「やし酒飲み The Palm-wine Drinkard」

- エイモス・チュツォーラ Amos Tutuola -

<アフリカ発の歴史的名作>
 この小説はもちろん単行本としても出版されていますが、河出書房新社の世界文学全集(2008年刊)の中に、映画化もされている同じアフリカを舞台にした「アフリカの日々」とのカップリングで載せられています。ところが、2つの作品はまったく異なるタイプです。「アフリカの日々」はヨーロッパ人女性が移住先のアフリカでの生活をつづった紀行文的なものなのに対し、「やし酒飲み」はナイジェリア人作家による幻想的な冒険物語で、正反対ともいえる内容です。
 では単にアフリカ文学を代表するからカップリングされたのでしょうか?
 今回先に「アフリカの日々」を読んだ勢いで、続けて「やし酒飲み」を久しぶりに読んで、思わず「なるほど!」とうなずいてしまいました。編者の池澤夏樹氏はさすがの選書眼の持ち主だと思いました。

<アフリカと文字の出会い>
 「アフリカの日々」には、1920年代アフリカの植民地を舞台に「アフリカ人と文字との出会い」や「文学との出会い」が非常に印象深く描かれています。当時、アフリカの人々は西欧の文化を新鮮な驚きをもって迎えていたといえます。そこで彼らは文字を使って、どんな手紙を書いたのか?こんな例が書かれています。

 そして「第三の書」のカマンテの言葉は、土地の人がすばらしい言いまわしのできることを示す良い例である。
「もし戻られるならおたより下さい。私たちはあなたが戻ると思います。なぜですか。あなたは決して私たちを忘れられないと思うからです。なぜですか。あなたはいまでも私たちみんなの顔をおぼえ、私たちの母親の名を知っていると思うからです」
 白人なら、耳ざわりの良いことを言いたいとき、「あなたのことを忘れられません」と書くだろう。アフリカ人はこう言うのだ。「私たちのことを忘れるようなあなたではないと思っております」

「アフリカの日々」イサク・ディネセン

 今やこれほど素直に手紙を書ける人がいるでしょうか?
 さらにこんな文章もあります。

「ある男が野原を歩いていました。歩いていると、そこでもう一人の男に出会いました」という具合に物語をはじめれば、語り手はもう完全にアフリカ人をつかむことができ、彼らの思いは野原にいる二人の男たちの歩く道を想像、そこを共に歩くのだ。だが白人は、たとえ耳をかたむけなければと思っていても、物語を聴くことはできない。そわそわしてきて、今すぐしなかればならないことを思い出したり、そうでない場合は眠りこんでしまう。
「アフリカの日々」イサク・ディネセン 
 これほど物語りに入り込める人は現代にはもういないかもしれません。まだ文学にも社会にも汚されていない子供たちは別ですが・・・。

 詩というものの性質がわかるようになると、若者たちはこう言って私をうながした。「もっと言ってみて下さいよ。雨みたいに言葉を出して下さい」
 どうして若者たちが詩を雨のようだと感じたのか、私にはわからない。しかし、ともかくそれは、拍手喝采するようなよろこびの期待とつながりをもっていたのであろう。アフリカでは、雨というものは常に請い求められ、よろこび迎えられるものにちがいないのだから。

「アフリカの日々」イサク・ディネセン

 これほど喜びをもって、詩や物語を聞ける人は今やもう地球上に存在しないのではないでしょうか?

<アフリカ発文学の誕生>
 「アフリカの日々」が発表されたのが1937年のことです。そして、それから15年後の1952年。アフリカから、現地アフリカの物語を英語によって語ることができる作家が現れます。それが「やし酒飲み」の著者エイモス・チュツォーラ Amos Tutuola でした。
 彼は学校教育を6年ほど受けただけで、英語についてしっかりと学んだわけでもなく、英文学などはもちろん読んでいません。そんな人物が、自らの語学力の範囲で物語りを「言葉で語る」ようにして、ナイジェリア(ヨルバ族)の伝説を一編の冒険談に仕上げることで、この小説が生まれました。それは様々な意味で、意図せざる実験小説になっていました。と言っても、それは「実験小説」であるとは誰にも感じさせるものではない「エンタテイメント小説」に仕上がっていました。(そこがアフリカ的です)だからこそ、この小説は多くの読者をひきつけることになったのです。
 それは、アンリ・ルソーが描いた架空のアフリカの生き物たちの絵のようであり、ピカソが制作したアフリカ的なモチーフの彫刻のようであり、デヴィッド・バーンが生み出したアフリカン・エスニック・サウンドの名作「リメイン・イン・ライト」のようなものでした。
 それは原始と現代が出会う衝撃を、誰もが楽しめるエンターテイメント作品に昇華させることに成功した先駆的な作品だったと言えます。(ちなみに、トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンは、チュツォーラの作品から大きな影響を受けていて、1954年発表の作品名「ブッシュ・オブ・ゴースト My Life in the Bush of Ghosts」からタイトルをいただいたアルバム「ブッシュ・オブ・ゴースト」を、ブライアン・イーノと制作しています)
 残念ながら、この小説のようなタイプの世界を驚かせるような文学が、アフリカから登場することはもうないかもしれません。なぜなら、文字をもたず語りの文化を継承し続ける人々はもうアフリカには存在しないからです。「語りの文化」と「文字」が出会った時の衝撃が生み出す作品は、はるか昔の人類が「絵の具」と出会い初めて描いた「ラスコーの壁画」のように二度と生み出すことはできないからです。(生まれたばかりの子供のように世界を新鮮な視点で見ることのできる特殊な能力をもつごくごく一部のアーティストなら、ある程度はそれに匹敵する作品を生み出せるかもしれませんが・・・)
 では、限られた時代、限られた条件のもとで生み出されたこの小説の著者は、いったいどんな人物だったのでしょうか?そこが気になるところです。

<エイモス・チュッツォーラ>
 エイモス・チュツォーラ Amos Tutuola は、1920年に西アフリカのナイジェリアで生まれています。父親、母親ともにナイジェリアにおける多数派のヨルバ族出身でしたが、宗教的にはキリスト教で、家はカカオ農家でした。ただし、かつて父親はその土地の王様直属の地域代理人のひとりだったとのこと。そのため、彼はキリスト教徒ではあってもヨルバ族の伝統には詳しかったようです。
 12歳の時、彼はナイジェリアもうひとつの多数派であるイボ族の家庭で下働きをすることになり、給料の代わりに救世軍が運営する学校で勉強する機会を与えられました。
 1939年、彼が19歳の時、父親がこの世を去ってしまったため、彼は学校をやめて家の農業を手伝うことになります。しかし、未経験の農業が上手く行くわけはなく、旱魃の直撃を受けると作物はあっという間に壊滅的な打撃を受けてしまいました。農業を続けられなくなった彼は、大都会ラゴスに出て、そこで鍛冶屋見習いとして働き始めました。その後、その技術のおかげで西アフリカ航空隊に入隊することができ、そこで25歳までの青春時代をすごすことになりました。
 除隊後、彼は様々な職業を点々とした後、ナイジェリア労働省でメッセンジャーとして働くことになります。こうして、彼の生活は安定することになりましたが、お役所の連絡係が楽しい仕事なわけはなく、その暇をみて彼は執筆をするようになり、その結果わずか数日で書きあげられたのがこの小説だったのでした。もちろん、作家でもない全く無名のアフリカ人が書いた作品が出版されるはずはありませんでした。
 ただし、その小説が「英語」で書かれていたことが、大きな意味をもつことになります。その英語がヨルバ英語とでも呼べそうな独特のものだったことから、ナイジェリアの宗主国だったイギリス本国でこの本が注目されることになりました。
 あのイギリスを代表する作家T・S・エリオットが重役を務めていて出版企画にも関わっていたロンドンの出版社、フェイバー&フェイバーが、この本に注目。1952年にイギリスで出版されることになったのです。
 するとその本をウェールズ出身の偉大な詩人ディラン・トーマスが絶賛。(ボブ・ディランがその名前をとったといわれる詩人としても有名)
 さらには、「地下鉄のザジ」で有名なフランスの作家レイモン・クノーによってこの本が翻訳されてフランスでも出版され、一躍ヨーロッパ各地で注目の書となりました。彼らの多くは、みなその不思議な英語の魅力に強くひかれたようです。
 感覚的には、同じ英語でも異なる言語ようにも聴こえるジャマイカ英語のレゲエを思い浮かべると近いものがあるかもしれません。もし、ボブ・メーリーの「コンクリート・ジャングル」がイギリス英語で録音されていたら・・・レゲエのブームが起きたかどうか?
 その意味では、この小説は「読む」よりも「語り」で楽しむべき小説なのかもしれません。「声に出して読みたい」本の典型といえるでしょう。
 ただし、発表当時、本国ナイジェリアでこの小説は、馬鹿げた物語によって母国の後進性を世界に広めるものであると批判の対象になったようです。おまけにメチャクチャな英語が使われていることから、ナイジェリアの言語レベルの低さまでも宣伝しているとされたようです。

<映画化困難な最後の文学?>
 多くの名作文学が映画化されている中、この本だけは映画化されることはなさそうです。「指輪物語」のような壮大なファンタジーさえもCGの発展により映画化が可能になった21世紀ですが、この小説だけは映画化は困難と思われます。身体のパーツを借りて人間の身体を作る頭蓋骨の怪物など、言葉では表現できても視覚的には表現困難なキャラクターがこれだけ登場する文学は他にないかもしれません。それだけ読者は想像力を働かせる必要に迫られることになります。
 これこそ、文学にとって最後の砦、誰にもできないような想像力の究極の形を言葉にすることこそ、文学者としては最高の仕事だと思います。

「やし酒飲み The Palm-wine Drinkard」 1952年
(著)エイモス・チュツォーラ Amos Tutuola
(訳)土屋哲
河出書房新社 

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