「楽園への道 El Paraiso En La Otra Esquina」

- マリオ・バルガス=リョサ Mario Vargas Liosa -

<それぞれの楽園>
 人はみな楽園を目指して生きています。ただ、人それぞれ「楽園」の定義は異なり、「平和な家庭があれば、それが楽園」という人もいれば、南洋の孤島の砂浜で美女とマッタリするのが「楽園」という人もいるでしょう。でも、ほとんどの人は青春時代を過ぎ、家庭を持つうちに、「のんびりとした老後」という「最後の楽園」のことしか頭になくなるようです。そう考えると、死ぬまで「楽園」を追い続ける人は、そう多くないし、それを通した人だけが伝説の人になったといえそうです。この小説は、文字どおり「楽園への道」を死ぬまで歩み続けた二人の人物の半生を描いた伝記小説です。
 著者は2010年にノーベル文学賞を受賞したペルーの作家、バルガス=リョサ。そして、彼が描いた二人の人物とは、画家ポール・ゴーギャンと彼の祖母フローラ・ドリスタンです。もちろん、ゴーギャンは19世紀末の偉大な画家のことで、このサイトでもすでに取り上げています。しかし、もう一人の主人公フローラ・トリスタンについては、僕も今までまったく知りませんでした。彼女は、簡単に言うと女性解放運動と労働組合活動、その両方の指導者として、フランス各地で情宣活動をしながら、その運動の下地を築いた先駆者です。マルクスの歴史的著書「共産党宣言」が発表される4年前に彼女が亡くなっていることからも、その先見性がわかります。彼女の名前が知られていないのは、「女性」だったがゆえに、マルクスやエンゲルスらその後の男性思想家たちから、その影響を無視されてしまったせいだとも言われています。誰もが、彼女からの影響を表立っては語らなかったのです。当時の女性の地位の低さから考えると、それは当然だったかもしれません。
 ではなぜ、ぺルーの作家がフランス人の女性社会活動家を取り上げたのでしょうか?それはフローラ・トリスタンとゴーギャン、そして著者3人がペルー南部のアレキーパという街でつながっていたからでした。

<フローラ・トリスタン>
 フローラ・トリスタンは、19世紀前半にフランス人の母とペルー人の父のもとで生まれました。しかし、軍人だった父が早くに亡くなったため、一家は極貧生活を強いられます。働きに出された彼女は勤め先の工場主と結婚することになりますが、女性をセックスの道具程度にしか考えない夫に嫌気がさし、娘を連れて家を出てしまいます。ところが、当時は離婚が許されていないだけでなく妻の存在は奴隷的な地位だったため、彼女は犯罪者として追われることになります。そのため彼女は、娘を乳母に預けたままイギリスへ逃れて住み込みの女中として働いたりしながら、各地を点々としました。この逃亡の旅の途中、彼女は様々な仕事につきながら労働者、そして女性たちの悲惨な生活を体験することになりました。しかし、そのままの生活が続いていれば、彼女の名前が歴史に登場することはなかったはずです。ここで歴史を変えた一つの奇跡が起きます。
 ある日、彼女の名前を偶然聞いた人物が彼女に、「トリスタンという名前は、もしかするとペルーの名家トリスタン一族の方ではありませんか?」と尋ねてきました。彼はペルー出身の船長でした。彼のおかげで彼女は、自分の祖父がペルーに住む資産家であることを知り、トリスタン家の娘として資産を獲得できると考え、ペルーへの旅に出ます。
<アレキーパにて>
 トリスタン一族の住むアレキーパの街にたどり着いた彼女は、その街で一族の一人として暮らすことになります。ヨーロッパからやって来た彼女はちょっとしたスター扱いを受け、それまでとは異なる上流階級の一員となりますが、真面目なカトリック信者の家族の前で彼女は自分が夫から逃げてきたとは言えませんでした。
 意外だったのは、ヨーロッパから遠く離れた土地で女性たちが時に男性以上に活躍していたことでした。特に当時の大統領夫人で「女元帥」と呼ばれたフランシス・ガマラの活躍は、彼女に大きな影響を与えることになります。「女は単なる男の僕ではない」という新しい認識が彼女を変えてゆくことになります。
 結局、彼女は、母親が正式な結婚式を挙げていなかったことから、祖父から孫として認めてもらうことができませんでした。そのため、遺産を受け取ることはできず、それなりのお金を持たされてフランスへと帰国することになります。
<フランスにて>
 天国から地獄まで様々な体験をしてきた彼女はフランスに戻ると、それまでとは全く異なる人生を歩み始めます。彼女は女性を男性からの抑圧から解放し、労働者資本家からの搾取から救い出すために生涯を捧げる決意を固めていたのです。もちろん、彼女が自らの体験から得た知識だけで、そうした活動のための理論を獲得できたわけではありません。当時、ヨーロッパでは王政から共和制への移行など、新たな社会が生まれつつあり、そこから社会主義思想が生まれつつありました。
 キリスト教の倫理に基づき、資本家が慈善行為として社会主義的な改革を行うことを目指すサン=シモン主義。これは上からの社会主義改革といえますが、そう上手く行くはずがないことは明らかでした。
 シャルル・フーリエによって説かれた独自の共同体社会を作り上げるファランステール主義は、自由な生き方をそのまま受け入れるという理想主義的なもので、これもまた実現が可能と思えないものでした。
 マルクス以前のそうした社会主義的な思想は、どれも理想に基づく頭でっかちなもので具体的な行動が伴うものではありませんでした。それだけに、フローラが始めた地道な啓蒙活動は画期的なものとして注目され、少しずつとはいえ着実にその効果が現われていました。彼女が旅した街では、次々に労働者たちの組合が誕生するようになったのです。彼女の活動を妨害しようと警察が圧力をかけてきたのは、権力機構が彼女の影響力を恐れていた証拠といえます。
 しかし前述のとおり、彼女の場合、女性であることは大きな問題でした。男女同権など遥か未来のことだったこの時代、女性の社会活動家は皆無でした。そのうえ、怖いもの知らずの彼女は、男性労働者に対し、いかに彼らが妻を非人間的に扱っているか、給料を無駄に使っているかを厳しく指摘していたため反感を買うことにもなったのです。
 そんな厳しい状況の中、彼女は追ってきた夫に銃で撃たれ瀕死の重傷を負ってしまいます。ところが、かろうじて死なずにすんだ彼女は、この事件で夫が刑務所入りしたおかげでついに自由を得ました。そのうえ、夫に立ち向かい撃たれながらも生き延びたことで、彼女は一躍悲劇のヒロインとなりました。彼女はそのおかげで大きな知名度を得て、その後の活動にも大いに有利に働くことになりました。ただし、彼女の身体の中にはこの時、そのまま銃弾のかけらが残り、その影響で彼女の寿命は大幅に縮まることにもなりました。彼女は先が見えてきた人生を駆け足で駆け抜けようとその歩みのスピードを上げてゆくことになります。この小説では、その後の駆け足の人生が描かれています。
 1844年、彼女はまだ41歳という若さでこの世を去りますが、ロシア革命の70年も前に遥かな未来の理想社会を目指して、命を賭けて闘う女性がいたというのは本当に驚きです。

<一人娘アリーヌの息子、ゴーギャン>
 不可能にも思える遥かな目標に挑み続けた彼女のロマンチストな面は、彼女が男性的な資質を持っていたからかもしれません。そして、彼女が闘争の日々のために自分の娘を犠牲にできたのも、そうした男性的資質のせいだったのかもしれません。(著者は彼女を同性愛者とも描いています)
 その娘アリーヌは、両親をほとんど知らないまま不幸な少女時代を送ることになりました。大人になった彼女はフランスで結婚し、母親のフローラの死後4年たって男の子を出産します。その少年が、将来偉大な画家となるポール・ゴーギャンでした。ところが、出産後すぐにジャーナリストである夫が国を追われることになり、家族はペルーへと逃れることになります。こうして、1歳になったばかりのゴーギャン少年は、それからの数年間をかつて祖母のフローラが過ごしたアレキーパの街で生活することになりました。画家ポール・ゴーギャンにとって、その時のペルーでの少年時代の幸福な思い出は、後に彼を異国へと旅立たせる原動力になったといわれます。
 フランスに戻った彼は、大きくなると船乗りになり世界各地を旅してまわりますが、周りからの薦めもあり、株の仲買人の職につきます。そして、結婚し子ども持ち、上流階級の仲間入りを果たします。それは180度の方向転換でした。しかし、そんな彼の生き方を再び変える出会いが訪れます。30代半ばになって、彼は友人の薦めで絵を描き始めたのです。それまで絵にはまったく興味がなかった彼ですが、なぜか彼はその魅力にはまってゆきます。密かに彼は画家を目指すようになり、アトリエを持ち、絵にのめりこみ始めます。そんな時、フランスを不況が襲い、その影響で彼は仲買人の仕事を首になってしまいます。それは神が彼に与えた大いなるチャンスでした。

「エドゥアール・マネの『オランピア』。その絵はそれまで見たこともないくらい印象的な作品だった。で、俺は思った。<こんなふうに絵を描くのは、ケンタウロスになるとか神になるようなものじゃないか>俺は思いついてしまったんだ。<俺は画家にならなければ>・・・」
(この頃、彼が特に影響を受けたのはマネの作品でした)

 彼は妻の反対を押し切り、プロの画家となります。しかし、彼の絵はまったく売れず、妻と子どもは別居状態となってしまいます。そんな中、彼は同じように無名の画家だったゴッホと南フランスで共同生活をしながら絵を描き始めます。すでに精神的に崩壊しかかっていたゴッホとの生活はお互いに刺激を与え合うことにはなっても、長くは続かず、最後にはケンカ別れすることになりました。その際、彼はゴッホにナイフで刺されそうになりましたが、それ以上に深い傷を負ったのはゴッホでした。彼はその後すぐに自らの耳をナイフで切り落とし、精神のバランスを完全に失ってしまったのです。結局、彼はそのまま精神病院に入り、二度と正常な状態に戻ることなくこの世を去ります。
 ゴッホがこの世を去ると、彼の作品は急に評価を上げることになりますが、逆にゴッホを死に追い込んだ男として、彼は批判にさらされることになりました。ただし、ゴーギャンにとっても、画家としてのゴッホの影響は大きなものがありました。その影響の大きさを示す言葉として、こんな文章があります。

「自分の絵が人々に精神的な慰めを与えられたら、と俺は思っているんだよ、ポール。キリストの言葉が人々に慰めを与えたようにな。古典絵画では『光輪』は永遠を意味していた。その『光輪』とは今、俺が絵の中で色彩の放射と振動とで取り戻そうとしているものなんだ」

 ゴーギャンが楽園を求めて、南太平洋のタヒチへと向かうきっかけを与えたのもまたゴッホだったといわれます。

・・・初めてその偉大な景色に立ち会ったときから、ポールはフィンセントを思い浮かべた。ああ、神様、ここでした。コケよ、ここだったのだ。これこそアルルで狂ったオランダ人が夢見ていた場所なのだ。1888年、共同生活をしていたあの秋、ずっとフィンンセントは話しつづけていた。隔絶された熱帯の未開の地におまえを指導者とした「南のアトリエ」を創設したい。そこでは何もかもが全員の物で、堕落の源である貨幣は廃止される。自由と美のみを尊重する環境の中で、兄弟愛によって結ばれた芸術家集団が、不滅の芸術を創造することに専念しながら生活する。・・・・・
(コケとはゴーギャンのこと、フィンセントはゴッホのこと)

 ゴッホが夢見ていた南洋の島の楽園は、ゴーギャンの心にも深く刻まれ、その夢を果たすかのように彼はタヒチへと旅立つことになりました。そして、そこでの生活からあの歴史的名作「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか」が生まれることになりました。
 しかし、その間、彼の作品はヨーロッパでほとんど評価されることはなく、常に苦しい生活を強いられた彼はアルコールに溺れるとともに、梅毒によって身体を蝕まれてゆきました。彼は孤独のうちにこの世を去ってゆきましたが、自らが選んだ「楽園」での死はけっして不幸なものではなかったと思います。彼にとっての「楽園」は、南洋の島々の美しい環境だったのではありません。彼が本当に求めていたのは、その島に住む「野生の心」を持つ人々の一員になることでした。そこには、そこに住む女性たちとのセックスも含まれていました。
 だからこそ、彼はヨーロッパ文明によって汚されてしまったタヒチを去り、まだ未開の地だったマルキーズ諸島へと移住をすることにもなったのです。彼が追い求めた「楽園」を生み出す「野生の心」は、ヨーロッパ文明によって消されつつある「過去」だったのに対し、祖母のフローラが求めていた「理想の社会」は、ヨーロッパで生まれつつあった「未来」だったといえます。二人は、どちらも見果てぬ夢ともいえるそこにない「楽園」を追い求めていたわけです。
 ゴーギャンがこの世を去った20世紀の初め、もう地上の楽園は失われ、人類は自らの力で人工的な「楽園」を作るしかなくなっていたのかもしれません。
それは、ディズニーランドなのか?それは、ディスコのフロアーなのか?それは、サッカー・スタジアムなのか?それは、薬物中毒者の脳内なのか?それは、深い青に包まれた海の底なのか?それは、ミシュランで三ツ星に選ばれたレストランのメインディッシュなのか?
 21世紀の今、人々はそれぞれバラバラの「楽園」を求めてさまよい続けています。あなたにとっての「楽園」は?

<マリオ・バルガス=リョサ>
 この小説の著者マリオ・バルガス=リョサ Vargas Liosaは、前述のとおり、主人公の二人が一時期を過ごしたアレキーパの街に1936年3月28日生まれています。しかし、両親が別居したため、彼は祖父母のもとで育てられました。後に両親は復縁しますが、10歳までの間、彼は両親から離れて孤独な少年時代を過ごすことになりました。少年時代に孤独な時期を過ごすというのは、多くの作家たちやアーティストの生い立ちに見られますが、彼もまた早くから才能を発揮し始めます。
 彼は16歳で地方紙のコラムニストとなり、自作の戯曲の演出をしたりと活躍。早熟だった彼は19歳で早くも結婚して、ジャーナリストとして働きながら小説も書き始めています。そのうえ、彼の場合、頭でっかちの作家ではなく行動派の人間でもあり、アマゾン川流域の先住民について調べる調査隊の一員としてジャングルに分け入ったり、スペインやフランスに留学して、そこでスペイン語教師やジャーナリストとして働くなど、冒険好きな面も併せ持っていました。
1963年27歳の時、「都会の犬ども」がスペイン批評家賞を受賞。
1965年から、彼はパリ、ロンドン、バルセロナなど生活拠点を変えながら仕事をするようになり、海外での生活を1974年ごろまで続けることになります。ゴーギャンのようなボヘミアン生活が始まります。
1966年、代表作となった「緑の家」を発表。彼の名前はヨーロッパ以外でも知られるようになります。
1971年、「ガルシア=マルケス - ある神殺しの歴史」を発表。
 左派を支持してた彼ですが、キューバで明らかになったパディジャ事件により、カストロ政権支持をやめます。社会主義政権による芸術に対する抑圧に嫌気がさした彼は左派から保守派へと変身し始めたようです。
1975年、映画「パンタレオン大尉と女たち」をホセ・マリア・グティエレスと共同で監督。映画の世界にも彼は進出します。
1976年、国際ペンクラブ会長に選出。
 彼の活躍の場はさらに広がり、小説家、エッセイスト以外にジャーナリスト、戯曲作家、評論家、翻訳家、テレビ司会者、ディレクターをつとめますが、その集大成ともいえたのが、1989年彼が故郷のペルーで挑んだ大統領選挙でした。残念ながら彼はその選挙で、あのフジモリ大統領に破れ、当選を果たせませんでしたが、保守系の最有力候補者としてあと一歩のところまで迫りました。
 こうして、彼の人生を見てみると、彼もまた世界を旅するボヘミアンとして様々なジャンルで活躍し、芸術家と政治家、両方で世界を変えようとしました。彼にとって、個性と自由を重視する芸術の「楽園」と平等な社会を実現する社会的な「楽園」は、ともに実現しなければならない目標だったといえます。彼がこの小説で、フローラとゴーギャンという異なる「楽園」を追い続けた二人を同時に描いたのは、そうした彼のこだわりがあったからだったのでしょう。

2010年、彼はノーベル文学賞を受賞しましたが、彼にとっての「楽園」はまだまだ遠いところにあるのでしょう。しかし、あまりに遠いからこそ、歩み続けられる。そう思うことができる人間だけが、真実の「楽園」を垣間見ることができるのかもしれません。
 ゴーギャンの遺作ともいえる「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか」は、そんな一瞬をとらえることに成功した数少ない作品なのかもしれません。

「楽園への道 El Paraiso En La Otra Esquina」 2003年
(著)バルガス=リョサ Mario Vargas Liosa
(訳)田村さと子
河出書房新社(世界文学全集 I - 02)

バルガス=リョサの作品チボの狂宴も御覧ください!

20世紀文学全集へ   トップページへ