- オリンピック年代記と日本の成績 -

第1回 アテネ大会 1896年
開催国(ギリシャ)参加国(14)参加選手数(241/男子のみ)競技数(8)種目数(43)
 近代オリンピックの提唱者フランスの貴族ピエール・ド・クーベルタンは、オリンピックの開催に向けた1894年の第二回ソルボンヌ会議において、4つの条件を示しました。
(1)参加資格はアマチュアに限る
(2)参加者は成人男子に限る
(3)開催国を固定しない
(4)4年に一度の開催とする
 1870年に普仏戦争(フランス対プロシア)においてプロシア(ドイツ)に敗北したフランスは、その大きな敗因として兵士の体力差を痛感したといいます。
兵士の体力向上は、そのまま軍隊の戦力向上につながる。そう考えたところから、ヨーロッパ列強国はオリンピック開催を積極的に推し進めたとも言われています。
だからこそ、乗馬や射撃は当初から種目の重要な位置にあったのです。
 しかし、当初はオリンピックに積極的な国は少なく大会参加者のうち200名は、地元開催国ギリシャの選手ばかりでした。
その他の参加国は、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ、ハンガリー、オーストリア、オーストラリア、デンマーク、スウェーデンなど
第2回 パリ大会 1900年
開催国(フランス)参加国(24)参加選手数(997 男975/女22)競技数(16)種目数(95)
 パリ万国博の目玉のひとつとして、第一回開催の時点で決まっていた大会。アテネ大会はある意味その試験的な大会だった。
ただし、この大会はパリ万国博に期間を合わせたため、5ヵ月半という長い大会になってしまいだらだらした大会にならざるをえなかった。
そのため、出場選手も、その時その会場にたまたまいた人が出ているといういい加減な部分も多かった。
 この大会には、その後、競技種目から消えることになるテニスとゴルフが入っていた。
しかし、ともにそれぞれの協会に力があること、単独開催でも集客できる人気スポーツだったこと、プロ化が進んでいったこともあり、オリンピック競技からはずれた。
 特筆すべきは、この大会からすでに女子選手が参加していることです。すでに、女性の力はヨーロッパで強まりつつあったといえます。
ただし、まだ参加種目は限られ、テニスの出場選手はロングスカートをはいていた。
第3回 セントルイス大会 1904年
 開催国(アメリカ)参加国(12)参加選手数(651)競技数(16)種目数(91)
 この大会も、パリ大会同様、セントルイスで開催されることになっていた万国博覧会に合わせて行われたオマケ的な大会だった。
そのうえ、アメリカ中部の田舎町での開催ということもあり、ヨーロッパからの参加が激減、ほとんどの参加がアメリカ人という大会になった。
第4回 ロンドン大会 1908年
開催国(イギリス)参加国(22)参加選手数(2008 男1971/女37)競技数(23)種目(110)
 当初はローマで開催される予定だったが、ヴェスビオス火山の噴火により開催困難となったため、急遽ロンドンに開催地が変更された。
事前に国別でエントリーを行い、国旗を先頭とする入場行進を開会式で行うようになったのは、この大会からでした。
 大会中、最大の盛り上がりをみせたのはマラソン。トップでスタジアムに入ってきたイタリアのドランド・ピエトリは、トラックで意識朦朧となり、5回も転倒。
見かねた大会役員が
第5回 ストックホルム大会 1912年
開催国(スウェーデン)参加国(28)参加選手数(2407 男2359/女48)日本の参加選手(2)競技数(15)種目数(102)
 当時の東京高等師範学校(現在の東京教育大学)の校長、嘉納治五郎へ駐フランス大使を通して、クーベルタンからの参加要請があり、日本は初めて参加。
マラソンに1人、短距離に1人が出場しました。マラソンに出場した金東三四は期待されながらも途中棄権。
ただし、この時のマラソンでは日射病で死者が出たほどの過酷な環境下でのレースでした。
 この大会の5種競技と10種競技で優勝したアメリカのジム・ソープは、後にマイナー・リーグでプレー経験があったことが明らかになり、メダルを剥奪されます。
(彼はインディアンの血を引く選手でした。黒人選手がまだ登場する前から彼らは選手として認められていたわけです)
 なお、この大会からしばらくの間オリンピックにも関わらず、新たに芸術部門が追加されています。種目は文学、音楽、美術。でもどうやって判定したのでしょうか?
第6回 ベルリン大会 1916年
第一次世界大戦のため中止
第7回 アントワープ大会 1920年
開催国(ベルギー)参加国(29)参加選手数(2626 男2561/女65)日本の参加選手(15)競技数(23)種目数(154)
 クーベルタン自身のデザインによる五輪マークの旗が初登場。
 日本は二度目の参加で早くも銀メダル二個を獲得します。熊谷一弥がテニスのシングルスと柏尾誠一郎と組んだペアでともに銀メダル。
なぜ?いきなり世界の2位になれたのか?実は二人はともに商社マンとして海外で働いていて、海外でテニスと出会い各地の大会に参加しながら実力をつけた。
イチローや中田の原点ともいえる海外組みの選手でした。
第8回 パリ大会 1924年
開催国(フランス)参加国(44)参加選手数(3089 男2954/女135)日本の参加選手(19)競技数(19)種目数(126)
 この大会、日本の唯一のメダルはレスリング・フリー・スタイルのフェザー級に出場した内藤克俊の銅メダルでした。
彼は明治大学卒業後、アメリカのペンシルバニア州立大学に留学。元々柔道家だった彼はアメリカでレスリングと出会うと全米大学チャンピオンになりました。
そのため、彼は別行動でオリンピックに出場し見事にメダルを獲得したのでした。ほとんどの日本人が知らないスポーツでメダルをとってしまったわけです。
 この大会で有名なのは、男子100mの金メダリスト、イギリス人のハロルド・エイブラハムと400mの金メダリスト同じイギリス人のエリック・リデルでしょう。
あの有名な映画「炎のランナー」の主人公たちです。なお、この年初の冬季オリンピックがフランスのシャモニーで開催されました。
第9回 アムステルダム大会 1928年
開催国(オランダ)参加国(46)参加選手数(2883 男2606/女277)日本の参加選手(男42/女1)競技数(16)種目数(109)
陸上 <男子三段跳>織田幹雄(金)、南部忠平(4)<女子800m>人見絹枝(銀)<マラソン>山田兼松(4)
水泳 <200m平泳ぎ>鶴田義行(金)<100m自由形>高石勝男(銅)<4x200m自由形リレー>新井信男、佐田徳平、高石、米山弘(銀)
<100m背泳ぎ>入江稔夫(4)
 二つの世界大戦の間に行われたつかの間の平和な大会。
 水泳王国日本の時代が始まった大会。
 女子初のメダリスト人見は日本女子体育大学を卒業後、大阪毎日新聞に入社。記者として活躍しながら選手活動を続け、その後も作家、評論家としても活躍。
キャリア・ウーマン型のアスリートとして遥かに時代の先を行く存在でした。
第10回 ロサンゼルス大会 1932年
開催国(アメリカ)参加国(37)参加選手数(1332 男1206/女126)日本の参加選手(男115/女16)競技数(16)種目数(117)
陸上 <棒高跳>西田修平(銀)<走り幅跳>南部忠平(銅)<三段跳>南部(金)大島鎌吉(銅)<マラソン>浅田晴一郎(5)<女子やり投げ>真保正子(4)
水泳 <100m自由形>宮崎康二(金)河石達吾(銀)<400m自由形>大横田勉(金)<1500m自由形>北村久寿雄(金)牧野正蔵(銀)
<100m背泳ぎ>清川正二(金)入江稔夫(銀)河津貫太郎(銅)<200m平泳ぎ>鶴田(金)小池礼三(銀)<男子4x200m自由形リレー>(金)
<200m平泳ぎ>前畑秀子(銀)
その他 <馬術障害飛び越し(個人)>西竹一(金)<水球>(4)<ホッケー>(銀)
 日本は陸上の跳躍での活躍、水泳でメダルを量産。さらに後に「バロン西」と呼ばれる軍人の西竹一の活躍もあり、日本はオリンピックにおける黄金時代を迎えていました。
 ただし、アメリカでの大会だったため、ヨーロッパからの出場選手が少なかった分、有利だった。
第11回 ベルリン大会 1936年
開催国(ドイツ)参加国(49)参加選手数(3963 男3632/女331)日本の参加選手(男162/女17)競技数(21)種目数(129)
陸上 <棒高跳>西田(銀)大江秀雄(銅)<走り幅跳>田島直人(銅)<男子三段跳><マラソン>孫基禎(金)南昇竜(銅)
<5000m>村社講平(4)<10000m>村江(4)<女子円盤投げ>中村コウ(4)
水泳 <100自由形>遊佐正憲(銀)新井茂雄(銅)田口正二治(4)<400m自由形>鵜藤俊平(2)牧野(3)<1500m>寺田登(金)鵜藤(3)
<100背泳ぎ>清川(3)<200m平泳ぎ>小池礼三(3)<男子4x200リレー>(金)<板飛び込み>柴原恒雄(4)
<女子200平>前畑秀子(金)<女子飛び板>大沢礼子(4)
その他 <絵画>藤田隆治(3)<水彩>鈴木朱省(3)
 1934年、ムッソリーニがイタリアで第二回のワールドカップ・サッカーを開催し大成功を収めた。ヒトラーはそのことを知り、ベルリン・オリンピックを重要視するようになった。
 当時、ファシズム国家でありユダヤ人差別を行っていることが知られていたベルリン開催に反対する声も強かった。
しかし、IOC会長アベリー・ブランデージは、政治問題とオリンピックを切り離すことにこだわり、大会開催を推し進めた。
 ファシズム・オリンピックでもあったこの大会だが、大会中そうした人種差別問題はおきず、ドイツ国民はどの国の選手も暖かく迎え入れていたようです。
中でも、100m、200m、走り幅跳び、4x100mリレーをすべて征した黒人ジェシー・オーエンスも、ドイツでは母国と違いまったく差別されなかったと語っています。
 日本はマラソンで金メダルと銅メダルを獲得していますが、どちらの選手も日本に占領され植民地化されていた朝鮮人であり、二人にとっては複雑なメダルとなりました。
しかし、周囲の思惑とは関わりなく、当人は素直に勝てたことを喜んでいたようです。間違いなく勝ったのは、彼らなのです。
第12回、第13回大会
第二次世界大戦のため中止
第14回 ロンドン大会 1948年
開催国(イギリス)参加国(59)参加選手数(4101 男3714/女390)日本の参加選手(0)競技数(19)種目数(136)
 第12回1940年は東京大会の予定でしたが、東京が辞退。多額の軍事予算を必要とする日本には、オリンピックを開催するための国家予算はもう残されていませんでした。
急遽フィンランドのヘルシンキで代替開催が決まるもののドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まってしまい大会そのものが中止になりました。
 1944年にはロンドンでの開催が計画されるものの、結局この大会も中止となり、12年間オリンピックは開催されないことになりました。
 こうして、1948年、再びロンドンでオリンピックが開催されることになりましたが、敗戦国の日本は大会に招待されませんでした。日本は16年間オリンピックから離れることになり
陸上や水泳だけでなくすべての競技において、世界から取り残されることになりました。
第15回 ヘルシンキ大会 1952年 
開催国(フィンランド)参加国(69)参加選手数(4955 男4436/女519)日本の参加選手(男61/女11)競技数(18)種目数(149)
水泳 <100m自由形>鈴木弘(2)<1500m自由>橋爪四郎(2)<200m平泳ぎ>平山綽保(4)<男子4x200リレー>(2)
体操 <徒手>上迫忠夫(2)小野喬(4)<跳馬>竹本正男(2)上迫(3)小野(3)
その他 <女子円盤投げ>吉野トヨ子(4)
<レスリング・フリースタイル・フライ級>北野祐秀(2)<バンタム級>石井庄八(1)
 戦時中、世界のトップにいた古橋広之進は、すでにピークを過ぎてしまいこの大会で活躍することはできなかった。
この大会には日本とドイツが復帰し、社会主義国ソ連が初めて参加。東西対立の時代を象徴する闘いが始まります。
それまでは常に一人勝ちだったアメリカに対し、ソ連はメダルの獲得数で迫り、オリンピックの競技レベルも急激に高くなります。
 この大会最大のスターは、チェコスロバキアのエミール・ザトペックでしょう。初マラソンで金メダルを取っただけでなく、5000m、1万mでも金メダルを取るという驚きの走り。
人々が彼のことを「人間機関車」と呼んだのもうなずけます。
第16回 メルボルン/ストックホルム大会 1956年
開催国(オーストラリア/スウェーデン)参加国(67/29)参加選手数(3314 男2938/女376)日本の参加選手(男103/女16)競技数(18)種目数(151)
水泳 <400m自由形>山中毅(2)<1500m自由形>山中毅(2)<200m平泳ぎ>古川勝(1)吉村昌弘(2)<200mバタフライ>石本隆(2)
<男子4X200m自由形リレー>(4)
体操 <個人総合>小野喬(2)竹本正男(4)<男子団体>(2)<徒手>相原信行(2)<あん馬>小野喬(2)<吊り輪>久保田正躬(3)竹本(3)
<平行棒>久保田(2)小野(2)竹本(3)<鉄棒>小野(1)竹本(3)<女子徒手>田中敬子(4)
レスリング <フリー・フライ級>浅井正(4)<フェザー>笹原正三(1)<ライト>笠原茂(2)<ウェルター>池田正(4)<フェザー>笹原茂(2)<ウェルター>池田三男
その他 <ウェイト/ライト級>大沼堅治(4)<ライフル・フリー・ピストル>保坂調司(4)
 生態系を守るため、動物の輸入規制をしているオーストラリアは馬術のみ開催が困難となり、ストックホルムで馬術のみ開催となった。
 ジョン・ヘンドリックスやドーン・フレーザーなど豪華な選手たちをそろえた地元オーストラリアは水泳で多数のメダルを獲得。
 この大会で初めてソ連が金メダルの数、メダルの総数ともにアメリカをぬき、ソ連のアマチュアリズムに対する疑問の声が高まることになった。
 大会期間中、ある中国人の少年から組織委員会に手紙が届きました。
その中で彼は「閉会式では開会式のように国別の入場ではなく、みんながひとつのチームとして入場できないか?」と提案。
このアイデアは、さっそく実行に移され、その後、現在まで続いています。 
第17回 ローマ大会 1960年
開催国(イタリア)参加国(83)参加選手数(5338 男4727/女611)日本の参加選手(男147/女20)競技数(18)種目数(150)
水泳 <400m自由形>山中毅(2)<1500m自由形>山中(4)<200m平泳ぎ>大崎剛彦(2)<4x200m自由形リレー>(2)<4x100メドレーリレー>(3)
<女子背泳ぎ>田中聡子(3)
体操 <男子総合個人>小野喬(2)鶴見修治(4)<男子団体>(1)<跳馬>小野喬(1)<徒手>相原信行(1)小野、三栗崇(3)<あん馬>鶴見(3)三栗(4)
<平行棒>小野(3)相原(4)<鉄棒>小野(1)竹本(2)遠藤幸雄(4)<吊り輪>小野(3)<女子団体>(4)
レスリング <グレコローマン・フライ級>平田孝(4)<フリースタイル・フライ級>松原正之(2)<F・バンタム級>浅井正(4)<F・フェザー級>佐藤多美治(4)
その他 <ボクシング・フライ級>田辺清(3)<ウェイトリフティング・バンタム級>三宅義信(2)木暮茂夫(4)<射撃フリー・ピストル>吉川貴久(3)
 後のモハメド・アリことカシアス・クレイが18歳で金メダルを獲得。プロへのステップを登りました。
 裸足のランナー、アベベ・ビキラが金メダルを獲得。当時まったく無名のランナーだったアベベは一躍世界的な英雄となり、その後、東京オリンピックでも金メダルを獲得します。
 日本の男子体操はこの大会、ついにソ連を破り、団体の金メダルを獲得。体操日本の黄金時代が始まります。
第18回 東京大会 1964年
開催国(日本)参加国(93)参加選手数(5151 男4473/女678)日本の参加選手(男294/女61)競技数(20)種目数(163)
水泳 <男4x100m自由形リレー>(4)<男4x200>(3)<女子4x100mメドレー・リレー>(4)
体操 <男子総合個人>遠藤幸雄(1)鶴見修治(2)<男子総合団体>(1)<男子床>遠藤(2)<男子あん馬>鶴見(2)<男子吊り輪>早田卓次(1)<男子跳馬>山下(1)
<男子平行棒>遠藤(1)鶴見(2)<女子総合団体>(3)
レスリング <グレコローマン・フライ>花原勉(1)<グレコ・バンタム>市口政光(1)<グレコ・フェザー>桜間幸次(4)<グレコ・ライト>藤田徳明(4)
<フリースタイル・フライ>吉田義勝(1)<フリー・バンタム>上武洋次郎(1)<フリー・フェザー>渡辺長武(1)<フライ・ライト>堀内岩雄(3)
ウェイトリフティング <バンタム>一ノ関史郎(3)<フェザー>三宅義信(1)<ミドル>大内仁(3)
柔道 <軽量級>中谷雄英(1)<中量級>岡野功(1)<重量級>猪熊功(1)<無差別級>神永昭夫(2)
その他 <マラソン>円谷幸吉(3)<フェンシング・フルーレ団体>(4)<男フリー・ピストル>吉川貴久(3)<ボクシング・バンタム級>桜井孝雄(1)
<男子バレー>(3)<女子バレー>(1)
 高度経済成長期に入った日本がその勢いを注ぎ込んだ大会。(北京オリンピックと中国に似ている)
(1)東京国際空港(羽田)の拡張(2)首都高速道路の建設(3)東海道新幹線の建設(4)地下鉄の整備(5)カラー・テレビの普及
 舞台も整い、選手強化のための資金も投入されたことで日本は金16銀5銅8という結果となった。
 中でも、女子バレーボールの人気は絶大で、決勝戦の視聴率は平均で66.8%、瞬間最高は90%を越えました!
 柔道の無差別級で神永を破ったアントン・ヘーシンクもその勝利で一躍有名になり、柔道の国際化に大きな役目を果たすことになります。
第19回 メキシコシティ大会 1968年
開催国(メキシコ)参加国(112)参加選手数(5516 男4735/女781)日本の参加選手(男153/女30)競技数(19)種目数(172)
体操 <男子個人総合>加藤澤男(1)中山彰規(3)<男子団体総合>(1)<男子床>加藤(1)中山(2)加藤武司(3)(男子吊り輪>中山(1)加藤(3)
<男子跳馬>遠藤幸雄(2)<男子平行棒>中山(1)<男子鉄棒>中山(1)監物永三(3) <女子団体総合>(4)
レスリング <フリースタイル・フライ級>中田茂男(1)<F・バンタム級>上武洋次郎(1)<F・フェザー級>金子正明(1)<F・ウェルター級>佐々木竜雄(4)
<グレコローマン・フェザー級>藤本英男(2)<G・ライト級>家村宗二(1)
ウェイトリフティング <フェザー級>三宅義信(1)三宅義行(3)<ライト級>八田信之(4)<ミドル級>大内仁(2)
その他 <ハンマー投げ>菅原武男(4)<男子マラソン>君原健二(2)<男子サッカー>(3)釜本邦茂、杉山隆一、森孝慈、横山謙三ほか
<ボクシング・バンタム級>森岡栄治(3)
<男子バレー>(2)<女子バレー>(2)
 オリンピックが巨大化し世界中の注目を集める存在になることで様々な問題が浮上し始めた大会。
 メキシコでは民主化を求める運動が活発化。世界の注目が集めるオリンピックにその狙いを定めていたことから、政府は事前に武力による鎮圧を行い250名もの死者を出しました。
 南アフリカ共和国の参加を許すなら、オリンピックをボイコットするとアフリカ諸国32カ国が委員会に迫り、オリンピックを政治的に利用。
他にもソ連など社会主義諸国も同調したため、南アの不参加が決まり、1992年まで南アはオリンピックに参加しないことになります。
 ドイツはこの大会から東西ドイツが参加。東西対立がより明確化することになった。
 この年、チェコにソ連の戦車隊が侵入。「プラハの春」は終わりをむかえます。チェコの民主化運動への賛同の意思を示していたヴェラ・チャスラフスカは、母国の危機の中、
見事に女子体操総合の金メダルを獲得し、この大会の花となった。しかし、帰国後、彼女は完全にソ連よりの政府によって活動の場を奪われることになります。
 男子200mで金メダルを獲得したトミー・スミスと3位のジョン・カルロスは首に黒いスカーフ、黒いソックスと黒い手袋を高く掲げて表彰式にのぞんだ。
アメリカ政府への批判を行ったことに対し、オリンピック委員会は激怒し、すぐに二人を帰国させました。
 日本は釜本の活躍もあり、地元メキシコを破って3位となった。しかし、それによって日本のサッカー協会は日本サッカーの実力を過大評価することになり、
その後、長い長い低空飛行を続けることになります。「ナイロビの奇跡」、「ジョホールバルの歓喜」は遥か先のことになります。
第20回 ミュンヘン大会 1972年
開催国(西ドイツ)参加国(121)参加選手数(7134 男6075/女1059)日本の参加選手(男144/女38)競技数(21)種目数(195)
体操 <男子個人総合>加藤澤男(1)監物永三(2)中山彰規(3)<男子団体総合>(1)<男子床>中山(1)笠松茂(3)<男子あん馬>加藤(2)監物(3)
<男子吊り輪>中山(1)塚原光男(3)<男子平行棒>加藤(1)笠松(2)監物(3)<男子鉄棒>塚原(1)加藤(2)笠松(3)
レスリング <グレコローマン・52キロ級>平山紘一郎(2)<G・62キロ級>藤本英男(4)
<フリー・52キロ級>加藤喜代美(1)<57キロ級>柳田英男<68キロ級>和田喜久夫(2)
柔道 <軽量級>川口孝夫(1)<軽中量級>野村豊和(1)<中量級>関根恵(1)<重量級>西村昌樹(2)
その他 <男子100m平泳ぎ>田口信教(1)<男子200m平泳ぎ>田口(3)<女子100mバタフライ>青木まゆみ(1)
<男子バレー>(1)<女子バレー>(2)
 イギリス領ローデシアの出場に対し、アフリカの21ヶ国が抗議しボイコットを表明。ブランデージ会長は「政治からの独立」を主張するが、結局は出場停止処分とした。
(代表選考が差別により不平等になっているため、というのが正式の理由だが、実際はアフリカ諸国からの圧力が原因だった)
 パレスチナ・ゲリラ8名が、9月5日、イスラエル選手団宿舎に潜入。イスラエルの選手、コーチら9人を人質に立てこもりパレスチナ・ゲリラ234人とドイツ人テロリスト2人の釈放を求めた。
その後、ヘリコプターでの移動の際に狙撃部隊による攻撃が行われ、人質全員が死亡するという最悪の結末を迎えることになります。
 日本は金13、銀8、銅8の活躍。特に男子バレーの金メダルは、アニメ「決断の時」もあり、日本中にバレー・ブームが巻き起こった。
第21回 モントリオール大会 1976年
開催国(カナダ)参加国(92)参加選手数(6084 男4824/女1260)日本の参加選手(男152/女61)競技数(21)種目数(198)
体操 <男子個人総合>加藤澤男(2)塚原光男(3)<男子団体総合>(1)<男子あん馬>監物永三(2)<男子跳馬>塚原(2)梶山(3)<男子鉄棒>塚原(1)監物(2)
レスリング <グレコローマン・52kg>平山紘一郎(3)
<フリー・48kg>工藤章(3)<F・52kg>高田裕司(1)<F・57kg>荒井政雄(3)<F・68kg>菅原弥三郎(3)<F・74kg>伊達治一郎(1)
ウェイトリフティング <バンタム級>安藤謙吉(3)<フェザー級>平井一正(3)
柔道 <軽量級>二宮和弘(1)<軽中量級>蔵本孝二(2)<中量級>園田勇(1)<重量級>遠藤純男(3)<無差別>上村春樹(1)
その他 <男子バレー>(4)<女子バレー>(1)<アーチェリー男子個人総合>道永宏(2)
 南アフリカとラグビーの交流試合を行ったニュージーランドの出場に抗議して、アフリカの28ヶ国が出場を辞退。
 中国の参加が認められたことで、中国と台湾の対立。その処理にもめました。
 この大会最大の問題は、運営費の赤字問題でした。ミュンヘン大会でのテロ事件から大会のためにかかる警備費は大幅にアップ。
さらに当時は世界的なインフレが進んでいたことも重なり、モントリオール市の赤字は膨大な額になり、その借金返済に20世紀いっぱいかかったといいます。
 この大会最大のスターは、ルーマニアからやって来た「白い妖精」ナディア・コマネチでしょう。彼女が出した史上初の10:00満点には世界中が驚かされました。
そのうえ、彼女は満点をこの大会でなんと7回も出したのです!
 国別でいうと、メキシコ大会で初めて単独参加した東ドイツがこの大会で金メダル40個を獲得。アメリカを上回りました。
ただし、この当時からもしかするとドーピングなどの方法が用いられていた可能性があります。さらに国お抱えで限りなくプロに近い東ヨーロッパの選手たちをアマチュアと呼べるのか?
そうした疑問の声もあがるようになり、それがオリンピックへのプロ選手出場容認と結びついてゆくことになります。
第22回 モスクワ大会 1980年
開催国(ソビエト連邦)参加国(80)参加選手数(5179 男4064/女1115)日本の参加選手(0)競技数(21)種目数(203)
 1980年は、20世紀の歴史の中でも特に激動の年でした。それは日本にとっても世界にとってもいえることでした。(この詳細は「1980年」をご覧ください)
 イランの首都テヘランのアメリカ大使館人質占拠事件とソ連によるアフガニスタン侵攻が、1979年から続いていました。
 それに対し、当時のアメリカ大統領ジミー・カーターは、この年開催のモスクワ・オリンピックの中止もしくは延期をIOCに求めます。その年の年末に大統領選挙を控えていたカーターにとって、
モスクワ・オリンピックの成功は選挙の敗北に結びつきかねないと思われたからです。
 結局、アメリカはモスクワ・オリンピックのボイコットを決定。西側諸国にも同調を求め、西ドイツと日本はアメリカに追従するかたちでボイコットすることを決定しました。
 当然、オリンピックはソ連と東ドイツのための大会となり、日本ではほとんど話題にならなくなります。そのうえ、この年日本では、現役の総理大臣大平正芳が心筋梗塞で突然死去。
1979年に総選挙で大敗したいた自由民主党は再び混乱し、オリンピックどころではなくなります。
第23回 ロサンゼルス大会 1984年
開催国(アメリカ)参加国(140)参加選手数(6829 男5263/女1566)日本の参加選手(男178/女53)競技数(21)種目数(221)
体操 <男子個人総合>具志堅幸司<男子総合団体>(3)<男子床>外村康二(3)<男子吊り輪>具志堅(1)<男子跳馬>具志堅(2)森末慎二(2)
<男子平行棒>梶谷信之(2)<男子鉄棒>森末(1)具志堅(3)
レスリング <グレコローマン・48kg>斉藤育造(3)<G・52kg>宮原厚次(1)<G・57kg>江藤正基(2)
<フリー・48kg>入江隆(2)<F・52kg>高田裕司(3)<F・82kg>長島偉之(2)<F・90kg>太田章(2)
ウェイトリフティング <52kg>真鍋和人(3)<56kg>小高正宏(3)<82.5kg>砂岡良治(3)
柔道 <60kg>細川伸二(1)<65kg>松岡義之(1)<86kg>野瀬清喜(3)<95kg>斉藤仁(1)
その他 <男子マラソン>宗猛(4)<シンクロナイズド・スイミング>元好三和子(3)<シンクロ・デュエット>元好、木村さえ子(3)<男子スピッドファイア・ピストル>蓮池猛夫(1)
<女子バレー>中田、三屋、杉山、江上など(3)<自転車男子スプリント>坂本勉(3)<アーチェリー個人総合>山本博(3)
 この大会のスターといえば、なんといってもカール・ルイス。この大会で一躍陸上界のスターとなった彼は、この後1996年のアトランタ大会までに9個の金メダルを獲得することになります。
 もうひとり、選手以上に注目を集めた人物として大会の運営責任者ピーター・ユベロスがいます。それまで大きな赤字を生み出し続けていたオリンピックを民間で運営することで、一躍黒字化。
彼は業種ごとにスポンサーを決め、その企業に大会に関するビジネスを独占させることで、巨額のスポンサー料を獲得。このやり方は、この後のオリンピックにも継承されます。
当然、スポンサーの意向は重要視されることになり、そのほとんどの企業の本拠地であるアメリカに合わせて試合の時間や日程は変えられることにもなります。
 この大会は、オリンピックが大きな利益を生み出しうる巨大ビジネスであることを証明すると同時に、オリンピックのアマチュアリズムを一気に過去のものにすることにもなりました。
 この大会、ソ連など東欧16ヶ国が出場をボイコット。しかし、当初ソ連はボイコットする気はありませんでした。逆にレーガン政権が入国ビザの発行などに注文をつけることで、出場を妨害。
それが真相のようですが、もうひとつ理由がありました。「ベルリンの壁」崩壊を前に西側への亡命が急激に増えていたことから、共産圏の国々を多くが有名選手の亡命を恐れていた。
それもボイコットの理由としてあったようです。さらにいうなら、ボイコットしなかった中国やルーマニアはすでにソ連の影響力が弱まりつつあることを象徴していたといえます。
1989年、「ベルリンの壁」が崩壊し、その後怒涛のようにソ連、東欧諸国が解体されることになります。
第24回 ソウル大会 1988年
開催国(韓国)参加国(159)参加選手数(8391 男6197/女2194)日本の参加選手(男188/女71)競技数(23)種目数(237)
レスリング <グレコローマン・52kg>宮原厚次(2)
<フリー・48kg>小林孝至(1)<F・52kg>佐藤満(1)<F・90kg>太田章(2)
柔道 <60kg>細川伸二(3)<65kg>山本洋祐(3)<86kg>大迫明伸(3)<95kg>斉藤仁(1)
その他 <男子マラソン>中山竹通(4)<男子平泳ぎ>鈴木大地(1)<シンクロナイズド・スイミング>小谷実可子(3)<S・デュエット>小谷、田中京(3)
<女子バレー>大林、中田、杉山、高橋など(4)<男子総合団体>(3)<男子床>池谷幸雄(3)<女子スポーツ・ピストル>長谷川智子(2)
 金4銀3銅7というメダル数は、前回大会の金10銀8銅14の半分以下という数字。この後、日本は選手強化のシステムを根本的に見直すlことになります。
この大会の注目選手は、前回大会に続きカール・ルイス。そして、100mで彼を破ったライバル、カナダのベン・ジョンソンです。
 彼がドーピング検査よってにメダルを剥奪されたことは、彼以外の選手への疑惑をまねき、スポーツ界全体に大きな衝撃を与えることになりました。
特に注目されたのは、この大会の女子100m、200m、4X100mで3つの金メダル、4X200mで銀メダルを獲得したフローレンス・ジョイナーです。その後、彼女は38歳という若さで死去。
ステロイドを使用していたのではないかという疑惑は、謎のまま残りました。
 テニスが正式競技に復帰。シテフィ・グラフは、女子テニスの年間グランド・スラム+1のゴールデン・スラムを達成しました。
 日本人では、バサロ泳法の一大ブームを巻き起こした鈴木大地の活躍が日本チームを救いました。
第25回 バルセロナ大会 1992年
開催国(スペイン)参加国(169)参加選手数(9356 男6652/女2704)日本の参加選手(男181/女82)競技数(25)種目数(257)
マラソン <男子>森下広一(2)中山竹通(4)谷口浩美(8)
<女子>有森裕子(2)山下佐知子(4)
水泳 <女子200m平泳ぎ>岩崎恭子(1)<シンクロナイズド>奥野史子(3)<シンクロ・デュエット>奥野、高山亜樹(3)
体操 <男子団体総合>(3)<男子床>池谷幸雄(3)<男子平行棒>松永政行(3)
柔道(女子) <48kg>田村亮(2)<52kg>溝口紀子(2)<56kg>立野千代里(3)<72kg>田辺陽子(2)<72kg>坂上洋子(3)
柔道(男子) <60kg>越野忠則(3)<71kg>古賀稔彦(1)吉田秀彦(1)<86kg>岡田弘隆(3)<95kg>小川直也(2)
その他 <野球>小久保、伊藤、杉浦ほか(3)<男子フリーライフル>木場良平(3)<クレートラップ>渡辺和三(2)
<レスリング・フリー>赤石光生(3)
 ソ連崩壊後最初の大会。そのため出場国は大幅に増え史上最多となった。野球が正式競技となったが、それはオリンピックをプロ化する流れに乗ったものだった。
 バスケットボール男子のアメリカ・チームはその象徴。「ドリーム・チーム」と呼ばれたチームには、マジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダン、パット・ユーイング、チャールズ・バークレー・・・)
 ただし、野球はシーズンが重なっていたこともあり、アメリカは大リーガーが不参加、日本もアマチュア選手が出場。そのため、キューバが圧倒的に強かった。
 日本チームはこの大会も成績不振に悩みました。
唯一、予想外のメダルを獲得した岩崎恭子の名文句「いままで生きてきた中で一番うれしい!」が印象に残りますが、彼女はこの後メダルの重みに苦しむことになります。
第26回 アトランタ大会 1996年
開催国(アメリカ)参加国(197)参加選手数(10318 男6806/女3512)日本の参加選手(男160/女150)競技数(26)種目数(271)
柔道 <男子60kg>野村忠宏(1)<65kg>中村行成(2)<71kg>中村兼三(1)<78kg>古賀稔彦(2)
<女子48kg>田村亮子(2)<52kg>菅原教子(3)<61kg>恵本裕子(1)<72kg>田辺陽子(2)
その他 <女子マラソン>有森裕子(3)<シンクロ団体>(3)<女子テニス>伊達公子(5)<レスリング・フリー74kg>太田拓弥(3)
<ヨット女子470級>木下アリーシア、重由美子(3)<自転車男子1km>十文字貴信(3)<女子ソフトボール>(4)
<野球>井口、今岡、大久保、杉浦、谷、福留、松中(プロアマ混成)(2)
 コカコーラの本拠地、アメリカ南部ジョージア州の州都アトランタは人口40万人という意外に小さな市。
そのためオリンピック開催のために都市の大改造が行われたが、それが上手くゆかず、おまけに暑い土地での開催で環境的にも厳しいものとなりました。
最終的に、IOCからも大会運営については失敗という評価がなされた大会となりました。
 日本の成績は相変わらず低調。その中で気を吐いたのは、女子陸上界初のプロ選手となった有森の銅メダル。彼女の二大会連続メダルは、マラソンにおける高地トレーニングの有効性を証明。
プロとしての精神的な強さをもつ彼女のような選手の登場は、女子マラソン界全体のレベルアップにつながり、この後、日本女子マラソン界は黄金時代を迎えることになります。
第27回 シドニー大会 2000年
開催国(オーストラリア)参加国(200)参加選手数(10651 男6582/女4069)日本の参加選手(男158/女110)競技数(28)種目数(300)
柔道 <男子60kg>野村忠宏(1)<81kg>滝本誠(1)<100kg>井上康生(1)<100kg超級>篠原信一(2)
<女子48kg>田村亮子(1)<52kg>楢崎教子(2)<57kg>日下部基栄(3)<78kg>山下まゆみ(3)
水泳 <女子100背泳ぎ>中村真衣(2)<女子200背泳ぎ>中尾美樹(3)<女子400個人メドレー>田島寧子(2)
<女子メドレーリレー>中村、田中雅美、大西順子、源純夏(3)<シンクロ・デュエット>立花美哉、武田美保(2)<シンクロ・チーム>(2)
その他 <女子マラソン>高橋尚子(1)<男子サッカー>楢崎、森岡、宮本、松田、中沢、中田(英)、柳沢、高原、中村(俊)、稲本ほか(6)
<レスリング・グレコ69kg>永田克彦(2)<ソフトボール>宇津木、高山、安藤・・・(2)
<野球>松坂、中村、田口、赤星、黒木、渡辺、杉浦、松中・・・(4)<テコンドー女子47kg>岡本依子(3)
 「最高で金、最低でも金」と宣言し、見事金メダルをとった田村亮子。ぶっちぎりの金メダルをとった高橋尚子。二人の女性が日本の主役。男子は柔道以外メダルはゼロ!
 アメリカのマリオン・ジョーンズは、100m、200m、4X400mリレーで金3個、走り幅跳び、4X100mで銅2個と大活躍。ところが7年後、薬物スキャンダルの捜査により彼女の疑惑も浮上。
自ら薬物使用を認めた彼女はメダルをすべて剥奪されます。もうひとり地元の英雄、キャシー・フリーマンも大きな注目を集めました。
女子400mで金メダルを獲得した彼女は、オーストラリアの国旗とアボリジニーの旗両方を持ってウイニングランを行い、人種融和を体現し大きな感動を呼びました。
第28回 アテネ大会 2004年
開催国(ギリシャ)参加国(202)参加選手数(10625 男6296/女4329)日本の参加選手(男141/女171)競技数(28)種目数(301)
陸上 <男子ハンマー投げ>室伏広治(1)<女子マラソン>野口みずき(1)
水泳 <男子100背泳ぎ>森田智己(3)<100平泳ぎ>北島康介(1)<200平泳ぎ>北島(1)<200バタフライ>山本貴司(2)
<男子4X100メドレーリレー>森田、北島、山本、奥村幸大(3)
<女子800自由形>柴田亜衣(1)<200背泳ぎ>中村礼子(3)<200バタフライ>中西悠子(3)<シンクロ・デュエット>立花美哉、武田美保(2)
<シンクロ・チーム>(2)
体操 <男子総合団体>鹿島丈博、水島寿思、中野大輔、冨田洋之、塚原直也、米田功(1)<あん馬>鹿島(3)<鉄棒>米田(3)<平行棒>冨田(2)
レスリング <男子フリー55kg>田南部力(3)<60kg>井上謙三(3)
<女子48kg>伊調千春(2)<55kg>吉田沙保里(1)<63kg>伊調馨(1)<72kg>浜口京子(3)
柔道 <男子60kg>野村忠宏(1)<66kg>内柴正人(1)<90kg>泉浩(2)<100kg>鈴木桂治(1)
<女子48kg>田村亮子(1)<52kg>横沢由貴(2)<63kg>谷本歩実(1)<70kg>上野雅恵(1)<78kg>阿武教子(1)<78kg超級>塚田真希(1)
その他 <テニス女子ダブルス>浅越しのぶ、杉山愛(4)<自転車チーム・スプリント>伏見俊昭、井上昌己、長塚智広(2)
<ヨット470級>関一人、轟賢二郎(3)
<ソフトボール>宇津木、上野、坂本、高山、山田・・・(2)<アーチェリー>山本博(2)
<野球>三浦、黒田、上原、松坂、宮本、城島、岩隈、小笠原、金子・・・(3)
 7大会ぶりに団体の金メダルをとった男子体操は冨田を中心に新たな黄金時代に突入。高橋尚子抜きでも野口が金メダルをとった女子マラソンもまた黄金時代に突入。
 女子柔道、女子レスリング、ソフトボール、女子水泳などが大量にメダルを獲得。日本の選手団の男女比がついにこの大会で逆転。女子の活躍は日本の浮上を実現しました。
 この大会でもドーピング問題は大きな問題となり、男子ハンマー投げでは、室伏が繰上げで金メダルを獲得することになりました。

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