- ピーター・ゲイブリエル Peter Gabriel -

<ワールド・ミュージックにおける功績>
 20世紀のポピュラー音楽の歴史において、ピーター・ゲイブリエルが果たした役割は、ミュージシャンとしてだけでなく「ワールド・ミュージックの伝道師」として重要なものがありました。1983年に、アメリカに「ロックの殿堂」が設立されましたが、もし将来「ワールド・ミュージックの殿堂」ができたとしたら、ビートルズと並んで、最初に殿堂入りすべき人物のひとりが彼であることは間違いないでしょう。なぜなら、彼が私費を投入して開催したWOMAD ワールド・オブ・ミュージック・アーツ・アンド・ダンス・フェスティバル」が世界の音楽界に及ぼした影響は、これまで行われたどの音楽祭よりも大きなものがあったからです。ユッスー・ンドゥールヌスラット・ファテ・アリ・ハーンシェブ・ハレドなど、第三世界の偉大なアーティストたちの存在をWOMADのライブやアルバムを通して、知った人が世界中にどれだけいることでしょう。(もちろん、僕もそのひとりです!)1986年のインタビューで、彼はこう言っています。
「…今ではイギリスやアメリカのほとんどのレコード店にアフリカ音楽のコーナーがある。10年前にレゲエ・コーナーができたのと同じようにね。10年後には、ワールド・ミュージックのコーナーができているかもしれないよ」
 もちろん、今や彼の言ったとうりになりました。
 この音楽祭が第三世界にもたらした経済的、精神的効果は、ライブ・エイドなど一時的な救済活動とは本質的に違い、それぞれの国の文化を支援し自立を促す助けとなるものでした。

<ミュージシャンとしての功績>
 もちろん、ジェネシス時代、ソロ活動を通して彼自身が発表してきた音楽も、また素晴らしいものです。さらに、彼のライブ・パフォーマンスやビデオ・クリップも、時代を代表する傑作ばかりですし、映画音楽においても、彼は優れた実績を残しています。音楽のもつ芸術性とポップスとしての大衆性、それに歌詞に込められた社会的なメッセージ性の絶妙なバランスをとることにかけて、彼の右にでるものはいないかもしれません。彼は、音楽と関わるあらゆるジャンルにおいてその才能を発揮してきたと言えるでしょう。しかし、今やカリスマ的存在となった彼も、昔からスーパーマンのような人間だったわけではないようです。

<ピーターの生い立ち>
 ピーター・ゲイブリエルは、1950年2月13日にイギリス、サリー州で生まれました。父親は優秀な電気技師で、ロンドン市長を務めた先祖もいる貴族階級出の裕福な家系でした。その血を受け継ぐピーターは、当然のごとく上流階級向けの学校に入学させられました。しかし、その当時の彼はニキビ面だけでなく肥満体質で、典型的ないじめられっ子だったようです。(ミヒャエル・エンデの「果てしなき物語 ネヴァー・エンディング・ストーリー」の主人公バスチャンを思い出させます)全寮制の厳しい学校で、彼のストレスはたまる一方でした。そんな彼にとって、唯一の救いが音楽だったのです。特に彼の人生を変えてしまうほど影響を与えた音楽は、ある日車のラジオから聞こえてきたビートルズの「ラブ・ミー・ドゥー」でした。

<ピーターの音楽活動>
 ピーターは初め、サイケデリック・ロック系のバンドを友人たちと作っていましたが、ある日ロンドンのラム・ジャム・クラブというライブ・ハウスでオーティス・レディングのライブを見て、R&Bの虜になてしまいます。(その時、白人の観客は彼以外いなかったそうです)そして、ミュージシャンとして生きて行く決意を固め、本格的にプロとしての活動を始めました。こうして結成されたのが、ジェネシスでした。

<ジェネシスでの活躍と脱退>
 しかし、ジェネシスの人気はぱっとしませんでした。デビュー・アルバム「創世記」、セカンド「侵入」どちらも売上はさっぱりで、リード・ギターのアンソニー・フィリップスは、この時点で脱退してしまいました。そのため、バンドはメンバーを補充せねばならず、この時加わったのが、ギタリストのスティーブ・ハケットとドラマーのフィル・コリンズでした。(ピーターは、ドラマーを止めヴォーカリストに専念するようになります)彼らの加入で、それまでのサイケ調プログレ・バンドは、グッと分かりやすい音楽を聴かせるようになり、「怪奇骨董音楽箱」(1971年)「フォックス・トロット」(1972年)はともにヒット作となりました。
 彼らの仮面劇のような趣向を凝らした演劇的コンサートは、話題性もあり、一躍世界的なバンドの仲間入りをすることができました。ところが、ここでピーターは突然、ジェネシスを脱退してしまいます。
 直接の原因は、彼の長女アンナが出生時に感染症にかかり生死の境をさまよったことだったようです。この時、家族の大切さに気づかされたピーターは、アーティストとしての生活をすべて捨てて、田舎の谷間に立つ家に引きこもってしまいます。

<ピーターの帰還>
 しかし、彼は音楽を捨てたわけではありませんでした。ある日、ピアノの前に座ると新たなソロ活動をスタートさせます。そして、1977年から1982年にかけて、4枚のアルバム"Peter Gabriel"が発表されます。どのアルバムにも同じ名前をつけたのには、彼自身が考えた意図がありました。雑誌が毎号同じタイトルで発売されているのと同じように、自分のアルバムをレコード店に並べたいというのが、彼の考えでした。(しかし、アルバムの区別がつきにくいということで、レコード会社は反対しました)

<第三世界の音楽との関わり>
 そしてその間、彼はしだいに第三世界の音楽へと目を向けて行くようになり、その影響は彼の作品にも現れてきます。特に「ピーター・ゲイブリエル」の3作目に収められていた名曲「ビコ」は、南アフリカのアパルトヘイト体制に対する抗議活動の指導者であったために政府によって惨殺されたスティーブン・ビコを追悼する曲であり、力強いビートをもつ名曲として彼の代表曲となりました。こうして、彼は第三世界のミュージシャンたちとも交流を持つようになり、けっして恵まれた環境にはない世界各地の優秀なアーテイストたちの音楽を、より多くの人々に聴かせたいと願うようになって行きました。そんな彼の願いから生みだされたプロジェクトこそ「WOMAD」だったというわけです。

<大ヒットアルバム「SO」誕生>
 こうした彼の努力は、自分自身のアルバムにも生かされ、それまでヒット作に恵まれなかった彼にかつてないヒット作をもたらしてくれました。彼の目指していたR&Bとアフリカのリズム、それにロックやラテンの要素を合わせ持つ、とびきりポップなアルバム「SO」の誕生でした。
 1986年発表のこのアルバムは、素晴らしいビデオ・クリップによる宣伝効果もあり、大ヒットを記録。総合的なアーティストとしてのピーターの才能が、世界中の音楽ファンに認められるという幸福な結果を生みました。

<映画「バーディー」>
 1984年に「バーディー」という映画がありました。原作はウィリアム・ウォートンのカルト小説、監督は「フェーム」や「ザ・コミットメンツ」など、音楽ものを撮らせたら世界一?のアラン・パーカー、そして、音楽がピーター・ガブリエルでした。
 ヴェトナム戦争で精神に傷を負った青年と社会に適応できず精神病院に入ってしまった鳥好き青年との友情の物語でしたが、その中で、鳥好き青年が夢の中で鳥になって部屋を飛び出し、空を飛び回るシーンにつけられた曲の緊張感と浮遊感の凄さは、映画の最高の見せ場となっていました。彼は映画音楽でもその才能を発揮して見せたのですが、その映画を見ていると、ふっとかつて彼が閉じこめられていた暗い学生寮や家族とともに閉じこもった谷間の家のことを思い出してしまいます。音楽という翼によって空高く羽ばたき、自由に世界中を飛び回るようになった男、ピーター・ゲイブリエル。彼のように音楽によって魂を救われた人物は、世界中にいっぱいいるのでしょう。しかし、彼ほどその音楽に対して大きな恩返しをした人物は、そう多くないはずです。

<締めのお言葉>
「音楽、詩、自然、哲学、科学、数学。これらは皆、私が<偏頗な精神>に捕らわれており、<本当の自己>は全体的により広範囲の反応を示すものだ、と私に<想い出させ>、あの<汚れた醜い姿>から私を解放してくれる」 コリン・ウィルソン著「至高体験」より

「カモメとは、自由という無限の思想であり、また<偉大なカモメ>のいわば化身であって、体全体が翼の端から端まで、君らがそれと考えるもの以外の何ものでもないことを理解しなければならん」 リチャード・バック著「カモメのジョナサン」より

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