天才・落合の謎に迫りたい!

- 落合博満 Hiromitu Otiai -

<GM落合博満>
 2013年シーズンオフ、中日ドラゴンズGM落合博満は過激なまでの契約金カットを実行。そして、他チームでは出番のなくなった小笠原、川上など峠を越えたベテラン選手をあえてチームに迎え入れました。これによりチームの運営費は大幅に削減。これこそ、チームの経営者でもあるGMの仕事です。しかし、これで結果が出なければ中日ファンから批判されるのは間違いないでしょう。そうでなくても、彼は中日の監督時代から人気がなかったのですから。2014年はGM落合として、勝負の年になるはずです。彼は中日の監督時代も補強などしなくても現有勢力の力を伸ばせば優勝が可能であることを証明してきました。スター軍団巨人とポンコツ軍団中日の勝負は今から楽しみです。
 というわけで、落合博満とはいかなる人物なのか?調べてみました。
 結果、彼ほど、調べれば調べるほど面白い人間はスポーツ界にいませんでした。「天才」いう言葉は、「イチロー」のためにあるのではなく「落合博満」のためにある言葉だと思います。

<ざっくり落合博満>
 落合博満は、1953年12月9日秋田県南秋田郡若美町(現男鹿市)角間崎生まれ。3回3冠王になった唯一の選手で、史上初の1億円プレイヤー。ロッテ、中日で活躍し、その後FAで巨人に入団。名球会入りを打診されながら、それを受けなかった唯一の選手でもあります。
 2007年、監督として中日ドラゴンズを53年ぶりの優勝に導き、監督としての手腕も証明。ベストセラーとなったエッセイ集「なんと言われようとオレ流さ」で「オレ流」が彼の代名詞となりました。
 彼の実績をザックリ書くとこんな感じになり、それだけでも凄い選手・監督であることがわかります。しかし、それ以上に僕としては「人間・落合」に興味がわいてきます。彼の魅力は、奥が深いのです。そこで先ずは、彼の野球との関わり、プロ野球入りまでの驚きの生い立ちから始めます。

<野球小僧・落合博満>
 草野球から始まった彼の野球歴には「恩師」も「指導者」もいなかったようです。しいていうなら、彼のお兄さんがそうだったのかもしれません。お兄さんは噂によると、彼以上に野球が上手かったといいますから。
 落合少年は秋田工業高校の野球部に入部しますが、先輩による「しごき」や理不尽な厳しい練習にうんざりしたため部活をサボるようになり、放課後は映画館に入り浸っていたといいます。それでも彼の実力は真面目に練習している先輩たちよりも上だったため、試合が近づくと彼は部に呼び戻され、一週間だけ練習に参加。試合には4番で出場しホームランを連発していたといいます。
 高校卒業後、野球部のセレクションで東洋大学に入学。しかし、そこでも先輩後輩の上下関係について行けず3か月で退部してしまいました。必然的に大学を退学することになった彼は、寮を出てしばらくは故郷にも帰れず、上野公園や日比谷公園でホームレス生活した後、ポケットに5円しかなくなったところでついに故郷に戻る決心をしたといいます。
 故郷に戻った彼は、当時一大ブームとなっていたボーリングのプロを目指します。ボウリング場でバイトをしながらライセンス取得のための準備をした彼は、資格試験の日を迎える直前、交通違反で受験費用をなくしてしまいました。もし、この時彼が交通違反でつかまっていなければ・・・彼の実力はプロボウラーとしても十分通用したはずです。(実際かなりいいスコアを出していたといいます)
 さてこれからどうするか?迷っていた彼に救いの手が差し伸べられます。東芝府中の野球部から誘いが来たのです。再び東京に向かった彼は、上下関係があまりない実業団チームで初めて本気で野球に取り組むことになりました。ここからやっと彼の野球人生が始まることになったわけです。やっと実力を発揮し始めた彼のプレーにロッテのスカウトが注目しました。

<プロ野球選手・落合博満>
 ロッテに入団した彼はさっそく自主トレに参加。ところがそこで彼のスウィングを見たロッテの元監督であり伝説の名投手金田正一は、その打ち方じゃプロに通用しないと言い放ったといいます。オレ流・落合はこの言葉にカチンときたのでしょう。後に彼が名球会への入会を断ったのも、金田が嫌だったからとも言われています。(まあ、嫌でしょうね。僕も嫌ですね。張さんと金ヤンは付き合いたくないなあ)
 さらに彼の打撃フォームを見た当時の監督、山内一弘は毎日オリオンズ時代にホームラン王、打点王をとり、2000本安打も達成。後の落合に近い打撃力をもつ打者だっただけに、山内は落合のフォームを改めようと指導し続けました。しかし、落合はそんな監督の指導に反発。ついに「クビでも結構ですから、僕のことは放っておいてくれませんか」と言ったといいます。幸いにして、落合の才能を認めていた山内監督は優しい人でした。でなければ、ここで彼はクビになっていなかったかもしれません。
 ここから打者・落合の伝説が始まります。

<打者・落合博満>
 ここからは落合の凄さについて、彼についての様々な証言からみてゆきます。

 ぱっとみ、落合選手の動きが早いとは思えません。バット・スウィングだって、見た目では凄くゆったりとバットを振っているように見えます。しかし、それでは3冠王なんてとれるはずはないのです。実際は、彼のスウィングは誰よりも速かったらしいのです。
「でも、落合のスイングはとても速いそうです。パ・リーグの審判は、絶対に振らないだろうという球を打つと言っていました。審判も見送りの姿勢で待っていたら、ぴゅっとバットが出てくる。」
ねじめ正一

 彼のスウィングはたぶん速いだけではないのでしょう。ヒットするポイントに最短距離でバットが出てくるからこそ、ボールのスピードに負けることがなかったのです。それは優れた動体視力によるものか、それに鋭い読みが加わったものなのでしょうか。
「・・・だいたい、落合のバッティング理論なんて、よくわかりませんよ。人が想像しないようなことを想像している。バッターボックスに立っていて、ピッチャープレートからホームベースまでのラインが引かれているのが見えるというんですよ。そのラインの中に来た球を打つんだというんですよ。・・・」
豊田康光

来たボールは打てばいい。
打ったボールは捕ればいい。
捕ったボールは投げればいい。

落合博満

 バッティングも同じことで、早い話が、来たタマを打ちゃあいいの。
 来たボールの最短距離にバットを走らせて、大きく振り抜いてやればいいんだ。アッパースイングでもダウンスイングでも関係ない。要するに、打っていい結果を出せば文句ないんだから簡単なこと。
 野球は単純に考えないと大変。奥の深いスポーツだから、のめり込んだらきりがない。

落合博満

 落合の練習嫌いは有名でしたが、それはやりたくない練習や必要のない練習が嫌いだっただけで、やりたい練習、自分が必要と思う練習にはきっと時間をかけていたはずです。
(練習は)見せるもんでもないじゃない。十一球団の中でも主力張ってるようなヤツは隠れてでもやってるよ。
落合博満

・・・オレは、バッティングは一人一理論だと思っています。自分に合うバッティング理論が構築されていかなければ、食っていけませんから。だから、落合のやったことは落合しかできないし、だれにでも当てはまるということは絶対にない。・・・・・
豊田康光

<守備だって・落合博満>
 動きが早くなくても、無駄のない動きでボールのところに確実にグローブをもっていけさえすれば、ボールは捕れるはず。たぶん彼の守備もまた、打撃と同じ考え方のもとで行われていたのでしょう。
「落合の一塁守備はうまかったらしいですね。これは意外だと思う人が多いはずですが」ねじめ正一

「うまいですよ。守備範囲は狭いけど、ワンバウンドとるのが上手です。野手が投げてきたワンバウンドをどれだけとるかというのがファーストの価値を決めるんです。」豊田康光

<監督・落合博満>
 それではここからは「監督・落合」に着目してみましょう。といっても、究極の一匹狼であり、コーチも務めたことのない落合が監督になれたこと自体まずは奇跡的なことでした。そのことが可能になったのは、彼の才能を認める数少ないファンの一人である中日のオーナー白井氏の存在があったからでした。彼が21世紀に入り、監督ではなくGMという仕事を選んだ原点はそこにあったのかもしれません。
 監督を任された彼は就任時、トレードなどによる戦力補強をせず現有戦力のレベルアップで闘うと宣言。キャンプでは一軍、二軍をいっしょに練習させることで、二軍選手にも何を学ぶべきかを考えさせるなどチーム全体のレベルアップを意識した指導を行いました。そして、中日を53年ぶりの優勝へと導くことになります。
 打者としての才能は、たぶん彼の中で理論としてしっかりと構築されているのでしょう。だからこそ、その理論はチーム全体にも応用できるし、結果も出せたのです。

落合のよさは、ちゃんと手を打つことです。全部手を打つし、助け舟も出す。マウンドに行く監督って、そうはいないでしょう。みな審判のところまでは行きますけど、落合はマウンドに行って、交替するピッチャーからちゃんとボールを受け取る。大リーグの監督みたいなことやるわけです。選手と心がつながっているね。
豊田康光

「野球は難しい。監督の力で勝つのなんて、年に一回か二回しかない」
落合康光

「140試合勝とうと思っていませんから。負けて得ものるだってある。負けから何かを見つけるんだ。課題がわかればいい。」
落合博満

<人間・落合博満>
 最後に「選手・落合」、「監督・落合」を生み出した「人間・落合」についてみてみたいと思います。そこには、彼の原点ともいえる「野球少年・落合」の存在がみえてきます。

 長嶋茂雄さんに憧れて野球を始めた私は、1974年10月14日に後楽園球場に足を運び、長嶋さんの引退試合を観戦した。その時、長嶋さんとともに日本のプロ野球も終わってしまうのではないかと、本気で思っていた。
落合博満

 後に彼が巨人に入団したことを多くの金と名誉のためと思ったようですが、実はそうではなかった。野球人・落合の原点は「長嶋ファン」だったのです。
 中日での現役時代、当時ヤクルトにいた長嶋一茂が落合の自主トレに参加。ライバルチームの選手に弟子入りしていました。そんな常識はずれのことが可能になったのは、常識はずれの一茂君と長嶋ファンの落合だからこそ可能になったと考えられそうです。
 常識はずれの落合は、自らが常識はずれであることを気にしてはいません。常識はずれは自分ではなく、周囲なのだと考えます。だからこそ、そんな理解のない人たちに話しかけたり、説明したりしようとは思いません。そんなことに時間をかけている暇はないのです。他にやるべきことはいくらでもあるのですから。

「私の評判が良くないのは、あまり会社や大衆に向かって話をしないからだ。・・・」
落合博満

「キミたちはわからなくって結構。」
落合博満

「俺はメチャクチャ短気だよ。俺が自分をさらけ出したら、うちの連中、ゲームできなくなると思う。」
落合博満

 最後にもうひとり落合博満に指示を出すことができる唯一の人物である落合夫人について。
 中日からの監督就任依頼の電話があった時、電話口で迷っている落合に対して、頭の上で○を作って受けるように決断させたのは信子夫人だったといいます。偉大なる指導者、天才打者には、それを上回る指導者がいたわけです。
 彼女は中日の優勝時には、祝勝会のビールかけにまで参加したほどの存在でしたが、そのぶん周囲からは煙たがられる存在でもあります。しかし、彼女の野球を見る目は鋭く、落合の打撃フォームのちょっとした狂いを指摘できるのは、打撃コーチではなく彼女だけだったともいわれます。
 思えば、彼女の存在はロック界におけるオノ・ヨーコなのかもしれません。二人は野球界のジョン&ヨーコだったのです。最後に野球小僧・落合の選手たちに向けた言葉でしめたいと思います。

「日本の人口一億数千万の中で、この世界に入れる人間はわずか720人。一軍は、その半分の360人で、そのまた半分の180人しか一線に残れない世界だ。さらにその中で、レギュラーとしてやっていけるのはほんのひと握りしかない。
 これは楽しまなくてはウソだ!」

落合博満

<参考>
「落合博満 変人の研究」
 2008年
(著)ねじめ正一
新潮社

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