オリンピックイズム崩壊の危機
オリンピックの歴史(6)


1988年ソウル大会~2000年シドニー大会
<オリンピックの巨大化>
 1984年大会の開催地決定の際、1976年のモントリオール大会が大きな赤字を出したことから、立候補地が激減。そのうえイランの首都テヘランが民主化の混乱の中、立候補を辞退。そのため開催地の候補地はロサンゼルスだけになっていました。そのままでは、オリンピック開催地がなくなってしまうかもしれませんでした。しかし、そのロサンゼルス大会が大会史上初めて黒字を出したことから、1992年大会の立候補地は6都市に増加することになります。(1996年も6都市が立候補しています)
 その結果選ばれたバルセロナ大会もまた成功を収めた大会と言われたことから、いよいよオリンピック開催は都市にとってメリットが大きいと思われることになりました。そのおかげで、2000年大会には8都市、2004年大会には11都市と候補地が増えることになります。こうして世界的な人気イベントとして認められたことで、オリンピックはいよいよ巨大化が進むことになります。

 競技数についても、その増加が始まっています。1972年から1984年までオリンピックの競技数は21に固定されたままでした。ソウル大会以後、開催都市のスポーツ文化に合わせてたり、時代の変化や新たな観客を取り込むために、新競技や既存競技の新種目の追加や既存競技の女子部門の追加、逆に不人気競技の削除が毎大会ごとに検討されるようになります。(1988年のソウル大会から新競技として採用されたのは、アジアでの人気が高い卓球と韓国発祥の格闘技テコンドーです)
 競技数の増加によって、必然的に金メダルの数も1980年代の200個前後から21世紀に入り300個以上へと増加することになりました。
 さらにその間、大会への参加国も増加し続け、ミュンヘン大会の123カ国から、バルセロナ大会では169カ国、ロンドン大会は204各国となっています。
 大会運営のためのボランティアはバルセロナ大会では3万5000人でしたが、北京大会では2倍の7万人に増加しています。
 公認の記者数は、バルセロナ大会が1万3000人だったのが、アテネ大会で2万1000人、ロンドン大会では2万5000人に増加しています。
 大会の運営費は、バルセロナ大会が約10億ドルだったものが、北京大会、ロンドン大会では20億~30億へと倍増しています。その分確かに収益事業も増え、利益は上がっていますが、そのためのインフラ整備や警備費用などを含めると、オリンピックはけっして黒字になるイベントではありません。
 初の民営化オリンピックとなったロサンゼルス大会の成功以降、オリンピックはクーベルタンの理想を捨て去ることで、まったく新たな段階に入ったと言えます。

<サマランチの功罪>
 1980年IOC会長に就任したファン・アントニオ・サマランチは、そんなオリンピックの拡大と好景気の時代に就任した人物でした。そして彼はその流れに乗って、オリンピック組織委員会がそれぞれの大会で大きな利益を得られるように運営システムを改革して行きます。さらには自らのIOC内部での権力を強め、揺るぎのない強力な体制を作り上げて行きました。ところが、その後IOC委員たちは私服を肥やすために不正を繰り返し、組織委員会全体が腐敗の温床となります。
 サマランチはIOC会長として初めて、IOC本部があるスイスのローザンヌ、パレス・ホテルのスイートに暮らしながらIOCの仕事をフルタイムでこなしていました。その中で、彼は自分の周囲をイエスマンだけで固めることで、2001年までの長期政権を確立することになります。
 彼はその間、世界各国のスポーツ関係者、スポンサー企業のトップとも盟友となり、世界的に築かれつつあったスポーツ・ビジネス企業体の中心人物となって行きました。その中心的なメンバーとしては、サッカー界FIFAのジョアン・アベランジェ、アディダスの社長ホルスト・ダスラー、IAAF国際陸連会長のプリモ・ネビオラなどがいます。特にFIFAのアベランジェ会長とは緊密な関係を築いており、いち早く多国籍企業との独占スポンサー契約を結び巨額の資金を獲得していたFIFAをモデルとして、IOCのグローバル・ビジネス化を進めて行くことになりました。当然、それまでIOCがこだわり続けてきたアマチュア規定は、ここで完全に忘れられることになりました。
 こうして世界的なスポーツを中心としたオリンピックを中心とする複合産業体が誕生することになりました。

<アンチ・オリンピック>
 オリンピック・ビジネスが黄金時代を迎えようとする中、様々な問題点もまた明らかになり、オリンピックのあり方への批判と環境保護問題、それに経済的な地域負担の増加に対する反対の立場などから、世界各地でアンチ・オリンピックの活動が勢いを増し始めました。
 なかでも1992年大会に立候補していたオランダの首都アムステルダムでの反対運動は、その先駆的なものとして大会誘致を失敗に追いこみました。1996年大会でもトロント市の反対運動は成功を収め、アトランタ市が開催地の権利を獲得。2000年大会に立候補したベルリンでも反対運動が起き、1993年に開催されたIOC委員訪問の際、1万人がデモを行い、オリンピック誘致は見事失敗に終わりました。
 今や、文化的に進んだ先進国ほどオリンピック誘致に消極的で、先進国の仲間入り、もしくは国力を世界に見せつけたい独裁国が行う巨大プロモーションがオリンピックというイベントの本質となってしまったのかもしれません。

<腐敗の暴露>
 1998年末、ソルトレークのテレビ局KTVXが、地元のオリンピック組織委員会がカメルーンのIOC委員会レネ・エソンガの娘の大学の学費を払っていたことを報道。さらに、ヘルスケアNPOのインターマウンテン・ヘルスケアがIOCとつながる人物のための肝炎治療、膝手術、美容整形手術の費用を支出していたことを暴露。ここからIOC委員に対する各大会組織委員会に対する買収工作の事実が次々と明るみに出ることになりました。
 結局、ソルトレーク大会の組織委員会はメンバーを一新し、世界各国のIOC委員6名が追放処分となりました。同罪と考えられていたサマランチ会長は自分への疑いは棚に上げ、改革に着手。自らの息がかかったベルギーの整形外科医(元ヨットのオリンピック代表)ジャック・ロゲを後継者に指名し、不正の追及にあたらせます。


<1988年ソウル大会> 
<光州事件>
 1961年に軍人のパク・チョンヒがトップに立った韓国は安定した右派政権の元で工業化を推し進め、20年でアジアの先進国にまで迫る経済力を獲得しました。しかし、パク・チョンヒは1979年に側近により暗殺され、チョン・ドゥファンとノテウが率いる軍事政権の時代となります。そんな右派政権に対して民主化を求める学生たちによる反体制運動は、1980年5月に光州事件という歴史的な悲劇へと発展。2000人以上の市民が命を落とすことになりました。韓国政府は事件の隠ぺいを行うと同時に国民の目をそらせるべくオリンピックの開催に立候補します。
 1988年のソウル大会は、民主化を進めていることを韓国が世界に示すためのオリンピックでもあったとも言えます。しかし、当時再び民主化を求める運動が活発化していて、大統領直接選挙制の導入を求めて、デモやストライキが頻発していました。
 1987年6月9日、イ・ハンニョルという学生が機動隊が発射した催涙弾の直撃によって死亡する悲劇が起きます。それを機に全国規模で抗議活動が活発化する状況となりました。韓国国内の混乱は隠しきれなくなり、IOCのサマランチ会長は韓国政府に対し、事態の収拾を求めます。このままではオリンピックが中止になると判断した韓国政府は仕方なく、民主化運動へ大幅な譲歩をする決断を下します。ここでは確かにオリンピックは平和と民主化のために貢献をしたと言えるかもしれません。

<アメリカン・タイムの大会>
 アメリカの大手テレビ放送NBCは、この大会の放映権を3億ドルで購入。主な種目の決勝をアメリカのゴールデンタイムに合わせて放送できるよう、IOCに要求。多額の放映権料を支払っているため、IOCはNBCの要求を飲み、多くの競技の決勝が午前中に行われることになりました。この後もアジアにおける大会では、アメリカのゴールデンタイムに合わせて競技日程が決められることになります。

<最後のアマチュア大会>
 この大会は、アマチュアとプロを区別していたIOC憲章の下で開催された最後の大会となり、これ以後、オリンピックへのプロ選手の出場は当然のことになります。その代わり、プロである以上、勝利しなければ対価は得られないため、勝つためのドーピングが常態化するようになります。それに対応して、ドーピング検査が本格的に始まります。
 ブルガリアのウェイトリフティング選手二人が金メダルを剥奪され、その後、チーム全員が大会辞退へと追い込まれます。しかし、その事件以上に世界に衝撃を与えたのが、100m走金メダリストのカナダ代表のベン・ジョンソンが、ステロイドの使用によって失格になったことでした。この大会以降、ドーピング検査はどんどん厳しくなって行きますが、それに対抗するようにドーピングの方法もより巧妙になって行き、検査とのイタチごっこが続くことになります。
 この大会の女子100m、200m、4X100mで3つの金メダル、4X200mで銀メダルを獲得したフローレンス・ジョイナーは、その後、38歳という若さで死去。その死亡原因は現役中の薬物摂取によるものと言われています。 
<1992年バルセロナ大会> 
<街が主役の大会>
 この大会の参加国は169となり史上最多となりました。ソ連の崩壊によりバルト三国エストニア、ラトビア、リトアニアが初めて参加。ユーゴスラビアも分裂し、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナとして参加。アパルトヘイトの廃止により、南アフリカも出場を認められました。
 柔道ではヤエル・アラドがイスラエル初の銀メダルを獲得。バドミントンでは、スシ・スサンティ、アラン・ブディクスマがインドネシア初の金メダルを獲得。
 女子マラソンのデラルツ・ツルがアフリカ女子初の金メダル。
 様々なドラマがありながら、多くの記者はこの大会の主役は選手ではなくバルセロナの街だと記しています。
「選手たちにはチャンスはなかった。どれだけ跳び、走り、漕いでも、夏季オリンピックの中心にはなれなかった。この大会の真の勝者はカタルーニャの人々だった。常に、サグラダ・ファミリアの尖塔が背景にきらめき、モンジュイクの泉があり、遠くにはティビダボの塔が見えた」
ニューヨーク・タイムズ記者ジョージ・ベクシー
 この大会におけるバルセロナの街の魅力は、どの選手の活躍をも上回ったのでした。もちろん、それはバルセロナの街がもつ歴史の奥深さと美しい街並みがあってこそ可能になったので、他の街にそう簡単にマネできることではありません。

<カタルーニャとスペイン>
 オリンピック以降、バルセロナの街は観光地としても国際会議の開催地としても高い人気を保ち続けるようになりました。最近では、観光客が多すぎて宿泊施設が不足したり、物価が上がり過ぎたりして、来訪者の数を抑制する施策が実施されるまでになっているようです。そこまで成功した理由は?
 先ず一つは、バルセロナの街にはどの街にもない多彩な文化、芸術遺産が存在していることです。
 ミロ、ピカソ、ガウディなどの作品がこれだけ多く街中で見られるのはこの街だけです。もうひとつ重要なことは、バルセロナ大会の成功のために協力するモチベーションをカタルーニャ全体で共有できたことです。
 国家レベルではフェリペ・ゴンザレス首相率いるスペイン社会労働党政権が民主化を進めるスペインのイメージを固めるための巨大プロジェクトととらえていたことがあります。それに対して、バルセロナが所属するカタルーニャ州政府にとってもオリンピックは独自の文化をもつカタルーニャを世界に認知させる最高の機会ととらえていました。そして、そんなカタルーニャの中心都市バルセロナにとっては都市機能を充実させ、国際都市としての地位を築くための資金を得られるのですから文句はありませんでした。実際、大会における予算のほとんどは、空港、港湾、下水道系、地下鉄、環状道路、広場や公園の整備・改築などに使われました。
 自治を求め、今や独立を目指しているカタルーニャ州政府とスペイン政府が同じ目的のために協力関係を結べたことだけでも、大会の成功は見えていたのかもしれません。カタルーニャ代表チームとしての出場は認められなかったものの独立を求めるグループも大会への反対運動はほとんど行われませんでした。
 スペイン代表チームもこの大会では過去最多金メダル13個合計22個のメダルを獲得。さらに最大の人気スポーツといえるサッカーでも金メダルを獲得。それもFCバルセロナのホームでありカタルーニャの魂の象徴でもあるカンプノウ・スタジアムでの勝利でした。
 もうひとつバルセロナ大会の主役となったのはバスケット男子アメリカ代表でしょう。初めてプロ・アマの壁が取り除かれたことで実現したアメリカのドリーム・チームは、世界中が注目するチームでした。マジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダン、チャールズ・バークレーらがコートにそろうだけでも世界中のバスケット・ファンは夢見心地だったはずです。ただし、あまりに強すぎて本気の試合が見られなかったことは残念でした。 
<1996年アトランタ大会> 
<空虚なるオリンピック>
 オリンピックに対する不誠実なビジョンは、過去にも存在した。コスモポリタン的なものとなるはずだったスポーツが狭量なイデオロギーやナショナリズムに仕える存在として押し込められた。しかし、そのレトリックが比喩的、倫理的に空っぽだったとしても、内容の豊富さには事欠かなかった。アトランタは、その圧倒的な空虚さにおいて、すべてに勝っていた。

 アトランタは当初有力な候補地ではありませんでした。それを実現させたのは、アトランタの組織委員会による過剰なまでの売り込み作戦だったようです。

「オリンピックをどうやって勝ち取ったのか。それは、自信とセールスマンシップだ。結局、我々には偉大な建築や地中海があったわけではないのだから」
ジョエレ・バビット(アトランタ市マーケティング部長)

「考えうる最も大きな嘘を思いつき、世界中を走り回って、その嘘が本当になるまで言いふらし続けたからだ」

 元々アトランタの街は、アメリカ南部の地方都市にすぎず唯一、コカ・コーラの本社とテッド・ターナー率いるCNNの本社があるというのが売りの街でした。経済的に豊かな街でもなく、アトランタ市の貧困率は60%近くで、殺人事件の起こる人口比率も全国2位で人種の分離が未だに存在する南部ならではの古い街だったと言えます。そのため、大会の運営にもそうした過去の遺物が見え隠れしていました。
 例えば、アーチェリー、自転車競技の会場となったストーンマウンテン公園は、クークラックス・クラン誕生の地として知られる場所でした。そのうえ、すべてのオリンピック会場には、ジョージアの州旗が掲げられていました。その旗は、奴隷制を守り続けた南部連合軍の旗を基にデザインされています。
 そのくせ、大会スローガンは、あのキング牧師の歴史的な演説を使った偽善的なものでした。
 「アトランタ - 私たちの夢の実現を祝いに来てください」

<民営化という名の企業との癒着>
 地元の弁護士ビリー・ペインを中心とする組織委員会と地元企業はしっかりと癒着していて、5億ドル以上の公費から甘い汁を吸い放題だったようです。
 例えば、建設業界の多くはヒスパニックの不法移民を最低賃金で使い、工費を抑えていました。新たな建築物もその後の有効活用は考えずに無駄に建設されました。そのために貧困地域の住民を追い出しておきながら、その後に作られた住宅は彼らが再び入居できるような家賃ではありませんでした。こうして、街から追い出された人々が他の南部の街に流れつき、新たな貧困地域を作ることになりました。
 そんな大会を象徴したのが、期間中オープンしていたセンテニアル・オリンピック・パークでした。アトランタ市内のその地区は公園として再利用される場所として再開発が行われ、期間中はイベント会場としてにぎわいました。ホームレスも多かったその地区から、住民たちは皆追い出され、AT&T、スウォッチ、GM、マクドナルド、コカ・コーラらによるイベント施設が建てられた公園には大会中、多くの観光客が訪れました。
「広告、エンターテイメント、教育のあいだの境界線が、金という深遠な真実の前に永遠に消え失せた空間だった」

<様々なトラブル>
 7月27日の早朝、3本の鉄パイプ爆弾が爆発。その爆弾テロによって2人が死亡し、111名が死亡しました。犯人は、イスラムのテロリストではなく、リバタリアン(国家権力を否定する自由主義思想)の白人、エリック・ルドルフという人物でした。
 大会期間中、組織委員会が大会のために準備した新交通システムは完成せず、結局何の役にも立ちませんでした。そのため、急遽全米各地からバスとバス運転手が集められ、バスによる搬送が行われることになりました。しかし、地元ではないために道を知らない運転手と多すぎるバスによって、街中の交通は大混乱となり、試合に遅刻する選手まで現れる事態となりました。組織委員会による運営の不手際、予算の使い方の間違いは明らかでした。
 こうして開会式で登場したパーキンソン病と闘うモハメド・アリが灯した聖火は、世界中の人々を感動させましたが、大会が進むとともにしだいにその輝きは失われて行きました。それでも、そんな大会を最後の最後に救うヒーローが現れます。陸上界の英雄アメリカのマイケル・ジョンソンです。

「ポパイの言葉を借りれば、私たちは私たちだ。テロリストがいる。チアリーダーを詰め込んだクロムめっきの小型トラックがある。まずいコーヒーは・・・たっぷり。残ったスポーツマンシップを圧倒するかのように脅かす商業主義は?ある・・・そして、マイケル・ジョンソンがいる」
エリカ・グッド 
<2000年シドニー大会> 
 2000年大会の開催地決定は接戦となり、シドニーは最終決戦で北京に2票差で勝利しています。先住民との和解をテーマとした大会のイメージが高く評価されたと考えられました。ところが、後にこの結果は巧妙な贈与作戦が成功したからだったことが明らかとなります。
 1991年ポール・キーティングが率いる連邦政府が「先住民和解のための会議」を設立。オーストラリア連邦成立100周年にあたる2000年までに完了する計画を立てます。そして、その和解の象徴ついてシドニー・オリンピックを開催しようと計画したわけです。ところが、1996年にジョン・ハワードが率いる保守派オーストラリア自由党が政権を奪い、和解プロセスが遅れます。アボリジニ(先住民)への謝罪を拒否したジョン・ハワードに対し、先住民側が反発。大会直前になってもオリンピックへの反対運動が続くことになりました。それでも、先住民側にはその象徴的存在であるキャシー・フリーマンの活躍によって、アボリジニの存在を世界に示してもらいたいという人も多かったようです。逆に言えば、彼女の存在があったからこそ、先住民側の反対運動はその後、しだいに収まって行くことになったようです。そして、フリーマンが聖火リレーの最終ランナーとして登場した瞬間、オーストラリアの国民は見事に一体化し、そこからはほとんどトラブルもなく、大会はスムーズに進むことになりました。
「我々は、キャシー・フリーマンが水の上を歩けるのもずっと知っていた。この人気のある若いアボリジニ女性ほど、すべてのオーストラリア人に向けて和解への希望を語るのにふさわしい人はいるだろうか」
ジ・エイジ誌
 オーストラリアの人々にとっては、彼女の400m走での金メダルこそ、この大会のすべてであり、自国の他のメダリストさえかすむ存在にしてしまったのでした。


「オリンピック全史 The Games」 2016年
A Global History of the Olimpics
(著)デヴィッド・ボールドブラット David Goldblatt
(訳)志村昌子、二木夢子
原書房

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