21世紀版不条理終末SFのニュータイプ

「俺俺」
「水族 すいぞく」

- 星野智幸 Tomoyuki Hoshino -
<書評文化はどこへ?>
 2012年3月まで放送されていたNHKBSの「週刊ブック・レビュー」(メインの司会は児玉清)が好きでした。あの番組のおかげで様々な新しい本と出会うことができました。残念ながら最近の情報番組はベストセラー本を紹介するものばかりですが、あの番組は同業者や異なるジャンルのアーティストたちが独自の目線で好みの本を紹介してくれていました。
 正直言って、ベストセラーになった本をあまり僕は読んでいません。数えきれない本の中から出会う数少ない本を紹介するので、誰もが知っているベストセラーは扱う必要ないと思っています。それ以前に、僕的にはベストセラー作品にめったに驚かされることはないので、つまらないのです。その意味では、「週刊ブック・レビュー」は僕に驚かせる作品を数多く紹介してくれました。
 その中の一冊が、星野智幸の「俺俺」でした。今回、彼の「水族 すいぞく」も読んだので、遅まきながらご紹介させていただきます。どちらも読者に驚きをもたらす素晴らしい作品です。

<センス・オブ・ワンダー>
 一時、SFばかり読んでいたことがありました。それは、普通の文学作品よりも、SFはより驚きを与えてくれる「センス・オブ・ワンダー」に満ちていたからです。当時の僕は「優れた文章」よりも「優れたアイデア」の方が価値が高いと思っていたからです。(まあ、今でもそうですが・・・)その点、1950~1960年代黄金期のSFには数多くの名作があり、読み応えのある作品の宝庫でした。ただし、その後、「ニューウェーブ」の時代以後、SFは様々な方向へと拡散することで文学の一部となり、ジャンルとしての価値は意味をあまりなさなくなりました。
 「ロック・ミュージック」が1960年代に「革新的音楽」としての役割を終えたように、「SF」も「革新的文学」としての役割を同時期に終えたのかもしれません。しかし、そうした「革新的文学」としてのSF魂は、数多くの文学作品の中に生き続けていると思います。村上春樹、村上龍はその代表的存在ですが、星野智幸のこの二作品にもそんなSF魂が息づいていると思います。

<異色の終末SF>
 「俺俺」と「水族」は、どちらも読み終えてみると僕が好きな「終末SF」(世界の終わりを舞台にした未来小説)の一種でした。(無理やり分類することに意味はないかもしれませんが、・・・)
 「水族」は地球が海面上昇によって海中に消えつつある世界を舞台にしていて、「俺俺」は人類の内面的同質化がきっかけで社会構造が失われてゆくという異色の世界を舞台とした作品です。
 過去の一般的なジャンルSF作品なら、そうした特殊な世界状況こそが作品の成否を分ける重要なアイデアであり、その世界についての科学的歴史的説明こそが作品の中心でした。主人公の役割は、そんな不気味な世界に放り込まれ、そこをさまようことでその世界を紹介することでした。しかし、この2作品はそうではありません。どちらの作品も、その特殊な世界はあえて説明されず、そこで変化を余儀なくされる主人公の「心の変化」こそが小説のテーマだといえます。その世界は、主人公が状況を把握することで読者にも同時に明かされることになります。
 その意味では、「内宇宙」をテーマとした「ニューウェーブSF」のようでもあり、不条理でシュールなファンタジー小説として読むこともできます。
「いったい俺は何なんだ?いったい世界はどうなってしまったんだ?」
 主人公は受け入れがたい自分の周囲の変化にとまどい、驚き、悲しみ、正気を失いそうになります。しかし、ギリギリのところで踏みとどまった後、彼は自らの状況を正確に把握、認識し、新たな世界に対応する生き方へと歩み出します。

<あらすじ>
「水族 すいぞく」

 主人公は水槽に囲まれたガラスの館で夜間の見回りをするという仕事をすることになります。こうして、魚たちに見られながら暮らす、主人公の不思議な生活が始まることになりました。しかし、夜中の水族館で、彼は不思議な現象を体験することになり、自分の置かれている状況に疑問を感じ始めます。彼の仕事は水中で人類が生活できるかを調査するためのもののはずでしたが、本当にそうなのだろうか?しだいに彼は、その暮らしのストレスに精神的に耐えられなくなってきます。本当に自分は人類のために貢献する仕事をしているのだろうか?
 しだいに彼はその仕事の目的に疑問をもち始めます。そして、ついに彼の世話役を務めていた浜麦さんから衝撃的な事実を聞かされることになります。

 ぼくは軽やかだった。水によく溶けていた。水がぼくそのものだった。ツバメが水中を切り裂いた。猛スピードでぼくの体を突き抜けた。ツバメのあとの水流に乗って、コバンザメがすり抜けていった。ぼくはくすぐったくて、声を上げて笑った。ぼくの口から泡は立たない。笑い声は水を伝い、アシカとマナティとペンギンがやってきた。形のないぼくはそいつらすべてにからみつく。・・・

「俺俺」
 ある日「俺」は、ふとしたことから他人の携帯を盗んでしまいます。すると、その携帯に所有者の母親から電話がかかってきます。つい「俺」は母親の息子(形態の所有)を装ってしまい、信用されているのを利用して、90万円を騙し取ってしまいます。ところが騙したはずの「母親」が突然、彼の部屋にやって来ます。そして他人のはずの「母親」は、彼を自分の息子として振る舞い始めます。なぜ、彼が偽物であることに気づかないのか?疑問に感じた彼は、「母親」の後をつけて行きます。すると、彼女の帰った先の家には、もうひとりの「俺」が・・・!それは俺とは違う人間のはずにも関わらず、なぜか俺そのものに思えたのです。
 こうして、「俺」の増殖が始まることになり、彼は二人の「俺」と三人のグル―プを結成。わかりあえる仲間との幸福な日々が始まります。

 俺は苦しかった。これも自分の一面なのだと思うと、確かに目を背けたくもあった。惨めだった。けれども、とてつもないカタルシスを味わっていたことも事実だ。なにしろ俺は今、人の役に立っているのだ。俺は熱烈に必要とされているのだ。ここまで完璧に人を理解し、求められている力を過不足なく与えられるなんて、初めての体験だった。この瞬間、俺と均は有意義な存在だった。・・・

 ところがそんな「俺たち」の幸福な時期は長くは続きませんでした。理解し合えたはずの「俺たち」の間にも疑心暗鬼が生まれ始めたのです。それぞれの心の闇の部分に気づいたことで、「俺たち」の間には妬みや恨みや蔑みが生じ始め、それが憎しみへと発展。それと時を同じくして、「俺」はどんどん周囲で増殖し始めます。
 気がつくと「俺」の周囲には「俺」しかいなくなり、そんな状況に耐えきれなくなった「俺」同士による「俺殺し」が始まります。

 明らかに俺の増えるスピードは増している。それとも俺の目が慣れてきて、微妙な俺もキャッチできるようになったのか?いったん見分けられるようになると、視力がよくなると謳われて一時流行った3Dマジックアイの絵本みたいに、それまで見えなかった別の立体的な光景がわかるようになるということなのか?

 一気に社会秩序は失われ、世界は破滅への道を歩み出します。彼もついに「俺」を殺してしまい、「俺たち」から逃れようと東京を離れる決意を固めます。しかし、俺=人類に未来はあるのだろうか?・・・

<ゾンビものの進化形>
 「俺俺」は終末SFであると同時に「ゾンビもの」の進化形でもあります。人類が「ゾンビ」という「無個性の歩く死体」になって行くのが「ゾンビもの」の基本とすると、生きる目的を失い同質の仲間としか心を通わせない「俺」は「生けるゾンビ」そのものといえます。
 「ゾンビもの」映画の元祖となった伝説的作品「ゾンビ」(1978年)で、監督のジョージ・A・ロメロは、「ゾンビ」に追われた人々が逃げ込む場所として「無個性」な商品が大量に並ぶ「ショッピングモール」を選びました。それはゾンビ化する以前、すでに人類は「大衆」という名の「生きるゾンビ」と化しつつあったことを象徴する見事なアイデアだったといえます。
 そして、この小説「俺俺」は、「俺」という「生きる屍」が「ゾンビ」のように増殖してゆく物語なわけです。
 当然、楽しいお話しではないのですが、読み進むうちに読者自身もまた「俺化」されていることに気づくといよいよ暗い気分になるでしょう。ただし、かろうじて、この小説には終末の危機の後に救いの光も描かれています。

 そして気がつけば、俺らは消えていた。誰もが俺ではなく、ただの自分になっていた。俺と他の人とは、違う人間だった。
 そのことに気づいたとき、俺はそこはかとなく寂しかった。もう、誰かを自分のことのようにわかるということはないんだなあ、と感傷的になった。いや、と俺は考え直す。相手を自分のことのようにわかろうとし続けていれば、たまにはわかるのだ。その程度でいいのだ。すべて同じ自分であるがゆえに、自分が消えてしまうことのほうが、ずっと恐ろしかったはずじゃないか。
・・・

 この小説はフランツ・カフカの「変身」の21世紀版ともいえます。「変身」が大衆のもつ変身願望もしくは社会からの逃避願望の表現だったなら、「俺俺」は大衆の同一化願望を描いているともいえます。それは「変身」することで社会から消えるのではなく、すべての人と「同一化」することで、社会から消え去ろうというもう一つの逃避作戦のひとつなのです。(葉を隠すなら森に隠せってやつですね)
 20世紀にアンディ・ウォーホルが「コピー」をその最重要テーマとしたように、21世紀以降の人類は逃避のための「変身」よりも、自らを消し去る「同一化」を望むのかもしれません。

「相手が自分だと、本当に言わなくてもわかすもんだなあ。以心伝心よりすごいんだからね」
「言葉もいらないほどわかり合えるかってときどき言うけど、本当にそんなことがあるなんて思ってなかったよ。すごくいいよね」
「相手が自分かもしれないなんて誰も思ってないから、わかり合ってみようともしなくて、それでわかり合えないだけかもしれない」
「それってつめり、俺らのほかにも・・・」



「水族 すいぞく」 2009年
(著)星野智幸 Tomoyuki Hoshino
(画)小野田維
岩波書店

「俺俺」 2010年
(著)星野智幸
新潮社

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