戦後混乱期からの脱出の時代
オリンピックの歴史(4)


1948年ロンドン大会~1968年メキシコ大会

- 冬季オリンピック、ドーピング問題、テレビ放送 -


 第二次世界大戦終結後、世界は米ソ二つの陣営による「冷戦」の時代に突入します。キューバ危機のように第三次世界大戦が目前に迫った時期もあり、国際的な平和を維持するため、オリンピックの意義は大きなものとなりました。
 戦後、世界中の植民地が独立することで、オリンピックの参加国は急増し、その規模の巨大化が始まります。
 敗戦国にとっては、オリンピックに参加することは復興を意味することとなり、その最終段階としてオリンピックを自国で開催国することで世界の先進国の仲間入りを果たすことが共通の目標となりました。ローマ大会、東京大会は、まさにその象徴的な大会となり、二国は戦後の急速な経済発展の集大成として大会を成功させます。そして、その成功は、オリンピックの理想的なロールモデルとして、多くの国がオリンピックの開催を目指すことになってゆきます。
 ただし、東京オリンピックのようなインフラも含めた巨大なプロジェクトとしてのオリンピックは、どの国でも成功するとは限らず、巨大な負の遺産を生み出す可能性もあることが、この後のオリンピックで明らかになります。

<1948年ロンドン大会> 
<節約の大会>
 第二次世界大戦が終わって3年。まだイギリスは戦争の傷跡が残っていて、食料事情も厳しい状態でオリンピックを開催する余裕はまだ不足していたようです。もともとこの大会は終戦から2か月後に行われたIOCの委員会で立候補。米ソの勝利で終わり、イギリスの時代は終わったと言われてしまったという世界的な評価に対し、英国の力を見せつけるという目的があったと言えます。
「ロンドンに来て解放感に満たされた。爆撃による殺戮と飢えが続いた暗黒の日々が終わってオリンピックが復活したときには、大きな太陽が地平線から昇るのを見るような気がした。前線基地も国境線ももうない。代わりに、いろいろな国の人たちが交流している」
エミール・ザトペック(チェコ)

 大会準備には資金も物資も食料も人材も不足しており、施設の建設には戦場から帰還した兵士やドイツ人捕虜までもが駆り出されることになりました。選手村も大会終了後はすぐに国営住宅として再利用されることになります。当然、国民の間ではオリンピックの開催に対して冷ややかでした。
「大会に対する国民の思い入れを平均すると「無関心」から「嫌い」の範囲に収まるだろう。今から丁重に辞退を申し出ても遅くはない」
イブニング・スタンダード紙

 当時、イギリスはまだアマチュア選手のほとんどは上流階級の人々で、メダルの獲得に対してのモチベーションは高いとは言えませんでした。それもあり大会の演出も質素で、開会式、閉会式の演出も昔に戻った地味なものでした。

<世界平和とオリンピック>
 まだまだ続く戦後の混乱の中で開催された大会ですが、この大会には平和の訪れを象徴するように過去最多となる59地域から4104名の参加がありました。
 旧英国領からは、インド、パキスタン、ビルマ、セイロン、ギニア、ジャマイカ、シンガポール、トリニダードトバゴが参加。
 アジア・中東からも、イラン、イラク、レバノン、シリア、韓国が初参加。
 植民地だった国からの参加はオリンピックのイメージを大きく変えるものでした。

「この大会は、オリンピックが生きた国連活動実現への最短距離となることを世界に知らしめた」
BBC放送レイモンド・グレンデニング

「オリンピックには、世界に平和を義務づけるほどの力はありません。・・・しかし世界中の若者に、地球上の人類はみな兄弟であることを気づかせる機会を与えることはできるのです」
ジークフリード・エドストレーム(IOC会長)

<女性とオリンピック>
 第二次世界大戦では男たちが戦場に行っている間、女性の社会進出が進んでいました。これが戦後の女性の地位向上に大きな影響を与えることになりますが、オリンピックに関してはまだまだでした。この大会における女性選手の比率は1932年、1936年よりも少なくなり、まだまだ女性の地位向上はオリンピックまでは届いていないかったが現実でした。
 それでも、ベルリン大会で6種目の世界新を出したオランダのファニー・ブランカース=クンは30歳となり子育てをしながらオリンピックに出場。周囲やマスコミから批判されながらもママさん選手として大活躍。100m走、110mハードル走、200m走で3つの金メダルを獲得。400mリレーでも金メダルを獲得しています。

<テレビ中継の登場>
 この時代のオリンピックは、テレビ特有の報道スタイルや商業的圧力とは無縁で、ましてスポンサーである企業からの圧力に影響されることもありませんでした。オリンピックを見た人の数は少なかった反面、後に続くテレビ時代のオリンピックに比べて世間の目もまだ厳しくなかったといえます。実際ロンドン大会のテレビ中継はイングランド南部のロンドンのみで、テレビ自体まだまだ普及していませんでした。 
<1952年ヘルシンキ大会> 
<ソ連の参加>
 この大会は、「冷戦」の元で開催されながら、両陣営の多くの国が参加した画期的な大会となりました。
 第一次世界大戦以降、ソ連はオリンピックには参加していませんでした。それには理由がありました。共産党指導部にとって、オリンピックは反革命的存在と見なされていたのです。
「階級闘争から人民の目をそらし、帝国主義的侵略の先兵に育て上げるたくらみである」ということです。
 しかし、世界的にスポーツ交流が盛んになり、自国の優位性を示すためにもオリンピックへの参加は必要である。そう考えたソ連はオリンピックへの参加を検討し始め、それに向けた選手の強化を国家レベルで開始します。そして、ついのこの大会で共産圏の大国ソ連の初登場となり、敗戦国として参加できなかったドイツ(西ドイツ)と日本もこの大会から復帰することになりました。
 中国は台湾が参加していることに納得せずに不参加でしたが、冷戦下でありながら両陣営の国が参加したこの大会はオリンピックの意義を証明する大会だったといえるかもしれません。
 開催国となったフィンランドは、ソ連の影響を受けながらも民主主義国家の側に属す特異な位置にある国です。その意味では、「冷戦」の真っただ中、ソ連とアメリカが初めてスポーツの舞台で激突するにはちょうど良い開催国だったのかもしれません。
「西側と東側世界が崇高な戦いを交わし、幸福な勝者が表彰されるのはもちろん、敗者にも苦々しい思いや復讐の気持ちが存在しない - そのような中立の場を提供できることは、フィンランドにとってまさに光栄なのです」
エリック・フォン・フレンケル(フィンランドのIOC委員代表)

 この大会、アメリカの金メダルは40で、ソ連は29しかし、総メダル数ではアメリカの76に対しソ連も71と接戦になっていました。そのうえ、ソ連と同じ共産圏のハンガリーが金メダル16で総メダル数42を獲得し大活躍。その意味では、二つの陣営は五分五分と結果だったといえそうです。(あくまでもメダルの数だけなら・・・)
 ハンガリー代表の活躍で特に世界を驚かせたのは、その後「マジック・マジャール」と呼ばれることになるサッカー代表チームの金メダルです。このチームは、この後、開催されるサッカーのワールドカップでも大活躍し、一時代を築くことになります。
 同じ共産圏では、チェコスロバキアのエミール・ザトペックの活躍もオリンピックの歴史に燦然と輝いています。彼は出場した、5000m走、1万m走、マラソンの3つすべてで優勝し3つの金メダルを獲得したのです。これはもう二度とない記録でしょう!最終日のマラソンでは、途中で2位以下を2分以上離し、並走する取材する車の記者たちからインタビューを受ける余裕すらあったといいます!なんという勝者!

 ちなみにこの大会でイギリスのとったメダルは金1銀2銅8となり、かつて植民地だった国々にどんどん抜かれつつありました。
 デンマークのリス・ハルテル選手は、小児麻痺によって膝から下の機能を失っていましたが、馬場馬術で見事に銀メダルを獲得。障害者スポーツの歴史にその名を刻むことになりました。 
<1956年メルボルン大会> 
 1890年、メルボルンの街はオーストラリアにおけるゴールドラッシュのおかげで人口が急増し、大英帝国内でも2番目となる50万人を越える都市になっていました。しかし、その後、金のブームが去り、世界恐慌や戦争により成長にストップがかかります。
 1950年代に入り、再び勢いを取り戻したことから、オリンピックに立候補。この時にはアメリカから6都市、メキシコシティ、モントリオール、ブエノスアイレスとの競合となりました。メルボルンはアメリカの都市が競合したこともあり、1票差で勝利を収めました。
 この大会のために建設されたオリンピック初の屋内競泳プールは、それまでにないモダンなデザインでメルボルンの新時代を象徴する存在となります。この大会はポスターに人間が登場しない斬新なデザインを用いたり、様々な新しいデザインが目を引く大会になりました。
 大会開催の2週間前にイスラエルがエジプトに侵攻。中東各国がイスラエルを非難し、エジプト、イラク、レバノンがオリンピック不参加を表明しました。
 またハンガリーへのソ連侵攻に抗議して、スペイン、オランダ、スイスが不参加を表明。中国も台湾問題が続いていて不参加。ドイツは東西合同チームでの出場をIOCに求められ、形だけは合同チームとして出場しますが、実質はバラバラでした。
 ソ連のハンガリー侵攻の影響は、ヨーロッパからの船上ですでに始まっていて、ハンガリーとソ連の代表チームの間でケンカが起きていました。さらに水球の準々決勝ではその2チームが激突。試合会場には、オーストラリア在住のハンガリー人が5000人近く応援に駆け付け、その多くが自国の選手たちに亡命するようプラカードで呼び掛けていたといいます。その試合中はラフプレーが続き、ついには水中、水上でのケンカとなり、出血する選手もいて、プールが赤く染まったといいます。最後には警官が入って試合を止めましたが、試合は4-0でハンガリーが勝利を収めました。 
<1960年ローマ大会> 
<敗戦からの復興>
 イタリアにとって、このローマ大会は敗戦国の復興を世界に知らしめるための大会として開催されました。
 1940年に立候補していながら、東京に開催権を譲った経緯もありましたが、戦後の復興はまだ終わっていませんでした。しかし、イタリアの復興を示すことで復興の起爆剤になることを期待されたのがオリンピックの開催でした。特にイタリアは、伝統ある芸術的センスを利用して生み出される、タイプライター、自動車、洗濯機、テレビ、冷蔵庫などの工業製品の分野でいち早く世界のトップに立っていました。そんなイタリアのデザイン力を世界に宣伝するためにも、オリンピックは大いに役立つと考えらたようです。
 ところが、大会が始まると、イタリアは本来のスポーツの世界で大活躍を見せます。獲得したメダル数は、米ソ二大強豪国に次ぐ数に達し、自国民を驚かせることになりました。 金メダル13で総数は36個(200m走のリヴィオ・べルッティ、ボクシング、ウェルター級のニノ・ベンベヌチ、馬術障害のレイモンド・ディンゼオ少佐らが金メダル)ただし、36個中女性のメダルは銅が二個と少ないのは、イタリアがカトリックの国で女性スポーツに対しての理解がまだなかったからと言われます。
 この大会最大のヒーローは、エチオピアのアベベでしょう。裸足で出走した彼はマラソンで金メダルを獲得。アフリカ大陸に初めて金メダルをもたらしました。
 この大会で参加となったのは、モロッコ、スーダン、チュニジア、サンマリノ。

<カシアス・クレイ登場!>
 ボクシングのライトヘビー級で金メダルを獲得したアメリカ代表のカシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)は、イタリアの記者に母国アメリカでの人種差別について問われると、こう答えました。
「まあ、問題もあるけれど、今言いたいのは、それでもアメリカは世界で一番良い国だということだ」
 しかし、帰国後に彼は黒人に対する人種差別の厳しさを思い知ることになり、金メダルをポトマック川に投げすてるだけでなく、自らの名前までも捨て、新たな名前モハメド・アリとして、国家と戦うことになります。
<冷戦下の米ソ対決>
 100m走の銀メダリスト、米国代表のデイヴ・シムは、CIAから依頼されソ連の走り幅跳び代表選手のイゴール・テルオバネシアンを大会中に亡命させるよう説得を試みました。結局、成功はしませんでしたが、そうした共産圏の選手を亡命させる試みは、その後も様々な場所で行われたようです。
 1964年のインスブルック大会では、東ドイツのリュージュ選手ウーテ・ゲーラ―。同じ年の東京大会では、ハンガリーのカヌー選手アンドラ・ストゥロ。
 1976年モントリオール大会ではルーマニアのボート選手ウォルター・ランバートゥスとチームメイト。ルーマニアのカヌー選手イヴァン・チャラランビジ。ソ連の飛び込み選手セルゲイ・ネムツァノフ。
 メダル争いでは、ソ連が金43総数103に対し、アメリカは金34総数71となり、ソ連の勝利と言われました。
「政治だけではなく、運動競技の面でも、世界は揺れ動いている。4年前のメルボルン大会のときには存在しなかった国々が、いまや非凡な結果を残している。アメリカはもはや誰にとっても脅威ではない。かつてはアメリカ人が大会を支配していた。今はそうではなく、再びそうなる可能性も低い」
ニューヨーク・タイムズ紙 

<選手のプロ化>
 IOCはプロ選手の出場に厳格であり続けましたが、実質的にプロといえるソ連の選手たちの出場を認めたことで有名無実化しつつありました。当然、資本主義国側の選手たちも、どんどんプロ化が進み、プロ選手の出場も許可しなければ競技レベルの向上は不可能な状況になりつつありました。
 ローマ大会では西ドイツの短距離走者アルミン・ハリーがプーマのシューズで走り、表彰式ではアディダスのシューズを履いて両社から報奨金を得て問題となりました。
<オリンピックのライバル登場>
 1963年、左派のインドネシア、スカルノ政権が非同盟諸国中心の「もうひとつのオリンピック」を首都ジャカルタで開催。その新興国競技大会(GANEFO)には、ソ連や中国、北朝鮮、アラブ諸国など51カ国から2700人の選手が出場しました。しかし、一流のアスリートの参加はほとんどなく盛り上がりは少なく、インドネシアで右派のスハルトによるクーデターが起きると、大会は消えることになりました。
<1964年東京大会> 
<経済発展を実現した大会>
「我々はこれまで、国民性を失って国際主義になるのを良しとする奇妙な幻想にとらわれていた。国旗と国歌を捨てれば、解放された国際主義者になれるのだと思っていた。・・・2週間のオリンピックによって、国民の間に日本人としての自覚が表われた」
朝日新聞

 イタリア以上に日本にとって、オリンピックは重要な意味を持っていました。敗戦後、わずかの間に日本経済は立ち直り10年近く二桁成長を続け、農村社会から都市社会に生まれ変わりました。巨大企業が様々な部門で世界の輸出市場を制しつつありました。経済成長率と1人当たりGDPを上げることが国内政治の主要な目標となり、東京オリンピックは、この目標を実現するための手段とシンボルとなりました。
 大会のために日本政府は、東京の街を大改造。下水道、高速道路、新幹線、地下鉄などを中心に大規模に作り変えました。それ以外にも東京オリンピックにかけた予算規模は、それまでの大会を大きく上回るものでした。1960年ローマ大会の支出が3000万ドルだったのに対し、1964年東京大会の支出は280億ドルでした。
 競技施設もまた革新的で、丹下健三による国立代々木競技場は特にその斬新なデザインで世界を驚かせました。
「建築におけるイマジネーションと効率性の面で、新たな高みに達した施設である。記者室では、記者たちがうつろな目でタイプライター越しに互いを見つめ合っていた。賛辞を送ろうにもできないほどに圧倒されていたのだ」
タイムズ紙

 大会を前に完成した東京の街は、当時の多くの外国人にとって未来都市に見えたようです。例えば、ソ連映画界の巨匠アンドレイ・タルコフスキーはSF映画の名作「惑星ソラリス」の中の未来都市の映像として東京の首都高速道路の映像を使用しています。
 さらにこの大会は、測量、計測、記録などに最新のエレクトロニクス技術が用いられたことでも知られています。オメガ社からセイコーに公式タイム・キーパーが変更され、計測はほとんどデジタルとなり、コンピューターが結果の集計や選手のプロフィール管理に利用され、メディアへの情報配信も早く正確になりました。(陸上や競泳の時間表示はこの大会から100分の1秒単位となりました)

 アメリカが金メダルを最多の36個獲得。
 競泳で3つの金メダルを獲得したドン・ショランダ―は日本でアイドル的存在となりました。

<円谷の悲劇>
 マラソンではアベベが二大会連続の金メダルを獲得しましたが、彼に続き二番目に競技場に現れた円谷幸吉に大きな歓声が沸きました。しかし、フラフラの状態だった彼はゴール前で3位だった英国のヒ―トリーに追い抜かれてしまいます。当然、日本では次回大会での円谷の活躍が期待されることになります。ところがその期待の重みに答えようと練習過多となった彼は故障に苦しむことになり、1968年1月自ら頸動脈を切りこの世を去ることになります。

<柔道とバレーボール>
 この大会で正式競技となった柔道とバレーボールは日本が得意とする競技で、特に柔道では全階級での金メダルが期待されていました。中でも最も重要とされるのは、最強の選手だけが出場する無差別級でした。ところが、日本代表の神永昭夫には決勝でオランダ代表のアントン・ヘーシンクに破れてしまいます。国民全体が大きなショックを受ける中、試合後に駆け寄るチームメイトを押しとどめ、神永に静かに礼をする姿は感動を呼び、早くも柔道が世界的なスポーツになったことを感じさせる出来事となりました。
 日本経済の発展を支えた繊維産業を代表する企業「日紡」の女子工員たちが中心の女子バレー日本代表。彼女たちを鍛え指揮した「鬼の大松」こと大松博文は、軍隊式の厳しい訓練と回転レシーヴのような独特のプレーにより、他国を圧倒するチームを作り上げました。(今なら絶対にパワハラ、セクハラで追放でしたが・・・)ソ連を破っての金メダル獲得は、「東洋の魔女」が世界を制した日としていまだに日本スポーツ史の名場面として語り継がれています。

<自由な閉会式>
 この大会の閉会式で、初めて参加者が国別ではなく自由に隊列を作って行進するスタイルが実行されました。
「ニュージーランド代表のアスリート9人は笑い転げながら隊列を離れ、飛び跳ねながらトラックをもう一周回り、ところどころで即興のジグを踊ったり、いきなり歌い出したりした。やがて貴賓席の前にたどり着くと、天皇裕仁その人の前で喜劇を繰り返し、腰を折ってわざとらしくお辞儀した。長距離走者のビル・ベイリーは掟破りの投げキッスをした。意外にも、走って止めに来る者は誰もいなかった。陛下は微笑み、西洋式に帽子を取った」
スポーツ・イラストレイテッド誌
 こうして閉会式の自由で平和な雰囲気は好評となり、この後も各大会でこのスタイルが継承されることになりました。

<性別問題>
 この大会の100m走で銅メダル、400mリレー金メダルを獲得したエワ・クロブコフスカ(ポーランド)は、1967年に行われた検査により男性・女性の性をもつ染色体異常と診断され出場できなくなります。ドーピング違反が疑われたが、それについては無実と判定されました。 
<人種差別問題>
 1964年東京大会からアパルトヘイト体制を続ける南アフリカはアフリカ諸国からの圧力もあり大会から排除されることになりました。元々差別主義者だったブランデージ会長は、IOCに形だけの調査をさせることで参加にOKを出そうとしますが、結局はボイコット国がでることを恐れてあきらめることになります。
<1968年メキシコ大会> 
<記録と記憶い残る大会>
 この大会で開催国のメキシコが獲得したメダルは、金3個で総数も9個と低調でした。しかし、メキシコにとってこの大会はメダルを数多く獲ってその力を見せつけることではありませんでした。
「今回のオリンピックで最も重要性が低いのは、”競技”そのものだ。記録は塗り替えられるが、国もイメージは消えない」
組織委員長ペドロ・ラミレス・バスケス(メキシコ)
 メキシコはこの大会によって、「無気力、非効率、腐敗」というメキシコにまつわる古いイメージを一掃したかったのです。だからこそ、メダルの獲得数は元々問題ではなかったのです。とはいえ、東京大会のようにお金を使えるわけではなく、総予算は東京大会の10分の1。そのために行われたオリンピックを演出するためのイベントは、「オリンピック文化祭」的なものでした。
 国中のアーティストたちを動員し、大会の9か月前から1500以上のイベントを展開し、大会を盛り上げました。開会式を前にして、隣国アメリカからデューク・エリントンやデイヴ・ブルーベックを招いてのコンサートやアステカ文明のピラミッドで光のショーなどを開催。
 元々色彩豊かな文化も持ち、巨大な壁画でも有名な街中をカラフルに着色。メキシコらしい綺麗な街を低予算で作り上げました。ちょうどこの大会からカラー放送が始まったこともあり、メキシコの明るいイメージを作り上げることに見事に成功しました。
 この大会の開会式では、最終聖火ランナーをハードル走者のノーマ・エンリケ・バシリオが女性として初めて務めました。
 しかし、そうしたメキシコ側の思惑とは関係なく、この大会はオリンピックの歴史において、「記録」と「記憶」の両方の面で重要な大会となりました。そして、その多くは黒人選手たちによるものだったと言えます。
 「記録」の主役は、走り幅跳びのビーモン、「記憶」の主役は200m走のスミスでした。

<政治的な中立性と管理国家体制>
 メキシコ政府がオリンピック誘致の際に主張したのは、メキシコという国の政治的地理的中立性ののもつ重要性でした。
 冷戦のどちらの陣営にも属さず、アメリカとキューバ両方に近い国であること。ラテンアメリカの国でいち早く植民地から脱した国だが、ラテンアメリカの一員であること。南半球と北半球、先進国と後進国の境目に位置していること。こうしたことから、メキシコという国は、国際的な翻訳者であり、平和の使者であり、対立する国の架け橋になり得る存在だということです。
 ただし、そんな理想的な姿だけがメキシコの真実ではありません。メキシコは軍事的な独裁的な政治体制の国でもあり、オリンピックの直前1968年7月にはキューバ革命10周年記念行進を行っていた学生たちを機動隊が急襲し、4人を死亡させています。
 その後、運動は激化し、オリンピックに対する国内・国外の批判が高まることになり、10月2日には大きな悲劇が起きました。反体制派の学生たちのデモ行進を追い込んだ警官隊が、広場で周囲のバルコニーから1時間にわたり狙撃。250人以上を殺害し、何千人もの学生を逮捕・投獄。後に「トラテルロの虐殺」と呼ばれた大虐殺事件は、当初は隠蔽され、オリンピックは何事もなかったかのように開催されました。

 表彰式でチェコ代表の銀メダリスト、チャスラフスカは、ソ連の侵攻に抗議するため、ソ連の国歌演奏の際、顔をあえて背けます。これがその後、彼女を体操競技の世界から引退へと追い込む原因となりました。

<記録的な大会>
 この大会は、オリンピックの歴史上最も高い場所で行われたこともあり、高度の影響を受けやすい陸上競技において、数多くの世界記録が誕生した大会として未だに語り継がれています。男子陸上で1500m以下の競走とすべてのフィールド競技で世界記録もしくはオリンピックの記録が更新されています。
 女子でも400m走以外のすべての競走と半分以上のフィールド競技で世界記録かオリンピック記録が更新されました。
 さらにアメリカ代表のデヴィッド・フォスベリーは、誕生したばかりの背面跳びで走り高跳びに革命を起こし、歴史を変えました。
 そして、棒高跳びにおいては、フォーム製マットの導入とグラスファイバー製のバーが登場したことで飛躍的に記録が伸びることになりました。
 そんな中でも、走り幅跳びアメリカ代表のボブ・ビーモンが出した8m90cmは、それまでの記録を遥かに超えてしまい、機械式測定器で測れる範囲を飛び出し、旧式のテープによる計測が行われることになりました。そして、その後、あのカール・ルイスの登場まで23年間破られない伝説的な記録となります。ちなみに、ビーモンは表彰式の際、表彰台の上でスボンの裾を上げ、黒いソックスを見せると言うささやかな意思表示をしています。しかし、この大会で起きた歴史的大事件により、この彼の行為はほとんど注目されずに終わることになります。

<ブラック・パワーの時代>
 1964年の東京オリンピックの時、黒人コメディアンのディック・グレゴリーは、黒人中流階級向けの雑誌「エボニー」にこう書きました。
「アメリカのニグロ・アスリートは、公民権を求める闘い、勝利から程遠い闘いに参加すべきだ」
 彼らに対し、オリンピックへの出場をボイコットするよう呼びかけたのですが、その呼び掛けに答えるアスリートはいませんでした。
 1967年公民権運動はさらなる盛り上がりを見せていました。(モハメド・アリの徴兵拒否、キング牧師によるベトナム戦争批判、デトロイト暴動・・・)
 黒人たちの反白人感情は悪化しており、黒人選手によるオリンピックのボイコットが現実味を帯びていました。その議論を広めた人物として有名なのがハリー・エドワーズという人物でした。
 元学生アスリートでアメフトのスター選手でしたがNFLからのオファーを断って、黒人の名門大学コーネル大で社会学を専攻。卒業後には、サンノゼ州立大で教師となりました。そして、その学校の教え子の中にいたのが、後にメキシコオリンピックに出場することになるトミー・スミス、ジョン・カーロスがいました。
 キング牧師、ブラックパンサー党、マルコムXから強い影響を受けエドワースは、1965年黒人アスリートの住環境改善運動を主導したことで有名になります。当時、大学内でも差別の対象だった黒人選手は、大学の寮どころか近くに住むこともできず、大学からの支援もない状態で貧しい生活環境に耐えながら選手生活を送っていたのです。
 彼はそうした状況を改善させるため、アメリカン・フットボールのサンノゼ州立大とテキサス大エルパソ校との試合で、彼はストライキによる妨害を行い、試合が中止となる事態となります。
 1967年、彼は「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」OPHRを設立します。
「私たちは、アフリカ系アメリカ人への抑圧がこれまでいなく悪化しているにもかかわらず、この国が少数の『ニグロ』を使って人種差別解決の面でどれほど進歩したかを世界にアピールするのを、これ以上許すわけにはいかない。私たちは、スポーツ界における人種的不正義が悪しき伝説になっているのを、これ以上許すわけにはいかない。私たちは、スポーツ界における人種的不正義が悪しき伝説になっているにもかかわらず、『スポーツ界』が自らを人種的正義の砦と自画自賛するのを、これ以上許すわけにはいかない」
ハリー・エドワーズ

 こうして彼は1968年メキシコ大会のボイコットを提唱することになりました。その状況でIOCが南アフリカ共和国をメキシコ大会に招待すると発表。当然、世界中から猛反発され、提案は取り消されましたが、IOCの保守的人種差別的な姿勢が暴露されました。
 結局、メキシコ大会をボイコットする黒人選手はいなかったようです。しかし、出場した選手団の中にエドワーズの教え子だった二人のランナー、トミー・スミスとジョン・カーロスがいました。
 メキシコ大会200m走で、トミー・スミスが世界新記録で金メダル、ジョン・カーロスが銅メダルを獲得します。そしてその表彰式の際、事件は起きます。
 スミスは妻に用意してもらった黒い手袋を右手にはめ、首には黒いスカーフ、靴を履かずに黒いソックスだけで表彰台に上がります。さらにカーロスも黒い手袋の左をはめ、リンチによって殺された黒人たちの冥福を祈るためにロサリオをつけていました。(二人の行動に賛同した銀メダリストのオーストラリアの白人選手ピーター・ノーマンも胸にOPHRのバッジをつけていました)
 国家が流れ始めると、スミスは視線を下に落とし、手袋をはめた拳を頭上に突き上げました。会場では二人の行動に対しブーイングが起き、すぐにこの行動は世界中で話題となります。翌日、ABCニュースのインタビューでスミスは、自らの行動をこう説明しました。
「私が右手にはめた手袋は、ブラック・アメリカの力を示しています。チームメイトのジョン・カーロスが左手にはめた手袋は、私の右手と合わせて孤を作り、黒人の団結を示しています。私が首に巻いたスカーフは黒さを示しています。ジョン・カーロスも私も、裸足に黒の靴下を履き、貧困を示しています」

 ブランデージはこの行動に激怒し、二人の追放を要求。代表団は、すぐに二人を帰国させ、メダルを剥奪。陸上界からの永久追放処分を言い渡します。この時の追放処分は、その後、20世紀まで許されることはありませんでした。当然、この事件は世界中で大きな論争を巻き起こし、閉会式は混乱を避けるために、各国選手団から7人のみ入場行進に参加することに制限されることになりました。 



<冬季オリンピック> 
 この時代、冬季オリンピックが現在に比べて、予算規模も参加国も少なかったのは、そもそも参加する国が限られていたからです。終戦直後には、冬季オリンピックへの参加は常に30各国弱程度で、そのほとんどがヨーロッパの国で、残りはある程度工業化が進んだ雪の降る一部の先進国だけでした。(アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アルゼンチン、チリ、日本・・・)
 しかし、経済的に戦後の復興が進み、先進国の数が増えると共に冬季オリンピックへの参加国が増えるにしたがって、オリンピック予算が急増することになりました。
 大会費用の変化は、1960年スコーバレー大会(アメリカ)が2000万ドル、1964年インスブルック大会(オーストリア)が倍増の4000万ドル、1968年グルノーブル大会(フランス)が2億4000万ドル、1972年札幌大会(日本)が10億ドルと急増しています。

 冬季オリンピックは、当初からプロフェッショナリズムや商業主義、観光不動産業と隣り合わせのイベントでした。シャモニー、サンモリッツ、レークプラシッドはすべて、現地の政治家とホテル経営者が、オリンピック開催によって高級リゾート地としての知名度を上げ、長期にわたる経済的利益を得ることを目的に招致活動が行われた場所でした。そのため、IOC会長のブランデージらの保守派は、冬季オリンピックの開催自体に否定的で、1964年大会では冬季大会の廃止を提案したほどでした。しかし、冬季オリンピックの反対派は、そうした保守派の人々だけではありませんでした。冬季大会の規模が大きくなり、そのための施設の建設規模も大きくなると、大会がもたらす環境への負荷と地域の巨額負債が問題になってきたのです。
 1976年冬季オリンピック開催地がアメリカのデンバーに決定したものの、予算が膨大なものとなり、それに対し「コロラドの未来を考える市民の会」(CCF)という団体が結成され、環境への悪影響を訴えて反対運動を展開。コロラド州で住民投票が行われ、投票率はなんと93.8%に達し、そのうち反対が60%という結果を出したのです。こうして、デンバー市民はオリンピックの歴史で初めて開催を拒否した市民となりました。そして、このことはその後のオリンピック開催地の決定に大きな影響を与えることになります。IOCも、開催地の住民に開催が支持されているか?を重要視することになりました。

<1960年スコーバレー大会>
 北カリフォルニアの無名の土地スコーバレーで開催された冬季オリンピックは、アレクサンダー・クッシングという人物の不動産開発が目的で実現したと言われています。彼はオリンピックを開催するとぶち上げることでロックフェラー財団からの融資を受けることに成功。彼の自信満々の説明にカリフォルニアの州知事が説得されたのをきっかけに、ヒョウタンから駒のようにオリンピック開催への道が開けることになりました。オリンピック開催を前提にリゾート開発を開始し、1960年大会の開催誘致に本当に成功してしまいます。 当時は、そんな大法螺からオリンピックが実現に至ることも可能な平和?な時代だったともいえそうです。

<1964年インスブルック大会>
 世界トップクラスのスキー製品輸出国だったオーストリアは、スキー競技の強豪国でもありました。戦後復興を進める中、そんなオーストリアの売りをさらに世界に広めようと企画されたのが冬季オリンピックの誘致でした。 


<テレビ放送の普及> 
 オリンピックのテレビ中継は、1948年のロンドン大会から始まりました。しかし、その放映権料がオリンピックの形を根本的に変えてしまうことになるとは、誰も考えてはいませんでした。オリンピックの運営側も同様で、そのためにテレビの放映権料は当初は現在よりも遥かに安い価格でした。
 ローマ大会の組織委員会は、アメリカのCBSに39万4000ドルで放送権料を販売(視聴率は36%)しています。
 この大会は、ヨーロッパ12各国で生中継で放送され、世界21カ国で放送されましたが、まだまだ視聴者はごくわずかでした。
 東京大会開催時、高度経済成長期にも重なっていたこともあり、オリンピックは日本のテレビ界に大きな変化をもたらしました。
 日本国内のテレビの受信契約数が、オリンピック直前の3年間で200万台から1600万台に急増しています。
 この大会では、大会史上初めて、オリンピックのための放送センターが建設され、初の衛星生中継も実施されました。
 この大会は、アメリカでの放送権料は160万ドルに達しています。
 この時期、保守的なブランデージ会長は、テレビ放送そのものに批判的で、放送権料の交渉をそれぞれの組織委員会に譲ってしまいます。しかし、そのためIOCは巨額の財源を失うことになりました。
1968年メキシコ大会ではカラー中継が初めて行われました。この大会でのアメリカでの放送権料は1000万ドルに急上昇しています。
1972年ミュンヘン大会で、アメリカの放送権料は1800万ドルとなり、世界98カ国で放送されました。
1980年モスクワ大会で、アメリカでの放送権料は8800万ドルに上昇。
1984年のロサンゼルス大会でのアメリカ国内の放送権料2億8700ドルと桁が一気に変わりました。 

<ドーピング問題> 
 20世紀初頭、オリンピックが始まった当時から、スポーツ選手とドーピングは切り離せない存在でした。
 ストリキニーネ、アルコール、カフェイン、アンフェタミン、コーラの実、酸素などが使用されていました。それらを使っていたのは、主に自転車、ボクシング、競歩、ボートなどの選手たちでした。
 1960年のローマ大会でデンマークの自転車選手タット・イェンセンは血管拡張薬のニコチニル・アルコールを使用し、レース中に転倒し死亡するという事件が起きました。
 1962年にIOCは、ドーピング委員会を立ち上げ、検査のための準備を開始します。
 1968年グルノーブル冬季大会とメキシコ夏季大会で性別検査と薬物検査を導入。しかし、当時はまだ検査の信用性も実効性も不足していて、メキシコ大会での失格者はわずか1名。それも酒の飲みすぎによるものでした。
 1972年には予算をも増え、技術的にも進んだため7人が問題ありとされたが、結果が出るのが遅すぎたりして有効に機能していなかった。ステロイドに関する検査がなかったため、ほとんどの薬物使用は見逃されていたようです。勝負の分かれ目は薬代が払えるかどうかだと言う選手までいました。 

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