「巴里の屋根の下 Sous les toits de Paris」

- ルネ・クレール Reue Clair -

<パリのイメージを決定づけた傑作>
 この映画は、シャンソンによるミュージカル映画であり、恋愛ドラマであり、男たちの友情物語であり、パリの風俗をたっぷりとつめ込んだ総合エンターテイメント作品になっています。フランスではじめてのトーキー映画だったにも関わらず見事な音の使い方と絵画のように完璧な街並みの映像により、この映画は時代の遥か先をゆく名作となりました。
 当時はまだパリを訪れたことのある日本人は少なかったため、この映画の中のパリの街並みは「芸術の都」パリのイメージを日本人に強く印象づける役目を果たしたともいえます。テーマ曲も、西城八十によって翻訳されたものが日本でも大ヒットし、スタンダード曲として誰もが知ることになりました。
 映画による魔法が世界中の観客を魅了した歴史的名作といえます。

<ルネ・クレール>
 この映画の監督ルネ・クレール Reue Clair は、1898年11月11日パリ、レアル(中央卸売り市場周辺)の商人の家に生まれました。生粋のパリっ子ですから、この映画「巴里の屋根の下」で描かれるパリの街は彼にとって最高の題材だったといえます。第一次世界大戦に衛生兵として参加した彼は、戦争の悲惨さと現実を体感してもどりました。その後、新聞記者として働きながらシャンソンの人気歌手ダミアに歌詞を提供。ダミアが彼を映画関係者に紹介したことから、俳優として映画界入りし、ルイ・フイヤード監督の「孤児の娘」(1921年)などに出演しています。その後、俳優よりも演出の方に興味をもつようになります。

<短編映画「幕間」>
 映画以外の芸術家たちとの交流があったことから、彼はそうした仲間たちから映画を撮るチャンスを得ます。それがアバンギャルド映画の先駆作ともいわれる短編映画「幕間」です。マン・レイやマルセル・デュシャンなどシュルレアリストのスターたちが出演したこの作品には、エリック・サティが音楽をつけていて、本編のバレエとともにこの映画は話題になりました。

「幕間」
 ルネ・クレールが監督し、原案、美術はダダイストであり画家のフランシス・ピカビアが担当。音楽はエリック・サティという豪華版で、同じピカビアとサティ・コンビによる二幕もののバレエの幕間に上映するために製作された作品です。なお出演している俳優は、マン・レイやマルセル・デュシャンらのシュルレアリスムのスターたちですから、それだけでも貴重な映像作品といえます。

<盟友との出会い>
 彼の長編第一作は、SFコメディ「眠るパリ」(1925年)、在る科学者が発明した謎の光線によって人々が動かなくなってしまうというちょっと変な内容の作品です。この映画の重要な舞台がエッフェル塔の最上階部分だったことから、主演俳優は高所の恐怖に耐えられる人材が必要でした。そこで白羽の矢が立ったのが、第一次世界大戦の英雄で空軍のパイロット、アルベール・プレジャンでした。当時、パイロットという職業は現在の宇宙飛行士的なスターだったので、この抜擢は大成功します。俳優ちしての人気を獲得したプレジャンはその後も、クレール作品の常連俳優の一人になります。
 彼の第五作「風の餌食」(1927年)で、新たに彼の右腕となる人物が撮影に参加します。ロシア(現在のポーランド)からやって来たラザール・メールソンです。美術を担当する彼の働きは、映画に俳優以上の表情をもたらすことになり、それが傑作「巴里の空の下」を生み出す重要な鍵となります。

「巴里の屋根の下」(1930年)
(監)(脚)ルネ・クレール
(撮)ジョルジュ・ベリナル
(美)ラザール・メールソン
(出)アルベール・プレジャン、ポーラ・イルリ
 プレジャンはこの作品で主役となる楽譜を売る歌手「ソング・プラガー」を演じています。(20世紀初め、まだレコードが普及していない時代、「音楽を売る」という行為は楽譜をうることでした。しかし、楽譜だけを並べても売れるわけはないので、ピアノなどを演奏する「歌うセールスマン」が活躍することになったわけです)当然、プレジャンは初のトーキー映画で歌も披露しています。パイロット兼俳優だけでなく歌手でも才能を発揮した彼は、この映画で世界的人気を獲得することになりました。
 この映画でプレジャン以上にその存在を世界に知らしめたのが、メールソンです。彼のこの作品の本当の意味の主役といえるパリの街並みをセットとしてゼロから作り上げました。彼は、本物の街並みでは表現しきれない美しさを建物の形や屋根の傾斜などをわざと変えることで、画面上に表現してみせました。そうして生み出された美しい街並みは、「芸術の都」パリのイメージを決定づけることになり、この映画の映像とテーマ曲が世界中の人々の心に焼き付けられることになりました。映画におけるリアリズムを、デザインされたセットによって再現するという画期的な方法を実践したことでメールソンは、映画界初の本格的な美術監督といわれることになります。彼は、この作品の後も、クレールの「自由を我等に」(1931年)、「巴里祭」(1932年)やジャック・フェデールの名作「女だけの都」(1935年)などでも重要な役割を果たすことになります。
 まだトーキーが誕生したばかりだったにも関わらず、すでにこの作品は「音」と「美術」についても完成の域に達していたというのは驚きです。逆にいうと、この時代すでに映画の進化はほとんど止まっていたということかもしれません。これ以降映画の進化といえるのは、「カラー化」と「CG映像の登場」ぐらいなのかもしれません。

<その後のクレール>
 その後、クレールは1935年にイギリスで「幽霊西へ行く」を撮った後、1940年にヨーロッパが再び戦場となるとアメリカへ移住します。そして、ハリウッドで「奥様は魔女」(1942年)、「そして誰もいなくなった」(1942年)などを撮っています。「そして誰もいなくなった」は、アガサ・クリスティの同名小説を映画化したもので、シドニー・ルメット監督の「オリエント急行殺人事件」とならぶ傑作です。
 戦後、彼はフランスに戻り、当時のカリスマ的人気俳優ジェラール・フィリップの主演で「悪魔の美しさ」(1949年)、「夜ごとの美女」(1952年)、「夜の騎士道」(1955年)などのヒット作を撮り、活躍を続けました。
 残念なことに、1950年代後半になると、彼の作品はフランスの旧体制を象徴するものとして、ヌーヴェルバーグの若者たちから批判されることになります。逆にいうと、彼の作品はそれだけフランス映画における王道であり、彼はその中心的存在だったということでもあります。(とはいえ、コミカルでお洒落なラブ・ストーリーの職人的監督そして質の高い作品を撮り続けた彼の人気は本国よりも日本で高かったともいわれます)
 1981年3月15日、81歳まで生きた彼は静かにこの世を去りました。

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