究極の格闘技ボクシングの歴史
History of Boxing

- ボクシングの歴史、英雄、映画 -

<ボクシングというスポーツ>
 先日、初の日本人同士による世界王者統一戦を見て、久しぶりにボクシングの魅力に感動。思わず目に涙を浮かべてしまいました。思い起こせば、大場、海老原、柴田、小林、西城ら日本人チャンピオンたちが大活躍していた1970年代をスタートに、輪島、ガッツ石松、井岡、具志堅など偉大な日本人チャンピオンたちの活躍はずっと追いかけていました。もちろん、モハメド・アリがキンシャサで起こした奇跡の瞬間やシュガー・レイ・レナード、マービン・ハグラー、トマス・ハーンズ、ロベルト・デュランらが活躍していたミドル級の黄金時代も忘れられません。
 スポーツ観戦といえば、最近はすっかりサッカー中心になってしまいましたが、僕にとってはボクシングはずっと最高の格闘技であり続けてきました。考えてみると、プロレスごっこはよくやりましたが、ボクシングごっこはやったことがなく、「ボクシングこそ真の格闘技である」という考えは昔から変わらず、それはある種神聖な行為ですらあるというのが僕の考えでした。だからこそ、前述の統一戦の途中で八重樫選手が見せた笑顔には興奮させられました。格好よすぎるぜ!
 やっぱりボクシングは凄い。このスポーツはサッカーとも野球とも、どのスポーツとも違う。そう思いながら、昔読んだボクシングについての名著「オン・ボクシング」を改めて読み返してみました。考えてみると、このサイトでは今までボクシングについては、モハメド・アリしか取り上げてきませんでした。ということで、ここでは「ボクシングとは?」「ボクシングの歴史」「ボクシングの偉人たち」について勉強してみようと思います。
 「ボクシングの歴史」、それは人間がこの世に登場して、争いごとをはじめたとき、すでにそこにあったと考えられます。あらゆるスポーツよりも、その歴史は古いといえるのかもしれません。それは人類の本質に通じる原始的な部分を思い出させるがゆえに強く人に訴えかけるのです。誰かが誰かに「怒り」をおぼえたとき、「ボクシング」はそこに生まれ、それを憎しみの伴わない「スポーツ」に昇華させたからこそ、人間は人間となり得たのではないか?そんな気がします。

「ボクシングとは、基本的には怒りなのだ。ボクシングとは、実際のところ、唯一のスポーツ、その中では、怒りが順応させられ、気高いものにまで高められる唯一のスポーツである。」

 ただし、ボクシングとはケンカとは異なります。最高のボクシングの試合は、動く絵画であり、美しい美術品と呼ぶべき存在なのです。

「・・・芸術の中に、自然な類似をまったく持たない芸術。もちろん、それは、原始的・・・誕生、死、そして、性愛が原始的と言えるように、原始的でもある。そして - 私たちは、自分たちが、基本的には、精神的存在であると信じ、また、確かに、そうであるにもかかわらず - 、私たちの人生における最も深い経験は、肉体的なできごとなのだ、ということを、無理やり認識させるのだ。」

 ボクシングは芸術ではあっても、その肉体性にこそ本質があります。そして、すぐれた芸術作品と同様にそこには「狂気」が見えかくれしています。多くのボクシングファンはその「狂気」にひかれているのでもあります。

「ボクシングは、時おり見せる美しさにもかかわらず、まったくの狂気なのだ、ということを・・・。この確信が、私たちの共通の絆であり、そして、時には - あえて言う必要があるだろうか? - 私たちが共通に持つやましさなのである。」

<ボクシングの起源>
 ボクシングの「BOX」とは、もともと拳を握り締めた形が「箱=BOX」に似ていることから、古代ギリシャ時代に「PUKOS=箱」と名づけられたのが始まりといわれています。古代ギリシャ時代のボクシングは古代オリンピックの正式競技のひとつであり、名誉あるスポーツとして行われていました。
 ところがローマ時代、ボクシングは剣闘士たちによる残酷な格闘ショーのひとつとなり、スポーツではなくなっていました。その後は兵士たちが身に着けるべき武術として生き残ることになります。(まあ、けんかに必要な最低限の戦法ではあったので消えることはなかったのでしょうが)
 ボクシングがスポーツの一種として再び歴史に登場するのは18世紀のイギリスです。

<ボクシングの誕生>
 もちろんボクシングを「ボクシング」というためには、そのルールが誕生していなければなりません。そして、それが単なる素手によるケンカではなく、そこに「観客」という第三者の目が加わって初めて、競技としての「ボクシング」が成立したといえます。

「単に、無力の個人を生け贄に捧げるのではなくて、競技が「スポーツ性」を持っていた点が、観衆を興奮させた。なぜならば、闘い殺すという本能は、確かに、各個人の勇気によって条件づけられているが、他者が闘い、殺すのを見るという本能は、明らかに、先天的なものだからだ。ボクシングファンが『殺せ!ヤツを殺せ!』と叫ぶとき、彼は、特に個人的な病質、あるいは異常を見せてしまったわけではない。たとえ、彼が剣闘士たちが死を賭して闘うのを見るために、ローマの円形劇場を埋めつくした何千、何万もの観客たちから、いかに遠く隔たっていようとも、『殺せ!』と叫ぶファンには、彼らと共通する人間性、そして、彼らとの近似性を主張している。」

 「ボクシング」の本質は、ローマの円形劇場で剣闘士たちが命がけの闘いを行っていた時代とそう変わらないといえるのかもしれません。ただし、現在のボクシングにつながるルールの原点を生み出した国は、やはり「サッカー」と同じ英国です。
 サッカーが村対抗の一日がかりのボールをめぐる戦争だったのに対し、「ボクシング」の原型は一対一の戦争でした。ただし、それは当初から観客の存在を意識した闘いであり、賞金をもらうことを目的としたもので、決して決闘ではなかったようです。

「イングランドにおけるベアナックル・ファイトの最初の記録 - ジェントルマンに仕える馬丁対肉屋の試合 - は、1681年のもので、『ロンドン・プロテスタント・マーキュリー』という雑誌に出ている。・・・
 それは、『賞金試合』あるいは『賞金リング(プライズ・リング)』と呼ばれ、移動性の大衆娯楽として、よく村祭りのときなどに行われた。プライズリングとは、観客の作る可能性の空間のことで、観客は、長い一本のロープをみんなで持つことによって、大まかな円を作った。
 プライズ・ファイトは、普通は、「チャンピオン」と「チャレンジャー」の間で闘われる自由参加の競技で、レフェリーはいなかったが、原始的なフェア・プレイの規則で律せられていた。
 一人の選手とその仲間が相手を求めて呼びかけます。受けて立とうという者は自らの帽子をリングに投げこむことで、試合が始まることになります。勝敗を決するのは、どちらかが倒されるか、血を流した場合。試合後は握手で終わる。当初は下層階級の娯楽だったがしだいに貴族や上流階級にも広がった。」


 イングランド初のベアナックル・チャンピオンはジェイムズ・フィッグ(1719年)。最後のベアナックル・チャンピオンとなったジョン・L・サリバンは1882年から1892年まで、彼の時代に、「グローブをはめる」という決まりごとを含んだ「クイーンズベリー・ルール」が導入されています。

「クイーンズベリー・ルール」とは?
 ルールがないために、けが人どころか死者が出かねない危険なスポーツとして廃止の危機にあったボクシングを存続させるため、ロンドンのアマチュア競技クラブが作ったルールです。12条の条項からなるこのルールは、クイーンズべり侯爵ジョン・ショルト・ダグラスが保証人となっていたことから「クイーンズベリー・ルール」と呼ばれることになりました。
(1)革のグローブを使用する(相手を守るのではなく手を守るためのもの)
(2)レフェリーを導入し、彼が試合の勝敗を判定する
(3)1ラウンドは3分とする
(4)ラウンド間には1分間の休憩をいれる
(5)ダウンして10カウント以内に立てなければ負け
 ただし、このルールではラウンド数までは決められていなかったため、どちらかがKOされるまで延々と試合が続くことになります。

<ヒット&アウェー>
 1892年、世界タイトルマッチにおいて初めて「クイーンズベリー・ルール」が採用されました。その試合で戦ったのは、ベアナックル時代から世界チャンピオンとして伝説的存在となっていたジョン・L・サリバンと無名に近いボクサー、ジェームズ・J・コーベット。元銀行員という肩書きをもつコーベットは、体格的に完全にサリバンより劣っており、観客のほとんどはサリバンの勝利を確信していました。しかし、コーベットはその試合にのために秘策を用意していました。それは今ではまったく当たり前の戦法である「ヒット&アウェー」です。
 西部劇など古いアメリカ映画を見ていると、男たちは殴り合いをする時、ガードをまったくせずにお互いが順番に殴り合っています。一発殴らせてはニヤリと笑い、自分が殴る。その繰り返したケンカの基本であり、ボクシングもまったく同じく順番に殴りあうだけの単純素朴な力比べのようなものでした。しかし、それでは試合をせずとも、単に力が強く頑丈な身体を持つ方が勝つことになり面白くもなんともありません。
 その試合、コーベットはサリバンの周りを動き回りながらパンチを打ち込みますが、当初はまったく効き目がありませんでした。かといって、サリバンが追うとコーベットが逃げるという試合展開が続いており、いつしか試合は20ラウンドを超えていました。
 敵を追うという戦法をとらず、殴ることしか練習していなかったサリバンは、しだいにスタミナを失い、しだいにコーベットの手数に圧倒されるようになります。そして、コーベットによってメッタ打ちにされ、KO負けをしてしまいました。残念ながら勝利者であるはずのコーベットは卑怯者と非難されてしまいますが、ここからボクシングの歴史は変ることになります。
 その後、1910年代から1920年代にかけて「ゲットーの魔術師」と呼ばれたユダヤ人ボクサーのベニー・レナードが「コンビネーション・ブロー」を発展させ、ボクシングに新しいスタイルを持ち込みました。異なるパンチを組み合わせて、連打で相手を倒す戦法は、このころ生まれたものです。

<アメリカにて>
 英国で生まれたボクシングは、その後、アメリカに渡り、プロスポーツとして大きな発展をすることになります。しかし、ボクシングはサッカーに比べると誕生当初から「賭博」との関係が深く、暗黒街と密接な関わりがあるスポーツでもありました。そのため、アメリカでは1920年代禁酒法時代にボクシングも禁じられていたことがあります。しかし、アルコールと同様、禁じられることでボクシングの人気はさらに高まり、闘いの場は地下深くへと潜ることになりました。

 ボクシングが、ニューヨークで公式に禁じられていた1920年代、ボクサーたちは、もぐり酒場に似たプライベート・クラブで闘った。まったく何の監視もなかった。バッド・シェルバーグの書くところによると、ボクシングが非合法だった年月の間、現実には、現在よりも多くの試合が、ニューヨーク市で、行われていたという。各区が独自のクラブを持ち、試合は、毎晩行われ、あらゆるウェイト、年齢、経験、能力を持つボクサーの体は、身元を示すものなしで、川に捨てられたらしい。

 たとえボクシングが法律的に禁止されても、その人気がおとろえることはなく、観客は話題の試合を見るために遠くまで足を運ぶことをいといませんでした。テレビもインターネットもない時代、人々は偉大なチャンピオンたちの神聖な儀式に参列するためだけに試合が見える見えないに関係なく、その地に向かったといえそうです。

 1896年ロバート・フィッツモンズvsピーター・マーハーのヘビー級タイトルマッチ。当時アメリカ国内全体でボクシングは禁止されていたため、その試合はエルパソから400マイルはなれたリオグランデ川の砂州で行われた。デンプシーとフィルポのタイトルマッチの観客は8万5千人。デンプシーvsタニー戦二試合には、10万人以上が集まったという。試合が見えなくても人々は満足した。

 しかし、アメリカにおいてボクシングがさらなる発展をとげ、その人気が海外にまで広まるためには、黒人のチャンピオンが登場して、そのレベルが急激にアップする必要がありました。実は、1902年から1932年の期間、ボクシングにはニグロのへビー級チャンピオンが存在していました。そして、白人のチャンピオンたち(ジョン・L・サリバン、ジェームス・F・ジェフリーズ、ジャック・デンプシーら)は、その間、黒人のチャンピオンと闘うことを拒否し続けていました。
 従って、ジャック・ジョンソンが黒人初の世界チャンピオンになった後も、1930年代以降まで白人と黒人との間には、はっきりと壁が存在していたといえます。彼が「白い希望」ジム・ジェフリーズを倒すと、全国で暴動が起き、黒人たちにリンチが行われたといいます。ここからは、そんな黒人ボクサーたちの苦難の歴史を振り返ります。

<黒人ボクサーの登場>(2013年11月追記)
 アメリカにおけるボクシングは、プランテーションの奴隷主たちが自分が所有する奴隷たちを戦わせるローマにおける「拳闘士」のような見世物として発展した部分もありました。当然、そこで戦わされたのは黒人の奴隷たちでした。当然、その試合は黒人同士で行われたため、白人と黒人奴隷が戦うことはなく、黒人ボクサーと白人ボクサーを戦わせようという発想もなかったといえます。
 しかし、ボクシングがスポーツとして認められるようになると、黒人ボクサーが白人ボクサーに挑戦するチャンスも生まれることになるのは必然でした。もちろん、そこには人種の壁という大きな障害があったため、黒人ボクサーが人種の壁に挑むことが可能になったのはアメリカではなく差別意識の少ないヨーロッパ、そしてもう一つの新世界オーストラリアにおいてでした。

<トム・モリノー>(2013年11月追記)
 黒人ボクサーの歴史において、「伝説のボクサー」といわれる存在、トム・モリノーは、1784年にバージニア州の奴隷に生まれました。彼の父親も兄弟もみな拳闘士という格闘技一家に育ちました。
 1892年25歳になった彼はボクシングの試合で稼いだ賞金で自由を買い取ります。そして、ボクシングでもっと稼げる場所といわれていたヨーロッパを目指し、ニューヨーク経由でロンドンに渡ります。当時、プロボクシングの中心地はイギリスのロンドンで、そこで彼はさらなる成功を求め、専属コーチとともに世界チャンピオンへの挑戦を目指します。彼のコーチとなったのは、やはり彼と同じように奴隷出身で自由を得てイギリスに渡ってきたビル・リッチモンドという黒人コーチでした。彼の元でボクサーとしての再スタートを切った彼はかつて彼のコーチ、リッチモンドを破った白人の元世界チャンピオン、トム・クリッブに挑戦します。しかし、この試合は明らかなレフェリーの不正のせいで敗北してしまいます。ヨーロッパでもやはり黒人選手への差別は存在したことを思い知らされた彼は、1815年にまだ31歳の若さで引退。その後はアルコール中毒となり、まだ34歳という若さで肝不全によりこの世を去りました。

<ピーター・ジャクソン>(2013年11月追記)
 ピーター・ジャクソンは黒人ボクサーとして初めて世界チャンピオンに迫ったボクサーとして知られています。彼が生まれたのは、1861年バージン諸島の中のデンマーク領セント・クロイという小さな島でした。幸いなことに自由黒人として生まれた彼は、小学校を卒業後、船乗りとなり、1880年にオーストラリアに移住し、そこで市民権を獲得しました。1882年、彼はその才能を認められて、オーストラリア在住の有名なボクサー、ラリー・フォーリーの指導を受けるようになり、1886年にはオーストラリアのヘビー級チャンピオンの座につきました。そして、当時の世界ヘビー級チャンピオン、ジョン・L・サリバンに挑戦を申し込みました。ところが、サリバンのマネージャー、ウィリアム・マルドーンは黒人ボクサーにもし負ければ、サリバンの栄光に泥を塗ることになってしまうと考え、タイトルマッチを拒否。
 結局、彼は世界タイトルに挑戦できないままボクサーとしてのピークを迎えてしまいます。1898年、彼は後に無敗のチャンピオンとして有名になる白人のジェームス・F・ジェフリーズに3ラウンドKO負けをきっしてしまいます。そこで彼の世界への夢は完全に断たれたといえました。
 彼もまた晩年は肺炎や坐骨神経痛などに苦しみ、40歳という若さでこの世を去っています。

<ジャック・ジョンソン>(2013年11月追記)
 名作が多いボクシングを題材とした映画の中でも名作中の名作といわれる「ボクサー」(監督はマーチン・リット)でジェームス・アール・ジョーンズ(「スター・ウォーズ」のダース・ベイダーの声)が演じたのが、「ガルベストンの巨人」と呼ばれた黒人初の世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・ジョンソンです。
 彼がテキサス州のガルベストンに生まれたのは1878年、6人兄弟の2番目でした。両親はともに元奴隷で、父親は学校の清掃員として働いていましたが、暮らしは厳しかったようです。そのため、喧嘩が強かった彼は、早くから黒人少年たちを集めてリング上で最後の一人になるまで戦わせるバトルロイヤルに出場しては賞金を稼いでいました。
 1903年、本格的にボクサーとして活躍し始めた彼は25歳の時、デンバー・E・マーティンを破って黒人ボクシング界のヘビー級王者となりました。そして、1908年ついに当時の世界ヘビー級チャンピオン、トミー・バーンズを14ラウンドKOで文句なしに倒し、黒人初の世界チャンピオンの座につきました。しかし、バーンズが人種差別が少ないカナダの選手でなければ、さらにタイトルマッチの試合会場がオーストラリアでなければ、彼はチャンピオンに挑戦することすらできなかったかもしれません。当然、アメリカの白人大衆のほとんどは彼が世界チャンピオンであることを認めていませんでした。
 ジャック・ジョンソンの強さは本物で彼を倒せる挑戦者は見当たりませんでした。そこでジャック・ジョンソンを倒すために白羽の矢が立てられたのが、かつてピーター・ジャクソンを倒し、その後世界ヘビー級チャンピオンとなり無敗のまま引退した伝説のボクサー、ジェームス・F・ジェフリーズでした。(といっても、彼もまた黒人選手との試合を拒否し続け白人選手としかタイトルマッチを行いませんでした)
 「偉大なる白人の希望」と呼ばれたジェフリーズとの試合は、1910年7月4日(独立記念日)にネバダ州リノで行われ、ジャックは見事にグレート・ホワイト・ホープを15ラウンドTKOで勝利をおさめ、ジェフリーズを今度こそ引退させてしまいます。その試合だけでも、彼は白人のボクシング・ファンに憎まれてもしかたがなかったのですが、彼の憎まれる理由はそれだけではありませんでした。
 彼が白人たちから憎まれた最大の理由は、人種差別に対して常に戦いを挑むかのような生き方をリングの外でも繰り広げたことです。特に有名なのは、彼が公然と白人女性と付き合い、そのうち3人と結婚し、自分は男として白人より優れていると公言していたことです。それは白人大衆を挑発しているかのような生き方でした。そんな生き方が認められるほど、アメリカはまだ寛大に国ではありませんでした。
 1912年、彼はマン法違反の罪で逮捕され有罪判決を受けます。マン法とは州境を越えて売春目的の女性を移動させることを禁じる法律です。(のちにあのチャック・ベリーもこの法律によって逮捕されることになります)これは当時、彼が付き合っていた白人女性が過去に売春で逮捕されたことがあることを利用した警察による不当逮捕だったといえます。このままでは2度とリングに上がれずタイトルを失ってしまうと判断した彼は保釈中に国外へと逃亡します。
 1915年、彼はキューバのハバナで白人ボクサー、ジェス・ウィラードの挑戦を受けますが、敗北を喫し、タイトルを失ってしまいました。その後、彼はアメリカに帰国して服役、刑期を終えて現役に復帰しますが、もはや過去の栄光を取り戻すことはできず、68歳の時、交通事故でこの世を去りました。

<ジョー・ルイス>(2013年11月追記)
 ジョー・ルイスは、1914年にアラバマ州の貧しい農家に生まれています。父親が精神病の施設に入院したため、母親に育てられた彼は、1926年、KKKによる脅迫を受けて新しい父親らとともに北部ミシガン州デトロイトへと移住しました。子供の頃、母親は彼を音楽家にしようとバイオリンを習わせました。しかし、彼はバイオリン・ケースにボクシングのグローブを隠し、公共のレクリエーション施設に通いそこでボクシングを習いました。
 1934年にセントルイスで開催された全国アマチュア・ボクシング大会で優勝。アマチュア時代の成績は50勝4敗43KO。圧倒的な成績を残して、プロに転向。3年後の1937年、白人の世界ヘビー級世界チャンピオン、ジェームズ・ブラドックに挑戦。見事8ラウンドにKO勝しジャック・ジョンソン以来の黒人チャンピオンとなりました。この後、彼は25連続でタイトルを防衛。ヘビー級史上最長の記録を打ち立てました。
 ジャック・ジョンソンと異なり彼は多くの白人ボクシング・ファンにも愛されるボクサーとなりました。それは彼が白人、黒人人種の壁を越えたアメリカを代表する存在になっていたからです。彼はアマチュア時代には、ベルリン・オリンピックに出場し金メダルを獲得。陸上競技における黒人のジョー・ルイスとならぶ英雄となりました。さらに世界チャンピオンになる前、1935年に彼は元世界ヘビー級チャンピオンでイタリア人のプリモ・カルネラに勝っています。さらに1936年にはドイツ人の元世界ヘビー級チャンピオン、マックス・シュメリングにも勝っています。二人はいずれも当時アメリカと戦闘状態に入る直前だったファシズム国家の代表選手でもあり、その二人に勝ったことで一躍彼はアメリカを代表する英雄となったわけです。

<ルール変更の歴史>
 ボクシングの歴史はルール変更の歴史でもありました。
 実は、1892年から1915年までの間、ボクシングにはラウンド制限というものがありませんでした。そのため、1893年には110ラウンドにおよび7時間を越えるという信じられないような試合もあったといいます!
 伝説的なジャック・ジョンソンとウィラードのタイトルマッチは26ラウンドにジャック・ジョンソンが倒れて決着がつきましたが、その試合が45ラウンド制最後の試合となりました。15ラウンド制から現在の12ラウンド制への以降は、1982年にレイ・マンシーニがダック・クー・キムを倒し、あの世に送ったことがきっかけでした。かつて、ボクシングは終わりなき究極のデス・マッチだったのです。
 こうしたボクシングのルール変更の多くは、このスポーツについての危険性が問われる事件が起きたことがきっかけとなって行われてきました。(ある研究では、ボクサーの87%が、その戦歴にかかわらず、生存中、なんらかの脳障害に苦しむといわれています)
 こうした危険性と前述の犯罪組織との関わりから、ボクシング廃止論は常に存在してきました。しかし、現時点ではそれが実施される可能性はほとんどなくなりました。なぜなら、ボクシングのように巨額のマネーを生み出すエンターテイメントなら、アメリカが開催を拒否しても、他のどの国ででも開催することが可能だからです。(メキシコ、ザイール、中国、中東、北朝鮮・・・どこででも)
 さらにいうなら。「サッカー」と同様、貧しい若者たちに生きる目標を与えるためにもボクシングはなくてはならない、そう考えるのが世界的な常識となっているからです。(ジェイク・ラモッタ、ロッキー・マルシアノ、フロイド・パターソン、ソニー・リストン、ヘクター・カマチョ、マイク・タイソン、その他、多くのボクサーは刑務所、少年院でボクシングと出会いました)

 実のはなし、ボクシングを廃止しないための理由としてよく言われるのは、それがつまるところ、主に黒人やラテンアメリカ系の恵まれない若者たちの怒りの捌け口になる、ということだ。彼らは、社会と戦うかわりに、お互いどうしで闘うことによって、自分で生きて行けるようになるのである。

「黒人でいるっていうのは、シンドイぜ。あんた、黒人だったことがあるかい?
 俺はある - 昔、金がなかった頃の話だ。」

ラリー・ホームズ(元WBC世界ヘビー級チャンピオン)

 もうひとつ重要だと思えるのは、ボクシングというプロスポーツの人気の高まりと時代の変化との関わりです。多くのボクサーの中から神に選ばれたがごとく、たった一人のチャンピオンが誕生し、栄光と富を手にする。そんなスター・システムは、アメリカという夢の国が経済発展し、資本主義社会が成熟しつつ貧富の差が増す中で生み出されたともいえます。(ハリウッドが映画の黄金時代を迎えた時期とボクシングの黄金時代は重なっています)

・・・1920年代における、ボクシングのめざましい興隆は、社会に対する個の矮小化の結果と考えられる。個人の自由、意志、強さ - 確かに「男らしさ」ではある、しかし、それだけではない - が、次第に減少していった結果なのだ。
 フランスの哲学者アラン・フィンケルクロートは、テクノロジーとメディアによる全体主義的な支配を称して「アメリカ化」と呼んだ。

<階級と団体の増加>
 ボクシングの階級は誕生からしばらく無差別で行われていました。しかし、体重が重い方が有利なのは明らかだったので、そこに階級分けが導入されます。先ずはじめに、「ヘビー級」と「ライト級」が誕生。その間に「ミドル級」ができ、さらに「ライトヘビー級」、「ウェルター級」、「フェザー級」、「バンタム級」ができ、1916年に「フライ級」ができて8階級制が確立されました。ここから50年ほど、この8階級制が続きますが、その後はそれぞれの間に「ジュニア」ができ、それが「スーパー」と改められて21世紀に入りました。(「ジュニア」を「スーパー」に変えたのは、その方が聞こえが良いから)
 なぜ、こんなに階級が増えたのか?それは単純にチャンピオンを増やせば、それだけタイトルマッチを行うことができ、観客を増やすことができるからということです。
「ミニマム」「ライトフライ」「フライ」「スーパーフライ」「バンタム」「スーパーバンタム」「フェザー」「スーパーフェザー」「ライト」「スーパーライト」「ウェルター」「スーパーウェルター」「ミドル」「スーパーミドル」「ライトヘビー」「クルーザー」「ヘビー」なんと17階級に増えました。そのうえ、ボクシング団体もそれぞれ利益をより多く得たいと考えるグループが組織を立ち上げたために4つも存在しています。それぞれがチャンピオンを認定するとなんと68人もの世界チャンピオンがいることになります。
 かつて8階級時代に世界チャンピオンだったボクサーの価値は、今より遥かに高いわけです。

<伝説の英雄たち>
 さて、このへんで伝説的なボクサーたちを何人かご紹介しましょう。ちなみに、モハメド・アリ(カシアス・クレイ)については、すでに特集ページがあるので、そちらをご覧ください。
 クリス・ミード作の伝記本「チャンピオン」でも有名な黒人ヘビー級チャンピオン「褐色の爆撃機」ことジョー・ルイスについての逸話から始めます。

<ジョー・ルイス>
「かなり前のことだが、南部の一州が、新しい死刑方法を採用した。毒ガスが絞首台にとってかわったのだ。その初期の段階では、密閉されたガス室の中に、マイクが設置してあり、科学者たちが、死にゆく囚人の言葉を聞けるようになっていた・・・最初の犠牲者は、若いニグロだった。薬品が滴り落ち、ガスが上へとわきあがりはじめると、マイクを伝って、こう言うのが聞こえてきた。『助けてくれ、ジョー・ルイス、俺を助けてくれ、ジョー・ルイス・・・』」
「チャンピオン - ジョー・ルイスの生涯」クリス・ミード著より

 アメリカの黒人たちにとって、モハメド・アリ以前最大の英雄といえば、ジョー・ルイスでした。その波乱の人生は名著「チャンピオン」に詳しく書かれています。多くの白人ボクサーを倒し、人種差別が当たり前だった時代に白人層の憎しみを一身に受けながら闘い続けた彼のボクシング・スタイルは、そうした周りの状況を頭の中から消し去った時に生まれたといわれています。

「ジョー・ルイスは、マックス・シュメリングとの初めての試合で、ひどい脳震とうを起こしたあとの数ラウンドを意識不明のまま闘ったと言われている - 彼の美しい整えられた肉体は、教えこまれた動きを機械じかけのように行った。(そして、この負け試合の間に、ルイスの並はずれた耐久力、つまり、偉大なボクシングの才能が、姿を現したのである。)」

 モハメド・アリ以前の黒人ボクサーにとって、人種差別との闘いは単なる心理的プレッシャーではなく、実際に命に関わる危険を伴う問題でした。そのため、彼らの多くは白人からの怒りを受けないよう、そうした差別に対する自分自身の怒りを表に出すことなく無表情もまま闘うのが普通でした。アリの「ビッグ・マウス」などは、絶対にありえないことでした。

「ルイスは、リングの外では、慎み深くおとなしい男だったが、リングの中では、一種の殴打マシンだった - (見た目には)まったく感情を表さなかったので、スパーリング・パートナーさえも、脅えたほどだ。一人は言った。
『彼の目だ。うつろで、じっと見つめている。いつも、こっちを見ているんだ。あのうつろな視線 - それに倒されるんだ』」


 彼はそうやって無表情を貫くことで白人ボクサーを倒し続けました。しかし、そうした闘いは彼の心にいつしかストレスをため込ませ、最後に彼の精神をおかしくさせることになります。

<ジャック・デンプシー>
 「マナッサの殺人鬼」と呼ばれたジャック・デンプシーは、少年時代、アメリカ各地を放浪しながら、そこでレフリーなしの賭けのボクシングに出場しながら、お金を稼ぎ、そこから世界チャンピオンまでのしあがっていった西部劇と「ロッキー」を合体させたような伝説的存在です。
 彼はコロラドの貧しいモルモン教の一家に11人兄弟の9番目として生まれました。父親は小作農と鉄道での季節労働で家族を育てていました。彼は少年時代にいち早く家を出て鉱山などで働いた後、より多くのお金を稼げる賭けボクシングの世界に足を踏み入れます。
 1919年、当時のチャンピオン、ジェス・ウィラードに挑戦した彼は、チャンピオンの6本の歯を折り、さらに顎の骨を砕き、頬骨にひびを入れ、鼻をつぶし、圧倒的な勝利を収めました。この時、彼はすでに24歳になっていました。
 多くのボクサーは、たとえチャンピオンとして栄光を手にしても、その後の敗北とともに悲劇的な人生を歩むことになります。しかし、彼は世界タイトルを失った後も企業家として成功し、幸福な老後を送ることになった数少ないボクサーの一人でした。彼にとってのボクシングは、収入を得るための手段の一つだったともいえ、幸いにして彼は実業家としても一流だったようです。彼は「殺人マシーン」を引退後、レストランを経営し「集客マシーン」としてもその才能を発揮することになったのです。

<フロイド・パターソン>
 フロイド・パターソンは、非暴力的な人間で、対戦相手が、マウスピースをキャンバスから拾い上げるのを助けたこともあった。
「俺は血を見るのが嫌いなんだ。自分が血を流すのは別の話さ。気にはならない。だって、俺には見えないんだから」と、パターソンは説明している。


<ロッキー・マルシアノ>
 すべてのボクサーの中で、最も修道士のようにトレーニングに身を捧げたのは、ロッキー・マルシアノのようです(彼は、現在でも、不敗を誇る唯一のヘビー級チャンピオンです)。
 彼は試合が近づくと3ヵ月に渡り、妻や家族たちからも離れて、修道僧のようなトレーニング・キャンプを行いました。この期間中、数少ない関係者たちは彼の前で対戦相手の名前どころか、ボクシングについて論じることすら禁じられていたといいます。
 残り一ヶ月になると彼は手紙を書くこともやめ(もちろん電話など論外です)、残り10日の時点では手紙も読まず、かかってきた電話にもでず、関係者以外の誰とも会いませんでした。さらに最後の一週間では握手せず、車にも乗らず、夢を見ることすら自分に禁じていたといいます。

 つまり、あまりにも多くの自己修練が要求され、技術が関与するようになり、そして、自分がもともと持っていた動機の他に、あまりにも多くのことに集中しなければならないので、そのもともとの動機は、少なくとも、ぼんやりとぼやけてしまい、たいていは、忘れ去られるか、完全に失われてしまう。多くの優秀な、そして経験のあるボクサーたちは、優しくて、親切な人間になる・・・。
 彼らは、自分の闘いすべてを、リング上に置いてくる習慣を持つ。


<ジェイク・ラモッタ>
 マーチン・スコセッシ監督の代表作の一つ「レイジング・ブル」で有名になったイタリア系の世界ミドル級チャンピオン、ジェイク・ラモッタの場合は、また特別です。彼にとってのボクシングは、自らに罰を与えるための儀式ともいえる存在だったからです。
 1949年から1951年にかけてミドル級の世界チャンピオンだったジェイク・ラモッタは、少年時代に強盗事件で逮捕され少年院に入れられていました。彼はそこでボクシングを知り、出所後はボクサーとして成功します。しかし、彼はかつて逮捕された事件の際、自分は殺人を犯したと思っていました。実は、相手は死んでいなかったのですが、そう思い込んでいた彼は誰にもそのことを告げず、一人「殺人」の罪に苦しんでいました。11年間罪に苦しみながら、自分を罰するために彼は相手のパンチを浴び続けたのです。

「俺は、誰とでも闘っただろう。相手が誰でもかまわなかった。ジョー・ルイスと闘いたいとさえ思った。どうでもよかったのだ・・・だが、だからこそ、俺は勝った。だからこそ、俺は、対戦相手たちが、それまで目にしたこともない攻撃性を持てたのだ。彼らは、俺を殴った。だが、俺は、殴られてもかまわなかった」

 後に、彼は自分が殺したはずの男が生きていることを知ります。当然、その後彼の闘うためのモチベーションは失われてしまい、チャンピオンの座を明け渡すことになります。それでも、彼は救われたことになるのですが・・・。
 こうして、彼は黄金時代を自ら終わらせることになりました。でも、ある意味、それをファンたちは持ち望んでもいました。ロッキー・マルシアノのように不敗のまま引退することをファンは喜んではいないはずです。ボクシングファンが求めるのは、「勝利」と同時に「敗北」の瞬間だからです。

「偉大なボクシングの試合は、人をうっとりさせるほど優雅で美しい。けれども、誰もが待ち望んでいるのは、その破局的な終わりなのだ。」

 その意味でも、マーティン・スコセッシ監督が描いたジェイク・ラモッタの試合の美しさは最高だったと思います。(映画「レイジング・ブル」)

<勇利アルバチャコフ>
 日本のジムに所属し、世界フライ級チャンピオンの座についたロシア人勇利アルバチャコフの強さは当時圧倒的でした。まるでロボットのような正確なパンチと強靭な肉体をもつ彼は、まるでロボットのような戦いだという声に対し、こんなことを言ったといいます。彼が強さだけでなく、哲学者のようなクレバーさをもつ存在だったことがよくわかります。
「ロボットは完璧にはなれない。人間だからこそ、完璧になることができるんだ。なぜなら、人間には理想を求める意志がある。憧れを抱くべき対象がある。しかし、ロボットにはそれがあるだろうか。・・・」

<マイク・タイソン>
 20世紀のボクシング界最後のカリスマ・ヒーロー、マイク・タイソンの登場は、ボクシングをそれまでのボクシングとは異なる新種の格闘技の一つにしてしまいました。それは、ボクシングのもつ「残虐性」「アメリカン・ドリーム性」「人種間闘争性」などの特性をまるで漫画の世界のように極端に拡張見せることになりました。
「ある観戦者が指摘しているように、タイソンの試合のなかには、なにか、コミックブック的なところがある - 暴力性が誇張されすぎているがゆえに、非現実的に見えてしまうのだ。」

 タイソンの存在自体がまるで格闘ゲームのキャラクターのようで、やることなすことすべてが現実離れしているです。それは、「ゲーム時代のボクシング」なのかもしれません。
「オレは、傷つけられることを拒否する。オレは、打ち倒されることを拒否する。オレは、負けることを拒否する - オレは、殺され、リングから運び出されるかもしれない。だが、オレは、傷つけられはしない」
マイク・タイソン
 残念ながら、彼はこんな言葉を残しつつ、自らの手で選手生命を縮め、自らのの名誉を傷だらけにしてゆくことになります。やはり彼のような存在が現実世界でリアリティーを保ち続けることは不可能でした。彼の選手生命にリセット・ボタンはなかったのです。
 マイク・タイソンの登場と退場により、20世紀にその黄金時代を迎えたボクシングの時代は終わりを迎えてしまったのかもしれません。しかし、人類に平和が訪れない限り、究極のスポーツであるボクシングの存在は永遠に続き、どんな亜流の格闘技にもその凄さを越えることはできないのではないか?そう思います。

<黒人ボクサー時代の終焉?>(2013年11月追記)
 ボクシングの世界では軽量級こそ、早くからアジアや中南米の選手が活躍していましたが、ミドル級より重いクラスでは黒人選手が常にチャンピオンの座をしめていました。特にヘビー級では、戦後ほとんどの期間はアメリカの黒人選手が独占を続けていました。
 1990年以降、ボクシング団体がWBO、WBA、WBC、IBFと四つに増えてもまだそのタイトルは、ほぼすべてアメリカの黒人選手がしめていました。ところが、21世紀に入り、そんなボクシング界の勢力分布に少しずつ変化が起き始めます。マイク・タイソン以降、黒人ボクサーのスーパースターがいなくなり、チャンピオンも減り始めたのです。
 2011年10月それぞれのヘビー級タイトル・ホルダーは、ウラジミール・クリチコ(ウクライナ)、ビタ・クリチコ(ウクライナ)、スルタン・イブラギモフ(ロシア)、サミュエル・ピーター(ナイジェリア)、クリス・バード(アメリカ)、デヴィッド・ヘイ(イギリス)となっていて、3人が白人、残り3人の黒人も一人はアフリカ、一人はヨーロッパでアメリカの黒人はたった一人になってしまいました。
 ボクシングだけでなくK−1など格闘技全体にいえるのは、スピードや瞬発力に優れていても、パワーや体格的に上回る選手の方がやはり優位だということです。こうして、ボクシングの重量級においては東欧やオランダなどの白い巨人たちが黒人選手と五分以上にわたりあえる存在になりました。今やボクシング界におけるアメリカ人黒人チャンピオンは、珍しくなりつつあります。これは、アメリカにおける黒人の地位が向上したからなのか、それとも、ボクシングよりも稼げるバスケやアメフトへと移動していっただけなのか?誰もが憧れるスターがいなくなったせいなのか?
 少なくとも僕は、黒人選手のパワーだけではないダンスを踊るようなスピードとリズム感のある美しいボクシングが大好きです。ただ重いだけのパンチで相手を倒すだけのボクシングは、エンターテイメントとして許せないと思っています。モハメド・アリやシュガー・レイ・レナードのボクシングを見たことのある人なら、そう思うのではないのでしょうか?

<追記:ボクシング映画に駄作なし!>
 ボクシングの栄光と敗北の美学を映し出した数々の映画は、その多くが名作と呼べる作品ばかりです。ここでは、僕がお勧めできる範囲でボクシングに関する映画、もしくはボクシングの名シーンが登場する作品をご紹介しておきます。ボクシングというスポーツが「究極の格闘技」だけに、これらの映画はいつまでも古くならずにすむかもしれません。
「ALI アリ」(2001年)(モハメド・アリの伝記映画)(監)(脚)マイケル・マン(出)ウィル・スミス、ジョン・ヴォイト、ジェイミー・フォックス
「傷だらけの栄光」(1956年)(ロッキー・グラジアノの自伝をもとにした作品)(監)ロバート・ワイズ(出)ポール・ニューマン、サル・ミネオ
「キッズ・リターン」(1996年)(青春ドラマであり、ボクシング映画の傑作でもあります)(監)(脚)北野武(出)金子賢、安藤政信、石橋凌、森本レオ
「静かなる男」(1952年)(人生ドラマですがボクシング・シーンが有名な作品)(監)ジョン・フォード(出)ジョン・ウェイン、モーリン・オハラ
「シンデレラマン」(2005年)(実在のボクサー、ジェームズ・J・ブラドックの物語、リアリズムに徹した貧困との戦いの映画でもあります)
(監)ロン・ハワード(出)ラッセル・クロウ、レニー・ゼルウィガー
「ストリート・ファイター」(1975年)(ストリート・ファイトを描いた異色作)(監)(脚)ウォルター・ヒル(出)チャールズ・ブロンソン、ジェームス・コバーン、ジル・アイアランド
「チャンピオン」(1949年)(監)マーク・ロブソン(脚)カール・フォアマン(出)カーク・ダグラス、ルース・ローマン
「チャンプ」(1979年)(1931年に製作された同名映画のリメイク)(監)フランコ・ゼフィレッリ(脚)ウォルター・ニューマン(出)ジョン・ヴォイト、リッキー・シュローダー
「鉄腕ジム」(1942年)(世界初のヘビー級チャンピオン、ジム・コーベット物語)(監)ラオール・ウォルシュ(出)エロール・フリン
「どついたるねん」(1989年)(赤井英和の自伝をもとにした映画、赤井選手もいいボクサーでした!)
(監)(脚)阪本順治(出)赤井英和、相楽晴子、麿赤児、原田芳雄
「殴られる男」(1956年)(監)マーク・ロブソン(脚)フィリップ・ヨーダン(出)ハンフリー・ボガート、ロッド・スタイガー
「ザ・ハリケーン」(1999年)(ルービン”ハリケーン”カーターをモデルとする冤罪実録映画)(監)ディック・ローリー(出)デンゼル・ワシントン
「ボクサー」(1970年)(黒人初の世界チャンピオン、ジャック・ジョンソンの物語)(監)マーティン・リット(出)ジェームス・アール・ジョーンズ、ジェーン・アレキサンダー
「ボクサー」(1977年)(青春映画であり、本格派ボクシング映画)(監)(脚)寺山修司(脚)石森史郎(出)菅原文太、清水健太郎
「ボディ・アンド・ソウル」(1947年)(監)ロバート・ロッセン(脚)エイブラハム・ポロンスキー(出)ジョン・ガーフィールド、リリー・パルマー
「街の灯」(1931年)(ボクシング映画ではありませんが、伝説的なボクシング・ファイトは爆笑間違いなし!)(監)(脚)(出)チャールズ・チャップリン
「ミリオン・ダラー・ベイビー」(2004年)(後半は究極の人間ドラマとなるイーストウッド入魂の作品)
(監)(出)クリント・イーストウッド(脚)(製)ポール・ハギス(出)ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン
「レイジング・ブル」(1980年)(伝説的ミドル級世界チャンピオン、ジェイク・ラモッタの自伝をもとにした作品)
(監)マーティン・スコセッシ(脚)ポール・シュレーダー(出)ロバート・デニーロ、ジョー・ペシ
ロッキー(1976年)(続編はボクシング映画ではなくなってゆきますが、第一作は確かに本格ボクシング映画でした)
(監)ジョン・G・アビルドセン(脚)(出)シルベスター・スタローン(出)バージェス・メレディス、タリア・シャイア、バート・ヤング
「ザ・ファイター」(2010年)(監)デヴィッド・O・ラッセル(脚)スコット・シルバー、ポール・タマシー(出)マーク・ウォルバーグ、クリスチャン・ベイル
「リベンジ・マッチ」(2013年)(監)ピーター・シーガル(脚)(原)ティム・ケルハー(出)ロバート・デニーロ、シルベスター・スタローン、キム・ベイシンガー
(「イタリアの種馬」ロッキーと「狂える牡牛」ジェイク・ラモッタがまさかの対戦!笑いと感動の掘り出し物、ホリフィールドとタイソンが特別出演!)

<最後に>
 予想以上に盛り上がりをみせたロンドン・オリンピック。その中心は、サッカー、レスリング、体操、水泳あたりでしたが、僕としてはボクシングにも注目をしていました。特に大会前から金メダルの有力候補とされていたミドル級の村田選手の試合には驚かされました。
 1ラウンドは、相手の出方を見てポイントを与えるものの、2ラウンドにはボディへのプレッシャーにより、ポイント差をつめ、3ラウンドに一気に相手を圧倒して逆転する。これぞアマチュア・ボクシングの必勝パターンといった感じの試合運びにはすでに王者の風格を感じてしまいました。
 レスリングもそうでしたが、格闘技は常に強い方が勝ち、そこには番狂わせはほとんど起こる余地はほとんど残されていないのかもしれません。(サッカーなどの球技では、しばしば奇跡が起きるものです)

<おまけに:ニックネームの数々>
 ボクサーのニックネームって実に味がありました。(そういえば、プロレスラーにも同じように素晴らしいニックネームがありました)
ジャック・デンプシー「マナッサの殺人鬼」、ハリー・グレッブ「人間風車」、ジョー・ルイス「褐色の爆撃機」、ロッキー・マルシアノ「ブロックトンの高性能爆弾」
ジェイク・ラモッタ「ブロンクスの雄牛」、トミー・「ハリケーン」ジャクソン、ロベルト・デュラン「石の拳」と「小さな殺人者」、レイ「ブンブン」マンシーニ
トーマス・「ヒットマン」ハーンズ、アル「アースクェーク」カーター、「テリブル」ティム・ウィザースプーン、ロニー「ライトニング」スミス
リヴィングストン「ピットブル闘牛」ブランブル、ヘクター「マッチョマン」カマチョ、「マーヴェラス恐るべき」マーヴィン・ハグラー

<その他のボクシングについてのページ>
ボクシングに関する名言集
モハメド・アリ 白井義男&カーン博士 矢尾板貞雄、三迫、米倉、関など ファイティング原田、海老原博幸、青木勝利

<参考>
「オン・ボクシング On Boxing」
 1987年
(著)ジョイス・キャロル・オーツ Joyce Carol Oates
(訳)北代美和子
中央公論社

「『黄金のバンタム』を破った男」
 2010年
(著)百田尚樹
PHP文芸文庫

スポーツ関連のページへ   トップページへ