- パティ・スミス Patti Smith(後編) -

<デビュー・アルバム>
 1975年8月、いよいよデビュー・アルバムの録音が始まりました。プロデューサーには、彼女が憧れていたバンドのひとつヴェルヴェット・アンダーグラウンドの奇才、ジョン・ケイルが当たることになりました。(ただしパティ自身は、ジョン・ケイルのプロデュースに不満だったようです)
 後に歴史的アルバム・ジャケットとして有名になるアルバムの写真は、彼女の盟友メイプルソープが担当。アリスタ・レコードは、このアルバムの宣伝に力を入れ、マスコミも大きく取り上げてくれたこともあり、このアルバムは11月に発売されるとすぐにチャートを登り始めました。(ちなみに、このアルバムからはシングル・カットはありませんでした)

<1975年という年>
 このアルバム「ホーセスHorses」が発表された1975年は、ロックの歴史において、かなり寂しい年でした。
「ヴィーナス・アンド・マース Venus and Mars」 ウイングス Wings
「闇夜のヘビーロック Toys In the Attic」 エアロスミス Aerosmith
「The Original Sound Track」 10CC
「Blues For Allah」 グレイトフル・デッド Grateful Dead
「ブロウ・バイ・ブロウ Blow by Blow」 ジェフ・ベック Jeff Beck
「ダウン・バイ・ザ・ジェッティー Down by the Jetty」 Dr.Feelgood
「南十字星 Northern Lights-Southern Cross」 ザ・バンド The Band
「時の流れに Still Crazy After All These Years」 ポール・サイモン Paul Simon
「血の轍 Blood On the Tracks」 ボブ・ディラン Bob Dylan
 代表作はこんなところでしょうか。ほとんどがベテランもしくはフュージョン系ロックの作品が中心でした。若手で新鮮な音を出していたのは、10CC、ドクター・フィールグッドぐらいで、ラモーンズセックス・ピストルズなど、パンク系のアーティストは、まだほとんど登場していませんでした。そのうえ、ザ・バンドの解散やイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」の発表などの事件も、まだ先のことでした。(翌年)ロックは限りなく「死に体」に近かったと言えるでしょう。それだけに「ホーセス」の登場は衝撃的だったわけです。

<60年代ロック・スタイル>
 彼女はもともと詩の朗読だけで人々を感動させることができるアーティストです。それだけに、音楽的に余計な飾りは必要なく、60年代のシンプルなロック・スタイルを選択するのは当然のことでした。彼女は60年代後半にピークを迎えたジミ・ヘンドアーズヴェルヴェット・アンダーグラウンドらのサイケデリックなロックを彼女独特の詩と結びつけることで、まったく新しい音楽を作り出したのです。
 彼女はそんな自分の音楽スタイルについて、こう言っています。
「・・・パフォーマーとしての私の家系はロックン・ロールにあるわ。私の家系を否定するんじゃなく、そのルーツをつかんでいたいのよ。私の枝からつぼみが咲いて・・・他の木へと種がまかれるの。・・・」
 さらに彼女は自分が青春時代を過ごした60年代についての思いをこう語っています。
「・・・60年代になって人々はもっと柔軟になって、教会とか社会秩序とかそんなくだらないものにとらわれることなく、身軽に何でもするようになったわ。そうよ、60年代は皆そうだったわ。全てがグレイトで・・・ヘンドリクス、モリスン、、彼らが死んだのは神が再び塔を倒したようなものだったわ。全てが消え去ってしまいました。だから私たちはもう一度始めなければならないの。昔は進化するのに何千年もかかったけど、今じゃ十年ごとに進化しているの。今がその時よ。何かが起こらなきゃいけないし、何かをしなくちゃいけない、そう思って私たちは行動しているの。・・・」
 なんという確信、なんという強い意志でしょう。しかし、彼女の60年代に対する思いは、彼女自身の人生の変化と深く結びついているように思われます。田舎町で工場に閉じこめられ、とらわれの人生を送っていた彼女が、ニューヨークの街に出て、自らの才能を思う存分発揮できるようになったその過程は、アメリカの多くの若者たちにとっての60年代体験を濃縮したものだったのではないでしょうか。

<「ラジオ・エチオピア」>
 マスコミや評論家、そしてファンから絶賛の声が寄せられる中、すぐに彼女はセカンド・アルバムの製作にかかります。そして、翌1976年セカンド・アルバム「ラジオ・エチオピア」が発表されます。このアルバムはファーストに比べ、よりヘヴィー・メタルなロック・サウンドとなっていました。しかし、そのノイジーさと前衛的な作りのせいかアルバムの評価は割れ、売上も落ちてしまいました。このアルバムは今聴いてみると、早すぎたグランジ・アルバムだったのかもしれないと思わせる内容です。しかし、まわりのそんな評価には関係なく、彼女自身はパワー全開で活動を続けます。しかし、そんな彼女の勢いは突然の事故によって断ち切られてしまいます。

<アクシデント、そして復活>
 1977年1月23日、彼女はボブ・シーガー&ヒズ・シルバー・バレット・バンドの前座をつとめました。ところがこのライブの最中、彼女は舞台から4メートル下の床に落下。頭に傷を負っただけでなく、首にもダメージを受け、復帰後も長く後遺症に悩まされることになったのです。
 バンドは解散され、この間彼女はベッドの上で詩作に没頭、詩集「バベル」(1978)を書き上げました。(残念ながら、英語力が足りない僕には、詩人パティ・スミスを理解することは困難なようです)
 その後、退院するとすぐ彼女はサード・アルバムの制作にかかります。前作があまりに売れなかったこともあり、アリスタはなんとか売れるアルバムになることを願っていました。そこで、アルバム中の一曲「ビコーズ・ザ・ナイト Because The Night」を当時いよいよ人気が爆発しつつあったブルース・スプリングスティーンとの共作曲とするようお膳立てをしました。この企画はパティにとって不満の残るものでしたが見事にシングル・ヒット、アルバム「イースター Easter」もヒットチャートを登り「ホーセス」以上のヒットとなりました。時代はいよいよパンク・ブームを迎えようとしており、彼女は「パンクの女王」として受け入れられようとしていました。
 本人も見事に怪我から復帰し、音楽的にも新しい恋人元MC5のギタリスト、フレッド”ソニック”スミスの協力を得て新たな展開を見せようとしていました。

<伝説のパンク・バンド、MC5>
 MC5は、デトロイトのロック・バンドで、イギー・ポップが在籍していたストゥージズとともにパンクの原点として語られる伝説的存在です。ストゥージズが暴力的、退廃的な音楽だったのに対し、MC5は超左翼的、革命的、前衛的なバンドで、60年代末の政治運動に最も深く関わっていたバンドでもありました。もちろん、MC5は彼女にとって憧れの存在のひとつでした。
 MC5はデトロイトの中学に通っていたウエイン・クレイマーが友人たちとともに作ったバンドがもとになっています。全員がデトロイトに集中していた自動車産業に関わる労働者の子供で、当時のベトナム反戦運動や公民権運動と呼応しながら過激な政治主張とガレージ・ロック、そして前衛的音楽の要素を融合させた独自のサウンドを生み出しました。
 1965年に完成したバンドのメンバーは、ロブ・タイナー(Vo)、ウエイン・クレイマー(Gui)、フレッド・スミス(R Gui)、マイケル・デイヴィス(Bass)、ダニー・トンプソン(Dr)
 1967年に音楽評論家でありラジオ番組のプロデューサーだったジョン・シンクレアが彼らのマネージャーとなります。過激な左翼思想家でもあったシンクレアの影響もあり、彼らのサウンドはより影響力をもつようになります。
 エレクトラの契約した彼らは、1969年満を持してアルバム「Kick Out The Jams」で全米デビューを飾ります。今や名盤として名高いデビュー作ですが、歌詞の過激さについて発売元のエレクトラともめることになり、彼らはすぐにアトランティックに移籍します。その後、アルバム「バック・イン・ザUSA」(1970年)、「ハイ・タイム」(1971年)を発表します。しかし、その時点ですでに60年代の「暑い時代」は終わりをつげており、70年代の「しらけた時代」が始まっていました。ロックもそれにならうかのように「優しい時代」を迎え、彼らの過激なアジテーションは時代の中ですっかり浮き上がってしまいました。
 政治的主張が激しかったぶん、人気を失った彼らへの風当たりは強く、どのレーベルも彼らを相手にしなくなります。こうして、彼らは1972年あっさりと解散してしまいました。こうして、活動期間が短かったことが彼らの存在を伝説化しているのかもしれません。

<パティ・スミスのサウンド>
 パティ・スミスをパンクの原点ととらえる人は多いかもしれません。しかし、よくよく彼女のことを知ると、パンクっぽい彼女のサウンドはたまたま回りの音楽と似ていただけだったのかもしれないと思えてきます。ウディ・ガスリーからボブ・ディランそしてドアーズやジミ・ヘンへと受け継がれたロックの歴史を継承する正統派のロック、それが彼女の音楽だったのではないでしょうか。
 その意味では、彼女や同じニューヨーク・パンク界のトーキング・ヘッズらの音楽は、すでにパンクの枠をはみ出していたと言えるのでしょう。

<パティのアイドルたち>
 実は、彼女はもともと自分のアイドルたちの愛人になることが夢でした。グルーピーという奴です。しかし、いつしか自分自身がそのアイドルたちと同じ道を歩むことになっていったのです。そんな彼女のアイドルたちの名をもう一度あげてみると、・・・。
 美術界では、モディリアニやアンディー・ウォーホル。音楽界では、ブライアン・ジョーンズ、ボブ・ディランジャニスジミ・ヘンヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ジム・モリソン。詩や小説の世界では、ランボー、ボードレール、ウイリアム・バロウズ、ジャン・ジュネ、ジャック・ケルアック、ジョージア・オキーフ、ジョルジュ・バタイユ、アレン・ギンズバーグ。映画界ではジャン・リュック・ゴダール、それにダライ・ラマ・・・。
 しかし、彼女のアイドルは男たちだけではありませんでした。彼女のアイドルだった男性たちの愛人たち、もしくは取り巻きの女性たちもまた彼女にとって重要なアイドルだったのです。
 モディリアニの愛人ジャンヌ・エビュテルヌ、アンディ・ウォーホルの取り巻きの一人イーディ・セジウィック、ゴダールの愛人でもあった女優のアンナ・カリーナとカリスマ的なフランスの女優ジャンヌ・モロー、ストーンズの取り巻きから大物女性ロック・アーティストにまで登りつめたマリアンヌ・フェイスフルなど、彼女たちはヒーローたちの取り巻きからスタートし、見事に自分たちの地位を築き上げたヒロインであり、彼女にとっての目標でもあったのです。
 彼女が自らアイドルたちの仲間入りを果たすことができたのは、もちろん彼女自身の才能のなせる技でしたが、彼女に助言を与えてくれた愛人、友人たちの存在も忘れるわけには行かないでしょう。ロバート・メイプルソープ、サム・シェパード、アラン・レニアー、フレッド・スミスだけでなく、多くの人々が彼女の才能を認めて、チャンスを与えてくれたのです。 

<パティ自らが決めた引退>
 こうして、彼女はアーティストとして、いよいよ絶頂期を迎えようとしていました。ところが、この時彼女は自らその活動にピリオドを打つ決意を固めていたのです。それは転落事故の後遺症と厳しいツアー生活から来る疲れ、ロック・ミュージシャンとしてやるべきことはやったという満足感、そして何より愛する人、フレッド・スミスと生活し、その子供を育てるという新しい生活を求めた結果の選択でした。
 4枚目のアルバム「ウェイブ Wave」(1979年)は、彼女がこの決断をした後で録音された作品でした。アルバム・ジャケットの彼女の白い衣装も、そう考えるとウエディング・ドレスのようにも見えますし、実際このアルバムにはしっかりとフレッド・スミスに捧げると書かれているのです。
 このアルバムのプロデューサー、トッド・ラングレンと彼女の信頼関係は強かったようで、アルバムの制作中、トッドは珍しくほとんど口出しをせず、アドバイザー役に徹していたそうです。XTCのアンディー・パートリッジだけでなく、多くのアーティストたちがプロデューサー、トッドとアルバムの制作中に衝突しています。それは、多くの傑作を生んだ天才プロデューサーにとって仕方のないことだったのかもしれません。それだけに彼女とトッドの関係は以外です。なんとこの時、引退を決意したことはバンドのメンバーには秘密だったもののプロデューサーのトッド・ラングレンにだけはうち明けられていたそうです。

<ラスト・アルバム「ウェイブ WAVE」>
 アルバム「ウェイブ」は、ポップなアルバムを作る名人であるトッドのおかげもあり、「ホーセス」ほどインパクトの強い作品ではないものの、彼女にとって最大のヒット作となりました。そのものずばりフレッド・スミスのことを歌ったシングル「フレッド」もヒットしました。
 こうして彼女はいよいよパンクの女王として人気の頂点に立ちながら、ジャン・ジュネやランボーと同じようにそのキャリアの頂点で自らの地位を捨て去ったのです。
 1983年、彼女が36歳の時に二人の最初の子供、ジャクソンが生まれ、いよいよ彼女は母親としての生活に集中するようになりました。しかし、この間も詩作は続けられており、けっして母親業に専念していたわけではありません。詩人としての彼女の仕事を僕の英語力では評価不能なのが残念です。
 しかし、経済的には彼女にとって仕事が必要になりつつありました。夫がミュージシャンとして活躍しているわけではなく、詩人としての収入や過去のアルバムの印税では生活が厳しくなるのは明らかでした。もちろん、彼女に対する回りの期待も消えてはいませんでした。こうして、二人目の子ジェシーを出産した1988年、彼女は再び音楽活動を再開、久々のアルバム「ドリーム・オブ・ライフ Dream of Life」を発表します。しかし、この時の活動再開は残念ながら中途半端なものでした。アルバムは発表したものの、いっさいライブ活動は行われず、シングル「ピープル・ハブ・ザ・パワー」は素晴らしかったものの、アルバムの評価も売上も今ひとつでした。この時のアルバムに盟友であるギタリストのレニー・ケイが不在だったことが、影響を与えていたのかもしれません。
 この結果について彼女はそう悲観してはいなかったようですが、その後始まる度重なる不幸によって彼女はどん底まで追い込まれることになってしまいます。

<試練の時>
 それは1989年3月9日に長年の友人だったメイプルソープがHIVとの長い闘いを終えて、この世を去ったのが始まりでした。続く1990年6月3日、バンドのメンバーだった、リチャード・ソウルが突然心臓発作でこの世を去りました。1994年、度重なる不幸のショックから立ち直るべく、彼女は久々のアルバムを準備し始めます。そころが、その直後11月4日に最愛の夫であるフレッド・スミスがやはり突然の心臓発作でこの世を去ってしまったのです。災いはそれだけではすみませんでした。さらに追い打ちをかけるように、この年の暮れには彼女の弟であり、バンドのロード・マネージャーでもあったトッドもまた脳溢血でこの世を去ってしまったのです。
 ショックに打ちのめされた彼女はアルバムの録音を継続することができず、すべての活動を休止してしまいます。

<どん底からの生還>
 そんなどん底状態の彼女を救い出したのは、なんと彼女にとっての長年のアイドル、ボブ・ディランでした。彼が自分のコンサート・ツアーの前座に出演しないかと声をかけてくれたのです。何かをやらなければならないという思いから、彼女はディランの「パラダイス・ロスト・ツアー」にこうして参加することになりました。(ツアーの名は実に皮肉なものでしたが・・・)
 自分にとってのヒーローと同じ舞台に立てたこと、そして「歌う」と言うことがいかに自分にとって重要かを再認識することで、彼女は再び立ち上がる決意を固めました。
 彼女はニューアルバムの録音を再開し、1996年ついにアルバム「ゴーン・アゲイン Gone Again」を発表します。このアルバムは、タイトル、ジャケット、そこに収められた音楽、そのどれもが悲しみにあふれたものでした。しかし、それは避けて通れない過程であり、その作品は確かに多くの人々の心を打ちました。
 若くして世を去り伝説となったアーティストは数多く存在します。しかし、その伝説を自らの作品の中に甦らせたることは、そう簡単にはできません。パティ・スミスというアーティストは、それを見事にそれをやり遂げた数少ない天才と言えるでしょう。しかし、こうしてつかんだ栄光に対して、神はあまりに厳しい代償を与えました。そして、そこから立ち上がることで、彼女は生きながら自らが神話の主人公になったと言えるのかもしれません。

<締めのお言葉>
「神話は生かされるべきです。それを生かすことのできる人は、なんらかの種類の芸術家です。芸術家の役割は環境と世界との神話化です」

ジョーゼフ・キャンベル著「神話の世界」より

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