原子爆弾を生み出した男の栄光の人生

<前編>

- ロバート・オッペンハイマー Robert Oppenheimer -
<原爆の父>
「われわれは1945年以来、心の中に爆弾を抱えている。それは最初われわれの兵器であった。それから外交になり、そして今は経済である。これほど恐ろしく強力はものが、40年たってわれわれのアイデンティティをつくり上げいないと、どうして考えられるか?敵に対抗して造った大きなロボットは、われわれの文化、爆弾文化であり、そのロジックであり、信仰であり、そして展望である」

E・L・ドクトロー(小説家)

 「原爆の父」と呼ばれた男、ロバート・オッペンハイマーは、なぜ原爆研究プロジェクトのトップに選ばれたのか?
 なぜその後の核兵器研究にストップをかけようとしたのか?
 なぜ彼は「赤狩り」の犠牲になったのか?
 今もなお続く原爆戦争の危機の生みの親の人生に迫ります。

<生い立ち>
 ロバート・オッペンハイマー Robert Oppenheimer は、1904年4月22日、ニューヨークに住むドイツ系ユダヤ人ジュリアス・オッペンハイマーとその妻エラの長男として生まれました。父親はニューヨークのアパレル業界で財を成した資産家で、母親は美術の専門家で画家、教師として働いていました。
 1911年9月、彼は倫理文化協会の学校に入学します。それは非宗教的なアメリカ改革派ユダヤ人の組織による学校で、中流、上流のドイツ系ユダヤ人が多く通う私学でした。そこではアメリカ社会に順応し受け入れられるためにユダヤ教の宗教色を排した教育が行われていました。当時はまだ名門の私立校の多くがユダヤ人を差別していたこともあり、多くの優秀なユダヤ人が通う学校として有名でした。そんな名門校でも彼の優秀さは際立っていたようです。
 1922年9月、彼はユダヤ人も入学可能だったアメリカの名門ハーバード大学に入学します。しかし、若かりしオッペンハイマーは将来のこと、男女問題などの悩みを処理しきれず精神状態が不安定だったようです。ついには統合失調症に近い状態になり、精神科に通っていた時期もありました。ただし、優秀過ぎる彼は自分で心理学について学び、精神科の医師を悩ませる存在でもありました。
 結局、彼の心を救ったのは、神でも精神科医でもなく、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」だったとか?彼はこの20世紀を代表する超大作小説にはまり、そしてこの小説に救われたと言っていました。彼はその証拠にと、友人の物理学者ハーコン・シュバリエにそれから10年後のある日、その一部を暗唱して聞かせたそうです。
「おそらく彼女は悪というものが、これほど稀で、これほど非日常的で、人を疎遠にする状態であること、ほかの人たちと同様、彼女自身の中に自分が与える苦しみへの無関心を感ずることができたら、そこに移り住むことがこれほど心休まるものであるとは、考えたこともなかったであろう。・・・」
 この調子で彼は記憶力も頭も良かったものの周囲の人に気を配ったり、空気を読んだりするどころか、平気で相手を傷つけることを言う無神経な人間だったようです。このままでは到底「原爆の父」にはなれなかったはずです。

<先端科学の道へ>
 1924年は「量子力学」という呼び名をマックス・ボルンが初めて使った年です。その2年後、オッペンハイマーはその言葉を生み出した「量子力学」の聖地ゲッチンゲン研究所での研究に参加することになりました。数多くのノーベル賞受賞者を輩出したその場所で、彼は多くのことを学ぶことになりました。量子力学の父的存在ニールス・ボーアともそこで知り合い、そのカリスマ的な指導力に大きな影響を受けることになりました。
 彼はアメリカに戻ると、その実績を買われて、カリフォルニア大学バークレー校で研究を続けながら生徒たちへの授業も任されるようになります。生徒に教える経験などなかった彼の授業に、当初多くの生徒がついて行けなかったようです。
 しかし、彼は他の教授たちのように学生を下働きのように使うことをしないだけでなく生徒たちの研究に自ら付き合い、生徒に自分のことを「オッピー Opie」と呼ばせて対等の関係を築きました。いつしか彼のもとには多くの学生が集まるようになって行きます。
 逆にゲッチンゲンに集まっていた物理学の天才たちの中で彼の才能は、彼らを上回るほどではなかったとも言われます。
「オッピーは物理学の見方がとても上手で、封筒の裏に計算をし、すべての主要因を把握することに優れていた。ディラックのように、エレガントに研究し完成するのはオッピーのスタイルでなかった」
 彼の物理学は、ノーベル賞受賞者たちのような美しさを追求する方向性とは違ったのかもしれません。彼の仕事は「アメリカの機械工場のようだった」とも言われました。

「ロバートには、一つの問題にあまり長く固執する忍耐力がなかった。その結果、しばしば彼がドアを開け、他の人がそのドアから入っていき、大きな発見をすることがあった。」
 こうした彼の性格が彼がノーベル賞をとらなかった最大の理由だったのかもしれません。

 1936年、オッピーは22歳のジーン・タトロックと出会いました。スタンフォード大医学部の1年生で、成績優秀。父親はオッピーも親しいバークレー大の文学部教授でした。彼女には多くの共産主義者の友人がいて、その影響により彼はスペイン戦争で共和政府軍を支持したり、共産党シンパの集まりにも参加するようになります。この時にできた人間関係が後に彼に大きなトラブルをもたらすことになります。
 1937年、父親のジュリアスがこの世を去り、大きな遺産を彼は受け継ぎました。これにより彼は生涯お金には困らないことになりました。
 1939年8月24日は、ソ連とドイツが不可侵条約を締結。直後に両国がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始りました。貧しき人々のためにロシア革命を起こしたにもかかわらず、他国への侵略戦争を始めたことで、ソ連への支持が急落。世界中の多くの共産主義者が党からの脱党を決意しました。

<原子爆弾開発開始>
 1939年9月1日、レオ・シラードは、アルバート・アインシュタインを説得して、フランクリン・ルーズベルト大統領への手紙に署名させました。
「事実ドイツは、占領したチェコスロバキアの鉱山から採れるウランの販売をストップしたと、了解しております」と説明し、ドイツに先行して原子爆弾を開発する必要性を主張しました。世界の偉人アインシュタインによる説得が効き、大統領は物理学者ライマン・ブリッグスを委員長とする急ごしらえの「ウラン委員会」を立ち上げ、1941年6月には軍事目的の科学を統括するための組織として科学研究開発局OSRDを創設。マサチューセッツ工科大学の工学部教授バネバー・ブッシュがそのトップに就任しました。
 1942年9月原子爆弾開発のために設立する研究所の管理責任者として、オッペンハイマーの名前が上がります。しかし、軍は彼の身辺調査を行い、共産党と関わる知人がいることから、彼の採用に反対しました。しかし、当時は共産党と何のかかわりもない科学者は少なく、それ以上に彼の人望、調整能力、管理能力、研究全体に関する理解度を総合すると最適なのは明らかでした。
 しかし、この頃、後に彼が巻き込まれることになる重要な事件が起きていました。

<シュバリエ事件>
 オッピーの友人の一人だったハーコン・シュバリエ夫妻が引っ越しを前に彼の家で会食することになりました。その会食の最中に、ハーコンは彼に共通の知人ジョージ・エルテントンからの提案を伝えます。それは、彼が知っている原子爆弾に関する情報をエルテントンの知人のソ連大使館員に渡してほしいということでした。アメリカと共にドイツと戦っているソ連は、同盟国でもあるのだから、情報を独り占めするのは間違いだ、という論理での協力依頼でした。
 しかし、その言葉を聞いたオッピーは、「それは反逆罪だぞ!」と怒り、拒否。しかし、このことを彼は上層部に報告しませんでした。それは友人でもあるシュバリエをスパイとして告発することになってしまうからでした。
 まさかこのことが後に彼を危機に陥れることになるとは、彼は思ってもいなかったでしょう。

<研究施設の建設開始>
 最終的に研究施設の責任者にはオッペンハイマーが就任しました。すぐに彼を中心に研究施設の建設場所の選定が始まります。当初は、どこかの都市で既存の建物を利用する案も出ましたが、外部への情報の漏洩を防ぐためにまわりに何もない場所が選ばれます。そして、ロスアラモスの荒野に立っていたカウボーイの養成学校が選ばれることになり、その建物を中心に新しい町が作られることになりました。さらに研究所は、4つも大きな分野に分けて運営されることも決まりました。
「実験物理学」、「理論物理学」、「化学・冶金学」、「兵器製造部門」の4つの部門が作られました。
 所長となったオッペンハイマーの右腕となったのはロバート・ウィルソンでした。理論物理学部門のトップはハンス・ベーテ。兵器部門のトップでもある軍の代表がレスリー・グローブス将軍と決まりました。
 1943年3月にいよいよ研究所が開設され、100人の科学者、エンジニア、スタッフが働き始めました。それが半年後には1000人となり、1年後には3500人に増えていました。研究のピークとなった1945年には、民間人4000人、軍人2000人が住む町になっていて、300棟のアパート、52の寄宿舎、200台のトレーラーハウスとプルトニウム浄水場、鋳造工場、図書館などが立ち並ぶことになりました。
 全員が軍人としても扱われることになるため、要請を拒否する学者もいました。その中の一人、イシドール・ラビは、スカウトしてくれたオッペンハイマーにこう言いました。
「三世紀にわたる物理学の最高到達点を、大量殺戮兵器で飾りたくなかったのだ」
 それでもオッペンハイマーの研究に賭ける思いは強く、その調整能力は高い評価を受ける様になります。彼の個人秘書的な役割を果たしたデヴィッド・ホーキンスは、こう評しています。
「まず根気よく、議論に耳を傾ける。そして最後にオッペンハイマーは要点をまとめる。このようにするので、意見の相違というものがなかった。それはマジックのように見えたので、誰からも尊敬を獲得した。なかには科学的業績では、彼より上の人も何人かいた」

<ウェルナー・ハイゼンベルク誘拐作戦>
 研究所とは関係ないものの、当時はドイツも原子爆弾の研究に迫っているという情報があり、その阻止のための計画も存在しました。
 1942年10月、ベルリンの核研究所で働くドイツ最高の頭脳の一人ウェルナー・ハイゼンベルクがスイスに旅行する情報を得ていたアメリカのOSSは、彼を誘拐もしくは暗殺する計画を立てました。実際に彼をOSSのエージェントが尾行していて、誘拐を実行する直前までいったようですが、結局実行されることはありませんでした。

<情報管理の徹底>
 研究内容はもちろん極秘なため、研究者たちは様々な規制を受けることになりました。そのため、そうした経験のない学者たちは当初様々なトラブルに見舞われました。
 オッペンハイマーによって副所長に任命されたエドワード・コンドンは、研究のスピードを上げるため、他の部門との交流を繰り返したたことで軍によって問題視され、6週間で辞任することになりました。ただし、それでは研究がそれぞれバラバラになり効率が上がらないため、定期的に全員参加の会議が行われることになりました。
 こうして軍と研究者の間では、常に研究の進め方についての対立が絶えませんでした。この時期、研究者たちの手紙はすべてチェックされ、電話も盗聴だけでなく、人によっては部屋に盗聴器が仕掛けられていたことが後に明らかになります。オッペンハイマーも例外ではありません。この監視体制は、戦後、さらなるスケールで展開され「赤狩り」という恐怖の体制を生み出す原点だったとも言えます。そして、そうした監視体制により、疑わしいとされた研究者の中には、そこを排除されることにもなりました。
 オッペンハイマーの弟子の一人だったロッシ・ロマリッツは放射線研究所のグループ・リーダーに昇進する予定でしたが、突然、徴兵されて研究所を離れることになりました。それは彼が左派の運動に関わっていると軍が情報を得たからでした。

<オッピーの結婚>
 1939年8月、彼は人妻だったキティ・ハリソンと出会います。彼女は最初の夫をスペイン戦争で失っていて、帰国後、植物学の博士号を取り、医師のスチュワート・ハリソンと再婚していました。そんな情熱的で優秀な女性とある日出会ったオッピーはすぐに彼女に恋をしてしまいます。キティも彼と愛し合うようになったため、彼が直接が夫のハリソンに奥さんと別れてほしいと継げたと言います。こうして1940年11月1日に二人は結婚。なんとも強烈な略奪婚でした。
 キティは最初の夫と共にスペイン戦争に向かうほど、かつては共産党のシンパでした。しかし、夫の結婚以降は、彼の仕事のために左派の活動からは距離を置き、良き妻として、所長としての妻として夫を支える道を選択しました。
 ただし、そうした役割だけでなく常に監視されていると感じた彼女は、そのストレスの影響からアルコール依存症になって行きます。子育てにも、自分は向かないと考えていて、子供たちはそのおかげで不幸な幼少期を送ることになりました。

<戦後世界への提言>
 1943年12月、「量子力学の導師」ニールス・ボーアがナチス・ドイツに占領されていたベルギーからの脱出に成功し、ロスアラモスを訪れました。この時、彼はまだ誰も論じていなかった「核武装した世界」の未来についての考え方を提示します。ここから多くの研究者たちが、原子爆弾が生み出す危機の問題について考え始めることになります。
 ボーアはベルギーから脱出する前に、コペンハーゲンでドイツで原爆の開発の中心となっていたハイゼンベルグと密かに合い、情報交換をしていたと言われます。この時にボーアはドイツには原爆を開発できないことを知ったとも言われています。

・・・戦後世界において各国は、潜在的な敵国が核兵器を持っていることを確信する必要がある。これは、国際的な査察官がどんな軍事施設、産業コンビナートでも完全な立ち入りを認められ、新しい科学的発見に関する情報に完全なアクセスが認められる「開かれた世界」でのみ可能である。
 国際管理のこのように広範な新体制を戦後開始するためには、爆弾が現実となる前、戦争が終結する前に、戦後原子力計画の策定作業に今すぐソ連を招聘するしか方法はない。

 これがボーアの最終的結論でした。
 1944年頃、ボーアはオッペンハイマーとこの問題について本格的に話し合います。そして、この考えはオッペンハイマーを通して、ルーズベルト大統領に提案され、その支持を得たと言われています。

「ボーアは、相補性理論を物理学の範囲に限定することには満足しなかった。彼は、それを至る所に見出した。本能と理性、自由意志、愛と正義、などなど」
ジェレミー・バーンスタイン(科学史家)

 ボーアの提案は、アメリカが開発した原子爆弾に関する情報を独占せず、ソ連も含めた世界の国に「開かれた世界」を目指して公開することでした。そうすれば原子爆弾に関する情報は、兵器として利用することから守ることが可能になると考えたのでした。
 残念ながら、この提案は軍などの反対によって却下されます。1943年にはドイツが原爆を開発することは不可能という情報がもたらされますが、それはもう原爆開発の研究にはどうでもよいことになっていました。

<悩み出した研究者たち>
 ポーランド人研究者ジョセフ・ロートブラットは、ドイツの敗戦が濃厚となったことで原爆の研究は意味がないとロスアラモスを去り、その後は核軍縮運動の中心となり、1995年にはノーベル平和賞を受賞することになります。
 1944年、ソ連はロスアラモスから大量の情報を得ます。その出どころは、英国籍のドイツ人クラウス・ファックスとハーバード大の19歳のテッド・ホールという二人の物理学者でした。ホールの考えは「アメリカによる核の独占は危険であり、防ぐ必要がある。そのために情報を漏洩した」というものでした。
 自らスパイにならないにしても、多くの研究者たちが、自分たちの研究に疑問を持ち始めました。
「この武器を生きている人間に使うことは国家にとって正しいことか」
 こうした悩みに対し、ルーズベルト大統領は、国連を設立し、核の世界的な管理体制を築くと説得したとも言われます。オッペンハイマーも悩みだした同僚たちに、戦後は原爆の使用を管理する超国家的組織が設立されるはずだと説明していました。
 1945年6月16日、「核兵器の即時使用」に関する科学者パネル会議の勧告書を軍に提出。
「ワシントンは原爆を使用する前にロシア、英国、フランス、中国に核兵器の存在を知らせ、その扱いについて話し合いを行うべき。実際に使用する前にデモンストレーションを行いその使用を世界的に非合法化するべき」
 実際に原爆を使用する前に、そのデモンストレーションを公開で行い、それにより使用を世界的に非合法化するべきという意見も出されましたが、実際に使用することでその破壊力を知らしめる必要があるという意見が大勢を占めました。
 この時点で、原爆の使用が日本において行われることが決まったとも言えます。病により急死したルーズベルト大統領に代わった大統領トルーマンは、スターリンとの協議により、ソ連が8月15日に日本への攻撃に参戦するという確約を得ていました。もし、それまでに日本が敗戦を認めていなければ、日本の占領はアメリカとソ連によって行われることになる。そう考えたアメリカ政府は、早期決着を望み、いよいよ原爆の使用が急がれることになったのでした。
 1945年7月16日早朝、その後の世界を変えることになる原子爆弾の実験が行われました。その瞬間の感想をオッペンハイマーは、1965年NBCテレビのインタビューでこう語っています。
「世界は今までと同じ世界ではなくなったことを、われわれは知った。何人かは笑い、何人かは涙を流した。ほとんどの人が黙っていた。わたしは、ヒンズー教の聖書(バガバット・ギータ)の一節を思い出した。ビシュヌは義務を果たさなければならないことを王子に説得し、彼に感銘を与えようとして複数の腕を持つ姿に変わる。そして言う、『われ世界の破壊者たる死とならん』。だれもが、何らかの形でこれと同じことを考えたと、わたしは思う」

 ついに悪魔の兵器、原子爆弾が完成しました。

「オッペンハイマー 原爆の父と呼ばれた男の栄光と悲劇」 2005年
Oppenheimer : American Prometheus The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer
(著)カイ・バード Kai Bird、マーティン・シャーウィン Martin J. Sherwin
(訳)河辺俊彦
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