- なぜ、日本人は負け戦を挑んだのか?(前編)  1894年〜1932年 -

<太平洋戦争のなぜ?>
 なぜ日本はアメリカという超大国に無謀な戦いを挑んだのか?20世紀日本の歴史において最も重要な問いについては、今でもいろいろな説があるようです。この問いについて、最新の歴史研究をもとに書かれた本「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子著)を読みました。そして、遅ればせながら日本の20世紀前半史について書こうと思います。
 僕が子供の頃は、嫌でもテレビや映画や本で、太平洋戦争についていろいろと知ることができました。さらに両親や祖母からはもっと身近なレベルで戦争時代の体験を聞かされたことで、より身近なものとして太平洋戦争を感じることができました。
 もし、日本が8月15日に無条件降伏しなければ、アメリカ軍は小樽にも原爆を落とす計画がありました。そうなっていれば、もしかすると僕もこの世に生まれず、このサイトもなく、あなたも今このサイトを読んでいなかったのです。しかし、21世紀に入った今、そうした当時の記憶や事実はどんどん忘れられつつあります。ただし、それだけ過去のものになったことで、逆に明らかになってきた事実もあります。自らがこの世を去る前に過去の記憶を残そうと思い立った人々や明らかにされた記録の数々により、当時の知られざる事実が明らかになってきたのです。
 そんなこともあり、今まで取り上げてこなかった日本の近代史をこれを機に進めてゆこうと思っています。
 日本がアメリカとの戦争に突入するまでの歴史を、先ずは19世紀末にまでさかのぼって見てみたいと思います。

<日清戦争>
 20世紀直前の1894年から1895年にかけて、日本は大国中国(当時は清)との戦争を行い勝利をおさめました。明治維新以後、国全体の近代化を推し進めてきた日本は、その戦争からいよいよ海外への進出を開始することになります。
 この日清戦争のきっかけは、意外なことに隣国朝鮮における内乱でした。1894年、朝鮮で農民たちによる反乱(東学党の乱、もしくは東学農民戦争)が起きました。朝鮮政府は、その反乱を押さえ込むため、隣の大国清に出兵を求めます。それまで中国は東アジア全体のリーダー的存在であり、近隣の国は貿易や安全保障など多くの面で中国と協力関係を結び、それによって東アジアにおける勢力の均衡が保たれていました。(朝貢体制)従って、お約束どおり朝鮮政府は清に協力を求めたわけです。
 幸い、農民たちとの交渉により、反乱はすぐに治まりましたが、そこで思わぬ展開あ起きます。日本の海軍陸戦隊が突如ソウルに入場。その後、4000名の兵士が仁川に上陸し、本格的な占領状態となります。そして、日本軍は朝鮮に対し、国政の改革を要求、それが行なわれるまでは兵を動かしません、と宣言します。当然、清国は面白くありません。しかし、清の抗議にも関らず日本軍は撤兵しなかったため、ついに戦争が始まることになりました。こうして、日本にとって最初の大国との戦争が始まったのでした。

<朝鮮侵攻の理由>
 なぜ日本は中国との戦争をしてまで朝鮮に侵攻したのでしょうか?それは、けっして中国を侵略する足がかりを求めていたわけではありませんでした。それは元はといえば、ロシアからの侵略を防ぐために朝鮮を先に抑えて起きたかったからだと考えられています。しかし、周りからもその日本の侵攻を支持する動きがありました。
 当時、アジアのほとんどを植民地としていたイギリスは、日本の侵略を黙認しました。それは大国ロシアの南下を日本を盾に阻止させることが目的だったようです。見方によっては、日本はイギリスの代理戦争をしていたともいえるでしょう。(当然、清国の後ろにはロシアがいました)
 日本はこの戦争の勝利で何を得たのでしょうか?
 日本はこの時、戦勝国として多額の賠償金と朝鮮半島の根元に位置する遼東半島を領土として獲得。さらに一人前の国と認められて関税自主権などをイギリスに認めてもらえるようになりました。日本は明治維新後、徹底的に推し進めてきた西欧化政策が結果を出したことに自信を深めます。しかし、そうした勝利の喜びもつかの間、日本はロシア、ドイツ、フランスからの圧力(三国干渉)によって、遼東半島を清国に返還させられてしまいます。
 なぜ、そうなってしまったのか?それは日本政府が、当時まだ西欧諸国に対する外交交渉能力をほとんど持っていなかったからでした。軍事的、経済的な面というよりも外交官の経験やスキルが決定的に足りなかったためでした。日本はまだ西欧諸国にとって使いっ走りに過ぎない、国内ではそうした考え方が広まりつつありました。こうして、アジアの中で他国をリードした日本は20世紀を迎えるにあたり、次なる目標、西欧諸国に追いつくために軍備の増強をさらに進めてゆくことになります。

<日露戦争>
 日清戦争から10年後の1904年、日本は今度はロシアとの戦争を始めます。ただし、この戦争について日本はロシアほど積極的ではなく戦争を回避する努力を行なっていたことが現在では明らかになっています。この戦争もまたそのきっかけは朝鮮半島にありました。
 イギリスと日本が日英同盟を結び協力関係を強めるのに対し、ロシアは中国との関係を強め、日清戦争の賠償金を中国に貸した担保として、旅順、大連の租借権と日本が返した遼東半島に鉄道を敷く権利を獲得します。
 もともと日本が朝鮮に進出した理由は、ロシアからの侵略を防ぐ防波堤を築くことでした。ところがロシアがシベリア鉄道を延長して、遼東半島の先にある大連と結んでしまえば、日本の目の前に巨大な軍港ができる可能性が高まります。そのため、日本はその動きに反発し、これ以上ロシアが南下しないよう「満韓交換論」をもとに、ロシアは満州、日本は朝鮮と勢力をはっきりと分け、お互いに領土を侵犯しないようにしましょうと持ちかけました。それに対し、ロシアはこう答えました。
「わかった。いいよ。
 でもさ、海峡は自由に通らせてもらうからね。
 それと、朝鮮の北側半分におたくは軍隊を入れないことににしてよね」
 完全に日本は甘く見られていました。だからこそ、そうした態度に反発して、日本は挙国一致体制でロシアに戦いを挑むことになりました。

<日本の勝利>
 この戦争でもまた日本は勝利をおさめます。日本の勝利は、海軍と陸軍の見事な連携によって、難攻不落と思われていた旅順を陥落させた作戦など、日本軍の優れた戦略によるものでした。しかし、当時ロシア支配下の国々、ポーランド、エストニア、フィンランドなどがロシアに対して反乱を起こしてあり、ロシアは日本だけに兵を向けることができずにいました。
 さらに1905年に入ってからは、「血の日曜日事件」から始まる第一次ロシア革命が勃発。ロシアにとっては東の果ての日本だけを相手にしていられない状況になりつつあったのも事実でした。
 ただし、この戦争においてロシアの西側にあり、日本と同じようにロシアの侵略を恐れていたドイツは、ロシアを支持し金銭的な援助を行ないました。ロシアに東側を見ていて欲しかったドイツにとって、その戦争は好都合だったからです。さらにシベリア鉄道に多額の資金を投資していたフランスもまたロシアに勝ってもらわなければならず、応援する側にまわっていました。
 それに対し中国は、このままだとロシアの植民地にされる可能性があると考え、ついこの間には戦争をしていたはずの日本に対して資金援助をしていました。
 ここでもまた日本は代理戦争をしていたわけです。

<日本が得たもの>
 大国ロシアを破った日本は、この戦争での勝利によって何を得たのでしょうか?
 日本は西欧各国に大使館を置く権利を獲得。これにより、日本は外交面でも西欧諸国と対等に交渉を行なう権利をもつことになりました。そのため、日本の軍部は大きな自信を得て、政府に対しより強い影響力をもつようになります。そして、この時の成功体験の記憶がこの後日本における軍部の権力強化に大きな役割を果たすことにもなります。こうして、軍部が暴走する日本のゆがんだ政治体制が確立されてゆくことになります。
 ある意味、日本のこの時の勝利は、太平洋戦争の悲惨な敗北への道の第一歩だったといえるのです。

「日露戦争の後、日本には一時的あるいは瞬間的に好景気が訪れたが、しかし日本は一貫して不景気だった。日本には手に入れたものを意味あるものに変える力(産業)がなかった。勝って得たものは、ただ「勝った」という栄光の記憶だけなのである。勝って得た「満州」 - それは軍人達にとって栄光の記念碑だった」
橋本治「20世紀」より

 他にも大きな問題がありました。実は、この戦争で日本は勝利をおさめたものの、賠償金や領土などをまったく得ることができませんでした。当時、日本国内では戦争に勝利するためという大義名分のもと、それまでの倍近くになる増税が行なわれていましたが、賠償金を得られなかったため、減税は行なわれず、戦後不況になったことで国民は以前よりも厳しい生活を強いられることになりました。当然、国民の間には大きな不満が生じることになりました。特に当時日本の労働者の4割をしめていた農民たちにとって、状況は非常に厳しく、そうした不満を訴えようにも彼らのほとんどは投票権すら持っていませんでした。
 ところが、そんな農民たちにとって、最大の理解者であり協力者だったのは、政治家でもなく、労働運動の指導者たちでもなく、軍部の指導者たちでした。軍隊にとって、農家は最大の人材供給源であり、世論形成の主役でもあっただけに、この関係はその後の軍主導の体制作りに好都合でした。
 こうして軍は世論においてもその影響力を増し、さらには二・二六事件のようなテロ活動や暗殺によって軍の動きに反発する政治家を黙らせる行動を繰り返すことで政府をも上回る権力を獲得してゆくことになります。(当時の政治家はまさに命がけの仕事でした・・・・・)

<第一次世界大戦>
 1914年、第一次世界大戦が始まります。この戦争は実質的にヨーロッパを舞台とする戦争だったこともあり、日本は参戦はしたもののほとんど被害を受けることはなく、逆にドイツがヨーロッパで負けているドサクサにドイツ領だった南太平洋の島々と中国の青島(チンタオ)と山東半島を占領してしまいます。(まさに火事場泥棒です)
 こうした戦略に対して、日本は世界中から批難を浴びることになります。こうした行為は19世紀なら当然のことだったはずです。日本にとって大きな誤算だったのは、時代がすでに大きく変わっていたことでした。特に第一次世界大戦は、ヨーロッパ中が戦禍に巻き込まれ、それまでの極地的な戦争の被害とは比べものにならない人的、経済的被害を受けることになりました。20世紀の戦争はもうかつての「決闘」の延長ではなく、戦車や飛行機、毒ガスによる「大量殺戮合戦」と化していたのです。あまりの被害の大きさに西欧諸国は、再び戦争が起きれば国がもたないと考え、大きな戦争を抑止するための組織として「国際連盟」を結成します。そこで宣言されたのは、「他国を植民地化するために戦争しかけるのは間違っている」というある意味当たり前のことでした。やっと植民地をもつ豊かな国になったばかりの日本は、その立場をすぐに否定されることになったのです。それは明治維新以後、日本がアジアの中で一番に進めてきた富国強兵の政策が否定されたことでもありました。(当時の植民地政策の否定は、もしかすると21世紀において地球温暖化問題の影響によって、従来型の工業化社会が否定されるようになったことと似ているかもしれません。やっと欧米、日本に追いついたと思った中国が、温暖化対策のために工業化を一時ストップせよといわれて、納得できないのと似ている気がします)しかし、それまでのやり方を否定されても、日本の政治家には勢いを増す軍部の暴走にブレーキをかけることができませんでした。そのことが明らかになったのが、1931年に起きた満州事変でした。
 自分で線路を爆破し、それを中国軍のせいにして満州全域を占領するというヤクザか当たり屋並みの詐欺行為を軍部が仕組んだことを知った政府は、あわててその事実を隠蔽しようとします。日本側が呼んだ「満州事変」という名前は、それが「戦争」ではないことを表そうとしていました。この隠蔽工作は、その事件から始まった満州事変を正当化するために行なわれたと言われていましたが、本当は政府が軍部への統率力を失ったことを知られたくなかったからなのです。なんという愚かな!
こうして、日本はいよいよ太平洋戦争という悲劇の戦争への道へ一気に突き進むことになるのです。

<5・15事件>
 1932年5月15日早朝、三上卓、古賀清志ら海軍の青年将校や陸軍の士官候補生ら9人が永田町の首相官邸を襲撃。首相の犬養毅は「話せば分かる」と押しとどめようとしたが「問答無用」と拳銃で犬養を射殺します。三上らは1930年にロンドン海軍軍縮条約締結に反対。軍事政権の設立を呼びかけました。しかし、彼らの呼びかけに呼応する者はなく、自主することになりました。
 しかし、彼らの裁判が始まると、法廷で彼は自らの考えを述べ続け、多くの軍人らに影響を与えることになります。そして、その影響を受けた若者たちの中から「2・26事件」の首謀者たちが現れることになります。

<参考資料>
「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」
(朝日出版社)
加藤陽子著

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