- オスカー・ニーマイヤー Oscar Niemeyer -
<東京都現代美術館にて>
東京都現代美術館で、「オスカー・ニーマイヤー展 ブラジルの世界遺産をつくった男 The Man Who Built Brasilia」を見てきました。(2015年7月29日)実をいうと、今話題の東京都現代美術館とその周辺の街が気になって見に行ったのですが、常設展よりもこのオスカー・ニーマイヤー展が実に面白かった!そのうえ、上映時間1時間ほどのドキュメンタリー映画がまた良くできていて、すっかりニーマイヤーのファンになってしまいました。ブラジル音楽界のレジェンドの一人ジョルジ・ベンが、オスカーの作品の形を手でなぞりながら、そのイメージに合わせた歌をアドリブで歌う場面には鳥肌が立ちました!美しい建築物は、歌に見えてくるのかもしれません。他にも、彼の建築について、MPBの人気大御所であるシコ・ブアルキもインタビューに答えていて、ブラジル音楽のファンにもうれしい映像でした。是非、ご覧いただきたい!そんなわけで、ブラジルが生んだ偉大な建築家オスカー・ニーマイヤーについて調べてみました。
<オスカー・ニーマイヤー>
オスカー・ニーマイヤーは、本名をオスカー・リベイロ・デ・アルメイダ・ニーマイヤー・ソアーレス・フィーリョ(Oscar Ribeiro de Almeida Niemeyer Soares Filho)といい、1907年12月15日ブラジルのリオデジャネイロで生まれています。真面目で熱心なクリスチャンの家庭で育った彼は、1929年バルナビタス高校を卒業後、リオデジャネイロ国立芸術大学建築学部に入学し、建築について学びました。五歳年長のフランス生まれの建築家ルシオ・コスタと同じ建築事務所で働いていた彼は、ルシオ・コスタが招いた建築家ル・コルビジェから影響を受けると同時に、曲線を重視する設計思想を取り入れて、独自のスタイルを身につけて行きます。子供の頃から慣れ親しんだブラジルの山や川、海、そして、リオのイパネマ海岸で見ることのできる美しい女性たちの曲線美こそが、自分の美の原点であると、彼はインタビューで語っています。女性の裸体を描いた彼のデッサンが実に見事です!そうやって見てみると、彼が建てた建築物がみんな女性の曲線のように見えてくるから不思議です。
<クビチェクとの出会い>
1940年、彼はベロ・オリゾンテの新市長ジュセリーノ・クビチェクと出会い、パンプーリャ湖畔の開発計画を担当。カジノやレストラン、教会、ヨットクラブなどの設計を行い、一躍建築界の寵児となります。しかし、その多くの建造物がブラジルのごく一部の階層のためのものであり、多くの大衆が貧しいままであることに彼は不満をもっていました。そして、そうした人々の為に働く共産党の人々との交流から自らも共産党に入党します。第二次世界大戦終結後の1952年、彼は世界の平和のために新たに建造されることになったニューヨークの国連本部ビルの設計にル・コルビジェと共に参加します。
1956年、クビチェクがブラジルの第22代大統領に就任します。当時ブラジル経済は、世界が戦後の食糧難の中、牛肉など食料品の輸出などによって急成長を遂げていたこともあり、彼はブラジルを新しい理想の国にするため新たな首都の建設を進めます。ブラジル内陸部の原野にゼロから巨大な年を建設するという前代未聞の計画がこうして始まることになりました。
<未来都市ブラジリア>
ブラジル北西部の高原地帯に広がる広大な原野に新大統領の夢を実現するため、新首都ブラジリアの建設が発表されました。あえて海から離して首都を建設することは、ほとんどが未開地だったブラジル内陸部の開発を進めるための第一歩であり、ヨーロッパの植民地としてスタートしたブラジルが脱ヨーロッパを果たす第一歩でもあったといいます。
都市計画の全体像は、ルイ・コスタが担当し、建造物の設計をオスカーが担当することで、この計画のコンペで選ばれた二人は、ゼロからこの計画に参加。わずか3年で夢の年を作り上げることになりました。 アンドレ・マルローが「ギリシャの古代建築の柱に次ぐ美しさだ」と讃えた特徴的な柱をもつ大統領官邸。天井に向かい天使が舞う美しいブラジリア大聖堂。異なる位置で球体を切った二つの特徴的な形から成る国会議事堂など、様々な建造物からなるブラジリアはその後1987年に世界遺産に指定されます。1960年に誕生してから30年もたたずに指定されたのは、異例のことでした。それだけ、この都市のデザインは高く評価されていたということです。
しかし、この大掛かりな遷都は、巨額の費用をかけたことで、国に巨額の債務をもたらすことになり、それが国の発展をも阻害することになってゆきます。そのうえ、戦後の混乱が落ち着き、ドイツや日本などの経済発展が本格化すると工業化の波に乗り遅れたブラジルは、あっという間に借金まみれに転落。クビチェクも指導者の座を追われてしまいます。
<反体制派の建築家>
政界が混乱する中、左派の政権が共産化することを恐れたアメリカの後ろ盾を得たカステロ・ブランコ将軍が軍事クーデターを起こし、政界から左派の影響を排除して行きます。1960年代半ば、反共親米路線を進むことで、「ブラジルの奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げますが、それも一時的なものでした。この間、ブラジル国内は右派政権に対する反体制運動が激化。それに対し、1968年に軍事政権は軍制令第五号を発令し、議会を解散させ、軍は国のすべてを支配することになります。その後、多くの共産党員が逮捕され、拷問の末、殺されるなどして犠牲になりました。そのため、この時期に多くのブラジル人が国を捨て、国外に亡命し始めていました。
軍事政権によって殺された人々を追悼する記念碑を立てることで、政府への抵抗の意思を示し、壊されてもまたそれを立て直した彼は反政府勢力の重要人物と見なされます。当時のブラジルでなら、彼のような有名人でも暗殺される可能性は十分にあり、一度は彼は尋問の為に逮捕されています。
音楽界では、トロピカリズモ運動の中心人物だったカエターノ・ヴェローゾ、ジョルジ・ベンらは、ブラジルを離れていますが、いよいよ身の危険を感じたオスカーもこの時期にブラジルを離れ、フランスへと旅立っています。
<フランスにて>
1967年、フランスに渡った彼は、フランスの文部大臣であり、友人でもあったアンドレ・マルローの助けもあり、ヨーロッパを中心に様々な建築物の設計に関わることになります。特に有名なのは、フランス共産党党本部ビルですが、それ以外にも彼はアルジェリアやイタリアでも大きな建造物の設計を担当しています。
ドキュメンタリー映像によると、彼は革命後、アメリカと対立し経済封鎖に苦しむキューバを訪れていて、カストロとも親しくしていたようです。1963年に彼は共産圏における栄誉ある賞、レーニン平和賞も受賞しています。当時の彼は、左派のアーティストとして、ブラジルだけでなくラテン・アメリカ全体を代表する存在でした。しかし、彼の故国ブラジルへの郷愁が消えることはなかったようです。
<故郷へ>
それでも、1985年にブラジルの軍制が終わり、民主化が進むと彼は故国のブラジル、それも故郷のリオデジャネイロに戻り、そこで再び仕事を始めます。
リオの海辺の断崖に建てられたニテロイ現代美術館は、まるで宇宙からやって来たUFOのような未来的デザインです。彼にとって最も大切な美のもとになる曲線を求める彼にとって、やはりリオの海岸は最高の場所だったようです。
1988年、彼は建築界のノーベル賞とも呼ばれるプリッカー賞を受賞。まさに建築界のレジェンドの一員となっています。
女性の曲線にこだわり続けた彼は、死別した妻に代わる女性秘書と2006年に再婚。その時、彼はなんと99歳でした!100歳を前にしてもなお、彼は女性の美しいカーブに惹かれ続けていたのかもしれません。見事な生き様です。
2012年12月5日、彼は104歳でこの世を去りました。
曲線の美を追い続けた男、オスカー・ニーマイヤーはブラジルの英雄であると同時に、女性を愛する世界の男たちにとっても理想の人生を送った人物だったのかもしれません。
ドキュメンタリー映像の最後に、古いサンバを聴きながら煙草をくゆらせ、過去の懐かしい思い出にひたる彼の姿が忘れられません。哀愁に満ちた彼の顔に描かれた皺は、彼が作り出した最後の美しき曲線に見えてきました。これぞ、「サウダージ」を生きる粋なリオっ子そのものです。
<参考>
「オスカー・ニーマイヤー展 ブラジルの世界遺産をつくった男 The Man Who Built Brasilia」
東京都現代美術館
2015年7月18日~10月12日
20世紀異人伝へ
トップページへ