20世紀を代表するスポーツ・イベントの誕生


- オリンピック、パラリンピックの誕生と日本の初参加 -

- ピエール・ド・クーベルタン、ルートヴィッヒ・グットマン、嘉納治五郎 -
「オリンピックの父」と第一回オリンピック・アテネ大会
 <クーベルタンと近代オリンピック>
 「近代オリンピックの父」ピエール・ド・クーベルタン男爵 Pierre de Frédy, baron de Coubertin は、1863年1月1日フランスのパリに生まれています。彼の家は、フィレンツェのメディチ家の血をひく名門貴族の家系に属していました。陸軍士官学校を卒業後、普仏戦争が起き、フランスはプロシヤに敗北。彼はその敗因に学校教育において肉体の鍛錬が行われていないことに問題があると考えます。当時のフランスはまるで修道院のように学業だけを学ぶ場所でした。英国に留学した彼はそこで様々なスポーツと出会い、特にラグビーに熱中し、審判の資格も取得。英国の体育教育をフランスにも持ち込むことを、後に提案することになります。彼自身も、ラグビー以外にボート、器械体操、フェンシング、ボクシング、乗馬、ヨットなどに挑戦するスポーツ好きでした。
 大学卒業後、彼はパリ政治学院で政治学を学び、国会議員となります。そして、念願だった体育教育の導入を具体化させることになります。目標とする英国との交流を深めるため、英仏間でボートとラグビーの交流戦を実現させます。さらに、そうした体育競技のレベル向上のため、世界的な大会を開催しようと思い立ちます。そこで彼が考えたのが、かつてギリシャのアテネで行われていた古代オリンピックの復活でした。
 1881年、ドイツのオリンピア発掘隊がギリシャでオリンピア・スタジアムの遺跡を発掘。学界では古代オリンピックについての研究が急速に進んだことから、オリンピックのブームが起きました。クーベルタンはこのブームを利用し、それを現代的、国際的なイベントに変更し、現代に復活させようと考えたのです。

 1892年11月25日、パリのソルボンヌ大学で開催されたフランスのスポーツ競技者連合会の創立5周年記念式典で講演した彼は、オリンピック復活の構想を発表し観衆からの賛同を得ます。この時、彼はまだ29歳の若者でした。
 1894年6月23日に開催された「パリ国際スポーツ会議」において、オリンピック大会の復活開催が満場一致で可決され、2年後の1896年にギリシャのアテネで第一回オリンピックが開催されることが決まりました。そして、この会議が行われた「6月23日」は現在でも「オリンピック・デー」と呼ばれています。
 オリンピック開催のための具体的な運営組織として、国際オリンピック委員会(IOC)が設立され、初代会長にはギリシャの実業家ヴィケラスが就任。クーベルタンは、事務総長として現場を仕切ることになります。
 当初、ギリシャは財政的に破綻の危機にあり、オリンピックの開催を拒否していました。そのため、開催に必要な費用を様々な団体、個人からの寄付によって賄うことでなんとか開催にこぎつけました。

<第一回オリンピック・アテネ大会>
 第一回アテネ大会に参加したのは14カ国、選手は男子のみで244人でした。チケットの前売りは行われず、一般大衆でも見られる価格(2階席が12セント、1階席が24セント)と抑えたこともあり、ダフ屋が登場するほどの売れ行きになったそうです。とはいえ、まだ海外からわざわざ見に来る観光客は少なく、観客の95%は地元のギリシャ人でした。
 この大会で採用されたのは、陸上競技、水泳、体操、レスリング、射撃、フェンシング、自転車、テニスの8競技42種目でした。
 100m走の優勝者はアメリカのトーマス・バークでしたが、決勝で彼以外の選手は全員が立ったままスタートを切り、唯一クラウチング・スタートを切ったのがトーマスでした。
 最終日に行われた約40キロ(マラトンからアテネの距離)の距離で行われたマラソンでは、ギリシャ人のスピリドン・ルイスが見事に優勝。彼が地元ギリシャ唯一の優勝者だったこともあり、地元ギリシャのコンスタンチノス皇太子とジョージ親王は歓喜のあまり貴賓席から飛び出し、ゴールまでの200mを一緒に走ったといいます。彼はまったく無名の羊飼いだったこともあり、観衆は驚きと歓喜に包まれました。
 実は、この大会で優勝者に与えられたのは、金メダルではありませんでした。なんと彼らに与えられたのは銀メダルとオリーブの冠、そして賞状でした。その他の上位入賞者には銅メダルと月桂樹の小枝が贈られたといいます。(第二回からは、金、銀、銅メダルとなりました)

<クーベルタンのその後>
 その後、彼はIOCの会長に就任し、1924年の第8回パリ大会まで、その運営を指揮し、61歳となって会長職を辞任します。
 1936年のベルリン・オリンピックで彼は会場に行かずに蓄音機によって最後のメッセージを発しました。
「オリンピックにおいて大切なことは、勝つことではなく参加することである。ちょうど人生においてそうであるように、目的は征服することではなく、よく闘うことである」
 1937年9月2日、スイス、ジュネーブのグランジュ公園を散歩中、彼は心臓発作を起こして亡くなりました。
 1927年、ある講演会で彼はこう語っています。
「もし輪廻というものが実際に存在し、再びこの世に生まれてきたら、わたしは自分のつくったものを全部こわしてしまうであろう」
 なぜ彼はこんなことを語ったのか?
 どうやら彼は自分が創設したオリンピックは、様々な面で不正がはびこる場になり、純粋なスポーツマン・シップを発揮する場ではなくなりつつあることに気づいていたようです。このまま行けば、オリンピックはまったく違うものになったしまうのではないか?そのことを彼は恐れていたようです。ただし、彼は体操教育に力を入れていたプロシヤのやり方に憧れていて、ヒトラーのファンでもあったらしく、ベルリン・オリンピックを絶賛していたとも言われています。そうなると、彼が理想としていたオリンピックはどうも怪しげなものになりそうです。・・・
 21世紀の今、オリンピックを見たら、彼はどう思うでしょうか?
「パラリンピック」の誕生
 「パラリンピック」の原点となったのは、車イスを使用する傷痍軍人たちによるアーチェリー大会でした。その大会が行われたのは、イギリス南東部バークシャー州のストーク・マンデビル病院でした。第二次世界大戦で負傷した兵士が数多く入院し、リハビリを行っていたその病院に新たにつくられた脊髄損傷科、その初代科長となった医師ルートヴィッヒ・グットマンが、その発案者でした。(彼はユダヤ系のドイツ人でしたが、ヒトラーによるユダヤ人迫害を逃れいち早くイギリスに亡命していました)
「失われたものを数えるな、残された機能を最大限に生かせ」

 彼は患者たちに常にそう語りかけ、車イスを使ったスポーツとしてポロ、卓球、バスケットなどを患者たちに奨励し、それによって単なるリハビリではない生きる目標を与えることを考えたのです。そして、その集大成であり、目標となるべく考えられたのが「パラリンピック」だったのです。
 1948年7月28日にロンドンで開催された戦後初のオリンピック。その開会式に合わせて病院で行われた男子14名、女子2名による車イスによるアーチェリー大会、ストーク・マンデビル競技大会が、「パラリンピック」の原点となりました。これが他の国や施設にも広がることで、参加者が増えることになり、1952年の大会は130人が参加する国際大会となりました。
 1960年、グットマンを会長としてイギリス、オランダ、ベルギー、イタリア、フランス5カ国が参加した国際ストーク・マンデビル大会委員会が設立されました。この年に開催されたローマ・オリンピックの直後に同じローマにおいて国際ストーク・マンデビル大会が開催され、23カ国400人が参加。これが後に第一回パラリンピックと呼ばれることになります。
 1964年の東京オリンピックでも閉会式の2週間後に第二回のパラリンピックが開催され、ここで初めて「パラリンピック」という呼び名が登場しました。それは、脊髄損傷などによる下肢の麻痺を表す「パラプレジア」という言葉と「オリンピック」を組み合わせることで生まれた言葉でした。
 この大会に出場した日本人選手53人中50人は、病院で療養生活を送っている「入院患者」でしたが、欧米の選手たちのほとんどは仕事を持ち、社会生活を自立して送っていました。日本人選手たちだけでなく大会関係者もまたそのことに大きな衝撃を受けたといいます。
 「パラリンピック」という名前が正式名称となったのは、1988年のソウル大会からでしたが、その意味は「もうひとつのオリンピック」であり、「パラレル(並行した)」でもありました。この時、すでに「パラリンピック」の存在は、世界中に認知されるようになっていたのです。
「日本のオリンピック参加」と嘉納治五郎 
<嘉納治五郎>
 日本のオリンピック参加を実現させた嘉納治五郎は、1860年(万延元年)10月28日に兵庫県武庫郡に生まれました。万延元年ということは、まだ江戸時代のことで、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の年でもあります。さらには、咸臨丸が日米修好通商条約批准のための遣米使節に随行するために太平洋を渡った年でもありました。まさに彼は幕末という日本史最大の混乱期を生きた教育者であり、成功者でもありました。
 10歳の時に母親を失った彼は、東京に出ていた父親のもとで暮らすことになり、漢学を学び始めることになりました。13歳で神田にあった洋学者、筧作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英語を習得します。
 15歳で官立外国語学校に入学した彼は、翌年には開成学校(後の東京大学)に入学します。こうして10代で英語をマスターした秀才の彼ですが、病弱だったため、それを克服しようと柔術を学び始めます。すると彼は様々なスポーツに興味を持つようになり、器械体操、ランニング、ボート、水泳、野球、登山、野球などに挑戦。その中でチームスポーツが苦手な彼が選んだのが、柔術だったようです。
 彼は出来たばかりの東京帝国大学の政治学科と理財科を卒業した後、道義学(道徳)と審美学(美とは何ぞや学)を研究します。これらの学問は、彼が後に柔術に「道徳」や「美学」を持ち込むことで「柔道」という新たな武道のスタイルを生み出す基礎なったようです。
 卒業後、彼は教師として、学習院で英語と経済学を教えていましたが、柔術を教えるためにお寺の借りて「嘉納塾」を開きます。そして、新たな流派として「柔道」を提案し、道場には「講道館」という名前が付けられることになりました。
 1888年(明治21年)彼が率いる講道館のメンバーは、警視庁武道大会に出場し、警視庁の主流だった戸田流柔術との対決に勝利します。この結果により、講道館の「柔道」は、日本における柔術の主流派となり、それは現在にまでつながっています。
 彼は講道館のトップであり続けながら、学習院の教授、熊本第5高等中学校長、第1中学校長、文部省普通学務局長、東京高等師範学校校長へと上り詰めます。そんな頃、彼は駐日フランス大使オーガスト・ジェラールから会見を申し込まれます。
<オリンピックへの出場に向けて>
 1909年の春、ジェラール大使は、彼にアジアにまだいなかった国際オリンピック委員会(IOC)のメンバーになったほしいというクーベルタン男爵からの依頼状を届けます。当時、オリンピックは日本国内でも政府内部でもまったく認知されていなかったため、彼は私費を使って、その仕事を引き受けることになりました。もし、講道館が経営的に大きな成功を収めていなければ、日本のオリンピックへの参加はもっと後のことになったでしょう。
 委員への就任を受けた彼には、すぐに動かなければならない仕事が待っていました。それは3年後の1912年に開催されることが決まっていたストックホルム・オリンピックに日本から選手団を参加させることでした。それまで、日本にはオリンピック委員会がないだけでなく、様々な種目における統括団体もほとんどなく、選手の数もレベルもルールも世界レベルには程遠かったのですから、3年でそれを準備するのは大変な仕事だったはずです。
 日本でオリンピック委員会を立ち上げる準備も大変でした。文部省は体育教育の普及すら進められずにいて、オリンピックどころではありませんでした。日本体育協会という全国的な組織はありましたが、その組織は体操教師を育てるための仕事を統括するのが役割で、選手の育成や選考は畑違いであると断られます。そこで彼は、東京帝国大学の総長、浜尾新、早稲田大学学長、高田早苗、慶應義塾大学塾長、鎌田栄吉らの協力を得て、第1回の委員会を1911年春に開催します。そして、7月に大日本体育協会が立ち上げられました。しかしこの当時、日本で行われていたスポーツはまだ限られたものでした。
 野球、サッカー、テニス、陸上競技、水泳、ボート、ホッケー、スキー、スケートなどですが、どれも用具は世界基準とは程遠いものばかりでした。テニスも軟式で、陸上競技も運動会が基本、水泳も古式泳法が主流でクロールはまだ未知の泳法でした。とはいえ、翌年に開催されるストックホルム大会に出場選手を送り込むためには、選手選考のための予選会を開かなければなりません。結局、オリンピックには陸上の選手だけを出場させることに決まり、そのための準備が始まります。
<予選会>
 当時は陸上競技を世界標準で行うための競技場もなかったので、先ずはそのためのトラックを有する競技場が急遽、羽田に建設されました。そこに造られた1周400mのトラックを使い、陸上競技の代表選手を先行するための競技会が行われることになり、そのための募集が行われます。その参加資格は以下のようなものでした。
(1)年齢は16歳以上
(2)学生であり紳士に恥じざる者
(3)中学校またはこれと同等と認められた諸学校の生徒
(4)中学校以上の諸学校の先生及びかつて在学した者
(5)在郷軍人会会員
(6)地方青年団員、その他の者で市町村長の推薦状を持った者
 さらに出場者のレベルを保つため、世界記録が参考に公表されています。
<100m走>10秒48
<200m走>21秒36
<400m走>48秒24
<マラソン>2時間59分45秒
<走り幅跳び>7m69cm
<走り高跳び>1m98cm
<棒高跳び>3m94cm
 全国から予選会参加のために集まったのは、91名。(少ないでしょうが、その程度の認知度だったということです)
 マラソンに参加したのは、19名で、優勝者の金栗四三のタイムは2時間32分45秒だったのですが、実は3位までが全員世界新記録でした。(この記録は本当に正しい測定が行われていたのか?疑問は未だにあるようですが・・・)
 結局、日本を代表してオリンピックに出場することになったのは、マラソンの優勝者金栗と短距離走者の三島弥彦の二人だけと決まりました。実は、この時、選ばれた選手もまた自分の役割を把握できずにいました。三島は、自分が選ばれたことを喜んだものの、オリンピックにどれほどの価値があるのか?まったく理解できず、自身が通う東大の総長にこう尋ねたそうです。
「たかがかけっくらをやりに外国くんだりまで出かけるのは、東京帝大の学生にとってどれほどの価値があるのでしょうか?」
<ストックホルム・オリンピック開会式>
 1912年7月6日、オリンピックに初参加した日本代表の選手団は27カ国3000人の代表たちと共に開会式に臨みます。この時、ストックホルムの会場となったスタジアムには、4万人の観衆が入り、彼らに大声援を送りました。まさかそれだけの人々が注目する大会だとは思っていなかった日本選手は緊張してしまい、何が何だかわけがわからないまま入場行進に参加。そして、その緊張はそのまま競技が開始されても収まらず、あっという間に個々の選手は敗退し、まったく結果を残せないまま大会は終わってしまいました。
 嘉納団長は、そんな選手たちを責めることはなく、逆に「第一歩を踏み出すために、どうすれば良いのかを学べればそれでいい」とねぎらいの言葉をかけたといいます。
<その後の嘉納治五郎>
 1936年に合わせて開催されたIOCの総会に出席した彼は、1940年のオリンピックを東京に誘致することに成功します。さらに1938年のカイロで行われたIOC総会ではその次の冬季オリンピックを札幌で開催することも決定します。しかし、このカイロでの会議の後、彼はアテネを訪れ、その後、アメリカ大陸を横断。バンクーバーから氷川丸に乗って帰国する途中、疲労のためもあり、急性肺炎となり、それが悪化してしまいます。
 5月4日、日本に到着する直前に船上で息を引き取ります。享年79歳。
 彼こそ、スポーツに人生を捧げた最初の日本人だったといえるでしょう。
:
<参考>
「近代オリンピックのヒーローとヒロイン」
 2016年
(著)池井優
慶応義塾大学出版会(株)

20世紀スポーツの歴史へ   トップページへ