「白い黒人 Passing 」

- ネラ・ラーセン Nella Larsen -

<黒人女性文学を代表する作家>
 「パッシング Passing」という原題を「白い黒人」と訳したタイトルに先ず興味をそそられました。そして、本の装丁の怪しい美しさにもひかれ、内容は全く知らずに読みました。この小説が書かれた1929年という年は、大恐慌を翌年にひかえた古き良きアメリカ最後の年です。そして、この小説にも登場するニューヨークのハーレムでは、当時黒人文化の花が咲いており、それは「ハーレム・ルネッサンス」と呼ばれていました。音楽やダンスなどエンターテイメントの分野での黒人たちの活躍はこの時代を象徴するものといえます。ジャズ界のデューク・エリントンやダンサーのジョセフィン・ベイカーは、その代表的存在でしたが、同じ時代、演劇や文学の世界でも黒人たちの活躍は活発化していました。そして、この小説の作者ネラ・ラーセンは、この小説が高く評価されたことで黒人女性として初めてグッゲンハイム財団からの奨学金を得たことで黒人女性文学の歴史に新たな1ページを記すことになりました。その後、彼女の作品はノーベル文学賞作家のトニ・モリソンなどの黒人女性作家たちに大きな影響を与えることにもなります。その影響は今も続き、本書は2006年になって新訳で日本版が出版されています。それは本書が今読んでもまったく古さを感じさせず、今につながる魅力を持ち続けているからだといえるでしょう。それは、この小説が複雑で奥の深い内容をもち、その結末もまた読者によって様々な解釈が可能になっているからであり、今でも読者にその解釈を求め続けているのです。

<パッシングとは?>
 先ずは、この小説の主題ともいえる「パッシング」とは何か、それが生まれた背景を知る必要があるでしょう。アメリカにおいて「黒人=アフロ・アメリカン」とは、どう定義されるかご存知でしょうか?意外なことに、アメリカではアフロ・アメリカンの血が1/2どころか1/8でも1/16でも「黒人」の血が混じってさえいれば、「黒人」として人種分類されてしまうということです。本人がどんなに白人のように皮膚の色が白くても先祖の中に一人でも黒人がいたことが明らかになればそれで彼は黒人と見なされるのです。現在ではもちろん人種による差別は公上はなくなったのですが、それでも差別は存在し続けています。(法的にも人種による分類は戸籍上今でも行われています)まして、この小説が発表された時代は公民権法もまだなく、法的に差別というものが存在していました。
 アメリカという移民国家の場合、それぞれの国民のルーツをたどるのはせいぜい3世代ぐらいまでで、そこに黒人の血が混じっているかどうかを確認するのはかなり困難なことです。そのため、見た目が白人に近い人々の中には、生きるために有利な「白人」として生きる道を選択する「黒人」も相当数いても不思議はありませんでした。さらに、そうした白人と黒人の混血として生まれた人の中には、かつて黒人奴隷を白人の奴隷主がレイプしたことが原因で生まれた望まれない子供も多く存在したいました。そのため、彼らのほとんどは親がわからないまま育ち、中には白人として育てられてられる子供もいました。
 人種差別が合法的だった当時は、黒人たちの間でも「白人」への憧れは一般的で、多くの黒人たちが自分の皮膚を白くしようとしたり、髪の毛をストレートにしようとしていました。黒人解放運動の闘士マルコムXも、かつて青春時代には、白人に近づこうと美白に熱心だったことが知られています。そうした黒人たちの「白人化信仰」はその後も続き、今でも無くなったわけではありません。(ジャクソン5でデビューした当時のマイケル・ジャクソンと死ぬ間際のマイケルの肌の色の違いは驚くほどです)
 こうして、白人への憧れが「パッシング Passing」という「人種詐称」ともいえる行為を生み出しましたが、それは自ら「黒人」として誇り高く生きようとしていた人々にとって、まさに裏切り行為でした。それは自ら白人に仕える道を選んだお人好しの黒人「アンクル・トム」以上に嫌悪される存在でした。
 しかし、この小説で描かれているのは単なる「パッシング」批判ではなさそうです。それはもうひとつの差別についての「パッシング」について書かれた作品だったのではないか?最近では、そちらの方も重要視されるようになっています。それは「同性愛」に対する差別についてです。

<著者ネラ・ラーセン>
 この小説の著者ネラ・ラーセン Nella Larsen は、1891年シカゴで生まれています。彼女はデンマーク人すなわち白人の母親と黒人の父親の間に生まれた混血の少女でした。ところが、父親は彼女が幼いうちに死んでしまい、母親は別の白人男性と再婚します。新しい父親とうまくゆかなかった彼女は、人種的には黒人でありながら両親は白人という特異な立場で育つことになりました。経済的には恵まれていた彼女は黒人大学の名門、フィスク大学を卒業した後、ニューヨークに出て看護学校に入学しました。この時期のニューヨークでの体験が彼女のその後の人生を大きく変えることになります。時代はハーレム・ルネッサンスの真っ只中、彼女は看護師としてしばらく働いた後、図書館で働きながら作家を目指すようになりました。
 1927年に彼女が発表した小説「流砂」は、自らの生い立ちや自分の体験に基づいた自伝的な内容で、批評家からも高く評価されました。そして、1929年彼女は本書を発表。さらに3作目の作品「サンクチュアリ Sanctuary」を発表しますが、これがシーラ・ケイスミスの著書「アディス夫人 Mrs.Adith」の盗作ではないかという嫌疑をかけられてしまいます。結局、この疑いは晴らされたのですが、この事件以後、彼女は作家活動を停止し、ブルックリンの病院で看護師として働き作家活動から隠退してしまいました。その後、彼女は看護師として人生をまっとうし、1946年73歳で忘れられた存在としてこの世を去りました。
 わずか3作しか作品を残さず、引退後30年にわたり彼女はどんな人生を送ったのか?
 公民権運動が盛り上がりをみせる中、彼女はどんな思いを描き続けていたのか?非常に気になるところです。

<同性愛というタブー>
 アイリーンは、なぜパッシングという裏切り行為を行うことで富と名誉を労せづして手に入れたクレアを受け入れてしまったのか?二度と会わないつもりだったクレアが、突然アイリーンの家にやって来た時、こんな描写があります。

「クレアはノックもせずに静かに部屋に入ってきて、アイリーンが挨拶をするよりも早く、彼女の黒いカールした髪にキスをしたのだ。
 目の前にいる女性を見ていると、アイリーン・レッドフィールドの中に、説明できないが、溢れんばかりの愛情が突如こみあげた。手を伸ばしてクレアの両手を握りしめ、畏怖のようなものを声にこめて叫んだ。『驚いたわ。だけど、あなたはなんて美しいのかしら、クレア』・・・」


 こうしたセクシーで魅力的な文章は、同性愛者でなければ描けないかもしれません。こうして、二人の間に「同性愛」の存在が見えてくると、この小説は黒人への人種差別に対する「パッシング」だけでなく「同性愛」に対する差別に対する「パッシング」をも描いた作品であることにも気付かされることになります。(小説の中で、アイリーンは夫と別々のベッドで寝ていることも描かれていて、夫婦の関係は無かったと思われます)
 もし、クレアが黒人であることがバレてしまい夫婦関係が崩壊してしまったら、クレアは自分の夫を奪うかもしれない・・・そうアイリーンは考えたと書かれていますが、潜在意識の中で彼女が恐れていたのは、実はクレアが自由になることで自分がクレアへの愛情を抑えきれなくなるのではないか?という心配だったのかもしれません。こうして、ラストの思わぬ悲劇が生まれることになるのです。誰がクレアを死に追いやったのか?

<アメリカにおける同性愛>
 当時、アメリカにおける同性愛者に対する差別は、黒人への人種差別以上に厳しいものでした。そのため、人種差別問題について批判することはできても、同性愛への差別を批判することはタブーでした。自分が同性愛者であることがわかれば、仕事も失い、人間関係すべてを失いかねない、それほど厳しいのが当時の状況でした。そのために、多く人々が自らが同性愛者であることを隠しながら人生を送っていました。(この時代では、アメリカン・ポップスの原点ともいえる作曲家コール・ポーターが有名です)
(注)同性愛に対してキリスト教圏の人々が厳しいのは、聖書の中に「同性愛者」を死罪にすべきという記述があるからです。
「女と寝るように男と寝る者は、両親共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪にあたる。・・・」
旧約聖書レビ記第20章13節

 こうした当時の状況を考えると、この本の著者が盗作疑惑が晴れた後もなお作家活動に復帰しなかったのは、こうした同性愛の問題もからんでいたのではないのか?そんなことを思わずにはいられません。彼女の長い長い沈黙は、この小説の謎に満ちた結末と同様、読者に永遠の謎を残したといえるでしょう。

<あらすじ>
 ニューヨークで医師として成功している夫と子供たちとともに生活している黒人女性アイリーンは、ある日シカゴの街で幼ななじみのクレアと出会います。お互いに近況を報告するうちに、クレアが白人男性と結婚していることを知らされたアイリーンは、彼女が「パッシング」によって白人男性と結婚したことに気付きます。クレアの行為を許せなかったにも関わらず、彼女の魅力にひかれるアイリーンは、彼女の家を訪れます。すると、妻もアイリーンも白人だと思っている夫は、平然と黒人への差別的な発言を繰り返します。ショックを受けたアイリーンは、二度と彼女とは会うまいと決意します。
 ところが、ある日彼女がニューヨークの家に現れます。彼女との再会を受け入れてしまったアイリーンは、いつの間にか家族の中にまで彼女を受け入れてしまいます。知性的ではないものの、何よりも魅力的な美貌をもつ彼女はすぐに周りの人々にも受け入れられるようになります。そして、アイリーンは夫までもが彼女の魅力にひきつけられていることに気付き、二人の関係をも疑うようになってゆきます。
 ところが、そんなある日、アイリーンはシカゴの街中で偶然、友人と歩いていてクレアの夫と出会ってしまいます。黒人と仲良く歩いている自分を見て、彼はアイリーンが黒人であると知り、そこからクレアもまた黒人かもしれないと疑うのではないか?
 そして、この心配はついに本当のことになってしまいます。

<追記>
 この小説の映画化はどうでしょう。
「ハーレム・ルネッサンス」時代のニューヨークの賑わい。
怪しいまでのクレアの美しさ。(やはりクレアはハル・ベリーでしょうか?タンディ・ニュートンがアイリーンとか)
ラストの衝撃的な展開は盛り上がるはずです。
デューク・エリントンなど、当時のジャズ・シーンの再現も見所でしょう。
文学界の一場面として、現在のヒップホップにもつながる「ポエトリー・リーディング」の場面も入れるべきでしょう。
監督はどうしましょう?女性の美しさを描くのですから、スパイク・リーというわけにはいかないですし・・・。

「白い黒人 Passing 」 1929年
(著)ネラ・ラーセン Nella Larsen
(訳)植野達郎
春風社

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