- イビチャ・オシム Ivica Osim (後編) -

<オシムの生い立ち>
 イビチャ・オシム Ivica Osim(発音的にはイビツァ・オシムの方が近いそうです)は、1941年5月6日に旧ユーゴスラビアのサラエボで生まれました。(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)彼の父親は鉄道で働く肉体労働者で、ボディビルの選手でもあったそうです。しかし、賃金は安く彼にとって子供時代の娯楽と言えば、ボロ布で作ったボールを裸足で蹴る路上サッカーだけでした。それでも父親譲りのスポーツ・センスのおかげもあり、彼のサッカーのテクニックはずば抜けていて、近所にスタジアムがあった地元サラエボのサッカー・チーム「ジェレズニチャル」(愛称ジェーリョ)の入団試験に合格することができました。
 14歳でジュニア・チームに入った彼は勉強とサッカーを両立させながら大学の入試にも合格。特に彼の数学の成績は優秀で、その道に進めば数学者か大学教授にはなれたとも言われています。しかし、貧しかった家庭のことを考えた彼はすぐに収入が得られるプロ・サッカー選手の道を選びます。そのために大学も中退した彼は本格的にサッカーに集中、ジェーリョのトップ・チームに迎えられると大活躍を始めます。彼と同世代に入った選手たちの活躍により、それまで1部リーグへの残留争いが定番だたチームは、そこから抜け出すとリーグ3位にまで成績が上昇します。
 現役時代の彼は、フォワードやミッドフィルダーとして活躍、天才的なドリブラーとして有名でハンカチ一枚分のスペースがあれば、3人に囲まれても自在にキープできたという伝説も残されています。しかし、その反面ボールを持ちすぎると批判されることもあったようで、そのことは彼の監督としての采配に生かされることになります。1964年に開催された東京オリンピックに彼はユーゴ代表として出場。この時の体験は後に彼が日本に来る際のきっかけの一つになりました。1966年には、ユーゴのフル代表のメンバーとしてヨーロッパ選手権に出場。見事にチームは準優勝しています。こうして、ヨーロッパ各地の有力チームからオファーを受けていた彼は、海外移籍の年齢制限27歳になると、フランス・リーグのストラスブールに移籍。いよいよその活躍の場を海外へと移します。

<オシムとサッカーの神様>
 この当時の彼の評価の高さを示す逸話があります。
 1969年、ペレを有する当時世界最高のチームと呼ばれていたブラジルのチーム、サントスが親善試合のためにユーゴを訪れました。しかし、この時、オシムは膝を故障していたため、試合への出場を辞退。ところが、そのことを知った「サッカーの神様」ペレがオシムが出ないなら俺も出ないと言い出したというのです。慌てたサッカー協会はオシムに連絡し、結局彼は痛み止めの注射を打って試合に出場したそうです。いかに彼に対する評価が高かったのか。これだけでも十分な逸話です。

<引退から監督就任へ>
 彼はこうして12年間現役生活を続けた後、膝の慢性的な故障もあり、あっさりと引退します。故郷のサラエボに戻った彼は、すぐに指導者となる道を歩み始めます。先ずは古巣ジェーリョの監督に就任し、1984/85シーズンにUEFAカップでベスト4に進出。そして、1985年には早くもユーゴ代表チームの監督に就任します。(初めは共同監督という形でした)
 1990年のイタリア・ワールドカップには、U−18の世界選手権で優勝した黄金世代の選手を中心に編成したチームを率いて出場します。ユーゴ史上最強と言われたチームは、初優勝を目指し、予選を楽々と首位で突破。ところが、この頃、すでに母国ユーゴスラビアは国家崩壊の危機に追い込まれていました。

<ザグレブ血の日曜日事件>
 1990年5月13日、ザグレブで行われたリーグ優勝を決めていたベオグラード・レッドスターと2位となったディモナ・ザグレブの試合は、消化試合にも関わらず試合前から異様な雰囲気に覆われていました。そして、試合開始直前、クロアチア人サポーター(ザグレブ側)とセルビア人サポーター(レッドスター側)の間で喧嘩が始まり150人に近い怪我人を出す騒動となってしまいました。この時、警官隊が事態を収めるために催涙ガスを使用して、群衆の処理にあたりましたが、彼らが明らかにセルビア人側についていることに怒ったクロアチア人選手ダボール・シュケルとスボニミール・ポバンが警官に暴行を働き、その後彼らは代表チームからはずされることになります。この事件は、チームのサポーター同士の喧嘩ではなく民族対立の代理戦争だったといえます。
 こうした民族対立の火種を内包したユーゴ代表チームでしたが、公平な立場に立つオシム監督のもとでチーム内が混乱することはなく、同じ年にイタリアで開催されたワールドカップに挑もうとしていました。ところが、マスコミ、特にそれぞれの民族を代表する新聞は、監督に対し「我が民族の選手を出場させろ」と声高に叫び続けます。そんな中、マスコミの圧力に屈しなかった彼は、常に自分の使いたい選手を使うと主張し続けていました。

「選手の出身共和国なんて関係ない。いつだって優秀な選手がプレーするだけで、必要であれば私は11人のコソボのアルバニア人を起用します。・・・・・」

<ワールドカップ・イタリア大会>
 そして状況がさらに悪化する中、彼は驚くべき行動にでます。なんと彼はワールドカップ本線における予選リーグの初戦、西ドイツとの一戦で各民族を代表する大物選手3人を先発メンバーとして起用してみせます。それは各新聞の要求に従った選択で、勝ちを捨てた作戦でした。「みなさんの言うとおりにやりましょう。どうなるか、ご覧ください!」というわけです。そして、その試合結果は、ユーゴの大敗で終わります。(1−4の大差)

「スシッチにストイコビッチにサビチェビッチは同時には使えないことがようやく分かっただろう。全員が攻撃的で全く守る選手がいない。そんなことでサッカーが成立するはずがないのだ」

 彼は驚くべきことにわざと試合を落とし、マスコミや口うるさい観客たちを黙らせたのです。その後、ユーゴ代表はメンバーを入れ替えて試合に挑み、コロンビア、UAEに圧勝。楽々と予選リーグを突破。その自力を見せ付け、決勝リーグでもスペインに勝利してベスト4に進出します。しかし、ここで彼らは前回優勝の強豪アルゼンチンと対戦することになりました。
 前回大会で伝説の英雄となったマラドーナを擁するアルゼンチンとの対戦は、これもまた伝説的な試合となりました。お互いに一歩も引かない闘いは0−0のまま延長に突入。延長戦でも決着がつかず、PK戦に突入します。ところが、この時、すでに勝負の決着はついたも同然だったのです。PK戦を前にメンバーのうちサビチェビッチとプロシネチキ以外の選手がPKを蹴りたくないとシューズを脱いでしまったのです。(あのストイコビッチまでもが・・・)
 それは彼らが疲労のピークに達していたせいでもありましたが、本当の理由はそうではありませんでした。それぞれの民族を代表する立場になってしまった彼らは、自分が蹴ってミスすることを恐れたのです。もし自分のせいで試合に負けたら、自分だけでなく家族までもが危険にさらされる、そう考えたのです。結局、監督はキッカーを自ら指名し、そのままピッチを去り、控え室でその結果を見守ります。(元々彼はPKという決着方法に否定的で、それは運試しに過ぎないと考えていました。そのため、PK戦になるとこの後も彼はピッチを後にし続けます。ジェフ監督時代にも同じことがありましたが、その時は見事勝利を収めています)
 結局、PK戦が始まると、自らキッカーを志願した二人以外のメンバーが次々とシュートをミス、またはキーパーにセーブされてしまいました。やはり戦わずしてユーゴ代表チームの敗戦は決まっていたのでした。

<国家、チーム崩壊への予兆>
 1992年、再びユーゴ代表チームを率いた彼は、スウェーデンで開催されるヨーロッパ選手権の予選に参加していました。しかし、もうこの時、ユーゴ代表チームだけでなくユーゴスラビアという国自体が崩壊しかかっていました。クロアチア、スロベニア、セルビアの民族対立は実質的な内戦に発展していたのです。そして、この年の4月、セルビア人勢力は秘密裏に民族の混ざり合う街、サラエボを包囲。セルビア人の多くを脱出させた後、攻撃を開始します。

「セルビア人たち。彼らは戦争が来ることを知っていました。他の誰よりもいち早く。でも彼らは隣人たちにそれを一言も言わなかった。1992年4月のあの週末のことはよく覚えています。金曜、土曜、日曜と多くの人が急にサラエボを去りました。彼らはどこへ行くのかときいたら、週末だけアドリア海沿岸の別荘に行くだけさ、と言っていました。・・・」
アシマ・オシム(オシム監督の娘)

 こうして、サラエボの街へのセルビア軍の攻撃が始まり、長い間セルビア人、クロアチア人、ボスニア人など多宗教、他民族の人々が平和に共存していた街は、完全に孤立状態となり、一方的な攻撃を受け続けることになります。それはどうみても「戦争」とはいえない状況でした。

「忘れてはならないのは、あれは戦争ではなかったこと。戦争というものは敵対するふたつのグループがあり、互いに防衛することが可能だ。それなら戦争と言える。でも片方が全てを有し、他方が自衛の術を持たない時、それを戦争とは言わない」
イビチャ・オシム

<ユーゴスラビアの分裂>
 ユーゴスラビアという国が誕生したのは、第一次世界大戦後の1918年のことです。当初の国名は「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」という国内3大民族の名前を用いた長いものでした。その後、1929年にユーゴスラビア王国となりますが、1943年にチトー率いる社会主義政権国家「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」となりました。しかし、元々3大民族だけでなくイスラム教の人々も多くいたユーゴ国内は常に民族、宗教的な対立が存在していて、「ベルリンの壁」崩壊後は、いっきにその対立が国家の分裂へと動き出します。
 1989年にユーゴ国内の北側に位置していた地域がスロベニア共和国として独立。続いて1991年には、その隣に位置していた部分がクロアチア共和国として独立。1992年、もともとユーゴスラビアの政治的な中心勢力だったセルビア人は、ユーゴスラビア連邦共和国を設立し、これでユーゴスラビアの崩壊は決定的なものとなりました。1993年には、南側の一部分がマケドニア共和国として独立。ところが、それらの国々のちょうど真ん中に位置する部分、今のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の独立が困難を極めることになります。なぜなら、そこに住む人々は、イスラム教徒(民族ではない)が44%、セルビア人が31%、クロアチア人が17%となっていて、民族的にも宗教的にも非常に複雑な構成となっていて分離しようがなかったからです。

「この戦争で全く理解不能だったことは、誰が誰と戦っているか全く分からなかったことです。ボスニア全土に色々な民族がいたのですから。家族全員がひとつの民族、ひとつの宗教からなっている「純血家族」なんていませんでした。・・・・・」
アシマ・オシム

 こうして、分離困難の地域において各民族による土地の分捕り合戦が始まることになりました。そして、彼の故郷サラエボはその象徴とも言える街だったのです。

「中央ヨーロッパのどこかで『自分たちのところでは戦争はあり得ない』という人がいたら、私はその人に警告します。戦争は何度でもやってくると。ユーゴスラビアは美しく、豊かな国でした。山々や海、そしてたくさんの果物がありました。かつてクロアチアの住民の3割はセルビア人でした。セルビア人はいつも重要なポストを占めていました。クロアチア人は『別に構わないじゃないか、それが最適の人物なら』と言っていましたが、そのうち考え方を変えて、重要なポストは自分たちクロアチア人のものだと強く主張するようになりました。対してセルビア人は『つまり我々に出て行けというんだな?』と言い、ボスニアでも同様に自分たちの居場所がないと声を上げました。そのようにして対立が始まり、この想像を絶する悲劇が始まったのです。・・・」
イビチャ・オシム

 かつて、民族融合の象徴でもあったサラエボに生まれ育ったオシム監督にとって、ユーゴスラビアの分裂とサラエボの街の崩壊は他人事ではありませんでした。その上、この時、彼の妻イビチャ・オシムと娘のアシマ・オシムは、悲劇の街サラエボに取り残されていたのです。二人は、市民がスナイパーによって次々と狙撃され、砲弾による攻撃を受け、封鎖によってすべての物資が不足するサラエボの街で、恐怖に震えながら生活をし続けていました。

「・・・・・それがとても奇妙なことで、女たちは皆、いつも綺麗な洋服を着て、お化粧をしていたのです。家のすぐ隣に爆弾が落ちた時、私は『死ぬ時もせめて美しくありたい』と思いました。テレビのサッカー中継で解説者が『このチームは美しく死んだ』(美しいサッカーを追及したが、試合には負けた)と言う時、私はこのことを思い出します。・・・」
アシマ・オシム

「サラエボを出るチャンスはあったのに、私たちがそこに残っていたとは奇妙な話です。でもほとんどの人は、常に危険と隣り合わせであっても、サラエボに居座っていました。私が思うに、それはひとつの抵抗でした。・・・」
イルマ・オシム

<チームの崩壊>
 こうした危機的状況の中、彼は新ユーゴスラビアの代表監督としての職務をまっとうしようとしていました。しかし、この時すでに代表チームの編成自体も困難になりつつありました。それぞれの民族を代表する立場になっていた選手たちにとって、新ユーゴ代表チームに参加することは、自分たちの民族を裏切る行為ととられかねなかったからです。それは自分だけでなく家族や親戚にとっても危険な行為となることから選手たちは次々にチームへの参加を断ってきました。

「私は呼んだが、行かれないと彼らは言った。サッカー受難の時期だ。私から言わせれば馬鹿馬鹿しい話だが、政治家が有名な人間を利用して、自分たちの名声のために働かせていた」
「彼らは真剣に心配していた。『(代表に)行けば、(味方から)自分の村に爆弾が落とされる』。そんな状態の時に『来い!』と言えるはずがない。」


 故郷の街サラエボ、自分の家族が住むサラエボを攻撃し続けるセルビア(新ユーゴ)に対し、ついに彼の抗議の意思表示をする時がきました。同年5月21日ついに彼は記者会見を行います。
「辞任は最終決定です。私はヨーロッパ選手権には行かないことにしました。これはあくまでも個人的な意思表明であり、それを解釈するのは皆さんの自由ですので、私はあえて説明することはしません。代表監督を辞めることは、私がサラエボのためにできる唯一のことです。・・・・・」

 その後、チームに残った選手たちは、セルビア人とモンテネグロ人だけとなります。そして、国連による制裁によって彼ら代表チームはヨーロッパ選手権への出場権を剥奪されてしまいました。

「多くの人が絶望していた。私はギリシャにいて、時々何とかサラエボの誰かに電話することができても、自分が今から何を耳にしようとするのか検討もつかなかった。いつも、あの人やこの人が死んだ、という話だった。親しい友人も死んだ。別に砲弾に当たったわけでもなく死亡した、ということがよくあった。たいていは自殺だった。これ以上、生きてはいられないと思ったのだろう。幸いにも私にはサッカーがあった。・・・・・」

<故郷を離れて>
 その後、彼は家族を残してきたサラエボに近いということもあり、ギリシャのチーム「パナシナイコス」の監督に就任。彼の元でチームは92/93に国内リーグ2位となり、カップ戦での優勝も果たしました。しかし、彼の方針を無視して勝手に選手を補強するオーナーと意見が合わずに一年で退団してしまいました。彼は次に同じくサラエボに近いオーストリアのチーム「シュトルム・グラーツ」の監督に就任します。そして、国内リーグで常に6、7位程度にとどまっていた中堅チームを、彼は一気に2位にまで引き上げます。その後、グラーツは2度のリーグ戦優勝を果たし、欧州クラブ・チャンピオンズ・リーグにも出場。一躍チームの名前を世界に知らしめることになりました。
 1994年、彼は2年半ぶりに家族と再会を果たします。それは、国連によって行われていた脱出作戦のおかげでしたが、サラエボには未だ平和を訪れてはいませんでした。そんな状況の中、彼は再びチームの移籍を決意します。今後は家族といっしょにいられることになり、彼はユーゴから離れた土地で自分とサッカーを見直そうと、あえて遠い土地での再スタートを目指します。それがアジアの果ての日本のプロリーグ、その中のもっとも予算規模の小さなチーム、ジェフユナイテッド市原でした。

<ジェフユナイテッド大改造>
 なぜ彼は日本にやって来たのか?それにはいくつかの理由があったようです。
(1) 故郷に帰れない中、ヨーロッパを一度離れたかった。
(2) 東京オリンピックで日本を訪れた際、人々の親切さやその文化の豊かさに感銘を受けていた。
(3) ジェフのGM祖母井氏は、イタリア・ワールドカップの際、当時の教え子だった大阪体育大学のサッカー・チームを連れてユーゴ代表チームを訪問、練習試合もした知り合いで、監督オファーの交渉ため自ら彼の元にやってきた。
 当時のジェフはスター選手不在で、常にJリーグの真ん中あたりの位置にいて、優勝争いにからむことがありませんでした。そんなチームを彼は先ず「走るチーム」へと改造、そこから少しずつチームを理想の形へと変えて行きました。(オシムの目指すサッカー参照
 後に南アフリカ・ワールドカップで危機的状況にあった日本チームを救った影の立役者となった阿部勇樹はまさにオシム・チルドレンの一人でした。その他、巻、羽生、佐藤勇人らも彼の弟子たちです。
 彼の元で、ジェフは素晴らしいチームへと生まれ変わり、リーグ戦での優勝こそできなかったものの、天皇杯での優勝という快挙を成し遂げました。そして、彼はその手腕を高く評価され、2006年ジーコの後を受け、日本代表チームの監督に就任します。
 もし、彼は病で倒れなければ、南アフリカ大会での日本代表の戦い方はまったく違ったものになっていたかもしれません。もちろん、メンバーもまったく違った顔ぶれだった可能性もあるでしょう。ザッケリーノ監督に後は任せますが、それでもなお、オシムイズムが日本のサッカーに浸透していることを願いたいと思います。

<オシム73歳の闘い>2015年5月追記
 NHKBS「オシム73歳の闘い」(取材)木村元彦(放送2014年5月)より
 サッカー協会の一本化ができないためにワールドカップ・ブラジル大会予選への参加が困難になっていたボスニア・ヘルツェゴビナ。対立する民族をひとつにまとめる最終手段として、選ばれたのがオシム氏でした。

 オシムは3つの民族のどこにも属さない、コスモポリタンを表明している。どの民族なのか、と聞かれたら、サラエボっ子だと答える。民族主義から大きく距離を置いていた。
「戦争は私はどこの側にもつかなかった。また、特定の誰かを非難することもしなかった。私は暴力的に強制されることが嫌いだ」
 どの民族からも尊敬を集め、不信や対立を解消できるのは、オシムしかいなかった。会長の一本化がなされなければ、ワールドカップ予選に参加さえできない。FIFAから与えられた期限は、1ケ月半だった。


 2011年5月サッカー協会は無事に統一され、ムスリム系(多数派)、セルビア系、クロアチア系を代表する会長が選ばれ、ワールドカップ予選への出場が認められることになりました。そして、2014年の予選大会では見事に1位通過を果たし、本大会への初出場を果たします。(ブラジル大会ではイラン戦で3−1で勝利、初勝利となりました)
 日本から帰国後もオシム氏は母国の為に大きな貢献を果たしていました。(ノーベル平和賞ものの貢献だと思います)

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