- 小津安二郎 Yasujiro Ozu -

<追記>2004年1月5日、30日
<改訂>2004年1月17日

<巨匠との出会い>
 日本が生んだ偉大な映画監督、小津安二郎との最初の出会いは、大学時代名画座に通っていた1980年頃のことでした。その時、「東京物語」、「麦秋」、「小早川家の秋」などを見ました。もちろん、良い映画だったことは、はっきり憶えているのですが、同じ頃に見た黒沢明監督の初期作品がもつ若々しいパワーに比べると、ちょっと印象が薄かった気がします。
 ところが、2003年12月から小津安二郎生誕100年を記念してBS11で放映された数々の作品をみていて、再びあの頃の感動が甦ってきました。それも今度は、あの時の倍くらいになって・・・。初めて見てから20年、僕自身の視点も、小津作品の常連俳優、笠智衆の心境に近くなりましたが、それだけでは説明がつかない数々の感動を再発見することができました。

<再発見、そして数々の疑問>
 特に、名作中の名作「東京物語」を見ていると、感動とともに数々の疑問がわいてきました。
「見たこともない街並み、遙か昔の尾道や東京の風景が、なぜこうも懐かしく思えるのだろう?」
「ラスト近くに急死する母親の姿が、ずっと昔に亡くなった祖母の姿と妙に重なって見えるのは、なぜなのだろう?」
「妻が死んだ翌朝、一人寂しく海を眺めていた父親の気持ちになぜこうも感情移入できてしまうのだろう?」

<世界の監督たちと小津>
 さらにその特集では、松竹が製作したドキュメンタリー映画「小津と語る」を見ることができました。それは世界各地の映画監督たちに小津安二郎の写真を前にして、彼との思いでについて語ってもらうというものでした。
 かつて「東京画」という小津に捧げるドキュメンタリー映画まで撮っているドイツのヴィム・ベンダースや「非情城市」などで有名な台湾の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)、「タクシー・ドライバー」の脚本で有名なポール・シュレーダー、「レニングラード・カウボーイズ」で有名なフィンランドのアキ・カウリスマキなど、そうそうたる顔ぶれが小津作品についての思い出を語っています。なかでも、アキ・カウリスマキなどは、兄に無理やり連れられて見た小津の作品が、映画監督になるきっかけだったと述べています。

<なぜ今小津なのか?>
「21世紀になってなお、ハリウッドを除く世界の映画監督たちがそろって小津を褒め称えるのは、なぜなのだろう?国も時代も民族も宗教も異なる人々が、なぜ小津監督の作品に共感できるのだろう?」
 彼が撮っていた映画は、ごくごく当たり前の日本の家庭についてのごくごく当たり前の出来事です。そこでは、殺人事件も起きないし、恋人の奪い合いすらありません。なのになぜ、見る者を引きつけて離さないのでしょうか?
 そんな数々の疑問に対する答えを見つけるため、僕は昔から尊敬している映画評論家、佐藤忠男さんの「小津安二郎の芸術」(朝日文庫)を読ませていただきました。この本、面白いのなんのって、・・・まるで推理小説のように小津作品の謎を解き明かしてくれます。
さて、小津安二郎という人物はいったいいかなる人物だったのでしょうか?

<映画少年、小津>
 
小津安二郎が生まれたのは、1903年12月12日、場所は東京の下町、深川でした。彼には兄が一人おり、後に彼の映画には同じ様な二人組の兄弟が頻繁に登場することになります。
 1913年、彼が10歳の時に父親の実家であり、商売上の本店があった三重県松坂町に父親を除く全員が引っ越します。その後、父親は単身赴任を東京で続けたため、彼は母親によって育てられることになりました。おかげで彼は、自由とお金に不自由せず、14歳頃には映画館に入り浸るようになっていたそうです。勉強もろくにせず、学校をさぼりがちだった彼は、非情に大人しい性格だったにも関わらず不良学生として有名になり、ついには寄宿舎を追い出されてしまいました。しかし、そのおかげで彼は家から通学することになり、それまで以上に映画にのめり込むことができるようになりました。
 1921年、彼は神戸の商業高校を受験しますが、当然のごとく不合格となります。その後しばらく彼は代用教員をして暮らしました。
 1923年、家族が再び東京でいっしょに生活を始めるようになり、彼も松竹蒲田撮影所に撮影助手として勤めることになりました。

<アメリカ映画の模倣からのスタート>
 驚いたことに、この就職の時、彼は日本映画をたった3本しか見たことがなかったといいます。アメリカ映画こそ、彼にとっての映画の理想だったようです。そして、このことが彼の映画作りに大きな影響を与えることになります。
 今や日本文化の象徴の一つとなった小津作品は、実はアメリカ映画の模倣から始まったのでした。美的感覚を重視するヨーロッパの映画がカメラ・ワークに凝るのに対し、ストーリー展開を重視するアメリカ映画はカメラを動かさずに物語りを素直に撮る傾向があります。小津監督も、そんなアメリカ映画の撮影法をマネしたわけです。

<監督小津安二郎誕生>
 1926年(昭和元年)、彼は監督を目指して助監督の仕事につきました。翌年には初めて監督の仕事を開始。中編が中心とはいえ、1年間に6本もの映画を撮っています。
 1930年、「お嬢さん」は、初めて映画雑誌、キネマ旬報のベストテン3位に選ばれ、映画監督小津の名は、いっきに注目を集めるようになります。
 しかし、この年アメリカから始まった世界恐慌の波はすぐに日本にも押し寄せ、「不況」が日本の社会を大きく変えることになりました。それは家族崩壊の危機として、彼の映画の世界にも大きな影響を与えることになります。

<「生まれてはみたけれど」>
 そんな時代に作られた作品「大人の見る絵本・生まれてはみたけれど」(1932年)は、初めてキネ旬の1位に選ばれます。さらに、この作品は今では世界各国の映画教育機関において「戦艦ポチョムキン」に匹敵するサイレント映画の代表作として扱われているそうです。(アメリカでもこの作品が授業の教材として用いられているそうです)
 1934年、父親が狭心症でこの世を去り、この後彼はずっと母親とともに暮らすことになります。そして、生涯彼は独身をとおし家庭をもつことはありませんでした。彼にとっての家庭は、自らの生み出した作品の中にだけ存在しているのです。だからこそ、彼の映画には今や見ることのできない古き良き日本の家族の姿が映し出され、永遠にその輝きを失うことがないのかもしれません。

<突貫小僧こと青木富夫さん>(2004年1月4日追記)
 「生まれてはみたけれど」の主役のひとり、弟役の「突貫小僧」こと青木富夫氏は、80歳を過ぎてなお現役の俳優さんです。篠崎誠監督の映画「忘れられぬ人々」では、主役を演じ、フランスのナントで行われた三大陸映画祭で主演男優賞を受章しました。(2000年)
 小津監督は、青木さんを大人になってからは使わなかったのですが、親しい間柄は死の直前まで続いたそうです。そんなある日、小津監督は彼にこういったそうです。
「お前、おれの映画見てどう思う・・・あんなのみんな嘘だよ。夫婦愛とか家族愛とかありゃしない。でも、そういうふうな家庭が欲しいよな、突貫!」(小津監督は、青木さんが結婚してもまだ「突貫」と呼び続けていたそうです)
 やはり、彼にとって映画の中の家族は、理想であり、夢の存在だったようです。
(注)詳しくは2004年1月4日発売の毎日サンデーをご覧下さい! 

<ご冥福をお祈りいたします>(2004年1月30日追記)
 なんと上記の記事を読んでしばらくして、青木さんはお亡くなりになられました。これもまた運命的です。謹んでご冥福をお祈りいたします。天国で小津監督によろしくお伝え下さい。

<太平洋戦争へ>
 1937年7月、日中戦争が始まります。彼はすぐに軍隊に召集され中国へと出発しますが、1939年無事帰国します。
 この戦争で再び日本の家庭は、大きな危機の時を迎えますが、なぜか彼はそれまでの作品とそう変わらない家族映画を撮り続けています。元々彼の映画には政治的色合いは少なかったのですが、だからといって、彼はその作品で平和について語っていたわけでもなさそうでした。
「戸田家の兄妹」(1941)、「父ありき」(1942)は、ともに高い評価を得ました。(「父ありき」の中に親子で川釣りをするシーンが時代を変えて登場します。これって、もしかするとロバート・レッドフォード監督の名作「リヴァー・ランズ・スルー・イット」の元ネタだったのではないでしょうか?)
 1943年、彼は40歳になっていましたが、再び軍に召集されます。彼の任務は戦闘ではなく、報道記録映画の撮影でした。しかし、シンガポールに滞在した撮影隊は戦況の悪化により活動不能となり、そこで足止めを余儀なくされます。結局彼はそこで軍が押収したアメリカ映画の数々を見て暮らすことになりました。そしてこの時、彼は初めて「風と共に去りぬ」「市民ケーン」などの名作を見ることになりました。
<追記>(2015年1月)
 NHKEテレの「岩井俊二のムービーラボ」の「ドラマ編」で「父ありき」について紹介されていました。ドラマにおける定番ともいえる人生を切り取って描写することで、人生を描く手法「スライス・オブ・ライフ」。その代表的作品が「父ありき」だということです。確かにこの映画では、父と子の交流が「息子が少年だった時代」と「父親が年をとってからの時代」の二つに絞られています。その二つの時代の描写だけで、それ以外の時代の二人の人生を観客に想像させてしまうのです。これぞ究極の「スライス・オブ・ライフ」です。ちなみに、この作品の対極にあり、スライスをもっと様々な時代から行いそれを次々に映像としてつなげて見せた「分厚いスライス・オブ・ライフ」の傑作として「ガープの世界」ジョージ・ロイ・ヒル)があげられていました。なるほどです。

<敗戦、そして黄金時代>
 1945年、日本は敗戦し小津はイギリス軍の捕虜となります。そのため、帰国は翌年1946年になりました。(帰国の順番を決めるくじ引きでは、すぐに帰れるはずだったのですが、家族のいる他の兵士に遠慮して、彼は後に残ったそうです)
 しかし、帰国後すぐに彼は映画の製作を始め、翌1947年には新作「長屋紳士録」を発表。さらに1949年には、代表作のひとつ「晩春」を発表。この作品から、笠智衆の父親、原節子の娘という組み合わせによる家族のドラマが始まり、彼のライフ・ワークとして続いて行くことになります。
 1951年「麦秋」、1952年「お茶漬けの味」と続き、1953年いよいよ彼の最高傑作とも言われる「東京物語」が発表されます。

<「お茶漬けの味」の再映画化と平和への思い>(改訂2004年1月17日)
 「お茶漬けの味」は、戦争中彼が戦場から戻ってすぐに映画化しようとした脚本の映画化でした。小金持ちの主婦たち(有閑マダム)と夫が繰り広げる家族のドラマには、戦争のことはいっさい書かれていませんでしたが、あまりに戦況ひっ迫の国内情勢からかけ離れているとして、軍に映画化を拒否されてしまったのでした。彼は結局戦時中戦争に関する映画を一本も作りませんでした。シンガポールでの宣伝用映画が結局空中分解してしまったのも、もしかすると彼の意図だったかもしれません。
 先日12月に行われた小津監督生誕100周年記念シンポジウムの録画を見ました。その中で小津監督の後輩だった吉田喜重監督がこう言っていました。
「小津監督は、戦時中銀座の街を描く時でも、そこに歩いていたはずの軍服姿の兵隊をけっして描くことがなかった」そこには秘かな反戦への闘いだったのです。

<映画とは?>(追記・訂正2004年1月17日)
 彼は死の間際、前述の吉田監督にこう言ったそうです。
「映画はドラマなんだ。アクシデントじゃない」

これは、映画作りの中で画面内での俳優同士のぶつかり合い、偶然性を重視する若手監督たちに対する小津監督の批判と忠告の言葉だったのですが、後に吉田監督はその言葉に別の意味を見出しています。
 「映画は日々繰り返す日常をとらえればよい。アクシデントはその中にも嫌でも見えてくるはずだ」小津監督はそう言いたかったのではないか?もちろん、アクシデントとは戦争であったり、数々の事件のことでもあります。
 「人生は反復とそこからのズレである」これもまた吉田監督の言葉です。

<傑作「東京物語」誕生>
 「東京物語」はタイトルだけでなく、俳優陣、ストーリーなど、いろいろな面で小津作品の集大成的な作品でした。ところが、この誰もが認める代表作は、あるアメリカ映画のストーリーをヒントに作られたものなのです。
 その映画「明日は来たらず」は、1937年に公開されたパラマウント映画で、小津とコンビを組んでいた脚本家の野田高梧がそれを見て、日本向けに書き直しました。しかし、こうしたアメリカ映画からの引用はそれだけではありませんでした。
 デビュー作「懺悔の刃」「戸田家の兄妹」「非常線の女」「浮草物語」「出来ごころ」など、初期の長編の多くはアメリカ映画のストーリーを下敷きにしていました。今や最も日本的と言われる小津監督の世界は、ストーリーの面ではアメリカ映画の模倣から始まっていたわけです。

<ハイカラ大好き人間>
 アメリカ映画が大好きだった小津は、日本を舞台にアメリカ映画を作ろうとしていたとも言えます。ストーリー的にもアメリカを意識していただけに、舞台となる場所や建物、風景にはあえて日本的なものを使いませんでした。小物もハイカラな品々に凝り、新しい風俗をどんどん画面の中に取り入れています。ライターやグラス、湯飲み、やかんなど画面に並ぶ小物は、ほとんど監督自らが選び、その配置までを決めていました。それにお洒落なバーや当時はまだ珍しかったラーメン屋など、ハイカラなお店を使うのも、彼は大好きでした。(しかし、完璧な映像を求める彼は、既存の店をモデルにしても、必ずそのセットを作って、そこで撮影を行いました)

<日本の家族>
 ある意味、小津監督は画面から日本的な文化を取り除いてしまったとも言えます。しかし、それでもなお日本的なるものが、しっかりと残っていたのです。それが「家族」という日本文化の重要な根っこの部分だったのです。
 そして、こうして余計な飾りを取り除くことで生まれた作品だったからこそ、それは時代を越え、国境を越えて共感を得ることに成功したのかもしれません。

<至福の時>
 それでは小津の描く「家族」のどこが日本的なのでしょう?
 彼は家族を「父と子」、「父と娘」がお互いに甘えあうことのできる関係として描くとともに、そのバランスをとるための努力を怠らない微妙な関係として描いています。そして、その関係には必ず「死」や「結婚」という終わりの時がやってくるという現実をも描くことで、人間の成長と人生の厳しさを表現しました。したがって、彼が描く家族のなにげない団らんは、そんな微妙なバランスの上に成り立つ貴重な「至福の時」でもあるのです。ささやかな家族の団らんを「至福の時」と感じられることこそ、人間にとって最も重要なのだ、そう彼は言いたかったのかもしれません。こうした、調和のとれた状況こそを理想とする文化、これこそ日本人が育ててきた「禅の文化」の象徴と言っていいかもしれません。

<調和のとれた画面の創造>
 小津はこうした調和のとれた「家族の肖像」を描くため、その撮影法、画面構成などにもこだわりました。先ず彼はロケをほとんど行いませんでした。なぜなら、ロケでは自分が思い描くような調和のとれた画面をつくることが困難だからです。
 スタジオ内で、小物の配置、室内の装飾、ライティング、そしてカメラのアングルなどをすべて自分で確かめて初めて、彼はセットに俳優たちを並べたといいます。当然、俳優たちの座る位置も決められており、それは常に左右対称を基本とする美しいバランスをとるように定められていました。場合によっては、俳優たちは首を不自然に傾けることで、さらにそのバランスをとらされることもあったようです。
 畳に座り、動かずに会話をすることの多い日本映画にとって、それを画面上で魅力的見せることは大きな課題でした。小津はこの難問に「動きがないのなら、絵画のように美しい配置を与えてしまえばよい」という解答を見出したわけです。さらに言うと、家具の位置で規制されてしまう洋間と違い、和室は人を自由に配置できるという利点があります。フレームの中で最も美しく見える配置を簡単に作れるというわけです。
 それだけではありません。彼は同じシーンを異なるカメラ・ポジションで撮影する時、画面に映る小物の位置をわざとずらすこともあったというのです。それぞれの画面ごとに、最も美しい配置を選んでいたからです。現実的にはあり得なくても、美学としてはありだったわけです。
 画面に映る畳の縁の線が気に入らないからと、誰も座るはずのない座布団を置いて隠すこともあったそうです。なんというこだわり!
 そして、こうして作られた完璧な画面構成をそのまま収めるため、あの有名なローアングルのカメラ・ポジションが生まれたわけです。

「あの人の映画は、一コマ一コマが写真だからね。画面がかっちり決めてある。映画なのに、連続写真っていうか、写真集みたいだ。・・・」
荒木経惟

<完璧な構図を生き生きと見せるために>(2004年1月5日追記)
 こうして生まれた完璧な構図をもつ画面ですが、それだけでは生きた画面にはなりません。それでは写真と変わらないのですから。そこで小津監督は、そんな画面にもう一工夫加えています。それは、画面の中に必ず何かの動きを加えることです。
 例えば、画面の中の花が風で静かに揺れていたり、画面の中の暖簾(のれん)が揺れていたり、画面の中の壁に風に揺らめく水の輝きが映ったり、・・・もしくは画面の中の奥の通りや廊下を人や車が通り過ぎる場合もあります。そうすることで、画面の構図を際だたせることに成功しているわけです。

<なぜカメラを見てしゃべるのか?>
 ではなぜ小津作品では俳優たちが常にカメラの方を向いてセリフを言うのでしょう?(最初に見た時は、ずいぶん奇妙に思えました)実はこの撮り方は元々サイレント映画では、当たり前の手法でした。誰がしゃべっているのかをはっきりさせるためには、この撮り方が最もわかりやすかったのです。しかし、彼はこの方法をトーキーになってもやり続けました。
 ひとつには、そうすることでカメラ・アングルを固定することができ、彼の理想とする画面構成を変えずにすむというメリットがありました。小津作品における会話のほとんどは、同じ方向を向いて座る人物同士によるものです。これは向き合ってお互いの目を見ながら話す西洋式の対話とは大きく異なる点です。
 しかし、お互いに気を使いあい、ちらりと見やりながらの会話には、「対決」とは異なる「調和」という日本的美徳が存在しています。この点でも、小津作品は実に日本的だったのです。
 他にもカメラの方を向いてセリフを言う理由についての説があります。
 小津作品において、登場人物は常に「お客」として扱われ、そのため不作法にアップで撮ったり、後ろから撮ったりしないのだという説です。そうなれば、当然その場の主人であるカメラに向かって「お客」は話しかけるというわけです。
 実は、登場人物は自分自身に向かって話しており、カメラは自分の心を表しているという説もあります。また同じ映画監督の後輩篠田正治は、小津作品のカメラを「神様が寝そべって人間世界を眺めている感覚」と称しています。

<脚本家、山田太一へ>
 こうした、小津作品独特の会話の表現方法は、彼の助監督を務めた木下恵介へと受け継がれ、それがさらに彼のもとで脚本を書いていた山田太一へと受け継がれました。山田太一ドラマ独特のあの会話スタイルは、こうして生まれたというわけです。

<懐かしさの源>
 では、小津作品がもつ不思議な懐かしさの源はどこにあるのでしょうか?その謎を解くカギのひとつは、シーンとシーンをつなぐ短い風景の映像にありそうです。
 普通は場面をつなぐための説明として入れられるこれらの映像を小津監督は、一枚の美しい絵画の域にまで高めました。それは他の場面とのバランスを考え、目線でとらえたそのままの景色を撮すのではなくシンプルで抽象絵画的とも言える映像になっています。
 そして、その美しい映像を見つめる人物の心を丹念に描き出すことで、いっしょに見つめる僕たちにもまた、
「あーそう言えば、僕も以前あんな気持ちで海を見つめたことがあったなあ」
 そう思わせることに成功しているのです。
 会話する人の顔を順に映し出し、その合間を短い風景のカットでつないで作る小津作品は、他の監督の作品に比べてカット数が多く、ゆったりとした流れではあっても、しっかりとしたテンポを持っています。このテンポが知らぬ間に観客を画面に引き込んでいるとも言われています。

<バック・トゥー・ベーシック>
 映像にすべてを語らせていたサイレント映画がもつ美的センスと手法にこだわり続けることで、彼は、同時期の映画監督たちが気がつかなかった映像技法を生み出すことになったのです。
 生命の進化において、一度過去の単純な姿にもどることで、さらなる進化の段階へと進んで行くことを、幼形進化と呼びます。そして、これこそが進化にとって、最も重要な過程であるとも言われています。
「ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにも嫌いなものはどうにもならないんだ。・・・」
小津安二郎

<海外へ出なかった小津作品>
 ところで「東京物語」ですが、この映画はイギリスで行われたロンドン映画祭で、グランプリにあたるサザランド賞を獲得しています。しかし、彼の作品はあまりにも日本的すぎて西欧人には理解できないのでは考えられ、それ以外に海外で行われている映画祭に出品されることはありませんでした。
 まさか、後にこれほど彼の映画が海外で評価されることになるとは、・・・本人も思っていなかったでしょう。

<カラー、そして時代の変化>
 その後彼は、1958年初のカラー作品「彼岸花」を発表。意外なことに、赤い色が大好きだったという彼は、その後カラー画面に赤いやかんを頻繁に登場させることで色のバランスをも楽しませてくれました。彼はけっして古いやり方に固執する保守的な人間ではなかったのです。
 1960年の「秋日和」、1961年の「小早川家の秋」、1962年の「秋刀魚の味」は、どれも小津作品らしい定番的作品でした。しかし、時代は60年安保ど真ん中、日本人の多くが近い将来日本でも革命が起きるかもしれないと考えていた時代です。映画界にも大島渚や吉田喜重、今村昌平ら、新しい監督たちが登場していました。それだけに、小津監督のある意味時代錯誤的な作品の数々は、批判の対象となり始めていました。
 彼はある時、なぜ同じような映画ばかり作るのか?ときかれて、こう答えたそうです。
「俺は豆腐屋だ。がんもどきぐらいならつくれるが、豚カツはつくれない」
「今から作りたい映画は、俳句の世界、たとえば、連句のようなもの。ストーリーはないが何気ない風景描写に、詩情が感じられるようなもの」

「表情もだが、動きもほとんどない。人生はほんとはそうなんだ。座ったままただしゃべってる。それで何となく人間の風格みたいなものをにじみ出させたい」

<母の死、そして自らも死の床へ>
 1962年2月に彼の母親が死去。
 あまりに内気な性格のため、女性に声をかけるのも苦手だった彼は、結婚する機会を失っていました。(彼の偉大さは、まわりからのお節介を寄せ付けない雰囲気でもあったようです)そのため、唯一の家族だった母親の死は、彼にとって大きなショックでした。
 翌1963年春、癌におかされていることがわかり国立ガン・センターに入院。手術をしたものの、完治せず、同年12月12日奇しくも自らの誕生日に60歳でこの世を去りました。

<家族とは?幸福とは?>
 少しずつではあっても、着実に変わりゆく東京の街と、そこに住む家族の暮らしを35年にわたってとり続けた小津安二郎。彼が描く人生では、めったに事件は起きませんでした。しかし、人生とは本来そういうものです。小さな出来事の積み重ねこそが人生であり、それを思う存分味わうことが「幸福」というものなのです。
 人類が昔から夢みてきた理想郷(ユートピア)とは、小津安二郎が描いたささやかな出来事の繰り返しの中に時おり訪れる「至福のひととき」にこそあるのではないでしょうか。
 映画「麦秋」の中に、主人公の老夫婦、菅井一郎と東山千栄子のこんな会話があります。
「早いものだ・・・。康一が嫁を貰う。孫が生まれる。紀子が嫁に行く。・・・今が一番たのしいときかもしれないよ」
「そうでしょうか・・・でもこれからだってまだ・・・」
「いやぁ、欲をいやあきりがないよ」

 誰もがこんな思いを感じながら人生を一歩一歩歩んでいるのです。あとは、その一時ごとに喜びを感じ、感謝する気持ちをもつことさえできれば、もう何もいらないかもしれません。
 人生に感謝!

<締めのお言葉>
「小津の映画には、登場人物に全く善人も悪人もいないように、全くの善と悪の観念観もない。彼にとって絶対的なものがあるとしたら、それは万物は流転するということでしかない。生まれてはみたけれど、人生は少しも当てにならない。小津作品の人物は皆、自分の人生の意味を理解しなければならない」

ドナルド・リチィ(日本映画を研究するアメリカの映画評論家)

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