- なぜ、日本人は負け戦を挑んだのか?(後編) 1933年〜1945年 -

<満州事変>
 朝鮮は日本にとって、国を守るための防波堤として重要視されていましたが、満州はそこから一歩進んだ日本にとっての巨大な新しい市場としての価値をもっていました。そして、その経済進出の中心企業が南満州鉄道株式会社でした。日本はその満州に謀略によって戦争を仕掛け、新たな国家、満州国を成立させ、そのトップにラスト・エンペラーこと愛新覚羅溥儀をすえ、思い通りに操り始めます。その後、多くの国民が当時満州に移民したため、日本人にとって満州は、もう日本の一部という錯覚におちいり、そこを守るためなら戦争もしかたないという空気が生まれていたといえます。
 こうした、明らかに謀略とわかる日本の作戦に対し、中国は国際連盟に訴えます。連盟による解決を求める中国に対し、事実を確認するため有名なリットン調査団が組織されました。ただし、リットン調査団のメンバーに選ばれたのは、イギリス人のリットン伯爵をはじめ、アメリカの軍人、フランスの軍人、ドイツの植民地政策専門の学者、イタリアの外交官となっていて、日本軍とはある意味同じ穴のムジナといえる顔ぶれでした。したがって、その調査報告は、それほど厳しいものになるとは思えませんでした。ところが、満州事変の成功に味をしめた軍部はその結果が出る前に新たな中国侵攻作戦を開始します。
 1933年陸軍は満州の南、万里の長城の北、中国の熱河省に軍隊を侵攻させます。理由は満州国の転覆をはかる張学良の軍隊を追う払うためということでしたが、実質的には中国への侵略でした。
 これもまた軍のシナリオ通りの作戦で天皇の承認も得ていましたが、そこにはひとつ大きな誤算がありました。その作戦が国際連盟の規約違反であるとうことに気づいていなかったことです。
「連盟が解決に努めているとき、新たな戦争に訴えた国は、すべての連盟国の敵と見なされる」
国際連盟 規約第16条

 この規約により連盟の会議が始まれば日本の除名もしくは経済制裁などの処罰を受けることは決定的でした。そこで日本がとった手段は不名誉な除名をされるくらいなら、先に脱退するというものでした。松岡外相の後姿で有名な国際連盟からの脱退は、その原因を知る本人にとって不本意なことだったはずです。

<追記>2015年1月
<新聞と軍部癒着のきっかけとは?>
 1926年にNHKがラジオ放送を開始し、ラジオは全国に普及。そのため、それまで唯一のマスコミとして機能していた新聞は、その速報性において後手に回ることになりました。そこで新聞各社は、対抗策として「号外」を多用するようになったといいます。しかし、号外を出すにはそれなりの価値ある情報が必要とされますが、そう多くあるわけではありません。そこで新聞記者たちはどこよりも早い情報を求めて軍部に接近するようになったといいます。そうなると新聞は軍部から情報をもらうために、それを無批判に流す必要に迫られるようになって行きました。こうして、新聞と軍部は接近し、いつしか軍部の広報機関となっていた。
(半藤一利さんと加藤陽子さんが出演したBSフジのプライム・ニュース戦後70周年特別番組より)

<2・26事件>
 1936年2月26日早朝、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊を中心とする兵士1500人が六本木から都心に向かい移動。安藤輝三大尉、栗原安秀中尉を中心とする陸軍のエリートたちが作戦を計画。彼らはそれぞれ大物政治家宅を襲撃します。
鈴木貫太郎侍従長(重傷)、斉藤実内大臣(死亡)、高橋是清蔵相(死亡)、渡辺錠太郎教育総監(死亡)、岡田啓介(義弟が誤射で死亡)、これら政界の重要人物の襲撃後、彼らは皇居、、国会議事堂周辺を占拠。青年将校たちは行動の目的を「蹶起趣意書」として文章化。
 天皇を中心とする国体をもう一度つくり直し、貧しさに苦しむ大衆を救いたい、という純粋な思いがその根底にありました。彼らはは川島義之陸相に要望を提出します。
(1)陸軍大臣が中心に事態を収拾し、決行の趣旨を天皇陛下に伝える。
(2)「兵馬の大権」を犯したり、軍を私物化した軍人を逮捕、罷免する。
(3)(皇道派に理解がある)真崎甚三郎、荒木貞夫陸軍大将らを招致する。
 しかし、結局これらの要望は無視されます。28日には叛乱軍はそれぞれの隊に戻るようにという皇室からの泰勅命令が出されます。29日には、飛行機から投稿を呼びかけるビラがまかれます。
「下士官兵に告ぐ
一 今カラデ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二 抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三 オ前達ノ父母兄弟ハ国賊ナルノデ皆泣イテオルゾ
2月29日 戒厳司令部

 さらに同様の内容で放送も行われることで、各部隊は戦闘を始めることなく元の部隊へと戻り始めました。山王ホテルを占拠していた安藤隊は最後まで帰隊をこばみ、安藤はピストル自殺を図りました。(未遂)
「放送」と「ビラ」のおかげで、事態は最悪の結果をまぬがれ、その中の「今からでも遅くない」のフレーズはその後「流行語」となりました。
 思えば、「今からでも遅くない」のフレーズは、日本がその後突き進むことになる軍部による独裁体制にこそ向けられるべきフレーズでした。

<国民政府を対手とせず>
 日本の中国侵攻は、海外では時代遅れの植民地主義として批判を受けていましたが、日本国内ではそうは考えられてはいませんでした。
 1937年の盧溝橋事件での偶発的に始まった戦闘がどちらが先に仕掛けたものかは明らかではありません。しかし、それをきっかけに日本は「中国は日本に対して条約違反をしたから、それを正すために関係者を罰する」という理由で攻撃を開始します。そして、1938年に当時政権を担当していた近衛文麿首相は中国に対し「国民政府(蒋介石)を対手とせず」と宣言しています。要するに「我々はおたくの国と戦争するのではなくおたくの国にいる悪者をやっつけるために軍隊を派遣しているんです」ということです。
 これは、9・11以降、アメリカが仕掛けたイラクへの攻撃理由とまったくいっしょです。アメリカ軍もまた「国民政府」を相手にせず「テロリスト」を相手にしているといいながら、国中に爆弾の雨を降らせたのですから。今も昔も、戦争を仕掛けようとする国にとって、対外的な言い訳はこれしかないのかもしれません。
 さらに日本政府は共産化が進みつつある中国国内において、その共産主義勢力を倒すために戦っているという考え方もしていました。なんとも都合のよい考え方です。
 ただし、こうした政府の詭弁に国民の多くはおかしいと感じてはいたようです。しかし、この頃すでに日本国内では、それまで反戦運動を行なう中心勢力だった共産主義者や知識人の多くは、完全に逮捕されるなどして押さえ込まれており、政府内部もテロや暗殺を恐れて軍部に手を出せない状況ができつつありました。そして、こうした国民の中にあった疑念も、後の日米開戦によって拭い去られることになります。中国をいじめるのではなく超大国アメリカに戦いを挑んだことは、判官びいきの日本人にとって、納得のゆく戦争だったのです。(ヤレヤレ自分たちがその犠牲になることは予想できたはずなのに、なんと想像力のなかったことか・・・)

<追記>2015年1月
<満州事変がなぜ事変なのか?>
 「宣戦布告」を行って戦闘行為に入るのが「戦争」ですが、支那事変はそれがなくなんとなく始まっています。それには理由がありました。日本にも中国にも石油を輸出していたアメリカは、国際社会において中立を保っていて、戦争を行う国には輸出を行わないとしていました。日本はその80%をアメリカに依存していたことから、戦争を行うわけには行かず、宣戦布告を行わない「事変」を選択せざるを得なかったのだといいます。(中国も同じでした)しかし、宣戦布告のない戦闘行為は、それを終わらせることも難しく、途中、日本軍が南京を制圧したことで和平交渉を自ら蹴ってしまいました。このまま中国を制圧できると思ってしまったのです。
(半藤一利さんと加藤陽子さんが出演したBSフジのプライム・ニュース戦後70周年特別番組より)
 蒋介石が和平交渉に応じてこなかったのは、実は大病を患っていたからという説もあるそうです。そのために返事が遅れていたことを知っていたはずの人物が、わざと近衛文麿総理にそのことを伝えなかったのではないか?というわけです。
「今、日本人に知ってもらいたいこと」半藤一利

<太平洋戦争の誤算>
 この頃、日本のアジアにおける動きに対し、ソ連とアメリカはいよいよ危機感を強めており、近い将来戦争になることを想定し、そのための準備段階に入りつつありました。実は、この時点での軍事力は、日本とアメリカを比較するとそれほどの差はありませんでした。今だったらアメリカに勝てるかもしれない。数字的にはそう考えられなくもありませんでした。だからこそ、日米開戦の計画に天皇もゴー・サインを出したのです。ただし、こうした統計的な数字は、目的に合わせて都合よく見せることが可能です。そのうえ、当時の軍事力はあくまで開戦直前の瞬間的な数字であり、戦争が始まった時点から本気を出したアメリカには元々日本をはるかに上回る潜在力がありました。太平洋戦争が始まると、日本はその数字が大きな誤算だったことに気づかされます。戦時下の底力を発揮したアメリカは、あっという間に日本をはるかに上回る巨大が軍備を国内の工場で生産してしまうのです。
 他にも、日本にとって大きな誤算がありました。それは中国との戦争が予想以上に苦戦を強いられたことです。実は、中国政府上層部は当初から日本との戦争に勝てるとは思っていませんでした。しかし、日本との戦争を長引かせていれば、2,3年以内に日本はアメリカやソ連とも戦争するはめになる。そうなれば、日本の方が崩壊してしまうはずだ。そうでなくても、日本軍は中国では、その暴挙により大衆の憎しみをかっていました。そのため、政府上層部の思惑とは別に軍隊の一人一人もまた日本軍と徹底的に戦う覚悟ができていました。こうして、中国による「肉を切らせて骨を断つ」戦法が始まることになりました。

<追記>2015年1月
<日独伊三国同盟>
 日米開戦最大のターニング・ポイントは「日独伊三国同盟」だった。日本がドイツと同盟関係になることは、英国と戦争するドイツと共に英国の敵国となることと同義。ということは、英国と同盟関係にあるアメリカとも敵対することになる。それでも、日本はアメリカに石油を依存していることから友好関係を保とうと外交努力を続けていました。そして、アメリカからの石油依存から脱却するため、インドシナに侵攻し、フランス、オランダと戦争を始めます。当然、アメリカは日本への石油の輸出をストップ。日本は、それでもなおアメリカとの関係はなんとかなると考えていたようですが、さすがにもう修復は不可能でした。政府のアメリカに対する楽観的な見方が戦争へと向かわせたといえます。
 こうした根拠のない自信は、後の原発依存にもつながることになります。「原発は安全である」これは最悪の根拠なき自信でした。
(半藤一利さんと加藤陽子さんが出演したBSフジのプライム・ニュース戦後70周年特別番組より)

<日本の挙国一致体制>
 中国やアメリカがそれぞれ国内の体制がまとまる中、日本はそれ以上に挙国一致体制がまとまっていたといわれています。しかし、その実情はどうだったのか?
 ドイツは1945年3月の時点のエネルギー消費量は、開戦前の1933年に比べ、1割から2割増えていたそうです。もちろん、占領した国々から奪った食料を運んだおかげかもしれませんが、それを国民の食料にあてていたことは確かです。それに対して、日本は同じ1945年3月のエネルギー消費量は1933年に比べ、60%にまで減っていたそうです。当時、4割を占めていた日本の農業労働者を後先考えずに戦地に送ってしまった結果、日本国内では食糧自給ができなくなり、なおかつ輸送船の不足、燃料の不足により戦地にも食料を送ることができず、東南アジアでは多くの兵士が戦闘による負傷ではなく、飢餓による死という悲惨な最後を遂げていました。(特にニューギニアにおける兵士の死の原因は、ほとんどが飢餓でした)

「日本のファシズムは、やる方にも明確なポリシーがない。『一歩踏み出した以上もう後戻りは出来ない』だけで前に進むから、いつの間にかとんでもないことになってしまっている」

「1900年の中国で起こった義和団事件の時には、包囲された欧米人救出に向かった日本軍は非常に礼儀正しく、欧米各国の軍隊とは違って略奪なんかしなかったと称賛されているのである。この称賛されるべき日本軍は、日露戦争の段階まで続く。つまり、日本という国は『初めはいい』のである」
橋本治(著)「20世紀」より

 精神論によって戦いを続けようにも、日本政府はそのための愛国精神を支えるための「モノ」も「心」も持っていなかったのです。日本人という国民は、あらゆるジャンルにおいて、常に素晴らしい集中力と忍耐力、そして創意工夫の力を発揮してきました。だからこそ、いろいろなジャンルにおいて日本は世界のトップレベルに追いついてきたのです。(民主主義、軍事力、芸術、スポーツ、工業、科学・・・・・)。しかし、そのほとんどの分野で追いついて、トップに立った時から世界をリードしてゆくことができなくなってしまう。それが弱点のように思えます。それはたぶんいい意味でも悪い意味でも日本は変わることのない精神的な支柱を持っていないせいでしょう。
 宗教も文化も、すべて海外からの輸入とその吸収によって培ってきたために、これだけは変えられないという柱をもっていないのです。もしかすると唯一の柱は「天皇制」だったのかもしれませんが、それも太平洋戦争の敗北と民主化により、大きな変更を迫られることになります。

<憲法への攻撃>
 有名なフランスの思想家ルソーは、「戦争および戦争状態論」という論文の中で、こんな内容のことを書いていました。
「戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり敵対する国家の憲法に対する攻撃、というかたちをとる」
 その意味で、日本は憲法を書き換えあっれるという最終的な攻撃を受けたといえます。ただし、それが日本人にとって悲劇だったと単純に言えないのが歴史の面白いところであり、ある意味最も重要な点かもしれません。これまで多くの政治家が過去の歴史的な出来事を教科書として自らの政治判断を下してきました。しかし、その多くは思いどうりにゆきませんでした。だからこそ、歴史は繰り返すといわれ、アメリカはヴェトナムで犯した過ちをイラクでも繰り返してしまったのです。(その多くはわざと誤用している可能性が高いのですが・・・)
 ロシア革命の際、病による引退を覚悟したレーニンは、後継者としてスターリンを選びました。その時、彼は革命の英雄だったトロツキーではなく、嫌っていたはずのスターリンを選んだのはなぜか?それはヨーロッパにおけるもうひとつの重要な革命「フランス革命」からの影響でした。フランス革命の際、混乱を極めた革命後の政府指導者として選ばれたのが、ナポレオンでした。ナポレオンは、確かにカリスマ性のある偉大な人物でした。しかし、彼がトップに立ったことでその後ヨーロッパ全体が大混乱になります。それは、あまりに優秀な軍人だった彼がヨーロッパ制覇という巨大な夢を追い始めたことが原因でした。時として、優秀な指導者は大衆を不幸にする。そう考えると、優秀だが危険な革命の英雄よりも、愚鈍な官僚を選んだ方が無難である、レーニンはそう考えたのでした。しかし、愚鈍なはずのスターリンは、権力を握り変身をとげてしまいます。そして、自分が嫌うユダヤ人や彼のやり方に反発する反政府的な人物を徹底的に弾圧、シベリア送りにしてゆきます。彼は後に、ヒトラー以上のファシストと呼ばれることいなります。当然のことながら、人間はいつどう変わるかわからないのですから、そんな人間が織り成す社会がどう変化するかを予測するなど到底不可能なはずです。しかし、そうした予測不能の歴史をそれまでの歴史から得られる普遍性を応用して予測する。それこそが、歴史という学問の役割なのです。

<組織としての日本の過ち>
 2009年NHKで「日米開戦を語る - 海軍はなぜ過ったのか」という番組が放送されました。それは太平洋戦争の当時、海軍を指揮する立場にあった軍人たちが、戦後、非公開で集まり連続して討論会を行なった際のテープを元に当時の状況を振り返る番組でした。彼らの400時間に及ぶ証言録音から見えてきた日本が開戦に及んだ原因は以下のようなものでした。太平洋戦争を始めた責任は、暴走し続けた陸軍にあるというのが一般的な見方です。しかし、陸軍は暴力犯に過ぎず、知能犯としての海軍の役割の方が大きかった。特に海軍の知能集団「軍令作戦課」は、その中心的存在でした。
 「軍令作戦課」は、そのトップに日露戦争の英雄でもある皇室の伏見宮博恭王をすえることで、その権力を強め、それが後の海軍第一委員会という組織へと移行。そこで日本が太平洋を始めるシナリオが作られてゆくことになりました。もちろん、海軍内部にもアメリカとの開戦に反対する声はありましたが、彼らはみな軍の中枢から排除されてしまいました。(山本五十六のその反対者の一人でしたが、彼はそのために戦場に飛ばされることになりました)
 海軍はそんなに戦争をやりたかったのでしょうか?どうやらそうではなかったようです。
 海軍は「戦争をする兵士の集団」ではなく「公務員として部署ごとの予算確保を最優先するサラリーマン組織」だったのです。サラリーマンである人々に「戦争」という危険な特殊任務が負かされたのが当時の日本だったわけです。海軍の兵士たちのほんとんどは自分たちをエリート集団の一員であると教育され、兵士としての経験をしないまま、その指揮をとる立場についていました。
「軍馬より兵士は安い」という言葉が生まれたのは、そうした軍隊内部の意識からすれば当然のことでした。予算獲得ゲームと化した軍と政府の予算配分をめぐる駆け引きは、その計画が何を目指すかよりも、いくら確保できるかが問題となってゆきます。予算をより多くの確保するにはどうすればよいのか?それは戦争が始まるというシナリオを描き、その準備と称して軍備を増強してゆけばよいのです。
 1940年、日本は日独伊三国軍事同盟を締結しました。すでにヨーロッパでの戦争を始めていたドイツとの同盟は、アメリカとの開戦を決定づけることになります。この条約の締結に対し、海軍は予算の大幅な増額を条件に、この条約締結を承認してしまいます。戦争を始めたら負けることを予測できていたにも関らず、彼らは来年の予算配分さえ確保できれば、それでよかったというわけです。
 その後、日本軍は仏領インドシナへ侵攻しますが、その作戦を主導したのは海軍でした。そして、この作戦によって、アメリカから日本への石油の供給は止められてしまい、いよいよ日米決戦が始まることになりました。そして、この戦争への流れは、第一委員会が用意して政府に示したシナリオとまったくいっしょでした。海軍のエリート集団は、こうして日本を当初の計画どうり戦争へと歩み出させることに成功したわけです。しかし、計画どうり進んだのはここまででした。なぜなら、ここから先、アメリカは彼らのシナリオをはるかに超える自力を発揮。日露戦争での成功体験しか知らなかった海軍は、最悪のシナリオなど、想定外にありました。だからこそ「神風」が吹くことだけを信じながら、多くの兵士を餓死に追いやり、若者たちを特攻隊として死へと追いやったのです。もちろん組織として動き続けた彼らにとって「戦争責任」の実感などはなかったようです。(だってインタビューの中で笑いながら語り合っていたんですよ!)
 その結果、日本は230万人の軍人、軍族を死なせ、民間人も80万人が命を落とすことになります。しかし、あのエリート集団のメンバーたちにとって、その230万人とういう数の兵士たちの悲しみは、どれほどの重みをもっていたのか・・・・・?。

<参考資料>
「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」
 2009年
加藤陽子(著)
朝日出版社

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