原子爆弾を生み出した男の悲劇の後半生

<後編>

- ロバート・オッペンハイマー Robert Oppenheimer -

<広島・長崎への投下>
 1945年7月24日、ポツダムで行われた連合軍の首脳会談でトルーマンはソ連のトップ、スターリンに圧力をかけようと原爆の完成を匂わせます。

「今までにない破壊力を備えた新しい武器を持っていると、わたしはスターリンにさりげなく伝えた。ロシアの首相は、特な関心を示さなかった。彼が言ったのは、それは結構、日本に対してうまく使ってほしいということだけだった」

 1945年8月6日、B29爆撃機エノラ・ゲイは広島で新型の原子爆弾を投下します。そして、9日には長崎市にも投下され、15日には終戦を迎えます。

 投下から1か月後、ロス・アラモスから科学視察団第一陣としてボブ・サーバーとフィル・モリソンが広島・長崎を訪れました。

「われわれは最終的に広島上空を低く旋回し、信じられない思いで街を見つめた。そこにあるのは赤く焼けただれた、元市街の真っ平らな土地だけであった。しかしこれは、何百機もの爆撃機が夜間に長時間かけて攻撃した跡ではない。一機の爆撃機と一個の爆弾が、ライフル弾が市を横断するくらいの時間に、人口30万人の都市を燃えさかる火葬場に変えてしまったのだ。・・・」

 原爆の破壊力に衝撃を受け、戦後の状況に危機感をもったオッペンハイマーは、民間の科学者を代表し政府高官に働きかけを行い始めます。
 1945年8月30日、約500人の科学者が集まり、新組織「ロスアラモス科学者会議ALAS」が設立されました。(オッペンハイマーの他、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、ロナート・クリスティらが参加)
 彼らは軍備拡大競争の危険性と将来の戦争における原爆に対する防御不可能性と国際的管理の必要性についての声明書を政府に提出しました。しかし、この文章は国防省によって機密扱いにされます。
 その後、トルーマン大統領によって発表された「メイ・ジョンソン法案」では大統領が指名する9人からなる委員会に原子力に関する権限が集約され、軍の将校の陪席が認められることになりました。当然ながら、出席する科学者には機密保持が求められることになります。(実質的には軍の管理下ということです)
 多くの科学者は、この法案に反対でしたが、オッペンハイマーは9人の委員と軍の参加者さえ正しく選べばよいと考え、自らがそのまとめ役になろうと考えました。
 しかし、ALASの他のメンバーは発表を許されなかった声明をニューヨーク・タイムズの一面にあえて発表します。こうした科学者たちの行動により、「メイ・ジョンソン法案」は廃案となり、民間から任命された原子力委員会AEC中心の核エネルギー政策の管理を基本とすることになりました。
 この間、オッペンハイマーはロスアラモスの職を辞し、その退任と表彰式の演説でこう述べました。

「今日のところ、その誇りは深い懸念によって加減しなければなりません。原子爆弾が交戦中の国々の、あるいは戦争に備えている国の新しい兵器として加えられることになれば、ロスアラモスと広島の名前を人類が呪う日が必ずやってきます。・・・」

 オッペンハイマーはその後、初めてトルーマン大統領と対面。彼は大統領にソ連が必ず原爆の開発に成功し、世界は原爆戦争の危機に追い込まれると説明。「わたしは手が血で汚れているように感じています」と迫り、大統領を怒らせました。
 それに対し、大統領は「血で汚れているのはわたしの手だ。君は心配しなくてよろしい」さらには「気にするな、洗えば落ちる」そしてハンカチを取り出して「さあ、これで拭きなさい」とまで言ったとか・・・。後に大統領は彼のことを「泣き虫科学者め」と言い放ったようです。こうした彼の行動や発言から、アメリカ政府による彼への疑いが生じ始めます。実際、彼に対するソ連側からの接触の試みも始まったいたようです。

「原子爆弾の使用以来、オッペンハイマーが原爆プロジェクトにかかわる前から彼を知っていた個々の共産党員は、古い付き合いを再開したいという関心を示し始めた」
エドガー・フーバー(FBI長官)
 FBIは、ワシントンでの彼の影響力の強まりを恐れ調査を始めていましたし、実際彼に接触を試みるソ連側の関係者もいたようです。

 彼は、原子力の全局面を独占して、その利益を個々の国に恩恵として割り当てる国際機関を提案しました。その国際機関は核に関するテクノロジーを管理すると同時に、これを厳格に民生用として開発することを指導・監視。長い目で見ると「世界政府なしで永久の平和はあり得ない。平和がなければ原子力戦が起きるだろう」と、オッペンハイマーは信じていました。もちろん世界政府が今すぐ見込まれるものでないは明らかでしたから、原子力の分野においてはすべての国が「部分的主権の放棄」に同意すべきである、というのがオッペンハイマーの主張となりました。
 1946年3月、こうして彼は世界的な組織としての「原子力開発局」の創設をホワイトハウスに提案します。その「アチソン・リリエンソール報告書」は、政府によって大幅修正され国連に提案されましたが、ソ連が拒否権を行使し否決されました。

<プリンストンにて>
 1946年秋、ハンス・ベーテとの共同論文「電子散乱に関する研究」がノーベル物理学賞の候補となりましたが受賞はなりませんでした。この時の選考ではノーベル賞の委員会に、広島・長崎の悲劇が影響を与えたとも言われています。
 1947年7月、オッペンハイマーはアメリカ最高の研究所プリンストンで所長としての仕事を始めます。そこは、プリンストン大学とは独立した私設で82万5千ドルの予算で運営されています。数学と歴史学を中心とした180人の研究者がそれぞれの研究を自由にできる場所でしたが、オッペンハイマーの所長就任後は、研究分野と研究者の国籍は一気に広がることになりました。
 彼が呼び寄せた世界中の科学者の顔ぶれは実に多彩で豪華です。フリーマン・ダイソン、ニールス・ボーア、ポール・ディラック、ウォルフガング・パウリ、湯川秀樹、朝永振一郎、チャン・ユン・ヤン、アルバート・アインシュタインなど。
 コンピューターの生みの親となったジョン・フォン・ノイマンを招聘したのもオッペンハイマーでした。彼は研究所の地下で世界最速のコンピューターを完成させました。
 この研究所のメンバーだった物理学者エイブラハム・バイスは、当時の驚きと感動をこう語っています。
「ボーアがわたしの部屋に入ってきて話をする。窓の外を見ると、アインシュタインがアシスタントと一緒に歩いて家に帰るところである。二つ向こうの部屋には、ディラックが座っている。階下にはオッペンハイマーがいる」
 物理学の研究者にとって、そこは天国のような場所だったかもしれません。
 その他にも、彼は考古学者ホーマー・トンプソン、詩人T・S・エリオット、外交官で歴史研究者ジョージ・ケナンなども呼び寄せ「人文学と科学の融合」を彼は目指しました。ただし、彼のその斬新な考え方は多くの科学者には理解されず、あまり良い結果は生まれませんでした。彼のように総合的に世界を見て、そこから新たな研究を生み出せる科学者は、当時ですらそう多くはなかったのです。(今ならそうした科学者はもう皆無でしょう)

<赤狩りの始り>
 1950年代を前にあのアメリカの歴史上悪名高い「赤狩り」が始まろうとしていました。その布石になったとも言えるのが、オッペンハイマーに対する追求でした。
 1949年6月7日、オッペンハイマーは、本格的な活動を開始した下院非米活動委員会HUACで喚問を受けることになりました。そこで彼は教え子の一人バーナード・ピータースが共産党員だったことや友人のハーコン・シュバリエ、ロッシ・ロマニッツらについて証言。この証言が多くの同僚に危機をもたらすことになりました。その後、彼は自分が話し過ぎたことを後悔しますが取返しがつきませんでした。
 例えば、バーナード・ピータースはそのおかげで職を失い、ヨーロッパでニールス・ボーア研究所で働くことになりました。
 ロマニッツに関しては、大学を懐古されただけでなく再就職もできず、日雇い労働者となり、その後無実が証明されてからも復帰することはできませんでした。同じように職を失ったデヴィッド・ボームは、オッペンハイマーがこと時のことをどう語ってかについて述べています。

「そのとき神経が参っていたと、オッピーは私に言った。とても自分の手に負えなかったと言う。わたしは彼の正確な言葉は覚えていないが、そのような意味のことを言った。ものごとが重荷になると、ときどき不合理な行動に出る傾向があった。なぜそうしたのか、理解できないと彼は言った」

 彼の弟のフランク・オッペンハイマーは自身が共産党員だったことを認めたため職を失い、所有するコロラドの牧場暮らしを続けることになりました。彼は海外の大学で職が得られることになったにも関わらず、国務省が出国を認めてくれませんでした。
 1950年代に入ると、「赤狩り」の波は映画界へ、そして一般社会にまで広がることになります。

<妻キティの苦悩>
 プリンストン研究所の狭い世界は研究者の妻にとって、特に所長の妻には幸福な場所ではなかったようです。
「あなたが独身だったら、あなたは気が変になるだろう。既婚者だったら、奥さんがおかしくなるだろう」
プリンストンの研究者
 オッペンハイマーの妻キティは、キッチン・ドランカーであり、精神的に不安定なことは誰もが知っており、夫はそんな彼女を支える存在でもありました。
「彼はどんな人間よりも彼女に忠実だった。彼は何よりも彼女を保護したかった。彼は、彼女に対するどんな批判にも憤慨した」
ロバート・ストランスキー(ジャーナリスト)

 そして、彼自身もまたキティを精神的支えにしていましたが、彼の家庭は子供たちを含め一般的な幸福とはほど遠かったようです。(子供たちは、後に家族のもとを離れて行きます)

<スーパー核爆弾(水爆)の開発>
 原子爆弾の開発の直後から軍はさらに強力な核兵器の開発を始めようとします。それが水爆(当時は「スーパー」と略称)の開発でした。しかし、原爆よりもはるかに強力な兵器を生み出すことは今後の世界にとって危険を増すだけだとオッペンハイマーは考えました。そこで彼は国務省のジョージ・ケナンと共同で「覚書き- 原子力の国際管理」を書き上げます。
 その中に書かれているのは、「スーパー」の開発は危機をより深めるので核兵器の目玉にしてはいけないと主張。西ヨーロッパで従来の軍備を拡張し、抑止力にするべきであり、そのことをソ連にも伝えることで、お互いが核兵器の開発競争に歯止めをかけることができる。そう進言していました。
 ところが、国務長官のディーン・アチソンはその覚書を無視しただけでなくジョージ・ケナンを呼び出したこう言いました。
「ジョージ、この件で君が自説を主張するなら、外務省を辞めてもらう。僧服を着て缶を手に街角に立ち、「世界の終わりは来た」と説法でもするがいい!」
 アメリカは結局、ソ連と核兵器に関する交渉を一切せずに終わります。
 この後もオッペンハイマーは、自身の名声と著名な科学者としての立場を利用して、ワシントンで大きくなった国家安全保障関連体制に内部から影響を与え続けましたが、それに対する批判も高まってゆくことになりました。
 ちなみにアメリカ空軍は、より強く水爆の製造を望みました。なぜなら、水爆のような強力な兵器があれば、陸軍が不要になるとも思われたからです。核兵器の開発競争は、アメリカ国内では陸軍と空軍を対立させることにもなっていたようです。

<オッペンハイマーへの追求>
 1950年代マッカーシーによる赤狩りが本格化する中、オッペンハイマーへの調査が開始されます。アイゼンハワー大統領は、それまでの彼の功績や人柄から彼がソ連のシンパとは思っていなかったのですが、もし調査をやめさせればマッカーシーが何を言い出すかわからないと判断。彼は司法長官に公式のメモを送り、オッペンハイマーと秘密情報との間に「隔壁」を設けるよう指示を出しました。
 さらに彼は原子力関連の委員会顧問などの職を辞任するよう要求し始めます。
 そうした政府の対応が明らかになった頃、ドイツから亡命したアインシュタインは、オッペンハイマーに政府に背を向けてアメリカを捨てるよう進言しました。しかし、彼はあくまでも自分の正当性を主張し「赤狩り」と戦う道を選択します。こうしてロバート・オッペンハイマーに対する聴聞会が開かれることになりました。
「オッペンハイマーの困った点は、彼を愛していない女を愛していることさ。女というのはアメリカ合衆国のことだがね」
アルバート・アインシュタイン
 聴聞会では、FBIによる違法な盗聴資料が提出され、審査する顔ぶれも国が選んだ一方的なメンバー、中にはFBIが潜入させたスパイまでいました。そのうえ、彼を助ける弁護士はこうした案件についての経験がなく、常に後手に回り続けました。
 3週間に及び、彼への質問が浴びせられ続け、しだいに彼は冷静さを失うことになります。
「非常に多くのことが起こっており、また起ころうとしていたので、次の動き以外は何も気にする時間がないほどだった。まるで戦闘のようだった。いや、これは戦闘そのものだった。わたしは、自意識はほとんどなかった」
 その間、彼の仕事の同僚たちなど多くの関係者が証言することになりましたが、彼を救うことはできませんでした。

 1954年5月23日、「グレイ委員会の評決」が発表されました。結論としては、2対1でオッペンハイマーの保安許可を更新しないよう提言をまとめました。彼を機密事項に関わる研究から排除するということです。
賛成は委員長ゴードン・グレイとトーマス・モーガンで反対したのはウォード・エバンズ。
考慮する点は4つ。
(1)オッペンハイマー博士の継続的な行いおよび交友関係は、保安制度の要求するところに対する大きな無視を反映していた。
(2)我々は、国の保安上の利益に大きく影響する可能性を発見した。
(3)我々は、水爆プログラムにおける彼の行いは、将来におよぶ彼の参加が、国防に関するある政府プログラムで同様な態度を示した場合、果たして最善の保安と両立するか否かという疑惑を高める程度に、十分妨害的であると考える。
(4)我々は残念ながら、オッペンハイマー博士は当委員会における証言にあたって、何度か率直でなかったケースがあったと結論した。
 「グレイ委員会」のこの報告を参考に5人からなるAEC委員会は、オッペンハイマーの忠誠心は認めつつも、危険人物と認め、彼の保安許可取り消しが決まりました。
 しかし、ルイス・ストローズを中心とした委員会の決定は、アメリカでの彼の活躍の場を奪うことになりましたが、国外はもちろん国内でも彼に対する評価は高まることになります。
 かつて「原爆の父」と呼ばれた男は、今度は「ガリレオのように迫害された科学者」として評価されることになりました。
 それでもストローズは自分が理事長を務めるプリンストン研究所からも彼を追放しようとします。ところが、研究者たちは彼を擁護する公開状に全員が署名。彼を所長として留任させる決定を下しました。
「1954年の保安審査の後、彼は公人として存在することをやめた。彼は世界で最も有名な男の一人であった。称賛され、引き合いに出され、写真を撮られ、相談され、称えられ、新しい英雄の素晴らしく魅力的な典型、科学と知性の英雄、発信者、新しい原子力時代の生きたシンボルとしてほとんど神格化された。それが突然、すべての栄光は過ぎ去り、そして彼も去って行った」
ロバート・カフラン雑誌「LIFE」より

 彼の排除は、科学の存在価値に対し大きな影響を与えたと言えます。

 オッペンハイマーの聖職剥奪によって科学者たちは、将来彼らが狭い科学的な問題の専門家としてしか、国のために奉仕できなくなることを理解した。社会学者ダニエル・ベルが後年述べているように、オッペンハイマーの試練は、戦後における「科学者の救世主的な役割」が終焉したことを示した。

 それでもなお、オッペンハイマーは国家に忠実な科学者であり続けることにこだわります。そのため、バートランド・ラッセルから多くの反体制派の科学者が集合したパグウォッシュ会議への出席依頼も断りました。そして、勝ち目のある核戦争のための科学的な軍事戦略家および当局のための弁解者としての、以前の役割に戻る道を選択します。

<隠遁生活へ>
 彼はその後、マスコミからの取材や周囲への対応に疲れ、カリブ海に浮かぶ小さな島、セントジョン島に土地を購入し、そこでプライベートの大部分を過ごすようになります。
 1963年、彼はケネディ政権のもとエンリコ・フェルミ賞を受賞することになりましたが、授与者となるはずのケネディ大統領が暗殺されてしまいます。彼にとっては、この事件も悪夢でした。
 この後、彼は愛するキティと家族と共に静かな暮らしを続けますが、長年愛好していたタバコのせいもあり、喉頭がんに侵されます。放射線による治療を受けますが効果は少なく、1967年2月18日、彼は病との壮絶な闘いの後、眠ったまま静かに息を引き取ったそうです。

「彼の死は哀れでした。彼は最初子供に還り、そして幼児に還りました。彼は騒ぎました。わたしは、部屋に入ることができませんでした。部屋に入らなければならなかったでしょう。しかし、わたしはできませんでした。・・・」
キティ

 彼の葬儀で彼に対する政府の仕打ちが許せなかったフルブライト上院議員はこう述べました。

「彼の特別な才能がわれわれのために何をしてくれたかではなく、われわれが彼に何をしたのかを、忘れないようにしよう」

 オッペンハイマーの妻キティも夫の死後、長くは生きられず、1972年10月27日にこの世を去りました。彼女の遺骨はかつてオッペンハイマーの遺骨が壺ごと沈められたセントジョン島沖の海に撒かれました。

<その後の核兵器開発>
 彼の死後も核兵器は増え続けます。次の10年以内に、米国の備蓄核兵器は、約300の核弾頭から1万8000近い核兵器にまで飛躍することになった。次の50年間に米国は7万個以上の核兵器を生産し、核兵器プログラムに投入される予算は5兆5000億ドルという驚異的な数字になります。
 今から振り返ると、いや当時でさえすでに分かっていたことでしたが、水爆政策の決定は冷戦の軍拡競争における、一つのターニングポイントだったと言えます。

<参考>
「オッペンハイマー : 原爆の父と呼ばれた男の栄光と悲劇」
 2005年
Oppenheimer : American Prometheus The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer
(著)カイ・バード Kai Bird、マーティン・シャ―ウィン Martin J. Sherwin
(訳)河辺俊彦
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