オリンピックの巨大化・民営化の時代
オリンピックの歴史(5)


1972年ミュンヘン大会~1984年ロサンゼルス大会
 東京大会の成功を受け、多くの国が自国の発展を世界に示すだけでなく同時に国家レベルのインフラ整備を同時に実現することを目標にオリンピック誘致を行う時代となりましたが、オリンピックの巨大化と共にトラブルが多発することにもなります。
 メキシコ大会での「黒い手袋」事件は、世界に衝撃を与えましたが、オリンピックを政治的に利用する動きは、より過激な方向へと向かいミュンヘン大会での悲劇を生むことになりました。さらにはアメリカなどの西欧諸国がアフガニスタンへのソ連の侵攻を批判してボイコットする事件も起き、オリンピックはその存続の危機に迫られていました。
 ミュンヘンでのテロ事件後、オリンピックには巨額の警備費が必要となり、大会自体の巨大化もあって、大会運営と設備の建設費は自治体の能力を超えるレベルに達します。
 モントリオール大会では、それが巨額の負債を生み出すことになり、オリンピックの誘致が必ずしも良いことばかりではないことを示しました。そのため、開催国への立候補が急減することにもなりました。
 そんなオリンピックの流れを大きく変えたのが、ロサンゼルス大会でした。民間主導の運営により、オリンピック史上初めて黒字を計上したことで、その後のオリンピック運営は大きく変わることになります。ただし、この大会は、収入を増やすために、選手のプロ化を促進することにもなり、オリンピックの精神は過去のものとなって行きました。
 1990年代に入ると、ドーピング問題の深刻化、開催地の環境問題、大会後の設備問題など、様々な問題が生じることになって行くことになります。


<1972年ミュンヘン大会> 
 この大会最大のスターは、競泳で7つの金メダルを獲得したアメリカのマーク・スピッツでしょう。
 さらにこの大会の開会式などでは、それまでの古代ギリシャ風の演出から脱却し、時代に合わせた新しい演出が試みられました。そのためのイベントとして、「シュピール・シュトラッセ」を開催。ピエロやパントマイマーによるパフォーマンス、ジャズの演奏、現代美術作家によるインスタレーションなどが行われました。これらの文化的なイベントは、1200万もの観客を集め、大きな話題になりました。しかし、この大会について振り返る時、最初に思い浮かぶのは、残念ながらイスラムのテロリスト「黒い9月」による「イスラエル大使館襲撃事件」かもしれません。

<イスラエル大使館襲撃事件>
 この大会で起きた最大の事件ともいえる「イスラエル大使館襲撃事件」は、まったく予測されていなかったわけではありません。当初からイスラエル・チームを出場させることに対し反対する意見も多く、危険視されていたようです。なぜなら、当時は世界各地でパレスチナ・ゲリラによるテロ事件が多発していて、テルアビブ空港での乱射事件が5月30日に起きたばかりで、それ以外にも様々な事件が起きていました。事件が起きたのは9月4日でした。
 そこまで危険だったにも関わらず、当時はまだ現在のような警備が行われていませんでした。そのためパレスチナ・ゲリラの犯行グループ8名が簡単に選手村に侵入。イスラエルチームの宿舎を占拠することに成功します。この時、2名の選手が殺害されました。その後彼らは、イスラエルの刑務所に収容されている数百人のパレスチナ人の解放を要求しますが、イスラエル側に拒否されます。
 そこで彼らはエジプト行きの飛行機を用意するよう要求。丸一日、宿舎を占拠した後、人質と共にフェルステンフェルトブルック空軍基地へ移動後、西ドイツ警察と銃撃戦となります。その際、人質となっていた選手らイスラエル人9名、テロリスト8名中5名、ドイツ人警察官1名が死亡するという悲劇的な結末となりました。当時はこうした事件に対する対応力がまだ警察にはなく、情報不足、訓練不足から人質全員が死亡。これ以後、こうしたテロ事件に対応するため、特殊部隊の編成や警備体制の補強が世界中で進むことになります。
 オリンピックの盛り上がりは、スポーツ界にとっては喜ぶべきことでしたが、そのおかげで、テレビ中継が世界中で見られるようになったため、テロリストたちにとってオリンピックは最高の舞台となったのでした。

「素晴らしいオリンピック大会を開催してくれた…世界中でテレビを見ている数百万の人々に向けて、パレスチナ人が何に満足していないかをわかってもらう舞台を提供してくれた」
1972年ミュンヘン大会でテロ事件を起こした「黒い9月」のメンバー

<ブランデージからキラニンへ>
 思うに、スポーツは政治と一体であるし、これまでも常に一体であったということについて、私よりも説得を必要としない人間はいないだろう。我々の生活のすべては政治的判断に左右されている。享受する自由の度合いは人それぞれに異なるが、いずれにしてもその自由は政治的判断によって得られるものだ。スポーツとオリンピック・ムーブメントにかかわる我々に必要なのは政治家の関心と支援であって、介入ではない。
マイケル・モリス・キラニン卿

 1972年9月クーベルタンの意志にこだわり続け、人種差別主義者でもあった保守派のブランデージに代わったイギリス人キラニンは、第6代会長に就任。彼の在任中、オリンピックは少しづつしかし、最終的には大きな変革を実行します。 
 この大会の記録映画は、オムニバス作品で世界の巨匠が競技ごとに撮っています。ただし、この映画以降、オリンピックの記録映像は、「記録映画」といての価値を失ってゆきます。それは、映画からテレビへの時代の変化を象徴していました。

「時よとまれ、君は美しい/ミュンヘンの17日」(1973年)
「The Beginning 始まりの時」
(監)ユーリー・オゼロフ(脚)デリアラ・オゼロワ(撮)イーゴリ・スラブネビッチ
「最も強く The Strongest」(重量挙げ)
(監)マイ・ゼッタリング(脚)デヴィッド・ヒューズ(撮)ルネ・エリクソン
「最も高く The Highest」(棒高跳び)
(監)アーサー・ペン(撮)ウォルター・ラサリー
「美しき群像 The Women」(女子選手たち)
(監)ミヒャエル・フレーガー(撮)エルンスト・ビルト
「最も早く The Fastest」(100m走)
(監)市川崑(脚)谷川俊太郎(撮)山口益男、マイク・デービス
「二日間の苦闘 The Decathlon」(十種競技)
(監)ミロシュ・フォアマン(撮)ヨルゲン・ペルソン
「敗者たち The Losers」(レスリング)
(監)クロード・ルルーシュ(撮)ダニエル・ボックリー
「最も長い闘い The Longest」(マラソン)
(監)ジョン・シュレシンジャー(撮)アーサー・ウースター 
<1976年モントリオール大会> 
<巨額の負債を生んだ大会>
 モントリオール大会は、モントリオール市長であるジャン・ドラボーが一人で仕切った大会で、その暴走を抑える者がいなかったために膨大な赤字を生み出し、モントリオール市民だけでなくケベック州民に多大な赤字という負の遺産を残しました。そのため、この大会以降、オリンピック開催地として立候補する都市は一気に減少することになりました。
 フランス系カナダ人ナショナリストとして地域社会(フランス語圏)からの依頼が厚かったことから、地元経済界と一心同体だったドラボーは、1967年に万博の誘致を成功させた実績がありました。当初、ドラボーはIOCに対し「質素で独立採算型のオリンピック」とプレゼンテーションを行い開催国に選ばれます。ところが、ケベック州の独立を目指す「ケベック解放戦線」が州大臣を殺害するという事件が起き、大幅に警備予算を増額することになります。その増額分は国が負担することになりますが、しだいに必要な予算が増えて行き、歯止めがきかなくなりました。当初、大会のコストは1億5000万ドル以下とされていましたが、大会開催時には12億ドルにまで跳ね上がっており、借入金の利息を加えると最終的には20億ドルを越えることが明らかになりました。
 なぜそこまで増えたのでしょうか?
 ドラボーが身内の企業に入札なしで仕事を発注したため、誰も予算の圧縮を考えなかったのが最大の理由でしょう。虚栄心の塊だった彼は、悩むことなく自分のやりたいように施設や設備にお金をかけました。そのうえ自らそれらのデザインに細かく口出ししたため、設計から建築まですべてに時間がかかり過ぎました。最終的には州政府が介入し、ドラボーを実務から外すことになり、かろうじて大会開催に間に合いました。
 それでもこの大会は始まってからは大きなトラブルもなく順調に進みます。そしてガラボーは、それだけの負債を生み出しながらも、市長を続け、1978年の市長選挙でも61%の得票率で圧倒的な勝利を収めます。モントリオールが借金を返済し終わったのは、2006年のこと。巨額の負債というレガシーを残したこの大会は、その後のオリンピック運営に大きな影響を残すことになりました。

 この大会のメダル獲得数1位は、ソ連の金49総数125で、2位にも共産圏の東ドイツが金40総数90で入りました。ただし、この時期すでに共産圏でのステロイドなど薬物の使用は慢性化していたと考えられます。(後に、多くの選手がこの頃の薬物使用の影響で命を縮めることになります)
 しかし、その中でもナディア・コマネチの「10.00」連発の演技は、この大会最大の見どころだったといえるでしょう。 
<1980年モスクワ大会> 
<共産圏の威信をかけた大会>
 大会組織委員会オルグコムのトップ、イグナチイ・ノヴィコフは幹部会開催の挨拶でこう語りました。
「史上初めて、オリンピックが社会主義国で開かれることになる。我々の母国の首都、モスクワでだ。この超大規模な政治的イベントは、政治の最高レベルで準備し、実行しなければならない。皆さんで、モスクワを模範的共産主義都市に変革してほしい」

 1970年代のソ連社会は、80年代ほど機能不全を起こしてはいませんでした。それでも、西欧諸国のマスコミや観客を迎えるとなれば、設備、サービスの面で様々な改革が必要なことは明らかでした。
 カラー放送の技術、競技データを扱うコンピューターシステム、情報を送るための国際電話回線など様々な問題点があったものの、ほぼ技術的トラブルはなかったようです。民間企業が存在しないため、国内でのスポンサー企業がいないため、資金集めでの苦労はありましたが、大々的に国営スポーツくじを発売することで対応。順調に大会開催の準備は進みました。

<西側諸国のボイコット>
 1979年アフガニスタンで起きたクーデターに対し、12月27日ソ連軍がアフガニスタンに侵攻。この他国への侵略に対し、西欧諸国を中心に批判が高まります。アメリカ政府はアフガンへの侵攻への批判の意志を示すため、モスクワ・オリンピックへの参加ボイコットを決め、他国に対しても同調を呼びかけ始めます。
 結局日本も含め、西ヨーロッパ以外の西側諸国、西ドイツ、韓国他65カ国がボイコットを選択しました。そのためモントリオール大会の参加国が88だったのに対し、モスクワ大会の参加国は81に減少することになりました。

<反体制派歌手の死>
 大会期間中、7月28日オリンピック・スタジアムから数キロの地でヴラジミール・ヴィソツキーの葬儀が静かに行われていました。会場には3万人もの人が集まったといいます。ソ連の公式音楽事務所から発禁処分にされたカリスマ的なシンガー・ソングライターは、地下出版のカセットを使って反体制的な歌詞の曲を発表し続けていました。その存在は単なるカリスマ的な人気歌手というよりもソ連を代表する国民的な歌手として語り継がれることになります。ソ連の大衆にとっては、この葬儀の方がもしかすると大きな出来事だったのかもしれません。

<ソ連の終わりの始まり>
 ヴィソツキーの葬儀から4日後、モスクワ大会の閉会式が行われました。
 ソ連軍の大編成の楽団がコーチングを行い、巨大なマトリョーシカ人形がふらふらと進み、観衆はソ連軍楽団所属の歌手レフ・レシチェンコの甘ったるい「さよならモスクワ」に涙を流した。たくさんの風船を携えた巨大なミーシャ風船がスタジアムに入場し、さよならと手を振ってから、ふらふらと夜空に放たれた。当時まだ7歳だったある観衆は、のちにこう語っています。
「あの瞬間、ソ連の子供はみんな泣きました。私のような者にとっては、飛んでいくミーシャがソヴィエト連邦の終わりの象徴のように見えたんです」 
<1984年ロサンゼルス大会> 
<強いアメリカを象徴する大会>
「我々は、『アメリカをもう一度偉大な国にするための十字軍』として、『新たな始まり』を創るために団結した。いま、すべてが軌道に乗り始めている。我々の愛する国は平和で、アメリカは希望の春のまっただなかにいる。我々は偉大さに向かって進んでいる。ここアメリカ合衆国でオリンピック大会を開催することによって、この季節の約束が形を取り始めたのだ」
ロナルド・レーガンによる1984年大統領指名受諾演説より

 ロサンゼルス大会はレーガンが80年代に展開することになる「新自由主義」という名の元に生み出された「強いアメリカ」を象徴する大会となりました。軍事費の大幅な増額、金融・通信などの規制緩和、福祉・教育支出の大幅減額、労働組合への強い締め付け・・・公的資金がなくてもアメリカは民間企業の活力により、再び偉大な国になれる!その信念の証明としてロサンゼルス・オリンピックが民間主導という新しいスタイルで開催され、オリンピック史上初めて大会運営で黒字を出すことに成功することになりました。
 ただし、この大会で成功したビジネス・モデルが、その後の大会にも有効だったわけではありませんでした。確かにこの大会を指揮したピーター・ユベロスの手腕は優れていたのかもしれませんが、1992年ロサンゼルス暴動後に再びロサンゼルスの街を救う役目を与えられた時、彼はもうその輝きを放つことはできませんでした。
 現金の準備もせず、財政的保証も行わずに大会を開催すると宣言したトム・ブラッドリー市長は前述のピーター・ユベロスにその仕事を委ねます。元水球選手で全米2位の旅行代理店を一代で築き上げた彼は、その依頼に対し、3つのプランを提言しました。
(1)新規インフラの建設を極力減らしてコストを削減する。
 インフラについて縮小を実現するため、様々なアイデアが実行されました。
 大学の寮を選手村として利用する。(大会のために寮を作り、その後大学に買い取らせる場合もありました)
 バスケットボールや水球は、大学の施設を利用して試合を行う。(元々アメリカの大学スポーツの施設は大きくプロ顔負けだから可能だった)
 新しく建てた競泳用のプールは、マクドナルドがネーミングライツと引き換えに建設費を負担。同様に自転車競技場は、セブンイレブンの運営会社が建設費を負担。
 それらの建築物の大会後の維持費・管理費は、それらの施設を引き受けた大学などが負担。
 こうして、スポンサー企業の出費によって、大会の器は完成しました。
(2)テレビ放映権料を見通し、視聴率に見合った額にする。
 テレビ放映権料について、ユベロスは入札の前に参加希望業者に50万ドルを要求。最終入札にはさらに25万ドルを用意させました。入札後にはそのお金は返金されましたが、その間の利息は大会組織委員会が受け取っていました。
 結局、アメリカにおける放映権はABCが2億2500万ドルで取得。この巨額の数字は、過去に行われたオリンピックの放映権料すべてを足したよりも高額で、モスクワ大会の2倍以上になっていました。ヨーロッパやアジアからも放映権料4000万ドルを獲得し、700万枚のチケットを前売りし、1億4000万ドルのチケット収入を大会前に確保していました。
(3)スポンサー契約を量ではなく、質に転換。独占させる代わりに高額の契約料を獲得する。
 ユベロスはFIFAがワールドカップですでに行っていたスポンサー契約のやり方を参考に巨額のスポンサー契約を実現する方法を見出していました。それはスポンサー契約の数を一製品分野について1社のみに絞る代わりに最低400万ドルからの入札を開始しました。
 1200万ドルを支払ったコカ・コーラも含め43社が巨額の出費によってオフィシャル・スポンサーの権利を得、532社がオフィシャル・サプライヤーという指定を受け、商品やサービスを無償もしくは割引価格で提供することになりました。

<アメリカの一人舞台>
 モスクワ大会をアメリカがボイコットしたことに対する報復によるボイコットをソ連は当初考えていなかったようです。しかし、1983年に起きた大韓航空機撃墜事件により、ソ連への批判が強まったことからソ連は不参加を決定しました。他にも10数か国がソ連と共にボイコットすることになりました。それでもこの大会の参加国は140に増加しています。
 とはいえ、ソ連ら共産圏のスポーツ大国が不参加だったことから、メダル争いはアメリカの一人舞台となりました。当然、アメリカ国内は大きな盛り上がりを見せ、大統領として初めて開会式に出席したレーガンの狙い通りの大会になったといえます。そんなあまりの成功ぶりに心配の声もありました。「スポーツ・イラストレイテッド」誌のフランク・デフォードは不安について記しています。
「大会を観ている25億の人々は、うぬぼれたアメリカを思い浮かべることだろう。豊かで強く、ホーム・アドバンテージをはじめあらゆる面で有利で、ゴリアテよろしく浮かれ騒ぎ、失礼にもゲストに目もくれず、自国の幸せを無慈悲に自画自賛している」
 この大会はあまりに好条件がそろい成功し過ぎたために、アメリカの未来を変えたのかもしれません。そして、他の国には絶対にマネできない大会だったことを理解しなければならないでしょう。

<新たな勢力>
 この大会では女子選手の比率が初めて20%を上まわった大会でした。シンクロナイズド・スイミングや新体操など、女子のみのスポーツが競技として採用されたのもこの大会です。
 ソ連の不参加を補うように、この大会には中国が初参加。いきなり15個の金メダルを獲得し、その潜在力の高さを示し世界を驚かせた大会でもあります。しかし、この大会で最も世界を驚かせたのは、カール・ルイスの登場でしょう。
 史上最高の陸上競技選手と呼ばれることになるルイスは、100m走、200m走、4×100mリレー、走り幅跳びで4個の金メダルを獲得。この後の3回のオリンピックで合わせて9個の金メダルを獲得することになります。ただし、彼はそこまでの偉大な成績を残しながら、同性愛者疑惑の影響でコカ・コーラやナイキとのスポンサー契約が流れたという話もあります。(なるほど・・・)

<崩壊の始まり>
 大成功となったオリンピックをしめた閉会式では、大会史上初のスーパー・スターによるライブが行われました。アーティストの選択にもスポンサーが関与しており、ペプシコーラと契約していたマイケル・ジャクソンは忖度によって選ばれず、ライオネル・リッチーがステージに立ちました。エンターテイメントの国の中心であるロサンゼルスで行われたこの大会は、「強いアメリカ」のイメージを世界に映し出すことに成功しましたが、その裏側でロサンゼルスの街の崩壊が進んでいました。
 1987年、ロサンゼルスの街を大地震が襲います、さらにブラックマンデー以降、アメリカ経済は一気に悪化。製造業の衰退、スモッグによる環境の悪化、麻薬の拡がりやギャングの暴力による治安の悪化・・・80年代後半、街の崩壊が進み、1992年「ロサンゼルス暴動」が発生します。 


「オリンピック全史 The Games」 2016年
A Global History of the Olimpics
(著)デヴィッド・ボールドブラット David Goldblatt
(訳)志村昌子、二木夢子
原書房

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