時代を変えたある夜の出来事 |
この作品は、1964年2月25日フロリダ州マイアミのモーテル、ハンプトン・ハウスの一室で行われた4人の黒人男性の集まりを実話に基づいて再現したドラマです。その日、マイアミではカシアス・クレイとソニー・リストンの世界ヘビー級タイトルマッチが行われ、クレイがTKOでリストンに勝利。その勝利を祝う大掛かりなパーティーが開催されました。しかし、主役のカシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)は、その会場を早々と後にし、3人の友人と会うためにモーテルへと向かいました。
その3人とは、マルコムX、サム・クック、ジム・ブラウンです。4人の人生はこの日を境に大きく変わることになりますが、それだけでなくアメリカの運命もまた大きく変わることになります。そんな運命の一夜の前後で何がどう変わったのか?
映画「あの夜、マイアミで」では、短い映像によって、その前後の4人の人生を説明してくれますが、当時の歴史を知らないと理解できない部分も多い気がします。そこで、ここでは4人の人生をわかりやすく振り返ろうと思います。
アリとマルコムの関係にまつわる話には未だに真相が定かでないものがあるが、次のことだけは否定しようがない。つまり、彼らが出会ってからの数か月間こそ、マルコム自身の変貌の時期 - 彼にとっては苦悶と不安の時期 - であり、そしてその後モハメド・アリという光輝く躰の中に編みこまれる糸が、カシアス・クレイの周りと内部で結節点をみた時期だったのだ。
マイク・マクーシー「モハメド・アリとその時代」より
物語の始まりは、4人の出会いにありました。
クックが最初にカシアス・クレイに出会ったのは1963年のことだった。偶然二人ともハーレムのホテル・テレサに泊まっていたのだった。クックはこのとき、近くのアポロ・シアターでの一週間連続興業の最中にあり、クレイと出会ったのは興業の中日でオフの日だった。・・・クックのスタイルや成功だけでなく、彼の存在すべてがクレイには憧れの対象だったのだ。それで二人はすぐに意気投合し、その週は二人揃ってマルコムXとともに時間を過ごすことになった。・・・彼も偶然ホテル・テレサにオフィスを構えていたのである。
マイク・マクーシー「モハメド・アリとその時代」より
<「マイアミの夜」以前>
カシアス・クレイ(モハメド・アリ) <アメリカン・ドリームの体現者>
学生時代から将来有望なボクサーとして扱われていたカシアス・クレイは、ローマ・オリンピックで金メダルを獲ると18歳でプロに転向しました。すでにアメリカ中で彼の名は知られていて、 「アメリカン・ドリーム」の体現者となった彼の未来は前途洋々でした。彼自身もそんな自分の未来に対する迷いはなかたったようです。そのため、彼にとって黒人への差別は大きな問題ではなかったのかもしれません。そんな彼の気持ちはインタビューでの受け答えにも表れていました。
「アメリカを一番グレートにすること、それが俺のゴール。それで俺はロシア人を殴り倒し、ポーランド人を殴り倒す。金メダルを勝ち取ったのもUSAのためのこと」
ソ連の記者がアメリカでの人種差別問題について質問すると・・・
「俺にとっちゃ、あんたの国と較べたところで、USAが世界で一番だってことに変わりはないね」
名前について聞かれた彼はこう答えています。まさかその名前を自ら変えることになるとは思ってもいなかったようです。
「美しい名前だろ?ローマのコロセウムの剣闘士みたいに・・・」
<アメリカン・ヒーローへの憧れ>
10代の頃から、カシアス・クレイは多くの黒人と同じようにR&Bのファンでした。1959年、シンガーのロイド・プライスが巡業でルイヴィルにやってきたとき、17歳にして全米アマチュアボクシング選手権のチャンピオンになっていたクレイは、サインをもらおうとして彼が投宿していたモーテルで待ち伏せをしていたことがありました。畑は違っても、彼はポップ・スターに憧れていたのです。そんな彼が偶然、あのサム・クックと出会ったのですから、親しくなりたがるのは当然でした。
<ブラック・ムスリムの信者へ>
1959年彼は初めてブラック・ムスリムの説教を聞き、その教えに感銘を受けました。ただし、ボクシング界のスーパースターを目指す彼にとって、ブラック・ムスリムの信者となることは、多くのファンを失う危険な賭けでした。とは言え、NOI側にとって、クレイは最高の広告塔となり、資金源ともなりうる存在でした。イスラム教において、プロ・ボクシングは異端のスポーツでしたが、イライジャは特例として赦します。そして彼の心変わりを防ぐため、そしてマスコミとのトラブルを避けるために自分の右腕的存在のマルコムをクレイのガードマン兼相談役につけたのでした。マルコムX <白人の敵ナンバー1>
マルコムXは、ニューヨークのハーレムで街のヤクザとして青春時代を過ごしました。そして様々な犯罪を犯し、ついに逮捕されて刑務所入り、そこでブラック・ムスリムの熱心な信者と出会います。それまでの生き方を深く反省した彼は、NOIに入信し、教祖であるイライジャ・モハメッドの右腕的存在にまでのし上がりました。彼のカリスマ的な雰囲気と圧倒的な説教のテクニックは多くの信者をひきつけました。そして、その中には若かりしカシアス・クレイもいたわけです。
実のところ、黒人教会で培われた呼応形式の口承伝統、ストリートの生活が培った屈強なリアリズム、ラジオ局やテレビ局を飛び回り、ことあるごとに開く記者会見、こういったものを一つにまとめ上げたマルコムのスタイルこそ、その後クレイが借用するレトリックの原型だったのだ。またその他のものたちと同様にクレイも、マルコムの穏やかで、寛大で、人に親近感を抱かせる側面にも魅せられていた。厳格で正義感溢れる説教師、マルコムXは、実のところ悪戯が大好きだったのだ。・・・
マイク・マクーシー「モハメド・アリとその時代」より
1963年11月ジョン・F・ケネディがダラスの街で狙撃され死亡した際、彼はNOIにより、コメントを控えるよう言われていたにもかかわらず、挑発的な発言をして全米中を敵に回すことになりました。
「にわとりがローストチキンを作る準備をしていた家に帰ってきたようなものでしょう、・・・わたし自身田舎育ちなもので、にわとりがローストチキンにされるために家に帰って来ても悲しくなんかなりませんね、むしろそのようなことなど大歓迎です」
1963年12月1日ニューヨークにて、マルコムのコメントよりサム・クック <ブラック・スーパースター>
サム・クックは、この映画に登場する4人の中では、いち早く全米にその名を知られるスターになっていた人物でした。ただし、白人の観客に合わせた歌を歌うことに不満を抱え、何かを変えたいと考える人物でもありました。
サム・クックは、タレントらしく贅を凝らし享楽的な生活を送っていたのだが、自分をシリアスに見つめるプライド高い黒い男でもあった。そして、白人のために黒人がパフォーマンスをしている領域で仕事をしていたのもクレイと同じなら、個人の威厳を損なうことも、はたまたミンストレルの一役に堕することもなく成功を手にしようとしていたのもクレイと同じだった。
白人市場へのクロスオーバーに向けた意欲は強かったが、それと同時にクリエイティヴな領域でも経営の領域でも、白人市場の要請にしたがっているだけではなく、何とかして自分の自律性を守ろうとする意志も堅かった。・・・
彼はゴスペル・コーラス・グループ、ソウルスターラーズのメンバーとして活躍していましたが、ソロ歌手としてR&B界でのデビューをしました。イケメンであり、カリスマ的な歌手だった彼はすぐに人気者になります。さらに黒人マネージャーのJ・W・アレクサンダーの協力もあり、黒っぽさを抑えたスタイルを武器に黒人だけでなく白人からも人気を獲得して行きます。しかし、そんな彼が「あの夜」を期に大きく変わることになります。
<「マイアミの夜」当日>
カシアス・クレイ(モハメド・アリ) <ヒーローからヒールへ>
白人にとって、オリンピックの金メダリストであることは英雄でした。たとえ黒人ではあっても、カシアス・クレイはアメリカ中の人気者だったと言えます。それに対して元犯罪者で色のより黒いソニー・リストンは多くの白人にとって悪役的存在でした。ところが、タイトルマッチの直前になって、クレイとマルコムとの友好関係が明らかになると、状況は大きく変わることになりました。マスコミはクレイが危険思想集団であるNOIのメンバーになるのではないか?そこに注目するようになります。この時点で、クレイの立場は「ヒーローからヒール」へと大きく変わろうとしていたわけです。
「このタイトルマッチの売り込み口上は、クレイ対リストンでしたし、クレイの色は白、リストンは黒でした、でももう黒いもの同士が殴り合う格好になってしまったんです」
この試合の宣言広報担当ハロルド・コンラッド
試合前、クレイのところに来たマルコムX、彼をこう言って激励しました。二人の闘いを十字軍(キリスト教徒)と闘うイスラム戦士の戦いなのだと激を飛ばしたのです。
「この闘いに賭されているのは真実だ。・・・タイトルマッチのリングの上で闘うのは十字と新月章だ。つまりこれは近代以降初めての十字軍迎撃戦なのだ。ひとりのクリスチャンとひとりのムスリムが対決し、テルスター経由の衛星放送のおかげで、何が起きたかは、はっきりと世界が見とどけてくれる」
この時、すでにクレイは差別に苦しむアメリカの黒人だけでなくすべての虐げられし者たちの代表として白人と戦う道を選択していたのかもしれません。そして、そのおかげで以前のような試合中のミスがなくなったとも考えられます。こうして彼は一方的にチャンピオンのリストンに勝利しました。マルコムX <マルコムの選択>
この日の時点では、マルコムは白人にとって最大の敵であり、NOIにとっても邪魔な存在になっていました。そのうえ、彼は教祖であるイライジャが「神」よりも「金と女性」に執着する偽教祖であることに気づいていました。 そのためすでに彼の心はイライジャとNOIから離れていましたが、イスラム教を捨てるつもりはなく、ブラック・ムスリムを改革するための計画もあったようです。この日の4人の集まりは、その計画を伝える目的もあったのでしょう。サム・クック <幻のレコーディング>
タイトルマッチの直後、カシアス・クレイとマルコムは、共同記者会見の席でサム・クックと共にレコーディングを行うための契約を結んだことを発表しました。本格的な歌手デビューをサムと共に実現していたら、どんな作品が生まれていたか?
残念ながら、この記者会見の数日後、マルコムはNOIとの決別を宣言。アリもまたマルコムとの決別を選択したため、このレコーディングは幻となりました。
<「マイアミの夜」以後>
モハメド・アリ <マルコムとの決別>
マルコムがNOIを離れると宣言した時点で、アリは彼との決別を決意します。その選択はマルコムとの共闘により、自分がさらなる政治的混乱に巻き込まれることを恐れての結果だったのかもしれません。その後、彼はイライジャ・モハメドがこの世を去るまで彼のことを批判することなくNOIのメンバーとして活動を続けます。しかし、彼はマルコムとの関係を完全に断っていたのか?その答えはマルコムの死によって、謎のまま残されました。
アリはマルコムに誘われたとうり、タイトルマッチから数週間後にマルコムとは別のルートでアフリカを訪問しています。彼はメッカではなくガーナに行き、当時ガーナの大統領だったンクルマと親しくなりました。NOIにとって、アリのこの旅は素晴らしい宣伝になったと言えますが、アリのこのガーナでの滞在中にマルコムもガーナを訪れていました。ここでもマルコムとアリの人生は交差をしていたようです。アリはこの旅によりアフリカとの関係を築くことになり、それが後に彼がジョージ・フォアマンとの伝説のタイトルマッチをキンシャサで行う理由の一つになります。彼にとって、アフリカはそれだけ重要な土地になったということです。
「あのアフリカへの旅を忘れることはないでしょう。なぜって?それはその旅の過程でわたしはカシアス・クレイがモハメド・アリに変貌するのを目撃したからです、彼はそれまでの彼とは違う人間になった、そうなったのも、ほかでもない、アフリカの地だったのです」
オスマン・カリエム(マルコムとの関係を疑われアリのボディーガードから外された人物)
<ボクシング界からの追放>
1967年、彼はヴェトナムへ兵士として向かうことを拒否し、世界チャンピオンのベルトを剥奪され、ボクシング界から追放されます。しかし、彼はボクシング界を去ることなく現役復帰を目指します。そんな彼の姿勢はアメリカにおける反戦運動の盛り上がりと共に見直されることになります。
1970年、彼はアトランタで現役復帰を果たすことになりました。アメリカの多くも街が彼の試合を認めなかった中、アトランタ市はいち早く彼の試合を認める決断をしたのです。こうしてアリとアトランタの街も運命的なつながりを持つことになりました。
1996年、アトランタ・オリンピックの開会式の最終ランナーとしてモハメド・アリが登場し、多くの人に感動を与えました。病を押しての彼の走りは、一見悲劇的にしか見えないかもしれません。しかし、こうした歴史的な過去を知るとその意味はより重いものであることが理解できます。マルコムX <マルコムの開眼>
この試合の後、1964年4月13日、マルコムはメッカへの巡礼の旅に出発しました。そしてその旅は、サウジアラビア、レバノン、モロッコなどアフリカ各地を巡る長い旅となりましたが、その旅で彼はそれまでの考え方を大きく改めることになりました。
その朝、はじめて私は「白人」というものを再評価し始めた。「白人」という言葉は、肌の色を指すのではなく、それが意味するのは「態度」や「行動」だということに気づき始めたのだ。肌の色はあくまでも二義的な要素でしかない。
私はもはやひとつの人種を徹底的に告発することには賛成しない。
この国を救うには、真に深い友情しかないということを学ぶのに、私はたいへんなまわり道をした。
5月21日、巡礼の旅から帰国したマルコムは、非宗教的な政治団体「アフロ・アメリカ統一機構」を設立。自らはイスラム教徒ではあっても、宗教が異なる人とも共闘して運動を行うと宣言しました。
アフリカは問題を抱えてはいるが、独立しており、その独立という事実によって発言力を持っている。この発言力には強い力がある。諸君や私が、われわれの闘争を彼らアフリカの闘いに結びつければ、彼らの闘争はわれわれの闘争を支援し、この合衆国の白人たちも少しばかりよけいにわれわれに注目するようになるだろう。
アフリカでの経験により、新たな視野を得た彼は、それまで批判していたキング牧師とも和解し、新たな運動をスタートさせましたが、彼に残された時間はもうわずかでした。
1965年2月21日3時10分、故郷とも言えるハーレムの「オーデュポン・ボールルーム」での講演中、彼は銃撃されこの世を去りました。サム・クック <名曲「A Change Gonna Come」>
この映画で重要な役目を果たす名曲「A Change Gonna Come」が発表されたのは、1964年2月のテレビ・バラエティー「トゥナイト・ショー」の中でした。実は、この映画で描かれている「あの夜」よりも前のことだったのです。サムはこの映画に出てくるボブ・ディランの名曲「風に吹かれて」を聞いて衝撃を受け、この年の1月4日にはこの曲を録音していました。
「人種と政治のことをポピュラー・ミュージックにのせて人前で語ったのが白人の坊やだったなんて、黒人パフォーマーの俺にしちゃきまり悪いことだぜ」
彼は友人にこう話していたそうです。この曲は、おそらく最初の社会的メッセージをもつソウルナンバーでしょう。ただし、この曲は「あの夜」の時点ではまだレコード化はされておらず、7月に発表されたキング牧師に捧げる南部キリスト教指導者会議SCLCのためのアルバム「The Stars Salute Dr.Martn Luther King」に収録されただけでした。
川沿いの小さなテントで生まれ
まるでその川の行く末みたいに
ずっと流れつづけてきたのさ
長い時間がたった
だけども変っていくのさ
そうさ、きっと
この曲を気にいっていたサムはシングルとして発表しようとしますが、アルバムのための録音は4分を越えていたため、RCAに短くするよう求められました。そこで以下の部分をカットして、シングルとして発表することになります。残念なことに、人種差別についてはっきりと描かれている部分がカットされることになりました。
映画をみようと 街中へ行ってみる
あちこちで言われること
ここでうろうろしちゃだめだ
長い時間がたって
だけどもう変っていくのさ
そうさ、きっと
彼はその頃、次の企画としてブルースのアルバムを録音するつもりだと語っていたそうです。カバーする曲の中にはビリー・ホリディの曲も含まれていたようです。しかし、その企画は実現することはありませんでした。
1964年12月10日彼は宿泊中のモーテルでそこの管理人によって射殺されてしまいました。その死については、謎の部分が多く原因ははっきりしていません。そして、名曲「A Change Gonna Come」は、彼の死後になってシングルとして世に出ることになったのでした。(この曲はオーティス・レディングのカバーも素晴らしいです!)
ジム・ブラウン 当時のアメリカンフットボール界ナンバー1の大スターですが、残念ながら日本での知名度は低いかもしれません。ただし、その成績からすれば、他の3人とその実績は負けていないはずです。
彼はアメリカ南部ジョージア州セントサイモンズに1936年2月17日に生まれています。 人種差別が最後まで残った土地で育ちましたが、彼は学生時代からスポーツ万能で注目を集める存在でした。野球、バスケット、アメリカンフットボール、どの球技でも地区の記録を塗り替える優秀な選手でした。そんな中、彼は卒業後の道をアメリカン・フットボールに定めます。そして、大学卒業後の1957年にプロ・アメリカンフットボール・リーグのNFLに所属するクリーブランド・ブラウンズに入団。ラインバッカ―として、1965年までの9年間活躍しづつけました。
その間、オールプロのベストメンバーに8回、MVPには3回選ばれるなど、華々しい成績を残し、今でも、20世紀最高の選手と言われる存在です。
だからこそ、彼には引退前から俳優としてのオファーがあったのです。引退後、スポーツ選手の多くが資産を使い果たしたり、騙されたりして、惨めな晩年を過ごす中、彼は「あの夜」以降、間違った選択をすることなく、俳優としてのキャリアを築いて行くことになります。
映画俳優としては、映画の中にも出てくるロバート・アルドリッチ監督の戦争映画「特攻大作戦」(1967年)が出世作となり、その後は長くアクション映画の脇役俳優として長く活躍することになります。代表作としては、「汚れた七人」(1968年)、「バトルランナー」(1987年)、「マーズ・アタック」(1996年)、「スモール・ソルジャーズ」(1998年)、「エニイ・ギブン・サンデー」(1999年)・・・
彼は4人の中で最も長く活躍し、2021年時点でも存命です。今や彼だけが「あの夜」のことを知る存在なわけです。彼はこの作品を見てどう思ったのか?知りたいところです。
<参考>
「モハメド・アリとその時代 グローバルヒーローの肖像」 1999年
Redemption Song : Muhammad Ali and the Spirit of Sixties
(著)マイク・マクーシー Mike Maquesee
(訳)藤永康政
「Mr.Soul サム・クック」 1995年
You Send Me : The Life and Times of Sam Cooke
(著)ダニエル・ウルフ Daniel Wolff
(訳)石田泰子、加藤千明
ブルース・インターアクションズ
「マルコムX ワールド」 1993年
(監修)佐藤良明、藤永康政
径書房
映画「あの夜、マイアミで One Night In Miami」 2020年
(監)レジーナ・キング Regina King(アメリカ)
(製)ジェス・ウー・カルダー、キース・カルダー、ジョディ・クレイン
(原戯)(脚)ケンプ・パワーズ
(撮)タミー・レイカー
(編)テリク・アンワル
(音)テレンス・ブランチャード
(出)キングスレイ・ベン=アディル、イーライ・ゴリー、レスリー・オドムJr.、アルディス・ホッジ、ランス・レディック、ボー・ブリッジス
曲名 演奏 作曲 コメント 「Tammy」 レスリー・オドム Jr.
Leslie Odom Jr.Jay Livingston
Ray Evans白人女優デビー・レイノルズ1957年の大ヒット
映画の主題歌で全米5週連続一位「I Believe To My Soul」 HKPBand レイ・チャールズ
Ray Charlesレイ・チャールズ1961年のヒット曲
ダニー・ハサウェイなどもカバー「Put Me Down Easy」 レスリー・オドム Jr.
Leslie Odom Jr.サム・クック
Sam Cooke映画冒頭での会話にも出てくるサム・クックの弟
L.C.Cooke 1964年のヒット曲「Sacala」 Tito Puente &His Orch.
feat. Vincento Valdesティト・プエンテ
Tito Puenteラテン音楽のレジェンドによる1950年代のヒット 「Canta Bajo」 Mongo Santamaria Orch.
Feat. La LupeLupe Yoli アルバム「Mongo Introduces La Lupe」(1963年)
モンゴ・サンタマリアはラテン・パーカッションの大御所「You're Always on My Mind」 Johnny Morisette J・W・アレクサンダー
J.W.Alexanderサムの黒人マネージャーの曲
サムと音楽出版社を立ち上げました。「Grezee」 ビリー・プレストン
Billy PrestonBilly Preston
J.W.Alexanderもうひとりのビートルズとも言われた人物
1969年の曲なのでこの曲のチョイスは?「I Love You(For Sentimental Reasons)」 レスリー・オドム Jr.
Leslie Odom Jr.William B. Bounds Ⅲ
Deek Watsonナット・キング・コールのアルバム「Unforgettable」
(1954年)収録「You Send Me」 レスリー・オドム Jr.
Leslie Odom Jr.サム・クック
Sam Cooke全米ポップとR&B両チャートで1位
サム・クックにとってソロで初のヒット曲「Windjammer」 Jimmy Wisner Orch. Jimmy Wisner アルバム「Cast Your Fate To The Wind」(1964年) 「風に吹かれて
Blowwin' In the Wind」ボブ・ディラン
Bob Dylanボブ・ディラン
Bob Dylanアルバム「フリー・ホイーリン・ボブ・ディラン」(1963年)
ピーター・ポール&マリーのカバーが大ヒット「Having A Party」 レスリー・オドム Jr.
Leslie Odom Jr.サム・クック
Sam Cooke1962年のヒット・シングル全米ポップ17位 「Jesus Wash Away My Trouble」 レスリー・オドム Jr.
Leslie Odom Jr.サム・クック
Sam Cookeサム・クック&ソウル・スターラーズ時代のゴスペル曲 「Chain Gang」 レスリー・オドム Jr.
Leslie Odom Jr.サム・クック
Sam Cooke1960年全米ポップ、R&B両方で2位の大ヒット 「Lonely Teardrops」 Jeremy Pope Roquel Davis
Gwendolyn G. Fuqua
Berry Gordy Jr.ジャッキー・ウィルソンの大ヒット曲 「A Change Is Gonna Come」 レスリー・オドム Jr.
Leslie Odom Jr.サム・クック
Sam Cooke1964年「Shake」のB面として発売
全米ポップ7位「Good Times」 レスリー・オドム Jr.
Leslie Odom Jr.サム・クック
Sam Cooke1964年「テネシー・ワルツ」とのカップリング
全米ポップ11位「Speak Now」 レスリー・オドム Jr.
Leslie Odom Jr.Leslie Odom Jr.
Sam Ashworthこの映画の主題歌 「It's All Over Now」 ローリング・ストーンズ
Roling StonesBobby Womack サム・クックがマルコムに成功例とした話した曲
ローリング・ストーンズのカバーで有名になった