パリ解放と混沌からの復活

「パリ解放 1944 - 1949」
- アントニー・ビーヴァー、アーテミス・クーパー -
<戦争ノンフィクションの傑作>
 第二次世界大戦における連合軍によるパリ解放を記録したノンフィクションの傑作を読みました。膨大な資料やエピソードを500ページに渡ってまとめた読み応えのある大著になっています。第2次世界大戦だけでなく20世紀の世界史を決定づけた重要な歴史の1ページを詳細に記録したという意味でも貴重な内容です。
 フランスの近代史に詳しくないとわからない名前も多く登場しますが、そこはあまり気にせずお読みください。
 それよりも、ピカソ、シャネル、ディオール、サルトル、カミュ、ケストナー、ジャン・ジュネなど様々な芸術家、思想家が登場しますので、アート全般に興味がある方にもワクワクする内容だと思います。
 膨大な内容の中、ここでは僕が以前から気になっていたいくつかの疑問について、着目してまとめてみました。

「ヴィシー政権(ペタン政権)とは何だったのか?」
 第二次世界大戦はドイツ軍によるポーランド侵攻から始まりました。その際、ヨーロッパ諸国がポーランドを見殺しにしたことで本格化します。
 「まさかまだうちにはこないでしょ・・・」と安心していたフランスへ、ドイツ軍が電撃的な侵攻作戦を展開。あっという間にパリはドイツ軍に占領されてしまいました。
 あわてて援軍がイギリスから駆け付けますが、ドイツ軍の勢いは止められず、英国軍が戦闘継続を望むにも関わらず、フランスはあっさりと降伏してしまいます。
 なぜ、フランスはその時徹底抗戦を行わなかったのか?疑問でした。
 確かにそのまま戦闘を続けていれば、パリは瓦礫となり、現在の美しい観光都市パリはなかったかもしれません。長い目で見ると、降伏したことは正しかったのかもしれません。しかし、問題はそこではありません。疑問なのは、降伏後のフランスの政治を担った新ドイツ派のペタン政権が行った恐るべき政策のことです。彼らは同じフランスの国民である共産主義者やユダヤ人をドイツに強制送還し、彼らを死に追いやったのです。なぜ、そこまでしてドイツ軍にフランス人が協力したのか?ということです。

 ペタン政権をもっとも熱烈に支えた柱をひとことで言えば、「地方の偏見」になるだろう。「ヴィエーユ・フランス」 - どちらも貧困化し、恨み心をたっぷり抱いた小貴族と、猛烈に偏狭な聖職者に象徴される超保守的な「古きフランス」 - は、1789年のフランス革命が打ち立てた原則を相変わらず呪っていた。

 つまり、フランスには王政の復活、貴族階級の再興を望む人々がまだまだ多かったということです。反ユダヤ、反共産主義、反民主主義の思想に共鳴するそうした人々にとって、親ナチス政権はある意味、ドイツ軍の後押しで起きたクーデターが産んだ革命政権であり、決して占領軍による政権ではなかったのです。こうした親ナチスの政治家は、フランスだけのことではなくイギリスにもアメリカにもいて、当時は大きな影響力を持っていました。チャンプリンの「独裁者」を批判し、彼を共産主義者として追放しようとしたアメリカの親ナチ・グループには、あのヘンリー・フォードもいました。BBCのテレビドラマ「刑事フォイル」には英国国内でナチスとつながる多くの英国人ビジネスマンや政治家が登場し、ドイツとの戦争を終わらせようと画策しています。

 ペタン政権は、ドイツ側からなんの催促もないうちに、反ユダヤ主義的規則をすでに導入していた。モントワール会議の正確に三週間前、法令がユダヤ人用の特殊な身分証明書を導入し、国勢調査を規定した。ユダヤ人問題担当省が設置された。ユダヤ人所有の会社は身分を明らかにしなければならず、それによってフランス国が好き放題に資産を接収することを許した。
 なかでも悪名高いのは、パリにおける一斉検挙である。・・・
 1942年7月16日、5つの区でナチスでさえよろこんで見逃したであろう子供4000名を含む1万3000人のユダヤ人がフランス人警官に逮捕され、有蓋の冬期競輪場に移送された。100名以上が自殺。残りのほぼ全員が、その後ドイツの強制収容所で命を落とした。


 こうして、フランス人がフランス人を恐るべき強制収容所に送り込むホロコーストのシステムがあっという間にできあがったのでした。

「フランスの労働運動はなぜ強いのか?」
 フランスという国について、以前から疑問に思っていたことがあります。フランスではなぜあんなにストライキが多く、それを市民が許しているのか?ということです。労働者の国であるはずの中国よりもロシアよりも労働者が力を持つのはなぜなのか?その原点は、第二次世界大戦における共産党員の活躍と犠牲によるものだったようです。

 最初にドイツ人をあからさまに襲撃したのが共産党員だったか否か - この疑問の答えはいまだに明らかではない - はともかく、党は最初に死傷者を出したと主張する。フランス共産党は - 犠牲者を大幅に水増しして7万5000人と主張し - のちに自らを「銃殺された者たちの党」と呼んだ。

 政治家があっさりとドイツに降伏してしまったフランスにおいて、レジスタンスとして最初から最後まで戦い続けたのが共産主義者を中心とする左派のグループでした。ナチスによる逮捕が行われる中、彼らにとっては地下に潜り戦い続けることしか選択肢は残されていなかったのです。
 しかし、ドイツとの戦いに勝利することは、彼らだけでは不可能でした。彼らには同じドイツと戦闘中のソ連しか後ろ盾はいなかったので、武器もお金も情報も兵士も不足していました。彼らと共に戦うより多くの兵士が必要なのは明らかでした。そこで彼らは主義主張を越えた抵抗組織を作り上げます。

 レジスタンスはすでに、その内部に特筆すべき政治的社会的混合を抱え込んでいた - 正規軍将校、社会主義者、左翼系とカトリック系両方の学生、スペイン人共和主義者が肩を並べて戦う集団もあった - しかし解放の予測が近づき、それとともに戦後秩序の政治的意味合いが手近になるにつれて、主要な運動組織はその思想をより明確にしていった。ドゴールは政治意識と党活動に強い反感を抱いていた。解放時の権力闘争は騒乱、あるいは内戦にさえつながりかねず、フランスに対してアメリカとイギリスによる軍政を押し付ける口実を、英米間にあたえかねかった。
 このような危険を回避するには、さまざまなレジスタンス運動を統一して、政治の影響外にあるドゴール自身の司令下におくしかない。レジスタンス諸運動の統一は大部分がジャン・ムーランの努力と人格を通して達成された。


 ナチス・ドイツを倒すためなら、誰とでも協力関係を結べる。それが当時の連合軍の考え方でした。しかし、戦える軍隊にするためには統一された指示系統に属さなければなりません。そのための様々な妥協の上にレジスタンスは成立していました。その中でもフランス国内で活動するレジスタンスのトップに立ったジャン・ムーランは、危険な仕事を任されただけでなく、戦後の混乱をどう納めるべきかについても考えていたようです。こうして、対ドイツの戦線はかろうじて一つにまとまることで強力なレジスタンス運動を展開して行くことになりました。

 こういった展開のなかでもっとも重要だったのは、1942年9月、<闘争><解放><義勇遊撃隊>の戦闘翼が合流して、秘密軍を結成したことである。ドゴールの目に、再構築された正規軍の枠内にレジスタンスを組み入れるためには必要不可欠な第一歩に見えた。・・・
 一方、イギリス側は、レジスタンスは三つの異なる形で成長してきたことに安堵していた。すなわちイギリスのSOEと秘密情報局(SIS)の後援を受けている集団、ドゴール派の集団、そして共産党である。イギリスは、このことがドゴール派と共産主義者のあいだの内戦の可能性を減じると感じていた。


 この時、レジスタンスは3つの分派に分かれて、そのバランスを取りながら戦う道を選択したわけです。しかし、彼らはお互いのこと信じ合っていたわけではないし、常に戦後のことを頭に置いていたはずです。

 フランス国内のフランス共産党員は将来の解放について、ドゴール派とはまったく異なる見方をしており、ドイツ軍のフランス撤退を蜂起と完全なる社会革命の契機と見ていた。ドゴールの命令を受け寄れるどころか、FTPが解放後の「民主化された」フランス軍の土台となることを望んだ。共産党はこの政策を進めるために、他のレジスタンス集団との提携に合意し、一方で「潜水艦」、つまり隠れ共産党員を妻のポジションに潜入させた。パリ以上にこれに成功した場所はなく、共産党はまもなく首都の解放委員会を掌握する。解放委員会はひとつの臨時地域行政体であり、共産党はドゴール派の政府関係者がロンドンから到着する前に、そのすべてを乗っ取ろうとした。

 こうしてフランスの解放に向けた戦闘は様々なグループによる微妙なバランスの上で始まりましたが、その中心が共産主義者だったことを市民は理解していました。ここで重要なのは、共産主義者が数多く犠牲になったことと同時に、犠牲者を多く出してもなお多くの共産主義者はその主張を変えなかったということかもしれません。

「パリはなぜ燃えなかったのか?」
 ドイツの敗色が濃厚になるといち早くナチスはパリから去り、パリを舞台とした戦闘はほとんど行われませんでした。そのおかげで、パリの街は現在の姿を保ったわけです。なぜ、ドイツもまたパリを舞台に戦おうとはしなかったのでしょうか?

 大パリの司令官はこのホテルでヒトラーの参謀本部から、最後の一兵卒になってもパリを死守し、市を「瓦礫の山」にせよと正式な命令を受けとった。パリ市民は不朽の感謝を捧げるべきだが、コルティッツ将軍にはこの命令を実行したい気持ちはなかった。だが、正規軍に降伏できるよう、連合軍にただちに到着してもらう必要があった。もし連合軍が間に合わず、ヒトラーが自分に指示の実行はぐずぐずと引き延ばされていることに気づいたら、ドイツ空軍に命令を下すだろう。
 その夜ようやく、バイマ―の南西20キロの連合軍宿営で、心境が変化する。ひとりの伝令がアイゼンハワー将軍の参謀をなんとか説得した。間髪を入れずにパリに進撃しなければ、恐ろしい虐殺と、場合によっては市の破壊につながるだろう。二晩前にはドゴールの訴えを却下していたアイゼンハワーが今回は説得された。


 こうして8月23日、連合軍のパリへの進軍を開始します。映画「パリは燃えているか」は、この時の状況を描いた作品です。かろうじてパリの街は戦火を逃れることができたのでした。

 ドロンヌがオステルリッツ橋を渡ってセーヌ右岸にいたる以前すでに、その到着の知らせを自転車が広め始めていた。ラジオは司祭たちに教会の鐘を鳴らせと呼びかけた。鐘つきの一団がノートルダム大聖堂の大鐘を鳴らし始めた。ひとつ、またひとつ他の教会の鐘が続き、ついに街中に鐘の音が響き渡った。・・・

<ドゴール勝利の日>
 8月23日がフランス国内軍FFIとルクレール将軍の勝利の日だったとすれば、8月26日土曜日はドゴールの勝利の日でした。

 ドゴールがノートルダムにはいったちょうどそのとき、ふたたび銃声がした。聖堂の外では、FFI集団が塔に向かって発砲し始めた。ユダヤ人小隊は北塔を集中的に狙った。聖堂内では、警官と兵士がドゴールを守ろうとして、隅や天井を狙った。・・・
 この時のことをイギリス軍情報部将校マルコム・マーガリッジはこう回想しています。
「息を呑むような効果だった。全員が起立していた巨大な信徒集団が一斉に床に身を伏せた。例外がひとりいた。独りぼっちの巨人のようにぽつんと立つひとつの姿。もちろんドゴールだった。・・・」
 すべての目がドゴールに釘づけになっていた。ドゴールだけが威厳があり、恐れを知らず、そして手を触れ得ぬように見えた。


 ただし、この事件により、ドゴールはドイツの残党よりも身近にいるFFI兵士の方が自分にとっては危険であることを思い知ります。もし彼らが自分の敵にまわれば・・・どうなるのか。革命を起こしかねない共産主義者を多く抱えるFFIこそ、早く武装解除する必要があると彼は、この時痛感したのでした。

「なぜフランス共産党を革命を起こさなかったのか?」
 パリ解放の時点でフランス国内での左派勢力の力は圧倒的でした。
 1945年、フランス共産党は国内最強の政治組織であり、多数のフロント組織 - 国民戦線、フランス婦人同盟、フランス共和主義青年同盟、退役軍人協会、CGT(労働総同盟)内最大の労組の「ほとんど - を掌握していたのです。
 実際、多くの共産主義者はパリ解放後、革命を起こせると確信していましたが、彼らにとって最大の支持者であるソ連共産党のトップ、スターリンはそれを望んではいなませんでした。なぜなら、その時フランスで革命戦争が始まることはソ連にとって利益とはならなかったからです。もし、西側の連合国がドイツ侵攻を準備している時に、その背後でフランスの政権を奪うような動きをすれば、アメリカとの関係悪化は決定的となり連合軍が分裂するのは明らかだったからです。!
 後から振り返ると、その時期が共産党にとって革命の最大のチャンスでした。しかし、ソ連のバックアップがない状況では、革命は先延ばしにせざるをえず、その間に状況は不利な方向へと変わって行くことになりました。
 1945年10月21日、フランスで新憲法に基ずく総選挙が実施されました。その結果は、共産党が第一党となり159議席を獲得。その他、左派の社会党が146議席、MRP(リベラル派の「人民共和運動」)が152議席となりました。もし、社会党が共産党との合併を受け入れれば、その時点で共産党による政権が誕生することになったのですが、社会党はその申し入れを拒否。そのため三党連立政権が誕生しますが、そのトップに立つことができる人物がいなかったことから、戦時下の英雄であるドゴールを求める声が高まることになりました。こうして彼は共産党と保守派がバランスをとるために選ばれることになりました。
 12月6日、彼はジェファーソン・カフェリーとの会話でこう語っています。
「現在のフランスに、真の力は二つしかない。共産党と私だ。共産党が勝てば、フランスはソビエトの共和国のひとつになるだろう。私が勝てば、フランスは独立を保つだろう」
「誰が勝ちますか?」とカフェリーは尋ねた。
「もし私がとくに国際的な舞台で幸運をつかめば、私が勝つ。もしフランスが陥落すれば、西ヨーロッパのすべての国も陥落する。大陸全体が共産主義になるだろう」


「なぜフランスは復興に成功したのか?」
 この頃、後に「欧州共同体の父」と呼ばれフランスだけでなくヨーロッパの未来を変えることになる人物ジャン・モネが登場します。彼はフランスの近代化、工業化を進めることを提案。ドゴールの支持を得て、計画を進めて行きます。そのためにフランスでは大衆への食料供給や燃料供給などの取り組みは後回しとなり、市民は危機的状況を体験することになります。しかし、1947年にマーシャル・プランがスタートするとフランスは工業国として急速な発展を遂げることになります。
 その逆に戦後、英国ではフランスに比べて市民生活への支援が手厚く行われますが、経済的な近代化、改革はほとんど行われず、それが「英国病」とも言われる長い不況の原因となります。しかし、冬を越すための燃料や食糧にさえ困っていたフランスの大衆にとって、ドゴールの政策は赦せないものでした。

 政権が市民を救うことより、経済の立直しを優先させたことでフランス国内での政権への批判は高まります。そのためドゴールの人気は急落し、大統領の座を追われることになりました。そして、再び総選挙が行われることになります。再び共産党にはチャンスが訪れますが、時代は少しずつ変化し始めていました。
 スターリンによる恐るべき独裁、ユダヤ人迫害の情報が明らかにされることで共産党政権の誕生を恐れる雰囲気が生まれつつあったのです。そんな中、共産党を中心にしたグループがクーデターを計画しているという噂が広がり、アメリカ軍はそれに対抗するための緊急出動の準備を行い始めます。
 一触即発の状況をつくったのは、内戦を起こすことで共産党をつぶそうとたくらんだ軍部と右派政治家のグループだったことが後に明らかになりました。幸いアメリカ軍はこの噂を信じなかったため、内戦の危機はまぬがれました。
 インドシナではフランスからのヴェトナムの独立運動が本格化。この時、ソ連は左派ホー・チ・ミン率いる独立派を支援していたため、フランスの共産党は微妙な立場に立つことになりました。ソ連が応援するホー・チ・ミン派をフランス共産党は、彼らの独立運動を否定できなくなったのです。
「救いとなったマーシャル・プラン」
 1947年6月7日、アメリカの国務長官マーシャル将軍が有名な「マーシャル・プラン」を発表。ヨーロッパへの本格的な支援活動についての検討が始まります。もちろんその支援の条件には、フランスが西側の一員でいるという条件がつきます。
 1949年に入り、マーシャル・プランは本格的に動き出し、5年間で最大170億ドルもの巨費が投入され、ヨーロッパ各国の産業界が救われることになりました。その中でも、フランスはジャン・モネによる「モネ・プラン」と呼ばれた政策のおかげで経済はV字回復をし始めます。勢いを得たモネは、ヨーロッパ経済構想の実現に向けて本格的に動き出します。そのために中心となる国として英国を誘うのですが、フランスに対し明らかに遅れをとっていた英国はその構想への参加を拒否します。そこでフランスは、ヨーロッパ構想のパートナーに復興間もないドイツを選ぶことになります。アメリカもその動きを支持したため、順調にその構想は実現に向かって動き出します。この流れこそ、現在のEU(欧州連合)へとつながることになります。(英国のEU脱退もこの時からすでにあった動きだったとも言えます)

「パリはなぜファッションの中心なのか?」
 パリのファッション業界は19世紀から世界をリードしていましたが、ドイツによるパリの占領によって危機を迎えます。ナチスはパリのファッション業界をそのままドイツに盗み出そうと、有名ブランドのデザイナーと職人たちをベルリンに移させようとしました。ところが、そうした一流ブランドはデザイナーと職人だけで成り立っているのではなく、彼らが使う生地などの素材メーカーや工場の労働者たちなど広い裾野から成り立っていました。結局、ドイツはファッション業界をまるごろと盗み出すことをあきらめました。
 幸いなことに戦争中もパリのファッション業界には、デザイナーや職人たちを経済的に支えるだけの仕事がありました。その発注主は、意外なことにドイツ軍の要人よりも、フランスの富裕層の方が多かったようです。それだけフランスには戦争中も富裕層が多く存在していたということでもありますが、彼らのおかげでファッション業界はその工房と職人の技を戦後すぐにフル回転させられたのでした。戦後の不況下にフランが大幅に下落、そのためにファッション業界はいち早く海外からの外貨を稼ぐことが可能になります。圧倒的なセンスと技術力を武器にフランスのファッション業界はフランス経済復興の中心的役割を果たしてゆくことになります。
 ファッション界は戦争中、富裕層共にいたという意味では戦争責任を問われるべき人物も多かったこともまた事実です。

「戦後フランス最大の危機」
 共産党政権の誕生はどんどん困難になり、代わりにフランスは経済的な発展を進めて行くことになります。政権のトップには右派のドゴールと左派共産党の中間に位置するキリスト教民主主義のポール・ラマディエ率いる連立政権が誕生することになりました。
 そんな中、フランス共産党は妥協の産物としての入閣を拒否したため、いよいよ孤立し始めます。こうして共産党の一部のメンバーは過激化し始め、新たな作戦を取り始めます。彼らはマーシャル・プランによるフランス経済の復興を阻止することで、社会を混乱させその混乱の中、革命を実行しようと考え始めたのです。
 1947年夏、こうしてフランスは戦後最大のピンチを迎えることになります。フランス各地で経済的不満を背景にストライキが本格化。混乱を収めることができなかったラマディエは責任をとって退陣。ロベール・シューマン内閣が誕生します。
 この時、内務大臣のジュール・モックはこう状況を説明しました。
「ストライキが呼びかけられたのは、・・・労働者階級が経済的に真の不満を訴えているからだ。(当時、物価上昇率が平均51%だったのに対し、賃金の上昇は17%にすぎなかった)
 共産党はこの正当な不備を巧みに利用して、全体的な運動を創出した。その運動は明らかに政治的性格をもち、その主要な目的のひとつはアメリカにヨーロッパを援助する気を失わせることである」


 11月28日、ルクレール将軍の乗る飛行機が墜落。この死は共産党によるテロという噂が広がり、政府は予備役の8万人を招集すると発表します。公務員のストライキは、郵便、ゴミ収集、電力供給に広がり、電気だけでなく列車の運行や一部では水道も使えなくなりました。この後、誰がトップに立つことになるのか?もし右派のドゴールがトップに立つことになれば、共産党の勢力は内戦を起こす可能性もありました。
 そんな際どい情況の中、大きな事件が起きます。炭鉱でのストライキを行っていたグループが機動隊を乗せた列車の到着を阻止するために線路を撤去。ところがそのために一般の急行列車が脱線事故を起こします。この事故で一般市民16名が死亡し、30名が重傷を負います。この事故は市民を巻き込んだ悲劇として大きく取り上げられ、共産党内部、ストライキ参加者の間に分裂を生じさせます。
 ここから共産党によるストライキの政治利用が批判されるようになり、多くの労働者がストライキを離れ始めます。
 12月10日、ついに全国的なストライキは終わりを迎えることになりましたが、労働者の不満が解消されたわけではなく一触即発の状況は続きます。

 1948年に入り、共産党は地下に潜り、様々な場所でスパイ行為や業務の妨害活動を行うようになります。政府はそうした活動に対し、共産党がもし関わったとされれば党の非合法化だけでなく幹部の逮捕も辞さないと法的な検討に入ります。さらにはドゴール派が共産党に対する武力攻撃を行えるよう「襲撃部隊」を組織し、フランス各地で武力闘争が起きる事態となります。この時点で、パリはドイツと並ぶ米ソ冷戦の最前線になっていました。

「スターリニズム批判の広がり」
 パリでの共産主義の人気はまだ高かったものの、世界の潮流はスターリニズム批判へと急激に変化しつつありました。
 ベルリンでの東西の分断、チェコにおける民主化の弾圧など、ヨーロッパ各地でのソ連共産党による暴力的な統治が報道され始めたことから、フランス国民の多くが共産党を恐れるようになります。さらにユーゴスラビア独立の英雄であり、共産主義者の憧れの人物だったチトーがスターリンに否定されたことから、多くの共産党員がスターリンを嫌い共産党を離れることになります。(マルグリット・デュラスのそのひとりでした)
 1948年4月、サルトルは自らの戯曲「汚れた手」をジャン・コクトーの演出によって上演します。バルカン半島の某国で展開する共産党内部の権力闘争を描いたその作品には共産党に対する批判が痛烈に込められていました。当時の若者たちにとってアイドル的存在だったサルトルの影響力を恐れた共産党は、アンドレイ・ジダーノフによるサルトル潰しを計画します。ところが、そのジダーノフ自身がスターリンによって殺害される事態となり、スターリンの恐ろしさが世界に知られ始めます。
 1944年、訪米中だったソ連の通商使節団からロシア人技師ヴィクトル・クラフチェンコが亡命。彼は、1946年に回想録となる「私は自由を選んだ」を発表し、大きな話題となります。その中には、スターリンによる強制的な集団農場化の実態と農民たちへの迫害、ウクライナを襲った飢饉などが書かれており、ソ連をユートピア国家と考えてきた共産主義者たちに大きな衝撃を与えました。さらにその本に対する批判を書いたフランスの左派の記者をクラフチェンコが名誉棄損で訴えたことから、法廷に於て、クラフチェンコの本の内容に対する真偽が争われることになりました。
 1949年、パリで行われた裁判により、クラフチェンコは見事に勝利をおさめます。これにより、スターリニズムの恐ろしさが真実であることが裁判によって証明され、共産党のイメージは一気に悪化することになりました。

「ドゴールのその後」
 1958年、アルジェリア独立運動が活発化し、フランス国内も混乱する中、再びドゴールが政権の座につきます。彼は大統領への権力集中を進めようと動きます。しかし、右派の政治家にも関わらずアメリカを信じず、逆にソ連との関係を強めNATO(北大西洋条約機構)からの脱退を実行。1962年は右派の反対を押し切ってアルジェリアの独立を認めるなど、その独自路線は意外にもフランス国内で支持され、1969年まで彼の時代が続くことになりました。
 フランスにおける第二次世界大戦は、英雄ドゴールによって始められましたが、アルジェリアの独立を認めたことで、長いフランスの戦争を終わらせたのもまたドゴールだったとのでした。


「パリ解放 1944-49」 2004年
Paris after the Liberation 1944-1949
(著)アントニー・ビーヴァー、アーテミス・クーパー
(訳)北代美和子

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