキがその代替地として開催が予定されますが、第二次世界大戦の勃発により、大会そのものが中止となりました。
 こうして時代はオリンピックとは無縁の状態へと進むことになります。 


「オリンピック全史 The Games」 2016年
A Global History of the Olimpics
(著)デヴィッド・ボールドブラット David Goldblatt
(訳)志村昌子、二木夢子
原書房

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