- パパ・ウェンバ Papa Wemba -

<リンガラ・ポップの伝道師>
 中央アフリカに位置するザイールからアフリカ各地へと広まっていったリンガラ・ポップ、このサウンドをアフリカからヨーロッパへ、そして世界中へと広めていった伝道師の役目を果たしたのが、ヴィヴァ・ラ・ムジカを率いて何度も日本を訪れているパパ・ウェンバです。彼はミュージシャンとして、ザイールの音楽シーンを引っ張っただけでなく中央アフリカ最大の都市キンシャサという大都会に住む若者たちのファッション・リーダー、トレンド・リーダーとして、そのライフ・スタイルにまで影響を与える存在でした。そのサウンドは都会の文化、ストリートから生まれた数少ないアフリカン・ポップスと言えます。

<ザイーレアン・ポップの先達>
 パパ・ウェンバは、1949年ザイールの首都キンシャサに生まれました。彼の世代はビートルズなどロックの影響を多分に受けていますが、それ以外にも先達たちの影響をいろいろと受けています。
 先ずひとりは、ザイールを代表するポップス、リンガラの第2世代を代表するアーティスト、タブー・レイです。(ちなみに第1世代を代表するミュージシャンは、フランコグランカレなど1930年代生まれのアーティストで、リンガラの創設者とも言える人物)軽やかなギター・サウンドと美しいヴォーカル、そしてクラーベの代わりにスネア・ドラムで刻まれたラテンのリズム、これらはタブー・レイを通じて、その直系とも言えるリンガラ・バンド、ザイコ・ランガ・ランガに伝えられたものです。(ザイコとは、ザイール・ヤ・バココ=祖先の川、ザイールの略で、ザイール川はザイール国土の中央を流れ、国の命の母ともいえる存在である)

<ザイコ・ランガ・ランガ>
 そして、そのザイコ・ランガ・ランガこそ、リンガラ第3世代の中心となったバンドであり、パパ・ウェンバが、かつて所属していたバンドでもありました。このバンドが1974年に大ヒットさせたダンス、カヴァッシャは、ザイールだけでなくアフリカ全土にその人気が広まっていました。これにより、リンガラはアフリカ全土で最も広く聞かれるポピュラー音楽となりました。
 それだけの勢いでアフリカ全土に広まっていったということは、ザイコというバンドのもつエネルギーが半端でなかったことの証明でもありますが、実際ザイコはそのままの形でバンドを維持することが不可能なほど、各ミュージシャンが勢いをもち才能を秘めていたということでもありました。
 こうして、リーダー格だったニョカ・ロンゴエヴォロコ・ジョッケーマヌアク・ワク、そしてパパ・ウェンバらは、それぞれ新しいサウンドの発展を目指し、ザイコを中心に数々のバンドへと分裂して行きました。

<ジェームス・ブラウン>
 もうひとり、パパに影響を与えた重要な人物は、ファンクの神様ジェームス・ブラウンです。彼は1970年代に二度キンシャサで公演を行っています。(そのうちの一回は、あの「キンシャサの奇跡」で有名なモハメド・アリ対ケン・ノートンのタイトル・マッチに会わせた親善コンサートでした)
 この時のライブがアフリカのミュージシャンに与えたインパクトは非常に大きく、直接的に似ているわけではなくても、その後多くのヴォーカリストたちがJBファンクの影響の元に独自のファンク・サウンドを生み出して行きました。パパ・ウェンバもまた、その例外ではありませんでした。

<ファニア・オールスターズ>
 そして、JBの公演と同じく、アリとともにキンシャサを訪れた伝説のサルサ・バンド、ファニア・オールスターズ、彼らこそパパ・ウェンバのバンド、ヴィヴァ・ラ・ムジカのバンド名の由来となった存在です。それは、ファニアの公演を聴いて感動したパパ・ウェンバがコンサートの中で、バンド・リーダーのジョニー・パチェーコが盛んに使っていたフレーズ「ヴィヴァ・ラ・ムジカ 音楽万歳!」をバンド名に使ったものだったのです。

<ヴィヴァ・ラ・ムジカ誕生>
 こうして、1976年、パパ・ウェンバのヴィヴァ・ラ・ムジカが結成され、彼らはキンシャサに住む若者たちの心をあっという間につかんでしまいます。パパは、新しいサウンドをどんどん取り入れただけでなく、三宅一生の大ファンというファッション・センスを活かして、若者たちのファッション・リーダー的存在にもなって行きました。これは、それまでのアフリカン・ポップスにはなかった新しい展開でした。彼はヨーロッパとアフリカを行き来しながらアルバムを制作し、アフリカだけでなくヨーロッパ、世界をターゲットにした音づくりに挑んで行きました。

<世界デビュー>
 彼は先ず、世界進出を目指す第1弾として1988年、フランスEMIから世界デビュー・アルバムとも言える作品「PAPA WEMBA」を発表します。このアルバムは、プロデューサーにかつてキング・サニー・アデの世界デビュー作をプロデュースしたフランスの才人マルタン・メソニエを向かえ、完全に世界市場を意識した作品、リンガラの枠を越えた内容となっていました。(この頃から、リンガラ・ポップとは言わず「ルンバ・ロック」というようになりました)
 しかし、アルバムの売れ行きは、資金不足により充分なプロモーションができなかったこともあり今ひとつでした。(このアルバムは、パパが自費を投入することによって制作された自主制作に近いアルバムだったようです)

<Papa's Got A New Sound!>
 この失敗に体調不良が重なり、その後2年ほどパパは新作から遠ざかりますが、1991年見事に彼は復活をとげます。それが彼の代表作とも言えるアルバム"Le Voyageur"でした。「ル・ヴォイジャー」、それはタイトルどうり旅をテーマにしたアルバムでした。しかし、単純に旅の風景を音楽で表現したのではなく、彼が世界ツアーを行った中で出会った音楽や人間たちの影響から生み出された新しいザイーレアン・ポップへの旅と言った方がよいのかもしれません。彼はすでにリンガラという枠を越え、アフリカを代表する優れたヴォーカリストとして独自の世界を切り開いたと言えそうです。

<僕とリンガラとの出会い>
 僕は1986年のパパ・ウェンバの初来日コンサートを見たのですが、その数年前の1984年頃、リンガラと幸福な出会いを経験していました。場所は新宿西口ツバキ・ハウス。かつては有名なディスコで「なつかしい!」という人も多いでしょう。しかし、80年代にはいってからは、けっこう面白いコンサートの会場としても有名でした。あのアバンギャルド・パンク・バンド、ポップ・グループから派生したご機嫌なファンク・バンド、リップ・リッグ&パニックとかフェイク・ジャズとも呼ばれたアバンギャルド・パンク・ジャズ・バンドの代表格、ラウンジ・リザースアート・リンゼイジョン・ルーリー在籍)なんかのコンサートも、僕はここで見ました。
 ある日、友人の高木に「面白そうなリンガラのライブがあるから行こうぜ」と誘われた。それも一回だけの貴重なライブだという。どうしてかというと、そのバンドは渡辺貞夫のバック・バンドとして演奏するために来日していて、スケジュールのあい間に単独でコンサートを行うことになったとのことでした。

<イースト・アフリカン・テンベア・バンド>
 バンド名は、イースト・アフリカン・テンベア・バンド。ケニアのリンガラ・バンドということでしたが、バンド名が正式名称なのか来日用の臨時の名前だったのかは、はっきりしません。当時、アフリカン・ミュージックにのめり込んでいたナベ・サダがケニアから連れてきた寄せ集め的なバンドだったのかもしれません。その点では、どんな演奏を聴かせてくれるのかは、ほとんど未知数でした。
 それでも、レコードでリンガラ・ポップを聴き、その楽しさに惹かれていた僕にとっては、「もう行くしかない」という状況でしたし、実際彼らのコンサートは期待以上の楽しいものでした。
 後に分かったのですが、ケニアのリンガラは母国ザイールのものに比べると、ギターの軽やかさや美しさには欠けるが、コンパクトでファンキーなのが売りで、リンガラ初心者にはちょうど良かったのかもしれません。
 無名のバンドによる突然のライブという「究極のシークレット・ライブ」の臭いをかぎつけてきた観客もただ者ではなかったようです。(南伸坊さんとか業界関係の方々が多かったようです)リンガラ独特のテンポ・アップの瞬間のノリなどは、実にいい感じに盛り上がっていました。ゆったりとしたパーム・ワイン風のギター・サウンドで揺られた後、いっきに盛り上がる時の快感は、ライブではレコードの何倍にもパワー・アップされていました。この感覚こそがリンガラの真髄なのだ!と実感させてくれました。これが、ザイールの超一流だったら、どんなに凄いのだろう?そう思わせるに充分なライブでした。そして、その予想が間違いなかったことを、その数年後パパ・ウェンバが教えてくれたというわけです。

<締めのお言葉>
「心を通常の意識から解放する回路を開くことを知らなければ、私たちは病気になってしまう」
ライアル・ワトソン著「スーパー・ネイチャー2」より

ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページへ