- パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター Pannonica de Koenigswarter -

<謎の女性パノニカ>
 クリント・イーストウッドの監督作品「バード」を見た時、主人公のチャーリー・パーカーを助け、最後に彼の死を看取る謎の資産家女性、ニカという人物に興味を持ちました。チャーリー・パーカーが白人女性とのセックスに執着していたという説みおあり、彼女もその対象の一人だったのだろうか?とも思いました。しかし、彼女の存在はジャズの世界では有名で様々なジャズ・アーティストの伝記にも登場する有名な女性なので、セックスの対象とは思えませんでした。そのうえ、彼女は単なる資産家夫人ではなく超名門一族の一人らしいこともわかりました。いったいニカとは何もの?
 さらに、驚きなのは彼女の名前がつけられたジャズ・ナンバーの数です。
 ソニー・クラークの「Nica」、「My Dream of Nica」、ケニー・ドリュー「Blues for Nica」、トミー・フラナガンの「Thelonica」(セロニアスとニカの合体)、ホレス・シルバー「Nica's Dream」、ケニー・ドーハム「Tonica」、ジジ・クライス「Nica's Tempo」、それになんといってもセロニアス・モンクの「Pannonica」などがあります。いったいなぜ彼女はこうもジャズ・ミュージシャンたちに愛されたのでしょうか?
 彼女の生い立ちやその人生について知りたい。もし、彼女が自伝を書いていれば、ジャズの歴史にとって、大変な価値をもつ裏話がどれだけ書かれていることか!しかし、彼女は自分の大切な友人たちにとっての暴露本にもなりかねない自伝を書き残すことがありませんでした。その代わりに彼が残した本、それが「ジャズ・ミュージシャン3つの願い」という本でした。
 彼女が友人のジャズ・ミュージシャンたち300人にきいた「もし、願いが3つかなうとしたら、あなたは何を望みますか?」についての回答と彼女が撮影した彼らのスナップ写真集。それを一冊の本にまとめたものが、2006年になって出版されました。そして、その本の冒頭に、彼女の孫娘ナディーヌが祖母の人生について書いています。それを読んでやっと彼女の生い立ちを知ることができました。
 彼女のことを知らない人、知りたかったという人のために、ここで彼女の人生を振り返ろうと思います。

<生い立ち>
 ニカ Nica こと、パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター Pannonica de Koenigswarter は、パノニカ・ロスチャイルド Pannonica として、1913年12月10日イギリスの首都ロンドンで生まれています。父親は有名なイギリスの財閥ロスチャイルド一族の一人で、銀行家であると同時に昆虫学者でもあるチャールズ・ロスチャイルドという人物でした。彼は世界自然保護協会を設立した人物としても有名で、自分が見つけた新種の蝶につけたのと同じ名前を娘につけます。それが「Panonicca」でした。
 彼女の父親が大量のジャズ・レコードをコレクションしていたことから、彼女は小さな頃からジャズに親しんでいました。同じようにジャズをきいていた彼女の兄ヴィクターは、仕事でアメリカに渡った時、ベニー・グッドマン楽団の人々と親しくなり、楽団のピアニストだったテディー・ウィルソンのレッスンを受けるほどジャズにはまってしまいました。彼女もそんな兄と行動を共にするうちにテディー・ウィルソンと親しくなり、彼からジャズについて様々なことを学びました。
 1931年、彼女は姉のリバティーと共にミュンヘンの芸術アカデミーに留学します。1920年代、ドイツはバウハウスと呼ばれる美術工芸運動が黄金時代を迎え、美術だけでなく音楽や映画など様々な芸術分野でドイツは世界の最先端にいました。しかし、彼女がドイツを訪れた時、アメリカから始まった世界恐慌はドイツをも混乱に落としいれ、そんな状況の中、ヒトラーを指導者とするナチ党が急激に勢力を拡大しつつありました。そこで彼女が見たドイツ人のユダヤ人に対する人種差別は彼女に衝撃を与えました。

<結婚、戦争、離婚>
 イギリスに戻った彼女は、社交界で活躍するよりも大空に羽ばたくことを目標とするようになります。飛行機の魅力にとりつかれた彼女は、女性パイロットになるための訓練を開始。その最中、北フランスのトゥケ飛行場で、その後、夫となるフランス人、ジュール・ドゥ・クゥニグズヴァルテールと出会います。(フランス語読み)二人はその後、結婚し、5人の子供をもうけることになります。しかし、二人が平和な家庭生活を楽しむ余裕は当時まだありませんでした。
 1939年、第二次世界大戦が始まると夫のジュールは、ドイツと戦うド・ゴール将軍の呼びかけに応じ、妻とともにロンドンに本拠を構えた自由フランス軍に参加。彼女はアフリカに渡り、そこで地下の情報組織のメンバーとして、ラジオ・キャスター、運転手、兵士などとしてガーナ、コンゴ、ナイジェリア、エジプト、リビアからイタリア、フランスへと飛び回る日々を送りました。彼女は、その旅の途中で様々なアメリカ人と出会い、その文化に触れることで、ジャズへのさらなる理解を深めたのかもしれません。
 戦争が終わると、夫のジェールは外交官となりノルウェーやメキシコなどで仕事につきます。しかし、大使夫人という公的な堅苦しい役割に収まりたくない彼女は、1952年離婚することになりました。

<ジャズとの再会>
 彼女がジャズに再びのめり込むようになったのは、ちょうど離婚危機の時期でした。彼女はその頃セロニアス・モンクの名曲「Round Midnight」を聴き、その魅力の虜になってしまったのです。1954年に、モンクがパリで演奏会を行った際、友人の紹介で初めてモンクと知り合った彼女は彼の人柄にもほれ込みます。こうして、彼女はジャズの世界により近づくため、ジャズの母国アメリカへ渡り、その中心地ニューヨークに住み始めたのでした。この時、彼女は41歳でした。彼女は長女のリバティーとともに、ニューヨークのスタンホープ・ホテルの部屋で生活するようになります。1950年代半ばといえば、モダン・ジャズの黄金時代といえます。その中心に住む彼女は、そこで活躍する様々な大物ミュージシャンたちと親しくなってゆきました。
 ライオネル・ハンプトン、アート・ブレイキー、ウォルター・デイヴィス、バド・パウェル、コールマン・ホーキンス、ソニー・クラーク、チャーリー・パーカー、トミー・フラナガン・・・etc.彼女は毎晩のように自ら愛車のベントリーを運転て、「ファイブ・スポット」、「ヴィレッジ・バンガード」、「バードランド」、「ミントンズ・プレイハウス」、「スモールズ」などのクラブを回るようになります。

<ジャズ界の守護聖人>
 ジャズ・ミュージシャンたちと親しくなった彼女は音楽家組合に参加し、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの代理人になるなど、直接彼らの仕事をサポートするために働くようになります。彼女はジャズ・ミュージシャンの友人たちに仕事を世話するだけでなく、彼らにバンドをまとめるだけでなく、経営者として必要な知識を教えるなどしながらジャズ界に貢献してゆきます。
 てんかんに苦しめられていたコールマン・ホーキンスの家を定期的に訪れて世話したり、薬物の影響でうつ状態にあったバド・パウエルが行方不明になるとニューヨーク中を探し回ったり、様々な逸話が残されています。そうした彼女と黒人ジャズ・ミュージシャンとの付き合いに対し、人種差別が当たり前だった当時の社会は彼女に対し批判的で、彼女の泊まるホテルは彼女を追い出そうと宿泊費を3倍に値上げするなどの嫌がらせをするようになります。
 1955年3月、ドラッグとアルコールでボロボロの状態にあったチャーリー・パーカーが住む場所を追い出され彼女の部屋にやって来ました。彼女は彼を病院に連れて行こうと説得するものの彼はそれを拒否。その数日後に彼女の部屋で息を引き取ってしまいました。(映画「バード」でもこの場面が描かれています)大富豪の白人女性の部屋で黒人ジャズ・ミュージシャンが死亡したことは、当時大きなスキャンダルとして扱われました。
 同じ年、彼女はセロニアス・モンクとチャーリー・ロウズのツアーに同行して、ボルチモアに向けて車を運転していました。ところが、途中一行が入ったレストランでその店の主が一団を怪しみ警察に通報してしまいます。やって来た警官は彼らに不審尋問を行い、さらに車の中を捜索。そこで彼女の車の中からマリファナが発見されてしまいます。彼女は麻薬の不法所持の罪を自分でかぶり、同乗していたモンクは投獄されずに済みましたが、それでも彼はニューヨークの街で演奏するために必要な許可証「キャバレー・カード」を2年間使用できなくなってしまいました。この後の2年間、彼は仕事に困ることになり、そのストレスで彼の精神を少しずつ蝕んでいったちおも言われています。
 彼女もまた、様々なスキャンダルの影響で、スタンホープ・ホテルを出ることになり、ニューヨークのホテルのスウィートルームを転々とすることになりました。そんな中、彼女はアパートが火事となり住む場所を失ったモンク一家を自宅に住まわせ、なおかつ彼のために部屋にピアノを用意。そのピアノを使って、モンクは「ブリリアント・コーナーズ」や「パノニカ Pannonica」などの名曲を作曲し、彼の代表作となったアルバム「ブリリアント・コーナーズ Brilliant Corners」が生まれることになりました。

<キャッツビル誕生>
 結局、彼女はどのホテルにもいられなくなり、ついにニュージャージー州のウィーホーケンに家を購入します。それはかつてドイツからアメリカに渡ってきた映画界の巨匠ジョゼフ・フォン・スタンバーグが建てた家でした。その家はモンクによって「キャッツビル Catsville」もしくは「Cathouse」と呼ばれることになります。それは動物保護活動家でもあった彼女が飼う100匹もの描きそこに住んでいたからです。
 川向こうにマンハッタンの街並みを眺めることができるその家は、都会の喧騒からも離れられる居心地の良い場所として猫だけでなくジャズ・ミュージシャンたちにも愛されることになり、そこでくつろぐ彼らの様子を彼女は数多くカメラにおさめることになりました。そして、それらの写真と彼女が彼ら一人一人に聞いた「3つの願い」についての回答を収めた本を出版しようと企画します。残念ながら、当時彼女の企画は実現しませんでした。どの出版社もジャズ・ミュージシャンの写真集など売れるとは思えないと断ってきたからです。
 1973年、いよいよ精神的に不安定になっていたモンクを彼女は受け入れます。結局、それから9年間、この世を去るまで彼はキャットハウスで生活することになりますが、3回ほど行ったコンサート以外、家から出ることもなく、その家は彼にとって終の棲家となりました。
 1980年代に入り、ジャズの黄金時代が終わり、そのスターたちがこの世を去ってゆくとともに彼女の姿がニューヨークの街で見られることもなくなってゆきました。彼女が最後に公の場に姿を見せたのは1988年の映画「バード」のオープニング試写会の時だったといいます。

<ニカもしくはパノニカという女性>
 モンクの妻ネリー・モンクは、ニカについてこう語ったそうです。
「彼女は私たちにとって本当に心からの友でした。ほとんど会ったことがない類いの人です。彼女は、私たちが必要としていた人物そのものでした」

 彼女は様々なかたちで黒人ミュージシャンたちの地位向上のための働きかけをし、彼らの世話をしていました。そうした行為を金持ちの道楽と片付けるのは簡単です。しかし、ツアー中の黒人ミュージシャンと街中で手をつないだりする行為は、単に道楽でできることではありません。彼女にとってのそうした行為は、生まれついての美的センスがそうさせていたのであって、黒人に対する同情や金持ちゆえの罪悪感ではないのだと彼女の友人が語ったそうです。「素晴らしい音楽を生み出す人々を助けたい」というシンプルな思いが彼女を動かし続けたのかもしれません。
 1988年11月、彼女は心臓のバイパス手術を行っている最中に、この世を去ってしまいました。もう少しで75歳になるところでした。当日まで元気だった彼女ですが、手術を前にモンクと先にこの世を去った娘リバティーがすぐそばにいると語っていたそうです。そして、彼女は遺言の中にこう記していました。

「自分の遺灰をハドソン川にまいてほしい。時間は深夜零時頃・・・Round Midnight」
なんという粋な人生の終わりでしょうか!

「愛は与えるもの」といいますが、彼女はまさに「愛を与えるために」ニューヨークの街に舞い降りた女神でした。今夜は是非、久しぶりにセロニアス・モンクの「パノニカ Pannonica」を聴いていただければと思います。きっといつもと違って聞こえるはずです。もし、彼女がいなければ、ジャズの名盤の何枚かは生まれてこなかったはずです。彼女が与えた愛によって救われたミュージシャンたちが生み出した音楽によって、今この瞬間にも地球上のどこかで誰かが愛を受け取っている。そう願いたいものです。

「私は、最初にセロニアス・モンクに対して質問しました。
『もしもあなたの望みが3つ、即座に叶えられるとしたら、あなたは何を望む?』
 彼は部屋の中を行ったり来たりしていましたが、ふと立ち止まって、ハドソン川の向こう、ニューヨークのスカイラインを眺め・・・・・、私に答えを告げました。
 そこで私は言ったのでした。
『なによ、セロニアス!しおれ全部、あなた、もう手に入れてるじゃないの!』
 彼は、ほほ笑んだだけでした。
 そしてまた、部屋の中を行ったり来たりし始めました。
1.音楽的に成功すること。
2.幸せな家庭を持つこと。
3.素晴らしい友を持つこと、きみのような!」


<参考>
「ジャズ・ミュージシャン3つの願い An Intimate Look at Jazz Giants - ニカ夫人の撮ったジャズ・ジャイアンツ -」
 2006年
パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター(著)
鈴木孝弥(訳)
(株)ブルース・インター・アクションズ

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