- オーティス・レディング Otis Redding -
<ソウルの最高峰>
1980年代半ば、僕が吉祥寺の輸入盤専門店「芽瑠璃堂」に通っていた頃、店長のOさんに「オーティスはアナログ盤があるうちに買っておいた方がいいよ」と言われました。僕が、「じゃあ、どれから聴いたらいいですか?」とかえすと、O店長はすかさずこういいました。
「オーティスは全部で一枚だから」
そんな全部で一枚と呼ばれた「ソウルの最高峰」オーティス・レディングの歌唱ですが、彼の生のライブの素晴らしさを収めきれたアルバムは残念ながら残されていません。数少ない彼のライブ映像を見ると、熱唱する彼の喉が真赤になっていることに驚かされます。真っ黒な彼の皮膚が赤く見えるからには、よほどの「熱」を生じていたはずです。彼が喉のポリープ除去手術を受けることになったのも、その熱過ぎる歌唱が原因だったと言われるのも当然です。
かつて、伝説のブルースマン、ロバート・ジョンソンは究極のギター・テクニックを身につけるため、悪魔に魂を売ったといわれていました。彼が若くして毒殺されてしまったのは、その契約のせいだったというのです。ならば、オーティスもまた同じように究極の歌唱力を得るために悪魔と契約を結んだのかもしれません。あまりに早すぎた死はそのせいだったと考えれば少しは納得できるかもしれないからです。ただし、彼の生き方は「悪魔的」とはほど遠く、「誠実」かつ「真面目」なものでした。
サザン・ソウルの黄金時代を支えた偉大なヴォーカリストの幸福な人生と悲劇の死を振り返ります。
<デビューまで>
オーティス・レディング Otis Redding は、1941年9月9日アメリカ南部ジョージア州ドーソンで生まれました。1950年代、彼はメイコンで育ちましたが、そこはR&Bの盛んな街で、リトル・リチャードとジェームス・ブラウンという偉大なアーティストを生み出しています。彼もそんな先輩たちの後を追ってプロのミュージシャンを目指すようになりました。地元のタレント・コンテストなどに出場した後、彼は宗教活動のために突如引退してしまったリトル・リチャードの代わりとしてアップセッターズのヴォーカルに選ばれます。当時、彼はソウル界の大御所サム・クックやソロモン・バークを目標にヴォーカリストとしての実力をつけつつありました。
1960年、彼は姉が住んでいたロサンゼルスで初めてレコーディングを行いますが、この時録音した「She's Alright」は発売されずに終わります。故郷ジョージア州に戻った彼はアセンズの街にあったコンフェデレイト・レコードから「シャウト・バマラマ」という曲を発表し、南部限定ながら小ヒットとなりました。その後、彼はジェニー・ジェンキンス率いるパイントッパーズと共にライブ活動を行いメイコン周辺を回る生活を続けます。そんな中、彼の人生を変える大きなチャンスが巡ってきました。
1962年10月のある日、彼はジェンキンスがメンフィスのスタックス・スタジオでレコーディングするのに運転手として付き合うことになりました。しかし、録音が早く終わったため、彼に録音のチャンスが訪れました。ここで彼は2曲吹込みを行います。その2曲のうちの1曲が、彼の記念すべきデビュー曲「These Arms of Mine」でした。後にオーティスのマネージャーだったフィル・ウォルデンはこの時の録音は事前に打ち合わせ済みだったとインタビューで明らかにしていますが、時間が余ってチャンスを得たという方が伝説としては良かったのかもしれません。
そんな思惑とは関係なく、この時の録音を聴いたスタックスの共同オーナーだったジム・スチュワートはオーティスの歌に感動。さっそく彼と契約を結び、「These Arms of Mine」をヴォルト・レーベルからデビュー・シングルとして発売します。すると、すぐにこの曲はR&Bチャートを上昇し始めて、最高20位に達するヒットとなったのでした。こうして、彼の黄金時代は意外なほど早く訪れることになったのでした。
<曲作りの秘密>
1962年のレコード・デビュー以降、彼は着実にヒットを飛ばしてゆきます。
「Pain in my Heart」(1963年)、「That's How Strong My Love Is」(1964年)、「Mr. Pitiful」(1964年)、「I've Been Loving You Too Long」(1965年)
どちらかといえば、当初はバラードを中心にしたいましたが、彼のライブでの見せ場は何と言ってもアップテンポなダンス・ナンバーです。その代表曲ともいえるのが1965年発表の「Shake」です。
オーティスはオリジナル曲も多くありましたが、カバー曲を自分のものにして、オリジナルとは別のものにしてしまう才能がズバ抜けていました。その曲作りの中心はやはりオーティス自身でしたが、白人ギタリストのスティーブ・クロッパーとその他のスタックスのミュージシャンたち(ブッカー・T&MG’sなど)とのセッションこそがその原点だったといえます。
モータウンは重ね録りが多い。機械を使った録音だ。スタックスのやり方は、こうなんだ。どんなことでもいいから、感じたことを演奏する。ホーンもリズムも歌も、全部一緒に録音する。3回か4回やった後、聞きなおしてみて一番できのいいのを選ぶ。誰か気に入らないところがあったら、また全員でスタジオに戻って曲の最初から最後まで演奏しなおす。
去年まで4トラックのテープ・レコーダーさえなかったんだ。1トラックの機械では重ね録りできないだろう。
オーティス・レディング(ローリングストーン誌のインタビューより)1968年
例えば、彼の代表曲「シェイク Shake」(1965年)におけるMG’sとマーキー・ホーンズの演奏の場合。
まるで機関車のように勢いよく突き進むパワフルな演奏は、彼のヴォーカルとバックの演奏が完全に一体化しています。これはオーティスのヴォーカルにピッタリと寄り添うことのできるミュージシャンでなければ不可能な仕事です。この曲も元々サム・クックがオリジナルですが、まったく別の曲といえるほどのスピード感をもつ曲に生まれかわっています。
ジェームズ・ブラウンは、かつてホーン・セクションをリズム楽器として使うことでファンク・ミュージックに革命を起こしました。それに対しオーティスはホーン・セクションに自分と同じようにリズム楽器とメロディー楽器、両方の仕事をさせています。
「シェイク」以上に大きく変えてしまった曲としては、ローリングストーンズの代表曲「サティスファクション」(1966年)のカバーがあります。この曲もまた原曲をよりスピードアップさせていますが、それだけではなく、歌の中で「サティスファクション」と発音するところをわざと「サティスファッション」と変えているといいます。こうした歌詞の変更は彼の得意技で、後の「Try A Liittle Tenderness」も、彼はライブで歌詞を変えて歌っていました。実は、彼は「サティスファクション」の原曲を聞かずに楽譜だけで自分用の編曲をしたのだそうです。発売時期もほとんど差がなかったことから、オーティスのカバーがオリジナルだと勘違いした人も当時多かったといいます。(その意味では、オーティスが「サティスファクション」を選んだ選択眼も大したものです)オーティスにカバーされることは、作曲者にとっては幸いなことだったのでしょうが、カバーされる歌い手にとっては嫌なことだったかもしれません。
スタジオでの録音の際、彼はすべての楽器について指示を出し、それを口で真似しながら録音を行ったといいます。その時の口癖「ファ・ファ・ファ・ファ・・・・」は、スタジオ・ミュージシャンたちにとっても忘れられないもので、ギタリストのスティーブ・クロッパーはそのフレーズを元にオーティスの代表曲「FA-FA-FA-FA-FA(Sad Song)」(1966年)を作ったといっています。
不思議なことに、オーティスがホーン・ラインの着想をどうやって得ていたかは誰も知らない。その影響がどういうものだったかも、他の連中のホーン・アレンジについてオーティスが話しているのを誰も聞いた記憶がないのだ。
ロブ・ボウマン(ジャーナリスト・音楽学者)
<名曲誕生>
彼の代表曲であり多くの人が最高傑作と呼ぶ「Try A Liittle Tenderness」(1966年)をオーティスのオリジナル曲と思っている人は多いはずですが、実はこれもまたカバー曲です。それも30年代に作られた古い曲で、最初に歌ったのはビング・クロスビーだったとのこと。元々この曲はオーティスのマネージャー、フィル・ウォルデンが、エド・サリバン・ショーに出る時に歌える曲を作っておこうと言い出したことから選ばれ、録音されることになったそうです。
オープニングからの美しいホーンのアレンジは、スタックスを後に支えることになるアイザック・ヘイズによるもの。スネアの縁を叩く印象深いドラム演奏は、アル・ジャクソンのアイデアでした。余計な飾りつけを取り除き、それぞれの楽器が究極のパフォーマンスを展開するという点でこの曲はオーティスの代表曲であると同時にスタックス・レーベルの黄金時代を象徴する曲だったといえます。
「『Try A Liittle Tenderness』はわたしのフェバリットだよ。レコード制作という点から見て、彼が作ってきたすべてのもの、そうすべてのもの、何から何までのやり方で、あの曲はベストだった。ジャクソンがテンポを変える時はまるでメトロノームのようだろう。あのドラムパートにはしびれっ放しさ。どのドラマーだって、正確にあんなことできやしない。スタックスのすべてのレコードの中でもわたしのフェバリットの1曲だ。最初から終わりまで、スタックスの歴史がそこにこめられているといっていいね」
ジム・スチュアート(スタックス社長)
<人間オーティスの魅力>
スタジオでのセッションは、優れたミュージシャンたちによる緊張感にあふれたバトルであり、演奏が悪ければその録音が採用されない場合もある厳しいものです。しかし、オーテイスを中心とするスタックスのセッションはまったく違ったようです。そして、それは彼の人間的魅力によるところ大だったようです。
「何人かのアーティストはやろうとすることがあまりにきびしすぎて、みんなにやる気をなくさせてしまったもんだよ。でも、オーテイスがスタジオに来た時には、うれしさと笑いで包まれるんだな。プレイしている間中、笑い続けていたよ。誰かが音をミスっても、あわてやしない。笑ってこう言うんだ。『うまくいくぞ』。それでわかるのに時間がかかれば、彼はギターを持ってきてやってみせる。楽しい楽しい時だったなあ」
フロイド・ニューマン(スタックスのミュージシャン)
<モンタレーからフィルモアへ>
オーティスの名曲の数々を生み出したスタジオでのセッションがミュージシャンたちを幸福な気持ちにさせたのですから、彼のライブが観客たちを楽しませないはずはありません。残念ながら、彼の生ライブを見ることができた人はそう多くはありません。1966年6月のモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演するまで、オーティスは白人観客層には未知の存在だったといえます。その時の5万人の観客が彼のパフォーマンスに衝撃を受けて以降、やっと彼の存在は知られるようになります。そして、彼の噂を聞いた西海岸の大御所プロデューサー、ビル・グレアムは早速彼を自身のライブハウス「フィルモア・ウエスト」に出演させようと動き始めます。こうして1966年12月、彼は初めてサンフランシスコのフィルモアのステージに立つことになりました。
ビル・グレアムが仕切っていたフィルモアは、当時ヒッピームーブメントの中心でもあり、白人の若者たちを客層とするライブハウスです。オーティスもフィル・ウォルデンも、白人層へのアピールのチャンスを求めていただけに、それは最高の挑戦の場だったといえます。もちろんビル・グレアムにとっても、オーティスを呼ぶことは彼のライブハウスにとって、重要なイベントでした。
当時、フィルモアに出演していたミュージシャンたち、ポール・バターフィールド、マイク・ブルームフィールド、ジェリー・ガルシア、ジャニス・ジョプリンらがそろってナンバー1アイドルとして名前を上げていたのがオーティスであり、誰もが彼のライブを見たがっていたのです。
彼は、なんとしても彼を呼び寄せようと、自らオーティスの住むメイコンにまで出向き、出演交渉に臨んだといいます。
「街中のアーティストが、オーティスの前座をやらせてくれと言ってきた。最初の晩には、グレイトフル・デッドがやった。その日、ジャニス・ジョプリンは、ぜったい一番前の席に座れるように、昼の3時にやってきた。今日のこの日まで、あそこまで同業者を動員しまくったミュージシャンはほかにいない。本気で音楽をやっているミュージシャンは、一人残らず来た。オーティスはホンモノだった。ホンモノの男だった。R&B好きも、白人のロックンロール好きも、黒人のロックンロール好きも、ジャズ好きも、みんなオーティスを見にやって来た。・・・」
ビル・グレアム
彼のライブ・パフォーマンスは、計算された野獣の叫びとセックス・アピールによって、観客を虜にする魔力を持っていました。女性の観客は特にその魅力に圧倒され、黒人、白人など人種の壁など関係なくメロメロにしてしまったといいます。こうした人種を超越した黒人アーティストは初めてだったのかもしれません。
当然、特別な何かを予想はしていたけれど、ここまですごいとは思ってもみなかった。まさに野獣だ。あの晩のオーティスは、ほかの誰にもできないことをやってのけた。彼はまず「ファファファファ」を歌って客席に手拍子を打たせた。曲が終わっても、観客は「イェイ!イェイ!」と叫びながら、狂ったように喝采をつづけている。で、それがようやく収まりそうになると、オーティスは狙いすましたように、「おまえを愛しすぎて・・・」と歌いはじめるんだ。客席が静まりそうになるたびに、あの男は新しく火をつけた。観客が正気をとりもどす寸前に。・・・
あの男がすばらしかったのは、当の本人は落ち着いていたことだ。レイドバックしていたというか。・・・
ビル・グレアム
その後も、ローリングストーンズなどロック界の大物たちのライブを数多く手がけることになるビル・グレアムはオーティスのライブについて後にこう語っています。
「あれは、わたしが打った中でも最高のライブだった。あの時点ですでに、それはわかっていた。そこにはあいまいさのかけらもない。オーティス・レディングがフィルモアでやった3夜連続公演こそが、最高、最良のライブなんだ。・・・」
<最初で最後のナンバー1>
思えば、彼の得意とするホーン・アレンジ最後の作品は、最初で最後のナンバー1ヒットとなった「ドック・オブ・ザ・ベイ The Dock of the Bay」(1967年)の口笛でした。元々その部分には、オーティスがアドリブ的な語りを入れるつもりでした。ところが録音の時、彼はセリフが出てこなくなり、急きょ口笛を吹いたのだといいます。あの哀愁に満ちた口笛は、スタジオでの偶然、もしくは究極のアドリブが生んだものだったのです。
彼にとって、人生初のナンバー1ヒットとなる曲を録音した1967年12月7日の翌日、彼はナッシュビルで行われるコンサートに出演するため、バックバンド、バーケイズのメンバーと共に出発。9日にテレビ出演後、翌日、飛行機でウィスコンシン州のマディスンに出発しました。ところが、飛行場まで後3分のところでモナ湖に墜落。バーケイズのメンバーと共にオーティスはこの世を去ってしまいました。不思議なことに、その日1967年12月10日は彼が憧れていたサム・クックが殺害された日からちょうど3年後でした。
彼の死は、オーティス・レディングという天才ヴォ―カリストの死であると同時に、彼は引っ張ってきたスタックス・レーベルの死にも匹敵するものとなりました。
「みんなが立ち直るには、しばらく時間がかかったよ。今でもまだ、誰も完全に立ち直ってはいないと思う。オーティスはスタックスの大黒柱だった。スタックス・サウンドに影響を与えて発展させるという点で、彼は中心的な役割を果たしてくれた。彼の死で、われわれはとどめを刺されたようなものだった。・・・」
アル・ベル(スタックスのプロデューサー)
多くの黒人アーティストたちが、人種差別の壁に活躍を阻まれたり、無関係の事件に巻き込まれたり、麻薬やアルコールに溺れたり、白人の経営者たちに搾取されたりすることが珍しくなかっか1960年代のアメリカ、それも差別が根強く残っていた南部で活動し続けたオーティス。彼が、そんな状況下で幸福な人生を送り続けることができたのは、彼を愛し、リスペクトし続けた周囲の人々のおかげだったのかもしれません。しかし、彼の魅力的な人間性と優れた才能がなければ、そんな環境も生まれなかったともいえるはずです。
残念なのは、そんな幸福な人生が、まるでバランスを取るかのように一瞬で終わってしまったことです。
オーティスは生前、マネージャーのフィル・ウォルデンにこう言っていたといいます。
「なあ、こんな幸せはないぜ。ぼくらがこんなになれたのも本当に運が良かったんだ。馬車馬のように働いたり、現実主義者に徹しようとしたこともあったよ。できることは何でもたくわえておこうとしたこともあったよ。こんなに人々にアピールするとは思わなかったからな」