- 押井 守 Mamoru Oshi -

<映像作家、押井守>
 押井守と言えば、オタク系のカリスマ・アニメーション作家、そう思っている方が多いと思います。僕も以前は実際そう思っていたし、「うる星やつら」以外、彼の作品を見たこともなく、ほとんどノーマークに近い作家でした。それが映画館で「イノセンス」を見て驚かされ、その後「攻殻機動隊」の映画版とテレビ・シリーズ、それに「機動警察パトレイバー」を見て、完全にはまってしまいました。
 そして、彼のことを調べはじめたところ、実は彼は「アニメ作家」というより「映像作家」と呼ぶべきだということを知りました。実際彼はアニメ以外の実写映画作品を何本も撮っているのです。
 彼にとってアニメーションは、たまたま仕事上出会った表現スタイルでしたが、不振の日本映画業界の中で唯一黙っても作品製作の依頼がくる恵まれたジャンルでもありました。だからこそ、アニメの世界ではとことん細部にこだわることが許され、難解で哲学的なストーリー展開も許されたのです。たぶん「イノセンス」を実写とCGを使うことで撮れたとしても、映画会社はその企画にお金は出さなかったと思います。実写版「イノセンス」は一歩間違うとロシアが生んだ偉大な映像作家タルコフスキー作品のように難解なものとして受け取られる可能性が高いからです。実際、彼の実写作品「アヴァロン」はそれに近い作品でした。(どうやら、彼は本当にタルコフスキー監督のファンなようです)
 宮崎駿が小さな子供たちの心をつかまえ、巨大な市場を獲得して行く中、押井守はそれとは逆に秋葉系を中心とした限られたファン層に受ける作家として活躍を続けています。(実は、秋葉系のアニメ・ファンから彼はけっこう批判されているのですが、・・・)宮崎駿が、毎回「これが最後の映画だ」という感じに煮詰まった映画作りに苦しんでいるのに比べると、押井守はメガ・ヒットを求められず、なおかつこだわりを許される自由度の高い創作活動を許されているのかもしれません。(もちろん、制作過程における苦労は変わらないのでしょうが、・・・)
 日本よりも海外の方が未だに評価が高いアニメ界のカリスマ、押井守とはいったいいかなる人物なのでしょうか?

<学生運動とSF小説、そして映画>
 押井守は1951年8月8日東京大田区大森に生まれました。小学生の頃、失業中だった父親に週に4,5回は映画館に連れて行かれたという押井少年は、高校に入ると今度はSF小説にはまります。同時に1967年に起きた羽田闘争をきっかけに学生運動にはまり、本気で内戦に向けた準備をしていたといいます。(当時は高校生でも真面目に革命に参加しようとしていた時代でした。小学生の僕ですら東大に立て籠もる学生たちを応援していたぐらいですから・・・)
「SFと闘争の二本立てで妄想を膨らましながら、山手線をぐるぐる回っているという日常を送っていた。革命と言うよりも、戦争、内戦を切望していた。・・・」
押井守

 私服の刑事が家に来たことで、彼の目論見が父親にばれると、彼はあの有名な大菩薩峠にある山小屋に一ヶ月の間彼を軟禁されます。この空白期間によって、彼は怒濤のような時代の流れからあっという間に取り残されてしまいました。この時、彼が取り残され、そのためにやり残した悔しさは、後の彼の作品に大きな影響を与えることになります。
 彼の作品に登場するアナーキーなキャラクターたちは、この時彼がやり残した思いを引き継ぐ分身だと言えるのでしょう。「うる星やつら」のメガネや「攻殻機動隊」の「人形使い」、「笑い男」などはその典型とも言えるキャラクターです。

<映画の道へ>
 その後、彼は東京芸大に入学。そこで映画研究会に入部します。しかし、他の部員たちと喧嘩してすぐに退部。友人と「映像美術研究会」というサークルを設立します。すでにこの頃から、彼は妥協することを良しとしない強い意志をもっていたようです。
 再び映画館通いを始めた彼は、ありとあらゆる映画を見まくりました。その数、年に1000本だったとか!(ビデオもDVDもない時代なので、当然すべて映画館で見たはずです)ちょっとかわいそうな気もします。
「映画館というのは居場所のない人間が行くところだった・・・」
押井守

<アニメ制作の現場へ>
 大学を卒業した彼は、ラジオの番組制作会社に入社。その後、一度は教員を目指して採用試験を目指すものの願書の提出ミスにより断念。失業してしまった彼はしかたなく、近所の電柱に貼ってあった社員募集に応募、タツノコ・プロに入社します。それは、「科学忍者隊ガッチャマン」の再放送を見て面白かったからという単純な理由からでした。
 ところが、アニメのことなどまったく知らなかったにも関わらず、ラジオの番組制作に関わっていたことが幸いし、彼はすぐにアニメの制作現場に回されます。右肩上がりのアニメ業界は、とにかく人材を必要としていたのです。
 タツノコ・プロで「ガッチャマン」「ゼンダマン」「オタスケマン」の制作に参加した彼は、その後NHKの「ニルスの不思議な旅」の制作にも関わり、いよいよ出世作となる「うる星やつら」のテレビ・シリーズを担当することになります。

<「うる星やつら」>
 「うる星やつら」は、NHKの衛星放送のおかげでもう一度最初から見直すことができました。(我が家の子供たちも大好きです)
 実は押井監督は、もともとこの作品をやりたくなかったそうです。原作もそれほど好きではなく、本当はもっとハードな路線のものをやりたかったそうです。そのせいか、このアニメ・シリーズは原作とはかなりかけ離れていて、ファンから当時かなり批判されたそうです。おまけに番組のスタート当初、イラストレーターなどの現場スタッフが足りず、押井氏自らが絵コンテを描くこともあったそうです。そんな状況でスタートしたこともあり、番組スタート当初は視聴率も悪く、監督交代の意見も出ていたそうです。
 その後、彼が自らすべての絵コンテをチェックするようになり、しだいに作品の質も安定するようになり、番組の評価も高くなります。そうなると自然に視聴率も上がり始め、番組は軌道に乗り始めました。そうなると、押井監督の暴走癖がしだいに現れ始め、そのやり方にひかれた新たなスタッフも参加するようになり、暴走はいよいよエスカレート。原作を越えた暴走アニメ「うる星やつら」が生まれることになります。

<分身としての存在、「メガネ」>
 特に僕が忘れられないのは、原作にはほとんど描かれていないはずのキャラクター、「メガネ」の存在です。まるで60年代学生運動の闘士が生き残っていたかのようなメガネのテンションの高い演技を暴走させたのは、やはり演出家の押井守でした。「メガネ」というキャラクターはたぶん押井守の分身であり、1960年代学生運動へのオマージュだったのかもしれません。
 メガネの声を担当した千葉繁は、ちょい役のはずのキャラクターをしだいに「うる星やつら」になくてはならない存在へと持ち上げてしまい、その後押井守初の実写映画では主役を演じることにもなります。その映画のタイトルは、ずばり「紅い眼鏡」(1986年)。実はこの映画、当初は千葉繁のプロモーション・ビデオとして制作が始まりました。それがいつしかスタッフが暴走。長編映画になってしまったのだそうです。

<暴走する作家>
 「暴走」好きな作家、押井守にさらに勢いをつけたのは、今は亡き名監督相米慎二でした。「うる星やつら」の映画版第一作「うる星やつら(オンリー・ユー)」(1983年)の劇場公開は、意外なことに相米監督の出世作となった「ションベン・ライダー」との二本立てでした。子役が主役のハチャメチャなギャング映画の快作だった「ションベン・ライダー」は、リアリティー無視のトンデモ・ストーリーでしたが、エネルギーに満ちあふれていて後の傑作「台風クラブ」を予感させる作品でした。
 この併映作品をみた押井守は、自作「うる星やつら」の大人しい仕上がり具合に納得していなかっただけに大きなショックを受けました。そして、映画を作るには「暴走」が不可欠であると痛感。その後、彼は映画を作る際、内容的にも技術的にも妥協しないということを意識し続けます。
 というわけで、ここで押井作品のキーワードとして「暴走」という言葉をあげておきたいと思います。

<「うる星やつら2」>
 彼はこうして「暴走」を意識して次作「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984年)を作り上げました。この映画は夢を題材として「妄想」が「暴走」するというかなり複雑、難解なストーリーになりましたが、見事にヒット。いよいよ押井ワールドはしっかりとしたファン層をつかみ始めました。
 こうした「夢」もしくは「妄想」が「暴走」するストーリー展開は、その後の作品でさらに磨きがかかることになります。例えば「攻殻機動隊」シリーズの劇場版第二作「イノセンス」(2004年)において、天才ハッカーKIMが生み出した迷宮世界のような仮想世界はまさに「暴走する妄想」です。
 とういわけで、押井作品のキーワードをここで「暴走する妄想」に変更しておきましょう。

<機動警察パトレイバーから攻殻機動隊へ>
 1986年、ビデオ・シリーズとして発売された「機動警察パトレイバー」を制作。この作品は映画版も作られ、近未来SFアニメ作家として、彼の名前はさらに有名になります。警察用のメカとその部隊を主人公とした作品を作った彼は、その映画版に犯人役で登場したハッカーをさらに膨らませて作品を作りたいと考えていました。ちょうどそんな頃、士郎正宗原作のマンガ「攻殻機動隊」を映画化しないか?という話が舞い込んできたのです。
 通称「攻殻機動隊」と呼ばれる首相直属の特殊部隊「公安9課」が肉体を持たない謎のテロリスト「人形つかい」と闘うというこの映画は、日本以上に海外でヒットします。特にビデオ版が大ヒットとなり、1998年に発売された「攻殻機動隊 Ghost in the Shell」のビデオ版はアメリカで大ヒットとなり、坂本九が「スキヤキ」で到達したビルボードのナンバー1の座を39年ぶりに獲得(もちろんビデオ部門)してしまいました。
 この時、「攻殻機動隊」を見たウォシャウスキー兄弟は、映画会社にこのビデオを持ち込み、
「この映画の実写版を作らせてくれ!」と直訴。こうしてできたのがあの「マトリックス」(1999年)だったというのは有名な話です。(さらに「マトリックス」の姉妹編として作られたアニメ版作品「アニマトリックス」はまさに「攻殻機動隊」に捧げた作品と言えるでしょう)

<実写版作品「アヴァロン」>
 考えてみると「マトリックス」をウォシャウスキー兄弟が撮っていなければ押井監督の実写版作品「アヴァロン Avalon」(2001年)はもう少しヒットしていたかもしれません。と言っても、「アヴァロン」は仮想世界における戦闘ゲームをポーランドの白黒映画映画「灰とダイヤモンド」「地下水道」の世界に持ち込み、そこにケルト伝説を織り込んだ限りなくヨーロッパ的な作品です。日本でヒットしなかったのは当然かもしれません。(ヨーロッパを中心に海外ではそれなりのヒットだったそうです)
 特にこの映画で重要なのは、実写映画でありながらすべての場面を独特の色合いに変え、他の映画とはまったく異なる空間を創造している点でしょう。これはある意味、実写とアニメ、CGの融合とも言える画期的なことでした。そのため、どの場面も絵画的な美しいものにしたいという監督の狙いが生きています。
 実は彼は学生時代からポーランド映画のファンで、この映画のロケは彼にとってひとつの夢の実現でした。大好きなポーランド映画を現地で撮れたのですから。頭の中にあったポーランド映画の映像がそのまま復活させることができたのは、古い街並みが未だに残るEUの発展に取り残された東欧の国ポーランドならではかもしれません。
「フィルム・センターで見てた中で、一番好きだったのがポーランド映画ですね。当時「三羽がらす」と呼ばれていたアンジェ・ワイダ、イエジー・カワレロウィッチ、アンジェイ・ムンクを中心にいっぱい見たな。・・・」
押井守

 押井守の実写映画の評価は残念ながらいまひとつです。以下は、宮崎駿の感想です。
「実写は楽ですからね。ビールが美味示威でしょ、一日労働するから。そうするとそれで充実しちゃうんですよ、どうも実写の人を見てると、そういう感じがするんですよ」
(実写作品について庵野作品、押井作品を比べて・・・)
「うーん、押井さんよりもずっと庵野のほうが才能ありますよね。押井さんの実写はもう、あれ学園祭向きのフィルムから一歩も出ないから。あれ反復強迫だと思うんですよ。完成品を作っちゃいけないっていうね。押井さんの実写によくスポンサーがつくなと思うんだけど(笑)」
・・・・・
「だって、たかが武装ヘリコプターが一機飛んだだけでワクワクしてるの、ただのオタクだって」

宮崎駿「風の帰る場所」より

<「攻殻機動隊」シリーズ制作へ>
 この後彼は「攻殻機動隊」の続編「イノセンス Innocence」(2004年)を発表。その前後に「攻殻機動隊」のテレビ(ビデオ)・シリーズも制作され、押井守=「攻殻機動隊」というイメージが出来上がって行きました。(ただし、このシリーズの制作に彼は関わっていません)
 もちろん、映像美、ストーリーの奥深さ、音楽のオリジナリティー、キャラクターの魅力・・・どれをとっても「イノセンス」の完成度は素晴らしいです。しかし、なんと言ってもこのシリーズの面白さの原因は、「人間とは何か?」という究極の問いにこだわるストーリーとキャラクターの存在感にあるのでしょう。
 九課のメンバーだけでも、ほぼ人間に近いトグサから、ほとんど擬体からなる主人公のバトー、そして「人形つかいと融合(結婚?)することで肉体を離れ、ネット上の存在になってしまう少佐こと草薙素子。それに戦闘用ロボットでありながら、いつしかゴースト(人格)をもつにいたってしまった愛すべき存在「タチコマ」。(テレビ・シリーズのみのキャラクター)これら見事に描き分けられたキャラクターたち、それぞれが生き生きと活躍することで「人間らしさ」「ゴースト(人間の魂)」とは、けっして人間だけのものではないということを証明してみせています。

「人間はどこまで解体できるのか?」
 かつて、SF界の奇才フィリップ・K・ディックが挑み続けた「問い」をより具体的に表現しているのがこのシリーズだとも言えそうです。
「人間の解体」これもまた押井作品の重要なキーワードと言えます。

<「攻殻機動隊」セカンド・シリーズ>
 さらにTV版2ndシリーズでは、「人間とは何か?」という問いに加えて「国家とは何か?」「都市とは何か?」「民族とは何か?」とよりスケール・アップ。かつて、彼が60年代にやり残してきた問題を真っ正面から取りあげ、なおかつそれを最高級のエンターテイメントに仕上げています。
実は、押井監督はファースト・シリーズを見て、俺ならもっと面白くできると、2ndシリーズに参加しようと思い立ったとのことです。そんなわけで、2ndシリーズの「Stand Alone Complex」は、さらに面白くなっています。
「僕は東京で生まれて東京で育った人間なんだけど、子供の頃から見てきたイメージからすると、この街はもう引き返し不可能点に来ている。・・・でも、東京をこんな街に作り上げてしまったのは僕たちの世代なんです。そういう意味で原罪を背負っている。それにどうオトシマエをつけるかということ・・・」

 あらゆる細部のウンチクにこだわり、なおかつ「人間とは何か?」「国家とは何か?」など大きなテーマにも挑もうとする時、彼が選んだアニメーションという手法は最適な方法だったのかもしれません。
「太陽を盗んだ男」を撮った長谷川和彦監督のように才能があっても映画が撮れない。日本映画は長らくそういう時代が続いていました。そんな中、彼はけっして楽な環境ではなかったものの、好きな映像を扱うという仕事をしながら、着実に夢をを実現することかできた幸福な作家と言えるでしょう。
「書きたいテーマは、いっぱいある。もともとは、うんちくの多い人間だから。実は、小説を読む楽しみの半分以上は、僕はうんちくなんだよね。うんちくって、そうばかにしたものでもなくて、うんちくの中に、その人間の思想性が出てくるものなんだ。だから、中途半端なうんちくはだめ。・・・」

<締めのお言葉>
「語られた映画とは、実は常に映画の記憶のことでしかない。指し示すことはおろか、引用すらできず、語ろうとする時には提示することも不可能で、しかも他者との共時的体験すらない個的な経験。それが映画を見るという行為の実相だ・・・」

押井守監督作品「トーキング・ヘッド」より

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