「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ Once Apon A Time in America」 1984年

- セルジオ・レオーネ Sergio Leone
エンニオ・モリコーネ Ennio Morricone -

<巨匠セルジオ・レオーネの遺作>
 イタリアが生んだアクション映画の巨匠セルジオ・レオーネの遺作であり、彼のアメリカに対する思いがつまった集大成ともいえるこの作品を彼の最高傑作と呼ぶべきか、それとも「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」こそを彼の最高傑作と呼ぶべきか意見が分かれるところでしょう。しかし、わずか6本の作品しか残さなかった伝説の巨匠にとってはどちらも歴史的に重要な作品なのは間違いありません。それにしても、かたやB級の西部劇、かたやF・F・コッポラの「ゴッド・ファーザー」に匹敵する芸術大作。その2本の間に何かつながるところはあるのでしょうか?
 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」完成までのセルジオ・レオーネの歴史を追ってみたいと思います。

<セルジオ・レオーネ>
 セルジオ・レオーネ Sergio Leoneは、1929年1月3日ローマで生まれました。彼の父親は無声映画時代に活躍した映画監督ヴィツェンツォ・レオーネで、母親も女優という芸能一家の中で彼は育ちました。当然、早くから映画の現場に関わるようになり、15歳の時、父の監督作品に出演したり、助監督を務めるなどしていたといいます。その後、法律の専門学校に入学したものの、映画作りの面白さを知っていた彼は、結局映画の現場に戻ると父親と親交があった大物の監督たち、マリオ・ボンナルド、マリオ・カメリーニらのもとで助監督を務め、ちょい役で出演までしていました。それだけではなく、彼はハリウッドの大物監督のもとで働くという恵まれた経験をすることもできました。1950年代はハリウッドで歴史劇の大作がブームになっていたため、イタリアでロケを行う作品が多くその際に彼は助監督として参加することができたのです。「クォ・ヴァ・ディス」(1951年)、「トロイのヘレン」(1955年)それにウィリアム・ワイラーのアカデミー作品賞受賞作「ベン・ハー」(1959年)などに彼は参加しています。(彼は後に「ベン・ハー」のあの有名な戦車での競争場面を撮ったのは自分だと言っていたそうです)
 日本と同じように戦争に敗れ、進駐軍としてアメリカの兵士を迎え入れたイタリア人にとってハリウッド映画はまさに憧れの存在でした。
「子供の頃、アメリカは私にとって宗教だった。神のような存在であった。いろいろな人種が集まって作り上げた国の、その果てしない広がりに思いを馳せたものだ。ファシズムの時代に育ったヨーロッパ人にとって、初めて恋したのはハリウッド映画だったしね」
セルジオ・レオーネ

 こうしたハリウッド映画への熱い思いは、この後の彼の映画に決定的な影響を与えることになります。その後、1950年代から1960年代にかけて、彼は助監督の仕事と平行して脚本家としても活動するようになります。1959年にセルジオ・コブッチ、ドゥッチョ・テッサリらと共同で書いた「ポンペイ最後の日」の脚本は、この映画の監督マリオ・ボンナルドが病気で倒れてしまったため、急遽彼が監督代行を務めて映画化することになりました。こうして、彼はいよいよ監督としてキャリアをスタートさせ、1961年公開の「ロード島の要塞」がその第一作目となりました。この作品で彼の名は海外でも知られるようになり、1961年彼はロバート・アルドリッチ監督の「ソドムとゴモラ」での共同監督を依頼されます。(当時、アメリカ映画はヨーロッパの歴史劇を撮るために低予算で済むイタリアでロケをすることが多く、そのためイタリア人監督を第二監督として使う場合がありました)結局彼はこの企画には参加せず、アルドリッチが単独で監督。
ところが、この作品は結局興行的に大失敗となり、同じくティタヌス社が製作したあのヴィスコンティの大作「山猫」も大コケしてしまったことから、彼らは倒産の危機に追い込まれます。なんとか経営を立て直そうと考えたティタヌス社は低予算でヒット作を作る必要に迫られ、セットにお金もかからず、イタリア国内だけでなくアメリカなど海外でもヒットする可能性がある「西部劇」に目をつけたのでした。こうして、イタリア人であるセルジオ・レオーネに西部劇を撮るチャンスが巡ってきたわけです。

<「荒野の用心棒」>
 「荒野の用心棒」が黒澤明の「用心棒」をそっくりパクッた作品であることは有名です。この盗作疑惑に対し黒澤側は訴訟を起こし、結局黒澤プロが「荒野の用心棒」の興行権を一部得るという形で決着がつけられたそうです。しかし、この作品だけでなく映画界にはリメイクやパクリ映画は数え切れないほど存在しますが、「荒野の用心棒」ほど有名な作品は他にそうありません。(「隠し砦の三悪人」のSF版リメイク作「スター・ウォーズ」という例もありますが・・・)当然、そこには本家に匹敵するなんらかの魅力があったことは間違いありません。そして、その魅力こそ、この後1960年代にマカロニ・ウエスタンが世界中で大ブレイクすることになる最大の理由だったのです。たぶん「荒野の用心棒」から始まったマカロニ・ウエスタン最大の魅力は倫理観を無視した暴力描写とそれを本物らしく見せるための徹底したリアリズムにあるのです。ただし、それだけでは娯楽映画として楽しめません。そこにリアルな暴力が生み出す緊張の糸を解きほぐし、もう一度テンションを高めるためのブラックな笑いがあるところにマカロニ・ウエスタンがヒットした最大の理由があるのだと思います。ある意味この分野はイタリア人が得意とするものだったのかもしれません。ネオ・リアリズム誕生の地、イタリアだからこそ、マカロニ・ウエスタンのガンマンたちは、いつも泥と埃にまみれ、無精ひげをはやし血まみれになって死んでいったのです。そして、この血と泥にまみれたリアルな死に様こそが、後に「俺たちに明日はない」「ゴッド・ファーザー」それに「ワイルド・バンチ」などの名作を生む下地となるのです。(ところで、「マカロニ・ウエスタン」という言葉は、あの淀川長治さんが考えた言葉で、日本以外の国では「スパゲッティ・ウエスタン」と呼ばれていたそうです)
 リアリズムへのこだわりは、出演者たちの汚れ具合だけではありません。武器オタクとしても一流だったセルジオ・レオーネは映画に登場する武器に徹底的にこだわり、ライフル銃を使っての長距離射撃や銃の分解と組み立てを見せるシーンなど、銃に関するマニアックな見せ所も満載です。

<「夕陽のガンマン」>
 さらに大きな予算が使えるようになって以降は、建物やその内部のディテールにも徹底的にこだわりを見せるようになり、美術監督のカルロ・シミがハリウッド製西部劇顔負けのセットを作り上げるようになります。こうして、大幅な予算増で撮られた「夕陽のガンマン」(1965年)もまた世界各地で大ヒット。続く「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗 」(1966年)も大ヒットして、いよいよ彼の名は世界的な大物監督の仲間入りを果たすことになります。「荒野の用心棒」が「一握りのドルのために」という原題だったことから、「夕陽のガンマン」(原題は「もう一握りのドルのために」)、「続・夕陽のガンマン」は、「ドル三部作」と呼ばれましたが、これ以降の彼の作品は急激にハリウッド指向を強めてゆきます。
 1968年公開の「ウエスタン」は、それまでの泥臭いマカロニ・ウエスタンとは異なり、ハリウッド製西部劇に限りなく近いものになります。俳優陣には「荒野の用心棒」の撮影時に出演依頼を断わられたヘンリー・フォンダとチャールズ・ブロンソン、それにジェイソン・ロバーツと豪華なアメリカ人スターが配されました。映画のストーリーも、前作までのアクション満載、ユーモア満載の娯楽作品から超ロングショットと超クローズ・アップ、そしてやたらに長い間というレオーネ・スタイルが極端なまで用いられるようになり、サム・ペキンパーの先駆となる「芸術的な暴力映画」へと進化していました。
 続く1971年の「夕陽のギャングたち」は時代背景が20世紀初めとぐっと新しくなり、これまたかつて「荒野の用心棒」への出演を断ったジェームス・コバーンが主役として登場。ニセもの西部劇というレッテルから脱却すると同時に西部劇自体からの脱却をはかる作品となっていました。

<「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」へ>
 実は、この二本の作品を撮っていた時、すでに彼の頭の中には「ワンス・アポン・ア・タイム・・・」の構想ができつつありました。しかし、製作会社は彼にドル箱の西部劇を撮ることを強く望んだため、その準備は進みませんでした。それどころか、彼はアメリカに渡った際、「風と共に去りぬ」のリメイクをハリウッドのメジャーに提案して断られていたといいます。1967年時点で、すでに彼の頭の中にはアメリカの歴史大作を撮るという夢がしっかりと築かれていたのです。その夢はしかなく撮った?映画の原題にも見られます。「ウエスタン」の原題は、「昔々西部で・・・」、「夕陽のギャングたち」の原題は、「昔々革命のさなかに・・・」、そして、17年後に撮られた映画のタイトルが「昔々アメリカで・・・」となったわけです。なんという執念!
 「ワンス・アポン・・・」の原作は、ハリー・グレイという元ギャングが書いた実録小説です。そして主人公はユダヤ系とアイルランド系のギャングでイタリアン・マフィアではありません。この時点で、彼にとって自分がイタリア人であることはもう作品のテーマと関係なかったわけです。
 考えてみると、21世紀に入り、セルジオ・レオーネに強い影響を受けたジョン・ウーは自分が中国人であることなどまったく関係なくアメリカでアクション映画の新しいスタイルを築きましたが、彼もまたいつか自分なりの「ワンス・アポン・・・」を撮るかもしれません。
 こうした、セルジオ・レオーネのアメリカに対する憧れは、アメリカという民主国家、多民族国家として輝いていた1920年代まで、それ以降に興味はなかったといいます。そうした、かつて素晴らしかったアメリカへのノスタルジックな想いこそが映画のテーマになったわけです。
「私が描きたいのは追憶だ。大人のための非現実的な優れたファンタジーを作りたい」
セルジオ・レオーネ

 結局、この作品は、具体的に企画ができてから配役の決定、脚本の執筆、そして撮影まで10年の歳月を必要としました。ところが、それだけ長い準備期間をとっていながら、この映画は初公開の際、まったくの不評でした。その最大の原因は、彼に許可なく行われた製作側による編集によるものでした。初公開版の上映映画は彼が当初望んでいた4時間に対し、わずか2時間半弱しかありませんでした。さらに、ストーリー展開も回想によって時間を行き来するはずが、すべて分かりやすく時系列に並べ替えられてしまいました。当然、それだけ短くなったしまえば、お話もつながらなくなります。それではあまりにひどいということで、その後3時間半のロング・バージョンとして再公開され、このバージョンが見事にカンヌ映画祭のイタリア映画批評家協会賞を取るなど、高い評価を受けることになりました。(さらにこの後、完全版として3時間50分のバージョンも発表されています)

<エンニオ・モリコーネ>
 この映画だけでなくセルジオ・レオーネ作品の多くの音楽を担当している映画音楽作家エンニオ・モリコーネ Ennio Morricone は、1928年11月28日ローマに生まれています。彼の父親はプロのトランペッターでナイト・クラブなどで演奏していました。そのため、彼もまたサンタ・チェチェリア音楽院で学びながらプロのトランペッターとして音楽活動をスタートさせています。大学では作曲や指揮について学び、1956年には首席で卒業しています卒業と同時に卒業した彼は4人の子宝に恵まれていますが、その中の三男アンドレアは後に「ニュー・シネマ・パラダイス」の「愛のテーマ」を作曲、彼の後を継ぐことになります。彼自身は、1959年ごろから映画音楽に関わり始めますが、作曲家としての正式デビューは1961年の「Il Federale」といわれています。映画界唯一の多作家の彼は数多くの名曲を書いていますが、なぜかアカデミー賞を受賞していません。
 実は彼は映画音楽以外にもイタリアン・ポップスの名アレンジャーとしても大活躍しており、クラシックのフィールドでも室内楽を40曲以上発表。前衛音楽のバンド Gruppo D'Improwisazione Nuova Consonanza のトランペッターとしても活動し、アルバムを6枚発表しています。彼の作品を以下に一部だけ書き出します。とにかく、ジャンルもバラバラ、監督もいろいろ、感動的な超大作からC級のエッチ・コメディーまでどんな仕事でも請けていたようです。「天才は多作家である」という定義にぴったりの作家です。
「荒野の用心棒」(1964年)「夕陽のガンマン」(1965年)「群盗荒野を裂く」(1966年)「ウエスタン」(1968年)「ミスター・ノーボディ」(1973年)はマカロニ・ウエスタン。「シシリアン」(1969年)「狼の挽歌」(1970年)「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984年)「アンタッチャブル」(1987年)「バグジー」(1991年)などは、ギャング映画、犯罪映画の名作です。
「テオレマ」(1968年)「夢魔」(1974年)「性の告白」(1974年)「ソドムの市」(1975年)「シルビア・クリステルのピンクの泥棒」(1976年)「MrレディMrマダム」(1978年)「エーゲ海に捧ぐ」(1979年)などはパゾリーニの作品からエッチ・コメディーというイタリアならではの作品群です。
「1900年」」(1976年)「天国の日々」(1978年)「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年)「ミッション」(1986年)「フランティック」(1988年)「カジュアリティーズ」(1989年)「アタメ」(1990年)「ステイト・オブ・グレイス」(1990年)「シティ・オブ・ジョイ」(1992年)「明日を夢見て」(1995年)「海の上のピアニスト」(1999年)こちらは感動大作、サスペンスもの、戦争もの、音楽ものと、とにかく名監督の作品ばかりです。これほど多くの監督作品に音楽を提供した作曲家も珍しいでしょう。

<その後のレオーネ>
 自らのアメリカへの思いをこめたこの作品を撮った後、彼はもう燃え尽きてしまったのでしょうか。第二次世界大戦中にレニングラードの攻防戦を描いた作品の準備に入るもののまだ60歳という年齢でしたが持病の心臓病が悪化し、1989年にこの世を去ってしまいました。生涯に撮った作品がわずか6本とは、巨匠とはいえ実に少ない作品数ですが、この本数も彼の作風からすると意外ではないのかもしれません。長い長い間をおいて、一瞬のうちに終ってしまう銃撃戦。娯楽映画でありながら3時間を越える映画を撮ってしまう時間感覚は、イタリア人の多くが慣れ親しんできたオペラの影響ともいわれます。そう考えると、アメリカに憧れ、アメリカ映画を撮るためにアメリカに渡ったにも関わらず、彼は誰よりもイタリア人的なイタリア人だったのかもしれません。
 彼の作品において後世に名を残し語り継がれる作品は、たぶん「ワンス・アポン・ア・タイム・・・」ではなく「荒野の用心棒」の方かもしれません。しかし、アメリカを愛したがゆえにその裏側に潜む醜い姿をも描かなければ気がすまなくなった彼の熱い思いは確かにこの映画に刻まれていると思います。4時間近い長い長い作品ですが、そんな彼の人生を思いながら見るとあっという間の4時間かもしれません。

<懐かしきマカロニ・ウエスタン>
 テレビの映画劇場で育った僕にとって、西部劇といえばジョン・ウェインでも「OK牧場の決闘」でもなく「荒野の用心棒」、「夕陽のガンマン」、「怒りの荒野」、「荒野の1ドル銀貨」などのマカロニ・ウエスタンでした。埃っぽい街と薄汚い男たち、無口なヒーローと粋な台詞をはく饒舌な悪者。彼らの息詰まる睨み合いと銃を抜く瞬間のスリル。これこそ、子供たちに拳銃ごっこを流行らせた最大の理由だったのかもしれません。1960年代に子供時代を過ごした僕にとっては、チャンバラごっこより、拳銃ごっこだったように思います。(それにエンリオ・モリコーネのメロディも忘れられません)

 それでは最後にマカロニ・ウエスタンの名言から
「この世には二種類の人間がいる。ドアから入る奴と窓から入る奴だ」(イーライ・ウォラック)
「この世には二種類の人間がいる。銃を構える奴と穴を掘る奴だ」(クリント・イーストウッド)
「続・夕陽のガンマン」より

「教訓その1、他人にものを頼むな」
「教訓その2、他人を信用するな」
「教訓その3、銃と的の間に立つな」
「教訓その4、先手をうつこと」
「教訓その5、傷を負わせたら殺せ、見逃せば自分がやられる」
・・・・
「教訓その10、殺しは一度覚えたら止められない」

「怒りの荒野」より(リー・ヴァン・クリーフの台詞)

「金は盗むより使う方がむずかしい」
「夕陽のガンマン」より(ジャン・マリア・ボロンテの台詞)

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ Once Apon A Time in America」 1984年公開
(監)(脚)セルジオ・レオーネ
(製)アーノン・ミルチャン
(製総)クラウディオ・マンシーニ
(原)ハリー・グレイ
(脚)レオナルド・ベンヴェヌーチ、ピエロ・デ・ベルナルディ、エンリコ・メディオーリ、フランコ・アルカッリ、フランコ・フェレーリ
(撮)トニーノ・デリ・コリ
(音)エンリオ・モリコーネ
(出)ロバート・デ・ニーロ、ジェームズ・ウッズ、エリザベス・マクガヴァン、ジェニファー・コネリー、バート・ヤング、ジョー・ペシ、ダニー・アイエロ、トリート・ウィリアムズ
   チューズデイ・ウェルド、ダーラン・フリューゲル、ジェームズ・ヘイデン

<あらすじ>
 1923年、ニューヨークのユダヤ人街にあるファット・モーのバーに4人の少年たちがたむろしていました。ヌードルス、コックアイ、パッツィー、ドミニクの4人はいつもいっしょに行動し、お金欲しさに引ったくりなどもする悪仲間でした。ある日、彼らの前にマックスという少年が現れます。ヌードルスとすぐに仲が良くなった彼は、禁酒法の施行を逆手にとって儲ける方法を提案します。さっそく実行に移した彼らは予想以上の利益を上げ、そのお金を駅のロッカーにあずけて貯めてゆきました。ところが、彼らと対立する少年グループとのもめごとが起き、メンバーの一人ドミニクが死んでしまいます。ヌードルスは敵のボスを刺殺してしまい、刑務所に入ることになりました。
 6年後(1931年)に出所した彼は仲間の歓迎を受け再び活動を始め、本格的なギャングとして強盗などの犯罪に手を染めるようになります。そんな中、子供時代から憧れていたデブラは映画女優になるためハリウッドへと去って行きました。マックスの強盗計画はしだいに大胆さを増し、ついに全米最強の警備を誇る連邦準備銀行を襲う計画を立て始めます。そんな無謀な計画が成功することはありえないと考えたヌードルスは、みんなのためにと警察に密告し計画を中止させようとします。ところが警察は、彼以外のメンバー、コックアイ、パッツィー、マックスたちを逮捕せずに殺してしまいます。密告によって罪を許されたものの、仲間も人生の目標も失ってしまた彼は阿片窟にこもり、失意の日々を送り続けます。
 1968年、彼のもとに墓地の改装を知らせる案内が届きます。彼は久しぶりにニューヨークに戻り、仲間たちが眠る墓地を訪れました。ところが、そこで彼はあの駅のロッカーの鍵を見つけます。そして、そのロッカーの中には大金の入ったカバンと「次の仕事への前渡金」と書かれたメモが入っていました。・・・一体誰が?

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