心の中にユートピアを!

「王国 Kingdom 4部作」

- よしもとばなな Yoshimoto Banana -

「王国 その1 アンドロメダ・ハイツ Kingdom vol.1 Andromeda Heights」 (2002年)
「王国 その2 痛み、失われたものの影、そして魔法 Kingdom vol.2」(2004年)
「王国 その3 ひみつの花園 Kingdom vol.3」(2005年)
「アナザー・ワールド 王国 その4 Kingdom vol.4」(2010年)


「王国 その1 アンドロメダ・ハイツ Kingdom vol.1 Andromeda Heighats」
2002年
(著)よしもとばなな Yoshimoto Banana
新潮社
<あらすじ>
 主人公の雫石は祖母と長く山の中の一軒家で暮らしてきました。人々に癒しを与える野草のお茶を作る祖母には、魔法使いのような能力を持っていました。しかし、野草を採っていた周辺の山に開発業者が入ったことで環境が破壊され、祖母は山を去り、マルタ島に住む男性のもとに移住すると言い出します。
 残されることになった彼女は、一人都会暮らしをすることになり、人々の心の悩みを癒すセラピストの楓のアシスタントとして働き出します。都会での生活に孤独を感じ、生き方に悩む彼女は、様々な人と触れ合いながら、多くの事を学び成長して行きます。
<想像上のユートピアへ>
僕らは山腹にわが家を建てている
そこは雲の上 空のとなり
この骨折り仕事が終わったら星が隣人だ
僕らは星たちといっしょに宇宙に住む

 よしもとばななによる異色のユートピア小説「王国」は、同時多発テロ事件後の2002年にスタートした彼女のライフワークともいわれる連作小説です。ユートピア小説とはいっても、一昔前に多くの作家や宗教家が挑戦した理想の社会を描いたSF小説とは違います。

 これは、私と楓をめぐる、長く、くだらなく、なんということのない物語のはじまりだ。童話よりも幼く、寓話にしては教訓が得られない。愚かな人間の営みと、おかしな角度から見たこの世界と。
 つまりはちょっとゆがんだおとぎ話だ。
 それでもそういう話の中にはちょっといいところがある。
 そして本気でそれしかしようがない人達がいれば、世界は不思議な形でふところを開いてくれるものだ。


それは心の中に作り上げる「ユートピア想像小説」と呼ぶべきかもしれません。ジョン・レノンの「イマジン」のようにです。当然、その世界は一発の銃弾によって消されてしまいかねない脆いモノかもしれません。

 雫石という名字の表札がかかった、目に見えないふたりの家をふたりは架空の空間にこつこつと創っていた。そこから一歩でも出たら魔法が解けてしまうので、ふたりはそこにずっといなくてはならなかった。じっと力をためて、絶対にその生活を変えてはならない。そうすればそこではずっとふたりはいっしょにいられるのだ。

 でもそんな脆いユートピアをもっと強いものにできないのでしょうか?
 祖母との山の中でのユートピア的暮らしから、都会での孤独な生活に変わったことで、精神的に追い込まれる主人公は、人との触れ合いの中で少しずつ生きることの喜びを見出して行きます。

 守られながら世界をじっとみつめる、神様から見ればいくつになっても幼いある女の子、その目で見つめたちっぽけな、でもすいべてが新鮮に輝く世界。そういう小さな物語だ。

 「キッチン」や「つぐみ」の頃から、よしもとさんの小説は好きでした。村上春樹のクールさと女性ならではの視点からなる小説世界は、じつに居心地がよく、ひとときの癒しをもらえる作品ばかりです。でも、いつしか彼女の作品から離れていたのは、自分の人生と彼女の世界がちょっと離れてきたように感じていたからです。
 でも、本当は彼女の作品もまた変わっていました。僕がかってにそう思っていただけだったようです。

<自然と都会の境界線>
 この作品は、「大自然」という名のユートピアから、「都会」という名の現実世界へと移り住むことになった女性の物語ということで、その境界線についての文章が印象に残ります。

 どんなところでもきっと同じだと思う。人のいる村や町から、どんどん山道を入っていくと、ある地点からきっぱりと世界が変わるのだ。きっと世界中どの場所でも、人の世界と山の世界には透明な、しかしはっきりとした境界線があるのだと思う。山の世界に突入すると、自然のルールが人のルールにとってかわるようになっている。

 例えば、舗装された道路が砂利道に変わるところとか、海辺の駐車場からコンクリートの壁を越えて海辺に降りたところとか・・・
 この感覚がわかりますか?五感を研ぎ澄ますと、その境界線からは、空気が変わり、匂いが変わり、音が変わり、足元の感触が変わり、ついには歩いているあなたの心までもが変わることになるわけです。そんな場所に生まれてからずっと住んでいた主人公が都会での生活になじめないのは当然です。

 おばあちゃんのお茶でちょっとずつ体を整えながら、なんとかして木や土のない暮らしに慣れていった。都会に暮らすと便利で楽だと思うことはたくさんあったが、ただ昼が茫洋と、漠然と夜に移行していくのには本当に驚いた。人間は、あんなに夜が強く自分を打ちのめすのにおびえて、こんなふうに人工物を増やし、念の力でその変化をぼやかしてしまったのだろうと思う。
 こわさは確かに減ったが、そのぶん、人の心の中に闇は沈んで大きく育ったようだ。


 それでも彼女はおばあちゃんからの教えを胸になんとか都会での生活になじもうとします。残念ながら、多くの人と同じく彼女には生きる場所を選ぶことはできないのです。人間関係に悩みつつも、その中で生きることでしか得られない何かもまた確かにあるのです。

「それにきっと大きな意味で、うまくいく日も来るよ。人のいるところには必ず最低のものと同時に最高のものもあるの。憎むことにエネルギーを無駄使いしてはいけない。最高のものを捜し続けなさい。流れに身をまかせて、謙虚でいなさい。そして、山に教わったことを大切にして、いつでも人々を助けなさい。憎しみは、無差別に雫石の細胞までも傷つけてしまう。」

 彼女にとっての人生の師である祖母がもうひとりの主人公で、その謎に満ちた人生については、ここでは秘密のままですが、そこがまた魅力的です。読者の多くが彼女の人生について想像力をかきたてられるはずです。

 私たちはいつまでも夏休みの子供みたいにしていていいのだ。光の中で遊ぶだけ遊んで、肉体が衰えたら死んでいけばいいのだ。

 いつしか彼女は都会での生活に慣れつつ、新たな人生へと歩み出すことになります。
「王国 その2 痛み、失われたものの影、そして魔法 Kingdom vol.2 」
2004年 
(著)よしもとばなな Yoshimoto Banana
新潮社 
<あらすじ>
 仕事のためフィレンツェに旅だった楓の留守番をすることになった雫石。彼女の恋人で植物園で働く真一郎との関係は深まりつつありますが、孤独な都会での生活は彼女の生きるエネルギーを奪いつつありました。
 何のために自分は生きているのか?そんな疑問さえも、感じなくなっている都会の人々の中に彼女もいつしか巻き込まれつつありました。そんな中、彼女は「生き方」、「人を愛すること」、「世界の恐ろしさと素晴らしさ」について、様々な人との出会いから学んでゆくことになります。
<商店街LOVE>
 孤独な都会での生活の中で彼女の心に救いを与えてくれたのが「元気な商店街」の存在です。僕自身、商店街で店を営業し、その活性化に関わっているので、彼女の「商店街LOVE」には感動しました。作家であると同時に母親でもある著者の生活観の変化と成長が特に感じられるのが、これらの文章でした。

 山の上の何もないけれど木や鳥でむちゃくちゃににぎやかな感じと、そのさびれた感じと比べて、私はどうしても商店街を好きと思うことができなかった。だから、その活気ある商店街ぬい行ったとき、
「信じられない、全然違う!」
感激して声に出してしまった。
その違いは、映像で見たことがある海の底の様子にそっくりだた。
 どうかここが長く続きますように・・・と私は祈るように思うことさえあった。ここがあの、山のふもとの町の商店街みたいに死んでしまったら、どうしようと思ったのだ。でも、海の珊瑚と同じでその空間全体が何か人知を超えた絶妙なバランスでできているから、植物と同じでどこから枯れだすのか、何をしたらいいのかがはっきりとは定まっているが絶妙に有機的に組み合わさって、その華やかさにぎやかさはできているし、まさに生きているのだった。
 そのことは私を感動させ、ちょっと切なくもさせた。
 悲しかったり、胸に穴があいたようになったり、こわかったりすることがあると、人は当然の幸せというものにも思いをはせるようになる。毎日生きているだけで、同じ人に会えるだけでも、うんと嬉しい。


 もちろん彼女が商店街にこだわっているのは、単なるレトロな趣味ではないし、文学者としてのヒネクレ感覚でもありません。それは「都会」へのアンチであり、「人の暖かさ」への憧れなのでしょう。さらに彼女は「都会」という現代人にとって、より身近な存在についても言及しています。

 もちろん過去を消すというのはできないことはないが、それはやったときのちょうど百倍くらいの力を使わないと、さらに自分に毎日魔法をかけて自分自身を説得しないとできない。つまり普通の人にはほとんど不可能だということで、できないと言っても過言ではない。
 でもきっと「簡単にリセットできるつもりになれる痛みのない世界」を創りたかった人がいて、都会というのはきっとその人たちが描いた夢と幻の世界なのかもしれないな、と思うことがあった。永く続くいい夢も、夢ではすまないおかしな幻想も育った。


<リアル・LOVE>
 そんな「都会」での孤独な生活の中で、主人公の救いは偶然出会った真一郎の存在でした。植物とサボテンを愛する彼への思いは、彼女に初めて「恋」とは何かを教えてくれることになりました。

 笑った顔がもう一回見たい。順番に服を脱ぐところとそれをたたむところがあと一回でいいから見たい、泣いたところさえ見たいけれど、泣いているとうんと悲しい。それだけの気持ちが、恋なのだ。どんな人で、何をしていて、どういう考え方かなんて結局はその笑顔の中に全部入っている。もう一回触りたい、ただ触れ合いたい、笑いあいたい。そんな奇跡が起こって、またこれからもあるかもしれない、ただそれだけでいいのだ。見ていないのだ、その涙の粒さえも、もう消えていく。笑顔が見たいけれど、あまりにも透明できれいだから。そして2度とは目の端に輝かないかもしれないから。
「今は今しかないことを感じさせてくれるのが恋愛なんだ」と、そんなあたりまえのことを、私は彼を通じてはじめて知った。


<人が照らす社会LOVE>
 しかし、恋人と離れて生活する彼女にとって孤独な都会での日常は日々続くことで彼女を追いつめます。そんな状況を変えてくれるのは、やはり「人」であることに彼女は気が付きます。人は「孤独」に追い込むのは周囲の人々です。しかし、そこから救い出すことができるのもまた「人」であり、それが「コミュニティー」と呼ばれる人間集団です。
 人は自らが閉じこもる「孤独」から何とか抜け出すことさえできれば、きっと「救い」を与えてくれる人がいるはず・・・・・。「商店街」はかつてそのためのコミュニティーとして輝ける存在だったのです。

 本当の町と夜が姿をあらわし、私はそれにも魅了される。今までのは人が照らした世界だったのだと目が覚める。
 そして私はひきかえし、もう一度じっくりと買い物をするのだった。これはものが出している光でもなく、街灯の光でもない。人が出している光でもない。人が出している光なのだ。それぞれの生活と、知り合いしか通らない気安さと、この道全部に広がる安心の感覚、そして小さなものを売り買いして生計をたてていくことの光だ。


 もちろん今や「商店街」は消えつつあり、各地のコミュニティーも崩壊の危機に瀕しています。それでもなお、我々には救いはあるのでしょうか?
 確かに悲惨な事件や巨大な自然災害もあとを絶ちません。新聞には毎日尽きることなくそれらの記録が載せられています。
 それでもなお、多くの人は不幸にたとえ見舞われても、そこから立ち直ることが可能です。これもまた事実。世の中は決して捨てたものではありません。

 そして、私が前に住んでいたアパートで人を殺したり焼いたりして大騒ぎを起こした、あのくさい人たち。ああいう人も、実はこの世にはたくさんいるのだということもわかった。顔のまわりの色が紫か黄色か黒で、ぎりぎりと光っていて、お金が好きで、夜の街が好きで、夜の街が好きで、いつなんどき怒り出すかわからない人たち。肌がすごく汚くて、臭い匂いがしたり、花の濃いような香りがしたりする男や女たち。
 その中にもいろいろな人が、ピンからキリもでいろいろなバリエーションでいる。もともとはお金がきっかけでそういう体質になり、お金の色がとれなくなってどんどん不思議な植物のように育っていく。そういうのが人間社会の特徴らしい。
 でも、私はそのことに対してなぜか絶望や失望は感じなかった。あんな人たちがたくさんいるのに、どうしてこの世は終わらない?そのことにこそ、私は感動してしまった。
・・・世界はなんと包容力があって、すごい浄化作用を持っているのだろう。信頼するに足るのではないか、と思ったのだ。


<思い出のモノ・LOVE>
 人を救うのは、人だけではないのかもしれません。そこに人の思い出があれば、「モノ」にだって人を救うことができるのです。

 なんだっていいんだ、魔法は、何にでも存在する。コロッケにもパソコンにも電話機にもゴミ箱にも。そこに思い出がちゃんと作られていれば、どんなものでも魔法の装置に変わっていくのだ。
<時間という枠組みとの闘い>
 人はかならず生き直すことができる。そんな信念を読者も共有できるはずです。ただし、それなら人は誰もが幸福になれるはずです。でも実際はそうはならない。その最大の理由は、人には「時間」という絶対的な拘束条件が与えられているからです。人それぞれの「時間」の枠は、「運命」という決まりによって左右され、我々に自由を与えてくれないのです。

 サボテンの花ってたいていめったに咲かないから、巨大な花が咲いたりすると、時間が惜しいと思うんだ。いくら写真にとっても、あの香りと迫力と、夜の中に妖しく浮かんでいるような様は、決して残せない。たった数時間で、つぼみはばんと開いて、また閉じてしまう。開いていく過程は惜しみなくて、まるでプレゼントのようなんだ。それを見ていると胸が痛くて・・・時間の本当の意味がどんどんわかってくる。どうやっても、逆立ちしても、今しかない。あまりにも苦しい気持ちになるから、人はそれに気づかないふりをしているんだと思う。痛くて苦しくてとても感じていられないから、ずっと同じで、かわりばえせず、退屈していたいんだと思う。もし時間の本当の意味に気づいたら、それはもう本当に痛くて、仕方のないものなんだ。

 人は、どうやっても与えられた時間しか生きられない。そのことに気が付くと、「街」は確かに違って見えてくるかもしれません。「商店街」が人を癒すのは、そこには明日も明後日も続くであろう変わることのんまい「日常」があるからなのです。たとえ、そこに自分がいなくなったとしても、それでもなお自分を知っている人々が生き続け、時には自分のことを思い出し、語り合ってくれるかもしれないのです。

 人は、やっぱり人を見に来る。一日に一度は、平和に人々が生きているところが見たいのだ。繁華街は平和ではないこともあるけれど、市場はたいてい平和だ。そこはお母さんたちが集うところ、生命をつかさどる所に直結した場所だからだと思う。
「王国 その3 ひみつの花園 Kingdom vol.3」
2005年
(著)よしもとばなな Yoshimoto Banana
新潮社 
<あらすじ>
 雫石の恋人、真一郎は別居中だった妻と正式に離婚。それを機に二人は同居するための準備を始めます。しかし、お互いに何かがひっかかる中、真一郎は、かつて彼の唯一の友人だった高橋君が造った庭を見学しようと雫石を誘います。病により若くしてこの世を去った高橋君の庭は彼の母親によってしっかりと管理されているようでした。しかし、雫石は真一郎と高橋君の母親との関係を疑い、その訪問によって二人の関係に終わりが来るような予感がしていました。そして、そんな彼女の不安は的中します。
 恋人と別れることになった失意の雫石を気づかった楓は、彼女を元気づけるため、片岡と二人で台湾への取材旅行に行かせようとします。もともと犬猿の仲だった片岡との旅は上手くゆくのでしょうか?
 真一郎を彼女から奪った庭の秘密とはなんだったのでしょうか?
 雫石の前に現れた楓の昔の許嫁、敦子さんとは?
 その3で、主人公は恋人の真一郎と別れることになります。そのきっかけとなったのは、かつて真一郎の友人、高橋君が造り上げた「花園」でした。その2にも、彼とその母親が裏山を素晴らしい庭園に造り替えたエピソードがありました。

 その裏山は、学校を広くするときになくなってしまったそうだ。真一郎くんとその友達とそのお母さんが、毎日熱心に歩き回って小さな草の種類まで知っていた、小さな宇宙はもうこの世からなくなってしまった。しかし、真一郎くんの胸の中で、その緑の小山と木々は、いつまでたってもすごい力を持ち続けているのだ。なくなったことでよりいっそう強固で鮮やかな、消えない魔法を保っている。彼の原点がその心の中の山にあって、つまずいたら彼はいつだってそこに戻っていける。
 なくすことでますます強固になるものというのがある。私の山暮らしのように。そこにいたときよりも、はるかに強い力を持って存在しているというものが。


 別居中だった妻との離婚が成立し、雫石との同棲を始めようとしていた真一郎は、二人の関係を始めるに当たり「高橋君の庭」を訪れます。その庭こそ、この小説の主役であり、最大の謎です。この小説のテーマはこの高橋君の庭がもつ秘密を解くことにあるといえそうです。読者は頭の中に様々な庭のイメージを思い浮かべながらその秘密に迫る楽しみを味わうことができるのです。

 人であることの希望は、体が不自由でも高橋君から一瞬も奪われることはなかった。なぜ人は自然だけではだめなのか、どうして自然を模して作品を作ってしまうのか、その答えがそこにはある気がした。それは、目の前にあるすばらしい神の作品は断片に過ぎない気がするからではないだろうか?頭の中ではもっとたくさんのことを知っている気がしている。いつだって、もっと遠くの懐かしい何かが見える気がしている。自然の完璧さを見ているとその何かを思い出しそうになる。だから創らずにいられなかったのだろう。・・・
「生きていたい」なによりもそのメッセージがひしひしと伝わってきた。
「こんなに美しい世界を僕は見ていたい、一日でも長く」
 それが高橋君の言いたかったことだった。


 雫石は「ひみつの花園」の偉大さ、美しさを認めつつも、そこが素直に好きにはなれませんでした。それは恋人をその花園に奪われるであろうことを予知していたからでしょうか?たぶん、それは彼女が長年住んでいた山の自然と根本的に違ったからです。

 山の上で何を見ても聞いても、それがたとえ洗面器の中でおぼれ死んだ虫であっても、そのことに全てが結びついていた。そこではいずれにしても命というのは激しいものだったのだ。ふっと奪い去られたり、また考えられない恩寵によってながらえたりするもの。そんなことがあたり前で、自分の価値を見いだすのがむつかしかった代わりに、そこでは自分が死ぬことが淋しいことではなかった。ある日ふっとこの全体の中に溶ける、ただそういうこととしてとらえることができた。

 もしかすると、多くの人々が生きる「都会」という名の「生命環境」もまた多くの人々のよって造られ、育てられてきた場所もまた巨大な花園といえるかもしれません。
 それも、自然のままの弱肉強食の世界ではなく、人々がたとえ弱っても生きて行けるようにと優しい世界を目指して改良され続けている場所ののようです。

 都会ではあんまりいつでもぴりっとしていなくても生きていられるので、弱っているときなど特に楽だった。
 そして外側からやってきた私には、ときどき現代社会の「人」全体が奇妙な夢を見ているように思えた。
 昔に戻った方がいいとは少しも感じなかった。人々はなんとかしていろいろなことを分担して、一生が労働とその隙間の憩いにしかない仕組みを変えていことうと試行錯誤している途中のように思えた。それは良きことに思えた。


 しかし、それは人を弱くし、人を幼いまま生きさせる危険な賭けでもあります。良かれと思ったことが、もしかすると人の能力を奪い、未来を奪い、夢を奪っているかもしれません。

 ここでは子供たちはすぐに中途半端に大人にさせられてしまい、くだらないことではいつまでも子供をひきずって、中年の時期を罪悪感いっぱいに過ごし、多くのことから目をそらさせられたままで死んでしまう…極端に言うと、そういう感じさえした。
 みんないつでも前のめりで、五分先を生きている。


 雫石は真一郎と別れ傷心のまま片岡と台湾へ取材旅行に出かけます。台湾という「巨大商店街国家」は、彼女に生きる気力をもたらすだけでなく、「ひみつの花園」の本質に気づかせてくれることになります。

 そうか!そういうことか!と私は思った。
 高橋君はこの一本の線を、さっきまでの完璧な林、自然が描いた究極の線をこわすことなく、描き加えたかっただけだったのだ。自分が溶けていきたかったのだ。苦しみも悲しみも欲も忘れて透明になってすっと、大きなものの中に抱かれてただ呼吸していたい、溶けたいと。
 そして最終的にそれはほとんど成功したのだろう。・・・・・・・・
 一周して、赤ん坊のような気持ちに戻って。いろいろな宝を抱えて、去ったのだ。


 高橋君はけっして自らの手で自然を作品化してしようなどと思っていたのではなく、ただただ自分がそこで生きたかっただけなのではないかと・・・。
 その思いは雫石の懐かしい山と祖母との記憶への熱い思いと同じなのかもしれません。彼女は高橋君の思いを理解したことで、真一郎との別れを受け入れます。
 こうして彼女は、楓、片岡との不思議な三角関係を保ちながら再び人生を歩み出すことになります。
「アナザー・ワールド 王国 その4 Another World」
2010年 
(著)よしもとばなな Yoshimoto Banana
新潮社 
<あらすじ>
 ギリシャのミコノス島に住みママ(雫石)と二人のパパによって育てられた片岡ノニは、ある日、不思議な能力を持つ画家キノと出会います。
 足の悪いキノを助けながら、その出会いに運命を感じていた彼女は、その後日本に戻ると、キノのもとを訪ねます。
 交通事故でこの世を去ったキノの妻マリのことを知ったノニは、そこで彼女が愛した猫たちと暮らすキノに魅かれて行きます。そこ頃、ノニもまた長く付き合ってきた同性の愛する人サラと別れたばかりで、彼女への思いをふっきれずにいました。そして、彼女はまた大切なパパ(楓)をも失ったことで深く落ち込んでいました。キノとの出会いと別れの苦しみの中、未来について悩む彼女に彼女の育ての親でもあるパパ2(片岡)がノニが誕生した時の秘密を明かします。
 その4のタイトルは「アナザー・ワールド」。とは言っても、「王国」シリーズのひとつであって、別に並行宇宙の話でもありません。ただし、「その3」の発表が2005年で、この「その4」は2010年5月に発表されています。その間、5年の空白があり、物語ではさらに長い空白があったようです。雫石の娘ノニが20歳を過ぎているということは、20年以上が過ぎていたことになります。

 別の場所へ行きたい そこは平和だろうか?
 別の場所へ行きたい この世界はほとんど滅びてしまった
 それでも数えきれない夢を見る 光を見たことがない
 別の世界へ行きたい 私が行ける所なら
 海が恋しくなる 雪が恋しくなる 煙が恋しくなる
 育っていくものが恋しくなる
 Another World by Antony P.Hegarty(アンソニー&ザ・ジョンソンズの曲。この曲は知らなかったのですが、良い曲ですね)

 20年という時を越えただけでなく、この物語はさらにはるか未来に目を向けようとしています。2011年以後、日本人の多くが考えることになる未来のビジョンに自分はどう関わるべきなのか?この小説は、一年後のあの大震災を予見するかのように深くこの問題を考えさせてくれています。

「・・・海の中がぎっしりと生き物で満ちた濃厚な世界だったことを、いつか人は忘れてしまうんだろうか。でも、とにかくなにかと戦い続けていくしかないし。」
「なにと?」私は言った。
「おのれと。世界に通じる秘密の扉はおのれの中にしかないから。」ママは言った。
「簡単に言うと、ノニが来たら、幸せだなって思って、顔色を見て、健康だなって思って、嬉しく思って、おいしいものを食べさせたり、喉の渇きを癒してあげたり、そういうことを大事にするってこと。自分の中をきれいにしておくことしか、人間にはできない。・・・・・」


 そんな中、ノニは愛する妻を失って失意のまま生きていたキノを愛するようになり、そこに生きる意味を見い出します。

キノは言った。
「うちの猫たちは、今の代は自由に外を歩いているけど、そのうちどうなるんだろう。僕たちの世代は、まだいいかもしれない。引っ越して追いかけていけば、まだいろんな生き物といっしょに暮らせる。朝は鳥の声で目覚め、夜はいろいろなもののざわめきを聞きながら眠れる。
 でも、そのあとの世代は?大丈夫だろうか?鳥や蜂を知らなくても、人間って生きていけるのだろうか?」
・・・・・
「私、あなたの子供を産むよ。その子に見てもらおう。その先の世界を。」


 自らが子供をさずかり、父親がそう遠くない先にこの世を去ることを知った著者にとって、この作品は自分の物語であると同時に、すべての人々への愛情の表現でもありました。(著者の父親である吉本隆明は2012年3月16日にこの世を去っています)

 これからしばらくは大変な時代が続くだろう。
 直観と本能を信じ、自分を保つことをたえず続けていけないと、生きていくのが困難になるのではないか。
 そんなときに、少しでも役立つツールのように、この小説が読者に寄り添えたらと思う。彼らの奇妙なライフスタイルをまねる必要はない、ただ、自然とともに常に揺れている心、そこだけ読んでもらえれば。

「あとがき」より

 「あとがき」に書かれた上記の文章は、自らの熱い思いを読者に伝えたいという、いつになく前のめりになった彼女の心の表現なのでは?村上春樹に匹敵するクールな彼女の文章がぽっと赤く熱を放ったところで「王国」の物語はひとつの終わりを迎えました。
 あとは読者の心の中にもうひとつの王国(「アナザー・ワールド」)が誕生してくれれば・・・そんな彼女の思いを僕も受け取ることができた気がします。こうなったら、あなたにも是非「王国」の建国に挑んでみて下さい。
 思えば、素晴らしい小説とは、読者の心の中に「アナザー・ワールド」を作り上げる力を持っていなければならないのかもしれません。

キノは言った。
「猫の世話も庭の世話もとことんやったら、それは世界に通じる扉出し、世界は変わるだろう。それと同じで、今、ちょうどふたりの距離はそのくらい。」

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