- オスカー・ピーターソン Oscar Peterson -

<ジャズの王道を行く男>
 ジャズの歴史に残る大物たちといえば、それぞれ強い個性をもつ天才たちばかりです。その点では、オスカー・ピーターソンほど、ジャズの王道を貫き続け、なおかつトップを走り続けたアーティストは珍しいでしょう。一歩間違えば、オールドスタイルのジャズ・ピアニストとして、懐かしの存在になってもおかしくない存在でした。
 同時代のジャズ・ミュージシャンに対し、麻薬への依存や不道徳な生活の数々を厳しく批判し、ジャズの街ニューヨークについても「けっしてジャズの都ではない」と冷めた目で見るなど、ジャズ界で最も堅物のミュージシャンとも言える存在でした。それだけにミュージシャンたちの間から煙たがられる存在になりそうですが、けっしてそうではなく周りからの尊敬を受ける存在となっているようです。彼がある意味ジャズ界におけるお目付け役として認められているのは、彼がカナダ生まれカナダ育ちのジャズ・ミュージシャンという異色の存在だからなのかもしれません。
 人種差別の少ないカナダ育ちであることから、黒人として差別されることがあまりなかった彼は、アメリカ育ちのジャズ・ミュージシャンに比べ、その演奏に「黒っぽさ」が少ないといわれます。おまけにクラシックのミュージシャンを目指していただけに、テクニックは確かで、それに誰にも負けない練習量が加えられたことでジャズ界でも屈指のピアニストが誕生することになったのでした。人種差別を知らない分、黒人であるという特殊性に溺れず自分を律し続けたことが、彼の人生に大きな影響を与えたのかもしれません。

<生い立ち>
 オスカー・ピーターソンは、1925年8月15日カナダのモントリオールで生まれています。彼の両親は西インド諸島の出身でアメリカとは縁のない家系だったといえます。おまけに彼は兄の影響もあり、トランペットを吹くようになりますが、それはジャズを演奏するためでなくクラシックを演奏するためでした。その後、彼は結核を患ってしまったため、トランペットを吹くことが困難になり、ピアノに転向します。クラシックの演奏家を目指していた彼は、1日18時間ピアノに向かっていたという伝説があるほど熱心にピアノを練習しました。そのおかげで、彼はピアノ・コンクールなどで見事にな成績をおさめるようになります。しかし、人種差別の存在を知らなかった彼に、ここで始めてその壁が立ちはだかります。音楽界の中でも最も保守的なクラシックの世界において、黒人アーティストが成功することはいかに困難なことか、彼は思い知ることになったのです。(21世紀になった今でも、クラシックの世界で黒人ミュージシャンが活躍した話はめったに聞きません)

<ジャズとの出会い>
 クラシック・ミュージシャンになることに挫折しかかっていた頃、彼は当時人気絶頂だったジャズ・ピアニスト、アート・テイタムの演奏を聞き衝撃を受け、「これこそ自分が進むべき道だ!」と決断することになりました。ジャズの世界に進むことを決心した彼は、再び猛練習を始め、クラシックで鍛えたピアノのテクニックを生かし、ジャズ・ピアノに挑戦。すぐにその基本をマスターします。20歳になった頃には、プロのジャズ・ピアニストとして、スタジオ・ミュージシャンなどで活躍していました。ところが意外なことに、彼はジャズ・ミュージシャンとして本場アメリカで活躍しようという気はなかったようです。そのままでは、彼はカナダの一ミュージシャンとして埋もれたままだったかもしれません。

<ジャズの本場アメリカへ>
 そんなある日、ヴァーヴ・レコードの創設者兼プロデューサーのノーマン・グランツがカナダで乗ったタクシーの中で、偶然オスカー・ピーターソンのピアノを耳にしました。ラジオから聞こえてきた彼の演奏が気に入ったグランツは、そのまま放送局に直行し。彼をアメリカに呼び寄せるための交渉を開始しました。ところが、オスカーはアメリカへの招待を受けようとしませんでした。しかし、グランツもあきらめずに交渉を続け、3年後、やっと彼はその気になりました。
 アメリカでの活動を助けるため、グランツは彼の右腕になる存在レイ・ブラウン Ray Brown(ベーシスト)をメンバーとして参加させ、先ずはデュオとしてデビュー。その後、ヴァーヴ・レコードの専属ミュージシャンとしてチャーリー・パーカーの「Night and Day」(1950年)、ベン・ウェブスターの「King of the Tenor」(1953年)などの録音に参加しながら経験を積んだ後、ドラムレスのギター・トリオとしてアルバム「シェークスピア・フェスティバルのオスカー・ピーターソン」を発表。このアルバムは、レイ・ブラウンのベースとハーブ・エリスのギターとともに素晴らしいスウィング感を生み出すことで高い評価を得ました。アルバム中の「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」は特に名演と呼ばれています)

<黄金時代突入!>
 1959年、彼はギターをエド・シグペンのドラムスに代えて新しいトリオを結成します。彼の代表作となったアルバム「The Trio」(1961年)や「プリーズ・リクエスト We Get Requests」(1964年)を発表。それらのアルバムのヒットにより、この時代、彼らは「黄金のトリオ」と呼ばれることになりました。
 1965年発表のアルバム「オスカー・ピーターソン・トリオ・プラス・ワン」も評価の高い作品です。ピーターソン、ブラウン、シグペンによる絶頂期のトリオにクラーク・テリーが参加したこのアルバムもクールなアドリブを聞かせる間違いない作品として楽しめる作品に仕上がっています。
 1966年発表の異色作「ソウル・エスパニョール Soul Espanol」もまた素敵なアルバムです。このアルバムは、彼のピアノにサム・ジョーンズのベース、ルイ・ヘイズのドラムスというトリオに加えて、3人のパーカッションが参加。(パーカションのハロルド・ジョーンズ、ティンバレスのマーシャル・トムソン、コンガのヘンリー・ギブソン)サンバ、ボサノヴァのカバーを中心とするラテン音楽アルバムになっています。もちろん生真面目なオスカー・ピーターソンだけに、このアルバムは単にブームに乗っただけの作品ではなく、ちゃんとしたジャズ・アルバムとして完成されたものになっています。(映画「黒いオルフェ」から「カーニバルの朝」、「オルフェのサンバ」やジョルジ・ベン作でセルジオ・メンデス&ブラジル66の大ヒット「マシュ・ケ・ナダ」、アントニオ・カルロス・ジョビンの「メディテイション」など)
 1968年、彼にとってもう一つの代表作といえるピアノ・ソロ・アルバム「My Favourite Instrument」を発表。このアルバムで聞けるのは、誰もが安心して楽しめるジャズの王道ともいえるサウンドです。そこで展開されている彼のピアノ・スタイルは、誰よりも原曲に忠実といわれる保守本流スタイルといえます。しかし、それでもなお聞く者を飽きさせないのは、彼が長年積み重ね、身につけてきた誰にも負けないテクニックのなせる業なのでしょう。
 1970年代に入ると、彼は恩師グランツが興した新レーベル「パブロ Pablo」に移籍。そこで自らの作品以外にもピアニストとして、他のアーティストたちの作品にも数多く参加。1973年発表のアルバム「オスカー・ピーターソン With ジャー・パス&ペデルセン」は、ジョー・パスのギターとニールス・ペデルセンのドラムスというパブロ・レーベルを代表するテクニシャン二人との共演作品として、この時代を代表する傑作です。

<1980年代以降>
 1980年代以降も、彼は新しいトリオを率いて活躍を続けています。また、何度となく来日コンサートを行なっており、親日家としても知られてます。1993年、彼は脳梗塞で倒れてしまいますが、一命をとりとめ、リハビリの後、その後見事に復活し、再びピアノを弾き始めました。
 若い頃から、練習が好きで、音楽に対して誰寄りも真摯に取り組み続けた彼の姿勢は、多くのミュージシャンからの尊敬を集めました。ジャズの黄金時代を生きた多くのミュージシャンたちが、20世紀末に次々とこの世を去る中、彼はジャズの歴史とともに生きた大御所として21世紀まで活躍を続けることになりましたが、2007年12月23日、ついに自宅で静かに息を引き取りました。

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