「お荷物小荷物」
- 佐々木守 Mamoru Sasaki -
<「お荷物小荷物」>
1960年代末から1970年代にテレビ・タレントそして大活躍した中山千夏さんの自伝「芸能人の帽子」を読んでいて、彼女が出演した大ヒット・テレビドラマ「お荷物小荷物」のことを懐かしく思い出しました。時代を象徴する番組でありながら、映像が残っていないため、現在では最終回だけしか観ることができないとのこと。そのため1960年を過ぎてから生まれた方のほとんどは、もうこの番組を知らないかもしれません。そして、ここまで過激な番組はたぶん二度と作れないでしょう。
「三歳児から新左翼まで楽しめる番組」とも呼ばれ平均視聴率が関東で21.6%、関西では24.9%に達した大ヒット番組は、様々な意味でテレビ界に革命を起こした作品でもありました。それは「元祖フェミニズムドラマ」であり、「元祖脱テレビ・ドラマ」であり、「反天皇制ドラマ」であり、「反琉球差別ドラマ」でもありました。そんな過激な内容を含んだ番組が、コメディー・ドラマとして制作・放映できていたことが今では驚きです。では、具体的にはどんな番組だったのでしょうか?僕自身の記憶も曖昧だったので調べてみました。
「お荷物小荷物」のドラマとしての意味は、観念的な前衛劇が、茶の間のテレビ視聴者にも広く受け入れられた最初で最後の例だ、というところにあるのではないだろうか。
「お荷物小荷物」とは、こんな番組でした。
「お荷物小荷物」(沖縄編)
ABC放送制作TBS系で全国放送
1970年10月17日より1971年2月13日まで放送
放送時間は、土曜日夜10時から1時間(TBSでは8時から「8時だョ!全員集合」、9時から「キイハンター」が放送されていました)
続編の「お荷物小荷物」(カムイ編)は1971年12月4日~1972年4月15日放送
(プロデューサー)山内久司(この後、「必殺シリーズ」を生み出しABCを代表するプロデューサーとなります)
(脚)佐々木守
(衣)コシノヒロコ
(音)佐藤允彦(後に中山千夏と結婚するジャズ・ピアニスト)
(出)中山千夏(田の中菊)、志村喬(滝沢家家長)、桑山正一(父)、河原崎長一郎(長男)、浜田光夫(次男)、林隆三(三男)、渡辺篤史(四男)、佐々木剛(五男)
戸浦六宏、佐藤慶、中原早苗、鮎川いずみほか
<あらすじ>
運送店を営む東京下町の滝沢家。昔気質の家長と息子、その5人の子供たちは、日の丸を掲げた大日本帝国時代そのままの考え方のもとで暮らしていました。そんな男所帯に、ある日、田の中菊という若い女中がやって来ます。
実は彼女の本名は今帰仁菊代(なきじんきくよ)といい、彼女の姉はかつて滝沢家で女中をしていて、長男の恋仲になり子を宿しました。ところが、家長からの反対にあい泣く泣く沖縄に戻り、そこで亡くなりました。菊代はその姉の復讐のため、滝沢家に侵入しようとしていたのです。
旧体制のままの滝沢家で彼女は様々ないじめを受けますが、少しずつ5兄弟の心を引きつけ、男たちはみな彼女を自分のものにしようと考え始めます。
「最終回」では、なんと日本で徴兵制が復活。5人兄弟は戦場へと向かい全員が死亡してしまいます。そして、彼女の前に化けて出て誰が一番好きだったかを迫るシーンがありました。7人家族が2人だけになってしまったわけですが、これって志村喬主演の名作「七人の侍」のラストじゃないですか!
さらにいうと、主人公の名前「田の中菊」って、同じ黒澤明監督の「椿三十郎」、「用心棒」の主人公の適当につけた名前「椿三十郎」と「桑畑三十郎」から来てますよね。
このドラマの映像は残されていないとのこと。かろうじて「最終回」のフィルムだけが残っていて横浜のフィルムライブラリーで見ることができるそうです。
このドラマが放映されていた1970年、僕は小学校4年生ぐらい。当初は10時過ぎの番組ということで見せてもらえなかったのですが、クラスのませた子たちはこの番組をクラスで話題にしていました。そして途中からやっと僕もこの番組を見ることができるようになりました。僕にとっては、最初の10時台のテレビ番組であり、大人向けテレビドラマとの出会いとなりました。それだけに少々難しくても、強い印象が残っています。(細かな内容はさすがに覚えていないのですが・・・)
<誕生秘話>
この異色のドラマはたまたま生まれたわけではありません。それまでになかった「脱ドラマ」として制作されたのは、「脱」する対象となる番組があり、「脱」する社会体制という時代背景があったからでした。
あの頃、民放ではTBSが一番勢いがあって、石井ふく子プロデューサーの作った「肝っ玉かあさん」「ありがとう」といったホームドラマが大ヒットしてました。・・・僕は悩みました。だって、TBSのホームドラマは東京の下町が舞台でしょ。正直言って、そういう物を大阪で作っても二流品だし、・・・。それに当時、大阪で作るドラマでは「どてらい奴」「船場」といった、ちょっと昔の大阪を描いた根性物が当たってたけど、全国的なヒットにはつながらなかったし・・・。そこで、風土性を消して、現実から少し浮き上がった観念性のドラマをやることにしたんです。それに、当時はローンであってもまだ家を建てられた時代で、その家で家族と仲良く暮らしたいという心情が、まだ多くの日本人の中にあったんやね。でも、それは幻想だったし、そんな心情がTBSのホームドラマに象徴されていることに対する反発もあったしね。
佐々木守
このドラマは、「脱・肝っ玉かあさん」であり、「脱・ホームドラマ」であり、「脱・旧体制」だったわけです。こうして、脚本家の佐々木が独自の世界観を打ち出す中、ドラマの中では俳優たちが新たな挑戦をしていました。その中心には、異色の女性タレント、中山千夏がいましたが、彼女の他にも大島渚作品の常連として活躍していた戸浦六宏、佐藤慶が前衛的なドラマを見事に演じていました。
このドラマの中では、出演者が突然、一俳優としてしゃべり出したり、スタジオの裏側をあえて写し出したり、プロデューサーの山内へのインタビューを始めたりと、次々に「脱ドラマ的展開」が繰り出されました。
ドラマというものは、元来、たとえ本人が幸せだろうが「私は不幸な女です」といってそれをお客に信じこませ、その世界にひきずりこませるところから出発すべきものでしたが、ぼくたちは、いっそのこと「私は中山千夏です、いろいろやってるテレビタレントです。今回はたまたまこんな役です」といって出てきた方が、はるかに真実ではないか、という考えに立ちました。そういう意味ではたしかに、旧来のドラマを「脱」していたのかもしれません。それはたしかに中山千夏というタレントの素朴なドキュメントではありました。そこから、やがて他の出演者にも及び、そうなればスタジオで働くスタッフのドキュメントを、スタジオ風景のドキュメントを、ドラマをやってればNGが出るのは普通だから、ついでにそれも、という風に発展し、エスカレートしていくまでには、あと一歩だったのです。
<1970年という時代>
このドラマで行われた様々な実験的演出が、その後、別のドラマで成功した例を僕は知りません。もちろん、脱ドラマ的な作品は、その後もあったのでしょうが、ここまで話題になり、ヒットに結びついた例はないはずです。それは1970年という時代の空気が必要であり、社会的条件も必須の条件だったのでしょう。
あれは一期一会なんですよ。佐々木守という観念性が高く、なおかつ俗な楽しみもよく知っている作家、頭が良くてしかもメチャクチャ美人ではない中山千夏、その他の俳優、当時のABCの大胆不敵なスタッフ、それにTBSのホームドラマというテーゼがあったからこそ、生まれたんです。それと、あの時代だから生まれた人ですね。例えば、「リンゴの歌」のような歌は二度と生まれませんよ。だって、あれは日本が戦争に負けないとできないんだから。それと同じです。
1970年、時代はテレビの黄金時代で今よりも多くの人がテレビを見ていましたが、「反体制的」な考え方はごく自然に受け入れられる状況だったともいえます。多くの学生が「革命」が起きる可能性を信じていたし、当時、小学生だった僕ですら全学連に共感してる時代でした。当然、左翼的思想のテレビ番組を攻撃するネット右翼もいなかったし、テレビ局もスポンサーもそれを許す懐の深さをまだ持っていた時代でもありました。
<佐々木守>
このドラマの脚本を書いた佐々木守は、まさにこの時代を代表する作家でした。ここでは彼についても書かないわけには行きません。
佐々木守は、1936年9月13日石川県の能美市に生まれています。東京に上京し、明治大学文学部に入学した彼は、在学中から米軍立川基地の拡張に反対する「砂川闘争」(1955年)に参加。その後、教育映画作家協会(現在の日本記録映画作家協会)に所属し、機関誌「記録映画」の編集を担当。その仕事で大島渚や松本俊夫などの映画作家たちと知り合うことになりました。
1960年、TBSラジオでコント番組のライターとして活動し、ラジオドラマにも関り、台本を書き始めます。
1963年、テレビドラマ「現代っ子」の脚本に参加し、そこで石堂淑朗、田村孟らから多くの事を学びました。
1964年、大島渚監督の作品に関わり始め、「忍者武芸帳」「無理心中 日本の夏」(1967年)、「絞死刑」「日本春歌考」(1968年)、「儀式」(1971年)、「夏の妹」(1972年)などの脚本に参加します。この後、大島の紹介で知り合った実相寺昭雄と共にあの「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」、「怪奇大作戦」、「シルバー仮面」などを手掛けます。
その後、ABC放送(大阪)のプロデューサー山内久司とのコンビで「月火水木金金金」を制作。その発展型ともいえる大ヒット作「お荷物小荷物」を生み出します。
その他にも、彼が脚本を書いた作品としては、名作刑事ドラマ「七人の刑事」(1961年)、「赤い迷路」(1974年)、アニメのあの名作「アルプスの少女ハイジ」(1974年)、「コメットさん」(1967年)、「柔道一直線」(1969年)、「おくさまは18歳」(1970年)、そして漫画では水島慎司の「男どアホウ甲子園」の原作などがあります。
ジャンルに関わりなく、どれも今でも忘れられていない作品ばかりです。
彼は1960年に一時共産党に入党しますが、すぐに党の方針に反発して離党。その後は、新左翼の立場から作品を書くようになりました。そう考えると、彼の「反天皇制」を隠しテーマにしていた「お荷物小荷物」や様々な社会問題を提起していた「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」の奥深さに納得が行きます。
<テレビというメディア>
佐々木守の脚本においては、テレビというメディアのもつ独自性を意識的に活用していたことは重要なことのようです。
「テレビは基本的に、ダラダラとした時間の総体としてのドキュメンタリーである。」
それでは、テレビが「素朴」にドキュメントできるものは何かといえば、前にもいったとおり、「うつっている人間」をドキュメントすることです。
佐々木守
彼が「お荷物小荷物」において行った「脱ドラマ」的展開はドラマをドキュメンタリーとして作ろうという試みだったともいえそうです。彼にとって、その方法は決して奇をてらったのではなく、テレビというメディアをつきつめて考えた時に必然的に出てくる考え方から当然の展開でもありました。
「テレビ番組というものは、決してそれが独立した作品として存在しえない」
「ぼくたちは、一度も、脱「ドラマ」を作ろうと思ったことはなく、ただ一つの「テレビ番組」を作りたいと考えていただけ」
主演女優の中山千夏は、この作品を越えられるドラマに出会うことはないと確信し、シリーズの続編に出演後、テレビドラマへのオファーを二度と受けることはありませんでした。彼女はその後、芸能界を離れ、フェミニズム運動の中心となり、その勢いで参議院の選挙に出馬し、見事に当選。現在は、政界もタレント業からも引退し、執筆活動を続けています。時代が生んだドラマを生んだ背景には、彼女の存在もまた大きかったのでしょう。
歴史というのは、後から振り返ると、それ自体が巨大な脱ドラマのように見えてくるものです。それを子供ごころに見ていた僕もまたその出演者のひとりだった・・・。そう考えると、二度と放送されることのないテレビドラマでも、歴史に大きな爪痕を残すことは可能だったといえそうです。
もしかすると、再放送されたり、YouTubeでいつでも見られるような現在のテレビの方が、そうした爪痕を残すことが難しくなったのではないかと思うのですが・・・。
<参考>
「芸能人の帽子 - アナログTV時代のタレントと芸能記事」 2014年
(著)中山千夏
講談社
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