- プロフェッサー・ロングヘアー Professor Longhair -

<もう一人の「バード」>
 彼の本名は、ヘンリー・ローランド・バードといいます。1918年12月19日にルイジアナ州ボガルサに生まれました。(ジャズ界の「バード」ことチャーリー・パーカーよりも、年上です)
 両親はともにミュージシャンで、祖父はアラバマ州の農家で奴隷として働いていたようです。彼がまだ幼い頃、家族はニューオーリンズへと引っ越しました。南部で最もにぎやかな街で、彼はストリート・ダンサーとして、お金を稼ぎ始めます。しかし、そのうちに出入りしていた店で、その当時ブームとなっていたバレル・スタイルのピアノと出会い、ミュージシャンに転向。ピアニストとして、ジャンプ・ブルース、ブギウギ、ジャズ、カリプソ、ルンバ、サンバなど、ニューオーリンズという特異な地域ならではの雑多なリズムを吸収しながら成長して行きました。

<ニューオーリンズの歴史>
 ニューオーリンズの街は、かつてフランス領でした。そして、そのことが、この街に多くの影響を与えたことは有名な話しですが、なかでも、音楽に関しては重要な事実があります。
 アメリカでもイギリス領だったほとんどの地域では、太鼓は黒人たちの通信手段と考えられたため、全面的に使用を禁止されていました。(トーキング・ドラムと言う名前は伊達じゃないのです)それに対し、文化に寛容なお国柄なのか、フランス領だったこの地域だけでは、太鼓の使用が条件付きで認められていたのです。さらに、「コンゴ広場」と呼ばれる場所で週末だけは、太鼓の演奏とダンスを認めるというものでした。そして、このことが全米でも、この地域にだけアフリカからやって来た太鼓の文化が伝承される原因となり、それがこの街にジャズが生まれた最大の原因だったと言われています。ついでに、アメリカの黒人音楽の原点がギターの弾き語りを基本とするブルースであり、そこに打楽器が登場しなかったのも、この理由によるのだと考えられています。このあたりの話しは、実に奥が深いのですが、それはまた別のお話。

<カリブ海の玄関口>
 そしてもうひとつ、この街がカリブ海への玄関口として重要な役目を果たしていたというのも、この地域の音楽に大きな影響を与えています。キューバ、ジャマイカなどの島々だけでなく、アフリカとの奴隷貿易の拠点として、この街はアメリカ最大の人種のるつぼになっていただけでなく、港町ならではのバーやナイトクラブ、娼婦宿が集まる一大歓楽街をも形成していました。そこには白人、黒人、混血の文化だけでなく、カリブの島々のもつそれぞれ独特の文化も持ち込まれ、非常に複雑な状況ができていました。(ブラジルのバイーアのサンバ、アルゼンチンのブエノスアイレスのタンゴ、ニューヨークのマンボやサルサなど、似た条件の港町は、どこも新しい音楽の発祥地になっています)

<ワールド・ミュージックの音楽教室にて>
 そんな環境の中、この街のナイトクラブに全米各地からミュージシャンたちが集まってくるのは、当然のことでした。こうして、バードはナイトクラブで働きながら、あらゆる人種、あらゆるジャンルのミュージシャンたちから、自分の好きなビートを学び取り、それを元に独自のビート感覚を身につけていったのです。そして、1949年、ついに彼はレコードを録音するチャンスを与えられ、「ボールド・ヘッド」というヒット曲を放ちました。その後も1964年には、アール・キングをヴォーカルにして「ビッグ・チーフ」というニューオーリンズ・スタンダードとも言えるヒットも放ちました。

<不遇の時代から、再発見へ>
 しかし、そんな良い時は長くは続かず、不幸が彼を襲います。心臓の発作、肝硬変、肺水腫などの病により、彼は音楽活動から、断続的に離れざるを得なくなってしまったのです。いつしか彼は音楽業界からも見放されるようになり、ついにはレコード店の掃除夫にまで落ちぶれてしまいました。彼は完全に「過去の人」になってしまいました。
 かつて、アメリカの優れたブルース・マンの多くは、こうして誰にも知られないまま、世の中から消えていったのですが、彼は少しは運に恵まれていました。彼は「再発見」されたのです。

<ニューオーリンズ・ジャズ・アンド・ヘリテッジ・フェスティバル>
 それは1971年のことでした。ある音楽プロモーターが、伝説の男となっていた彼、「プロフェッサー・ロングヘアー」を見つけ、第二回「ニューオーリンズ・ジャズ・アンド・ヘリテッジ・フェスティバル」に出演させたのです。このフェスティバルは、1970年から、この街の歴史的な場所、あの「コンゴ広場」を会場として、毎年開催され、ジャズ、ソウル、ブルース、ゴスペル、ラテン、ロックなど、この土地ゆかりの音楽や料理など、いろいろな文化を集めたお祭りです。この当時は始まったばかりで、最初は200人程度の観客から始まったらしいのですが、1999年の第30回には50万人を越える大イベントに成長しています。地域の文化振興を目的とし、ただ有名なミュージシャンを集めるだけのイベントではなかったため、常に地域の優れたミュージシャンを発見し続けてきました。だからこそ、他の多くの巨大コンサートとは根本的に違い、30年以上にわたり発展を続けることができた素晴らしいイベントなのです。(是非一度見てみたい!)

<伝説の男登場>
 こうして、ついに伝説の男「プロフェッサー・ロングヘアー」がそのコンサートの舞台に登場し、あの独特のニューオーリンズ・ピアノを弾き始めたのです。すると、その頃、会場にあった4つの舞台のうち、他の舞台のバンドが皆ピタリと演奏を止めてしまったと言うのです。バンドも観客も、会場にいた全員が舞台上のピアニストの演奏に釘付けになってしまったのでした。
 遅まきながら彼の時代がやって来たのでした。こうして彼は再び音楽活動を再開し、アルバム「クロウフィッシュ・フィエスタ」などの素晴らしい作品を発表し始めます。

<報われない人生>
 こうして、彼は53歳にして再び注目を集めることになりましたが、それでも彼の生活はそれほど豊かにはなりませんでした。結局、彼は家一件建てることもできず、9年後の1980年にニューオーリンズの黒人街の借家で心臓発作のためこの世を去ります。残念ながら、現世において、彼が得た報いは、ほんのわずかに過ぎなかったようです。

<後に続いた者たち>
 彼の人生は、ニューオーリンズの街の歴史とともにありました。そして、彼は自らが、その歴史の中で築き上げてきたニューオーリンズ独特のサウンドを、多くのミュージシャンたちに伝える伝道師の役目を果たしました。「セカンド・ライン」と呼ばれるメイン・リズムの裏に流れる複雑なリズムのハーモニーを自在に操り、それを教科書のようにマスターしていた男。それは「プロフェッサー」という称号に相応しい存在だったのです。
 アーニー・K・ドゥアラン・トゥーサンファッツ・ドミノヒューイ・ピアノ・スミスドクター・ジョンネビル・ブラザースなど、彼の息子たちの活躍はめざましい。今や、ニューオーリンズ・ファンクは、かつて彼が学んだマンボやブルース、カリプソなど数多くの音楽と並び称される歴史ある音楽スタイルに成長しました。

<締めのお言葉>
「本質をもった人にだけ運命がある。他の人たちは偶然の法則に従うだけである」
 グルジェフ

<参考資料>
「ロック伝説(上)」 ティモシー・ホワイト著(音楽之友社)

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