20世紀を代表するスポーツ・イベントの誕生
オリンピックの歴史(1)


- 古代オリンピック、近代オリンピック、幻の「女子オリンピック」、パラリンピックの誕生と日本の初参加 -

- ピエール・ド・クーベルタン、ルートヴィッヒ・グットマン、アリス・ミリア、嘉納治五郎 -
古代オリンピック
 古代オリンピックの紀元前8世紀ごろ、都市国家の庇護のもと、死者を弔う目的で始まった地方の競技会。紀元前7世紀になると全ギリシャから参加者が集まるようになったいた。(開催は8月)
 もともと多神教に基づいていたために祭典では様々な神が讃えられた。しかし、紀元前5世紀初頭、オリンピア競技会は神々の王ゼウスに捧げられる4年ごとの祭典になりました。紀元前6世紀には新しい競技場が作られ4万5000人を収容する観客席が設けられました。
 当時の大会参加者のほとんどは全ギリシャ人の5%を占める自由民。軍事訓練として運動を奨励する文化が広まっていたこともあり肉体の鍛錬は日常的に行われていた。そのため、全ギリシャから多くの参加者がありました。開催期間は5日間でその後6日間となり600年間続くことになりました。
<1日目>
 審判員、選手、指導者、選手の親族がゼウス神殿に集合し、正々堂々と戦うことを宣誓します。
<2日目>
 祭壇や神殿に生贄を捧げた後、戦車競走(2~4頭立て)や一人乗りの競馬が実施されました。
<3日目>
 5種競技の日、徒競走、やり投げ、円盤投げ、重りを使った幅跳び行われ、それで勝負がつかないときにレスリングが行われました。
<4日目>
 100頭の牛を殺す祭と少年競技の日。
<5日目>
 徒競走と格闘技の日。
<徒競走>(1)直線の短距離(2)直線の往復走(3)競技場を24周する長距離走(5000m)
<レスリング>(1)カトゥン・ペール・・・砂地で行い寝技もあり(2)オルティア・ペール・・・立った姿勢で戦う
<ボクシング>後に「咬みつき」「目つぶし」以外何でもありの「パンクラティオン」が登場します。
<6日目>
 祝祭日で、選手のパレード、オリーブで作られた冠が勝者に贈られ、審判員と優勝者が聖なる祝宴に招かれました。
<プロの活躍>
 実は、オリンピアでは賞金こそ出なかったものの、プロ選手の参加や営利行為を伴って運営されることも多かったようです。けっして古代オリンピックは純粋なアマチュアリズムに基づく大会ではなかったようです。
 しかし、クーベルタンはそうした事実は認識せず、あくまでもアマチュア・スポーツの祭典であることにこだわり続けることになります。
<古代オリンピックの復活>
 古代オリンピックの記録は保存されていたため、様々な情報は明らかになっていましたが、それを復活させるという試みはほとんどありませんでした。
 17世紀のイギリスで地域限定のコッツウォルド・ゲームスが中止されて以降、「オリンピック」の語を使うスポーツの祭典はなくなってしまいます。あったとしても、それは村や町単位の小さなものだけでした。
<フランスでの復活>
 フランス共和国誕生後、シャルル・ジルベール・ロムが、共和制の暦を制定し、4年ごとに一日の閏日が生まれたため、その日に民衆の祝祭に合わせてオリンピックを開催することを提案。これをオランピアとし、開催年をオリンピックイヤーと呼ぶことにします。競技としては、ランニング、レスリングだけでなく音楽やダンスも提案され、1796年パリで人民のためのスポーツの祭典「共和国オリンピック」が開催され、フランス中が盛り上がりをみせました。しかし、1799年にナポレオン3世が権力を握り、共和国の体制が崩れて以降、オリンピックの歴史は再び途絶えることになりました。
<イギリスでの復活>
 1850年イギリスのシュロップシャー州の小さな町マッチ・ウェンロックで「マッチ・ウェンロック・オリンピック・ゲームス」が開催されました。地元の祭りと運動会を兼ねたような内容。古代オリンピックを参考にした5種競技もあり、古代オリンピックを意識した内容もありました。
<ギリシャでの復活>
 1859年ギリシャで国内のオリンピックとして第一回「ザッパス・オリンピア競技会」が開催されました。ギリシャの海運王エヴァンゲロス・ザッパスが資金を提供して行われ、一か月に及ぶ産業博覧会や芸術祭の一部でした。徒競走、騎馬、戦車レース、円盤投げ、槍投げなどが行われました。大会には国王、王妃が列席し、優勝者は「オリンピック・チャンピオン」としてメダルと賞金が用意されました。ザッパスがこの世を去ったこともあり、1875年の第三回で中止になりました。
「オリンピックの父」と第一回オリンピック・アテネ大会
 <クーベルタンと近代オリンピック>
 「近代オリンピックの父」ピエール・ド・クーベルタン男爵 Pierre de Frédy, baron de Coubertin は、1863年1月1日フランスのパリに生まれています。彼の家は、フィレンツェのメディチ家の血をひく名門貴族の家系に属していました。陸軍士官学校を卒業後、普仏戦争が起き、フランスはプロシヤに敗北。彼はその敗因に学校教育において肉体の鍛錬が行われていないことに問題があると考えます。当時のフランスはまるで修道院のように学業だけを学ぶ場所でした。英国に留学した彼はそこで様々なスポーツと出会い、特にラグビーに熱中し、審判の資格も取得。英国の体育教育をフランスにも持ち込むことを、後に提案することになります。彼自身も、ラグビー以外にボート、器械体操、フェンシング、ボクシング、乗馬、ヨットなどに挑戦するスポーツ好きでした。
 彼はドイツ的な軍事教練的なスポーツ教育に否定的で、英国的なスポーツに共感していました。そして、彼は英国のスポーツ指導者たちの究極の目標は、自治の精神を養うことにあると理解していました。
「フランスに必要なのは兵士よりも市民である。我々の教育に必要なのは、軍国主義ではなく自由である」
クーベルタン

 大学卒業後、彼はパリ政治学院で政治学を学び、国会議員となります。そして、念願だった体育教育の導入を具体化させることになります。目標とする英国との交流を深めるため、英仏間でボートとラグビーの交流戦を実現させます。さらに、そうした体育競技のレベル向上のため、世界的な大会を開催しようと思い立ちます。そこで彼が考えたのが、かつてギリシャのアテネで行われていた古代オリンピックの復活でした。
 1881年、ドイツのオリンピア発掘隊がギリシャでオリンピア・スタジアムの遺跡を発掘。学界では古代オリンピックについての研究が急速に進んだことから、オリンピックのブームが起きました。クーベルタンはこのブームを利用し、それを現代的、国際的なイベントに変更し、現代に復活させようと考えたのです。
 1890年10月、彼はイギリスの医師ベニー・ブルックスに招待され、ウェンロック・オリンピアン・ゲームスに出席。古代オリンピックから影響を受けた競技大会に感動を受けました。いよいよ彼はオリンピックの復活に向けて本気で動き出します。
 1892年11月25日、パリのソルボンヌ大学で開催されたフランスのスポーツ競技者連合会の創立5周年記念式典で講演した彼は、オリンピック復活の構想を発表し観衆からの賛同を得ます。この時、彼はまだ29歳の若者でした。彼がそこで重要視したのは、オリンピックを単なる国際的なスポーツ大会として開催するのではなく、「国際主義」を世界に広めるためのイベントだということです。
「電信電話に鉄道、精力的な科学研究や会議や博覧会が、どんな条約や国際協定よりも平和に寄与�したことは明らかです。運動競技にはさらなる貢献が期待できます。・・・ボートと陸上競技とフェンシングの選手を輸出しましょう。そこには未来の自由貿易の姿があります。ヨーロッパの古い壁を越えてそれが導き入れられた日に、平和の種に新しく力強い支えが加わるでしょう。・・・それはあなたがたの僕である私に夢を見る勇気を与えてくれます。いまや、現代社会の状況に適した基礎のうえに、この壮大にして有益な事業、すなわちオリンピックの復興という仕事を続けて完成させることを望むには十分です。・・・」
クーベルタン
 1894年6月23日に開催された「パリ国際スポーツ会議」において、オリンピック大会の復活開催が満場一致で可決され、2年後の1896年にギリシャのアテネで第一回オリンピックが開催されることが決まりました。そして、この会議が行われた「6月23日」は現在でも「オリンピック・デー」と呼ばれています。この会議の参加国は、フランス以外にオーストリア、ベルギー、イギリス、ボヘミア、ギリシャ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、非公式でドイツ、ニュージーランド、アメリカが参加しました。
 オリンピック開催のための具体的な運営組織として、国際オリンピック委員会(IOC)が設立され、初代会長にはギリシャの実業家ヴィケラスが就任。クーベルタンは、事務総長として現場を仕切ることになります。
 当初、ギリシャは財政的に破綻の危機にあり、オリンピックの開催を拒否していました。そのため、開催に必要な費用を様々な団体、個人からの寄付によって賄うことでなんとか開催にこぎつけました。フランスの国際会議、平和主義とイギリスのスポーツ文化、ギリシャの古代オリンピアの伝統、この3つの文化の融合によって、いよいよ近代オリンピックがスタートします。

<第一回オリンピック・アテネ大会>
 第一回アテネ大会に参加したのは14カ国、選手は男子のみで241人でした。(全員男)チケットの前売りは行われず、一般大衆でも見られる価格(2階席が12セント、1階席が24セント)と抑えたこともあり、ダフ屋が登場するほどの売れ行きになったそうです。とはいえ、まだ海外からわざわざ見に来る観光客は少なく、観客の95%は地元のギリシャ人でした。
 この大会で採用されたのは、陸上競技、水泳、体操、レスリング、射撃、フェンシング、自転車、テニス、ポロの9種目で43の競技でした。プロ化が進んでいたサッカー、クリケット、ボクシング、競馬、野球は選ばれませんでした。
 アメリカの大学生たち以外は、ほとんどがブルジョア階級、貴族の子弟で、当然白人でヨーロッパか北米在住者でした。
 100m走の優勝者はアメリカのトーマス・バークでしたが、決勝で彼以外の選手は全員が立ったままスタートを切り、唯一クラウチング・スタートを切ったのがトーマスでした。
 アテネには屋内プールがなかったため、水泳は湾内に浮かぶブイの往復で行われました。観客もいないし、水温は低いし、命がけのレースになりました。優勝者のハンガリー代表のアルフレード・ハヨーシュは試合後にこう語りました。
「勝ちたいというよりは、ただただ死にたくないと思った」
<マラソンの復活>
 この大会のために誕生した唯一の競技が「マラソン」です。フランスの文献学者でクーベルタンの補佐役だったミシェル・ブレアルがヘロドトスが記録した「マラトンの戦い」の逸話がヒントとなりました。当時の戦場とアテネの約0キロを再現し、パナシナイコ・スタジアムをゴールとしたレースとなりました。
 最終日に行われた約40キロ(マラトンからアテネの距離)の距離で行われたマラソンでは、ギリシャ人のスピリドン・ルイスが見事に優勝。彼が地元ギリシャ唯一の優勝者だったこともあり、地元ギリシャのコンスタンチノス皇太子とジョージ親王は歓喜のあまり貴賓席から飛び出し、ゴールまでの200mを一緒に走ったといいます。彼はまったく無名の羊飼いだったこともあり、8万人の大観衆は驚きと歓喜に包まれました。
 実は、この大会で優勝者に与えられたのは、金メダルではありませんでした。なんと彼らに与えられたのは銀メダルとオリーブの冠、そして賞状でした。その他の上位入賞者には銅メダルと月桂樹の小枝が贈られたといいます。(第二回からは、金、銀、銅メダルとなりました)
 大会終了後、走り高跳びの優勝者エラリー・クラークはこう感想を述べています。
「あのときの古代競技会の再現とは比べものにない。アテネの土の感触。はるか昔を肌で感じる神秘的な魅力。古代の英雄の後継者たち。それにスポーツマンシップ」
 大会は大成功に終わり、その後も続くことになります。ただし、閉会式でもクーベルタンの名は紹介されず、彼は自分へのリスペクトのなさにかなり不満だったようです。

<クーベルタンのその後>
 その後、彼はIOCの会長に就任し、1924年の第8回パリ大会まで、その運営を指揮し、61歳となって会長職を辞任します。
 1936年のベルリン・オリンピックで彼は会場に行かずに蓄音機によって最後のメッセージを発しました。
「オリンピックにおいて大切なことは、勝つことではなく参加することである。ちょうど人生においてそうであるように、目的は征服することではなく、よく闘うことである」
 1937年9月2日、スイス、ジュネーブのグランジュ公園を散歩中、彼は心臓発作を起こして亡くなりました。
 1927年、ある講演会で彼はこう語っています。
「もし輪廻というものが実際に存在し、再びこの世に生まれてきたら、わたしは自分のつくったものを全部こわしてしまうであろう」
 なぜ彼はこんなことを語ったのか?
 どうやら彼は自分が創設したオリンピックは、様々な面で不正がはびこる場になり、純粋なスポーツマン・シップを発揮する場ではなくなりつつあることに気づいていたようです。このまま行けば、オリンピックはまったく違うものになったしまうのではないか?そのことを彼は恐れていたようです。ただし、彼は体操教育に力を入れていたプロシヤのやり方も評価していて、ヒトラーのファンでもあったらしく、ベルリン・オリンピックを絶賛していたとも言われています。そうなると、彼が理想としていたオリンピックはどうも怪しげなものになりそうです。・・・彼のそうした保守的な考え方はこの後、ブランデージ会長へと引き継がれることになります。
 21世紀の今、オリンピックを見たら、彼はどう思うでしょうか?

「幻の女子オリンピック」
 オリンピックの歴史には、もうひとつのオリンピックがありました。それも女子のオリンピックがかつて開催されていたことがありました。
 その女子オリンピックを主催した中心人物は、アリス・ミリアというフランス人の女性でした。 
 アリス・ミリア Allice Milliat は、1884年にフランスのナントに生まれています。彼女は結婚前はボートの選手として活躍していましたが、夫と死別後は、女性スポーツの振興に人生を捧げる道を歩みます。フランスで最初の女子スポーツクラブ「フェミナ」の会長に就任した後、フランス女子スポーツクラブ連盟FSFSFの会計を担当した後、会長に就任。
 1917年末、彼女はIOCに手紙を出し、アントワープ大会で女性が参加できる種目を増やしてほしいと提案。ところが、保守的なクーベルタンは女性がスポーツをすることに否定的だったため、女性が出場できる種目を増やそうとはしませんでした。IOCの対応に幻滅した彼女は、自力で女性のためのオリンピックを開始することを決意します。
 1921年、彼女はFSFSF主催の「国際女子競技大会」をモナコのモンテカルロで開催します。参加国は、フランス、イギリス、イタリア、ノルウェー、スウェーデン。この大会は成功し、それを機に国際女子スポーツ連盟FSFIが設立されました。初代会長に就任したのは、やはりミリアでした。
 翌1922年、FSFIはパリで第一回女子オリンピックを開催。わずか1日だけの大会で陸上競技だけが行われましたが、5カ国から77名の参加があり、2万人の観客を集めました。
 1925年、IOCはクーベルタンからアンリ・ド・バイエ=ラトゥール伯爵へ会長を交代。しかし、新会長もまた女子のスポーツ参加には否定的でした。そのため、当初は女子のオリンピックを公認とし、男子と女子のオリンピックを分ける方が良いと考えていたようです。
 1926年、FSFIは第二回女子オリンピックをスウェーデンのイエーテボリで開催。このまま女子オリンピックが盛り上がれば、本家であるオリンピックの勢いがそがれかねない。そう考えた国際陸上競技連盟IAAFの会長ジークフリード・エドストレームは、妥協案としてオリンピックの陸上の競技のいくつかを女性が出場できるようにしようと提案します。
 ところが、その提案をミリアは拒否します。
「すべての種目に女子を参加させてもらわなくては納得出来ません。女子の陸上競技はすでにその価値が認められており、オリンピック委員会の実験に使われるまでもないからです」アリス・ミリア
 それでもミリアが技術役員として参加した1928年のアムステルダム大会には、25カ国から290名の女子選手が参加。アントワープ大会の4倍増となりました。この大会では体操競技と五種目の陸上が女性が参加できる種目に追加されています。そして、この大会の800m走で銀メダルを獲得したのが日本女子初のメダリスト人見絹枝でした。
 ただし、この800m走ではゴール後に選手が次々と倒れるという事件が起きました。(酸欠によるものでしょう)そのため、800m走は危険すぎるとして800m走は1960年まで女子の種目からはずされることになりました。こうした事件もまた女子にはスポーツは向かないという偏見の原因になったのでしょう。
 その後、FSFIは、IAAFに所属することを認めたこともあり、1930年開催のプラハ大会、1934年のロンドン大会で「オリンピック」の名前は使わなくなります。
 1936年、フランス政府がFSFIへの助成金給付をやめたため、資金不足となったFSFIは次第に活動が縮小。さらに精神的主柱的存在だったミリアが引退したため、活動は休止状態となります。
 しかし、すでにオリンピックにおける女子選手出場の流れは止められないものとなっており、ミリア亡き後も、女子選手の数は増え続けることになります。
「パラリンピック」の誕生
 「パラリンピック」の原点となったのは、車イスを使用する傷痍軍人たちによるアーチェリー大会でした。その大会が行われたのは、イギリス南東部バークシャー州のストーク・マンデビル病院でした。第二次世界大戦で負傷した兵士が数多く入院し、リハビリを行っていたその病院に新たにつくられた脊髄損傷科、その初代科長となった医師ルートヴィッヒ・グットマンが、その発案者でした。(彼はユダヤ系のドイツ人でしたが、ヒトラーによるユダヤ人迫害を逃れいち早くイギリスに亡命していました)
「失われたものを数えるな、残された機能を最大限に生かせ」

 彼は患者たちに常にそう語りかけ、車イスを使ったスポーツとしてポロ、卓球、バスケットなどを患者たちに奨励し、それによって単なるリハビリではない生きる目標を与えることを考えたのです。そして、その集大成であり、目標となるべく考えられたのが「パラリンピック」だったのです。
 1948年7月28日にロンドンで開催された戦後初のオリンピック。その開会式に合わせて病院で行われた男子14名、女子2名による車イスによるアーチェリー大会、ストーク・マンデビル競技大会が、「パラリンピック」の原点となりました。これが他の国や施設にも広がることで、参加者が増えることになり、1952年の大会は130人が参加する国際大会となりました。
 1960年、グットマンを会長としてイギリス、オランダ、ベルギー、イタリア、フランス5カ国が参加した国際ストーク・マンデビル大会委員会が設立されました。この年に開催されたローマ・オリンピックの直後に同じローマにおいて国際ストーク・マンデビル大会が開催され、23カ国400人が参加。これが後に第一回パラリンピックと呼ばれることになります。
 1964年の東京オリンピックでも閉会式の2週間後に第二回のパラリンピックが開催され、ここで初めて「パラリンピック」という呼び名が登場しました。それは、脊髄損傷などによる下肢の麻痺を表す「パラプレジア」という言葉と「オリンピック」を組み合わせることで生まれた言葉でした。
 この大会に出場した日本人選手53人中50人は、病院で療養生活を送っている「入院患者」でしたが、欧米の選手たちのほとんどは仕事を持ち、社会生活を自立して送っていました。日本人選手たちだけでなく大会関係者もまたそのことに大きな衝撃を受けたといいます。
 「パラリンピック」という名前が正式名称となったのは、1988年のソウル大会からでしたが、その意味は「もうひとつのオリンピック」であり、「パラレル(並行した)」でもありました。この時、すでに「パラリンピック」の存在は、世界中に認知されるようになっていたのです。
「日本のオリンピック参加」と嘉納治五郎 
<嘉納治五郎>
 日本のオリンピック参加を実現させた嘉納治五郎は、1860年(万延元年)10月28日に兵庫県武庫郡に生まれました。万延元年ということは、まだ江戸時代のことで、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の年でもあります。さらには、咸臨丸が日米修好通商条約批准のための遣米使節に随行するために太平洋を渡った年でもありました。まさに彼は幕末という日本史最大の混乱期を生きた教育者であり、成功者でもありました。
 10歳の時に母親を失った彼は、東京に出ていた父親のもとで暮らすことになり、漢学を学び始めることになりました。13歳で神田にあった洋学者、筧作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英語を習得します。
 15歳で官立外国語学校に入学した彼は、翌年には開成学校(後の東京大学)に入学します。こうして10代で英語をマスターした秀才の彼ですが、病弱だったため、それを克服しようと柔術を学び始めます。すると彼は様々なスポーツに興味を持つようになり、器械体操、ランニング、ボート、水泳、野球、登山、野球などに挑戦。その中でチームスポーツが苦手な彼が選んだのが、柔術だったようです。
 彼は出来たばかりの東京帝国大学の政治学科と理財科を卒業した後、道義学(道徳)と審美学(美とは何ぞや学)を研究します。これらの学問は、彼が後に柔術に「道徳」や「美学」を持ち込むことで「柔道」という新たな武道のスタイルを生み出す基礎なったようです。
 卒業後、彼は教師として、学習院で英語と経済学を教えていましたが、柔術を教えるためにお寺の借りて「嘉納塾」を開きます。そして、新たな流派として「柔道」を提案し、道場には「講道館」という名前が付けられることになりました。
 1888年(明治21年)彼が率いる講道館のメンバーは、警視庁武道大会に出場し、警視庁の主流だった戸田流柔術との対決に勝利します。この結果により、講道館の「柔道」は、日本における柔術の主流派となり、それは現在にまでつながっています。
 彼は講道館のトップであり続けながら、学習院の教授、熊本第5高等中学校長、第1中学校長、文部省普通学務局長、東京高等師範学校校長へと上り詰めます。そんな頃、彼は駐日フランス大使オーガスト・ジェラールから会見を申し込まれます。
<オリンピックへの出場に向けて>
 1909年の春、ジェラール大使は、彼にアジアにまだいなかった国際オリンピック委員会(IOC)のメンバーになったほしいというクーベルタン男爵からの依頼状を届けます。当時、オリンピックは日本国内でも政府内部でもまったく認知されていなかったため、彼は私費を使って、その仕事を引き受けることになりました。もし、講道館が経営的に大きな成功を収めていなければ、日本のオリンピックへの参加はもっと後のことになったでしょう。
 委員への就任を受けた彼には、すぐに動かなければならない仕事が待っていました。それは3年後の1912年に開催されることが決まっていたストックホルム・オリンピックに日本から選手団を参加させることでした。それまで、日本にはオリンピック委員会がないだけでなく、様々な種目における統括団体もほとんどなく、選手の数もレベルもルールも世界レベルには程遠かったのですから、3年でそれを準備するのは大変な仕事だったはずです。
 日本でオリンピック委員会を立ち上げる準備も大変でした。文部省は体育教育の普及すら進められずにいて、オリンピックどころではありませんでした。日本体育協会という全国的な組織はありましたが、その組織は体操教師を育てるための仕事を統括するのが役割で、選手の育成や選考は畑違いであると断られます。そこで彼は、東京帝国大学の総長、浜尾新、早稲田大学学長、高田早苗、慶應義塾大学塾長、鎌田栄吉らの協力を得て、第1回の委員会を1911年春に開催します。そして、7月に大日本体育協会が立ち上げられました。しかしこの当時、日本で行われていたスポーツはまだ限られたものでした。
 野球、サッカー、テニス、陸上競技、水泳、ボート、ホッケー、スキー、スケートなどですが、どれも用具は世界基準とは程遠いものばかりでした。テニスも軟式で、陸上競技も運動会が基本、水泳も古式泳法が主流でクロールはまだ未知の泳法でした。とはいえ、翌年に開催されるストックホルム大会に出場選手を送り込むためには、選手選考のための予選会を開かなければなりません。結局、オリンピックには陸上の選手だけを出場させることに決まり、そのための準備が始まります。
<予選会>
 当時は陸上競技を世界標準で行うための競技場もなかったので、先ずはそのためのトラックを有する競技場が急遽、羽田に建設されました。そこに造られた1周400mのトラックを使い、陸上競技の代表選手を先行するための競技会が行われることになり、そのための募集が行われます。その参加資格は以下のようなものでした。
(1)年齢は16歳以上
(2)学生であり紳士に恥じざる者
(3)中学校またはこれと同等と認められた諸学校の生徒
(4)中学校以上の諸学校の先生及びかつて在学した者
(5)在郷軍人会会員
(6)地方青年団員、その他の者で市町村長の推薦状を持った者
 さらに出場者のレベルを保つため、世界記録が参考に公表されています。
<100m走>10秒48
<200m走>21秒36
<400m走>48秒24
<マラソン>2時間59分45秒
<走り幅跳び>7m69cm
<走り高跳び>1m98cm
<棒高跳び>3m94cm
 全国から予選会参加のために集まったのは、91名。(少ないでしょうが、その程度の認知度だったということです)
 マラソンに参加したのは、19名で、優勝者の金栗四三のタイムは2時間32分45秒だったのですが、実は3位までが全員世界新記録でした。(この記録は本当に正しい測定が行われていたのか?疑問は未だにあるようですが・・・)
 結局、日本を代表してオリンピックに出場することになったのは、マラソンの優勝者金栗と短距離走者の三島弥彦の二人だけと決まりました。実は、この時、選ばれた選手もまた自分の役割を把握できずにいました。三島は、自分が選ばれたことを喜んだものの、オリンピックにどれほどの価値があるのか?まったく理解できず、自身が通う東大の総長にこう尋ねたそうです。
「たかがかけっくらをやりに外国くんだりまで出かけるのは、東京帝大の学生にとってどれほどの価値があるのでしょうか?」
<ストックホルム・オリンピック開会式>
 1912年7月6日、オリンピックに初参加した日本代表の選手団は27カ国3000人の代表たちと共に開会式に臨みます。この時、ストックホルムの会場となったスタジアムには、4万人の観衆が入り、彼らに大声援を送りました。まさかそれだけの人々が注目する大会だとは思っていなかった日本選手は緊張してしまい、何が何だかわけがわからないまま入場行進に参加。そして、その緊張はそのまま競技が開始されても収まらず、あっという間に個々の選手は敗退し、まったく結果を残せないまま大会は終わってしまいました。
 嘉納団長は、そんな選手たちを責めることはなく、逆に「第一歩を踏み出すために、どうすれば良いのかを学べればそれでいい」とねぎらいの言葉をかけたといいます。
<その後の嘉納治五郎>
 1936年に合わせて開催されたIOCの総会に出席した彼は、1940年のオリンピックを東京に誘致することに成功します。さらに1938年のカイロで行われたIOC総会ではその次の冬季オリンピックを札幌で開催することも決定します。しかし、このカイロでの会議の後、彼はアテネを訪れ、その後、アメリカ大陸を横断。バンクーバーから氷川丸に乗って帰国する途中、疲労のためもあり、急性肺炎となり、それが悪化してしまいます。
 5月4日、日本に到着する直前に船上で息を引き取ります。享年79歳。
 彼こそ、スポーツに人生を捧げた最初の日本人だったといえるでしょう。
:
<参考>
「近代オリンピックのヒーローとヒロイン」
 2016年
(著)池井優
慶応義塾大学出版会(株)

「オリンピック全史 The Games」 2016年
A Global History of the Olimpics
(著)デヴィッド・ボールドブラット David Goldblatt
(訳)志村昌子、二木夢子
原書房

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