- ポール・バターフィールド・ブルース・バンド
The Paul Betterfield Blues Band -

<アメリカ人の知らないアメリカの音楽>
 1960年代、英国からやって来たブリティッシュ・インベイジョンの波がアメリカを襲ったとき、ほとんどのアメリカの若者たちにとって、ビートルズやストーンズのアイドルだったブルース系アーティストたちは未知の存在でした。当時、音楽業界においての「ブルース」は、あくまで黒人たちを購買層とする特殊な音楽であり、だからこそそれらブルース系のレコードを40年代までは、レイス・レコード(Raceとは、人種、民族のこと)と呼んでいたくらいなのです。
 ところが、そんな人種分離政策などまったく関係ないイギリスの若者たちにとって、ブルースやR&Bは、最高に格好良い音楽でした。だからこそ、ビートルズ、ストーンズ、キンクスらのバンドは皆、そんなブルース、R&Bのカバーからスタートしたのです。

<例外的アメリカ人の存在>
 そんなわけで、アメリカの多くの若者たちは、イギリスからの逆輸入というかたちで、自らのブルース、R&Bと出会うことになったわけです。
 しかし、そうは言っても、ブルースの故郷アメリカは巨大な国です。例外的な白人の若者も中にはいました。その中の一人が、白人ブルース・ハープの第一人者と呼ばれ、アメリカにおけるブルース・ロックの先駆者となったポール・バターフィールドです。

<ボーン・イン・シカゴ>
 ポール・バターフィールドは、1942年12月17日イリノイ州のシカゴに生まれました。シカゴ生まれのシカゴ育ちで、白人でありながらブルースにどっぷりとつかる青春時代を送ったようです。(まるで、ブルース・ブラザースみたいに・・・)当時のシカゴは、まさにシカゴ・ブルースの黄金時代であり、ポールはそこで、マディー・ウォーターズリトル・ウォルターウィリー・ディクソンバディー・ガイら、ブルースの巨人たちの演奏を聴き本物のブルースを身につけて行きました。

<メンバーとの出会い>
 彼はシカゴ大学在学中にマイク・ブルームフィールド(1944年7月28日生まれ)、エルヴィン・ビショップと出会い意気投合、1965年23歳の時、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドを結成しました。結成時のメンバーは、ポール(Vo,Harp)、マイク(Read Guit.)、エルヴィン(Rhy.Guit.)、マーク・ナフタリン(Organ)、ジェローム・アーノルド(Bass)、サム・レイ(Drams)の6人でした。
 このうち、リズムの要とも言えるベースとドラムスの二人は、黒人でした。白人のブルース・バンド自体が珍しかった時代に、メンバーに黒人を加えるというのは、まさに画期的なことでした。(ついでに言うと、エルヴィンはオクラホマ州タルサ、サム・レイはアラバマ州バーミングハムの出身ということで、南部の血も混じっていたことになります)当時の混沌とした社会情勢の中、黒人を差別する体制が残る中で、このバンド構成を実現してしまったことこそ、歴史に残るブルース・ロック・バンドが生まれる原因だったのかもしれません。

<フォーク界の異端児>
 当時ブルースを演奏するアーティストは、ロックのフィールドではなくフォークのフィールドで演奏するのがほとんどでした。1960年代のフォーク・ブームは、白人フォークのルーツのひとつとも言えるブルースにも光を当てることとなり、多くのブルース・ミュージシャンたちに活躍の機会をあたえることになったからです。しかし、それはあくまでもトラディショナルなブルースを掘り起こすことが中心目的だったため、現代的なエレクトリック・ブルースはその対象外となっていました。
 そんな中、シカゴでも有名になりつつあったポールのバンドは、ロードアイランドで行われたニューポート・フォーク・フェスティバルへの出演を依頼されます。1965年7月、彼らはフェスティバルに出演しますが、多くのフォーク・ファンは彼らのエレクトリック・ブルースに対して非難のヤジをあびせました。
 しかし、この時彼らの演奏を聴いて大きなショックを受けた人物がいました。それがボブ・ディランでした。彼は、すぐにポールに声をかけ自分のステージのバックで演奏してくれるよう依頼します。そして、あの伝説のライブが生まれたのです!(1965年のページを参照下さい)

<デビュー!>
 1966年彼らは、デビュー・アルバム「ポール・バターフィールド・ブルース・バンド」を発表。ほとんどがブルースのカバー曲でしたが、ブルース・ハープの神様リトル・ウォルター直伝のポールのハープ(ハーモニカ)とロックのもつパワーをブルースに持ち込んだマイクのギターという二枚カンバンのおかげで、一躍彼らの名前は全国区になりました。
 フィルモアなどでも活躍しながら、彼らはさらにその音楽を成長させて行きます。ドラムス担当はレイからビリー・ダヴェンポートに代わり、シカゴ・ブルースの模倣だったサウンドはしだいにロック色を強め、インプロヴィゼーション的な要素やエスニック(インド風)なメロディーなど時代の最先端へと進んで行きました。そして、そんな彼らの代表作で同じ年に発売されたアルバム"East West"のタイトル曲は、前述の要素がすべて盛り込まれた13分にもわたる大作でした。それは、彼らの代表作であるだけでなく、当時ウェスト・コーストで活動を始めていたグレイトフル・デッドのようなインプロヴィゼーションを重視するバンドに大きな影響を与えることにもなります。

<バンドの分裂>
 しかし、メンバーの目指す方向性が一致していたのは、残念ながらここまででした。あくまでもブルースの王道にこだわるポールとより新しいスタイルを求めるマイクの溝は、しだいに広がり、1967年ついにマイクはバンドを去り、独自のブルース・ロックを目指して、エレクトリック・フラッグをスタートさせます。(そして、その後アル・クーパーと伝説のジョイント・アルバムを作ることになります)
 それに対して、ポールもまた新しい動きをみせました。バンドにホーン・セクションを加え、よりR&B的なバンドへと転換をはかったのです。1968年のアルバム「ピグボーイ・クラブ・ショー The Resurrection Of Pigboy Show」は、その結果として生まれた作品でした。彼らの方向性は、後にブームとなるブラッド・スウェット&ティアーズシカゴらのブラスロックを先取りしていたと言えます。しかし、残念ながらポールのブルース指向が、それを中途半端なものにしてしまったため、大きな成果を生み出すことはできませんでした。(面白いことに、B.S&Tがブレイクしたのも、ブルースにこだわり続けたアル・クーパーが抜けた後でした)
 結局この年、リード・ギターを担当していたエルヴィン・ビショップもバンドを脱退しました。彼もまた、ソロになることで彼独自の自由奔放なギター・スタイルを確立し、"Let It Flow"(1974年)"Struttin' My Stuff"(1975年)などのご機嫌なギター・アルバムを発表しています。

<その後の活動>
 バンドは、1969年にアルバム「キープ・オン・ムーヴィング」を発表しますが、その時すでにオリジナルのメンバーは、ポールだけになっていました。ついに、1971年バンドは解散し、ポールはニューヨーク州北部のウッドストックに移住、そこで活動を続けて行きます。特に、同じようにウッドストックを根城とするザ・バンドのメンバーとは関わりが深く、ソロ・アルバム「プット・イット・イン・ユア・イヤー」(1976年)ではバックを担当してもらい、逆にザ・バンドの「ラスト・ワルツ」(1976年)では、彼がゲスト出演しています。
 1981年のザ・バンド解散後には、レボン・ヘルムリック・ダンコとともにダンコ・バターフィールド・バンドを結成しましたがまったく話題にならず、その後数年間、病の床につき音楽活動から離れることになりました。それでも、彼はそんなどん底の生活から復活し、復帰アルバムとして「ライズ・アゲイン The Legendary Paul Butterfield Rides」(1986年)を発表し意地をみせます。
 しかし、残念ながら時代はもう彼に微笑んでくれることはありませんでした。1987年、彼は1人寂しくアパートの一室で息をひきとりました。死因は薬物の過剰摂取だったと言われています。

<ブルース・ロックの伝説となった男>
 考えてみると、今や遙か彼方の伝説と化したウッドストック・コンサート(1969年)とロックの時代の終焉と言われた伝説のコンサート「ラスト・ワルツ」、この両方のライブ・アルバムに収められているアーティストは、ポール・バターフィールドだけです。しかし、残念なことに70年代以降の彼の人生は、彼が師と仰いだブルースの巨人たち以上に不遇だったといえるでしょう。1987年ノース・ハリウッドのアパートでひとりぼっちの死を迎えた時、彼はまだ44歳でした。悪魔に魂を売ってしまったブルース・マンには、やはり幸福な死は似合わないのでしょうか・・・。
 しかし、バーズがフォークからフォーク・ロックへのつなぎ目の役割りを果たしたように、彼はブルースからブルース・ロックへのつなぎ目として重要な役割を果たしたと言えるでしょう。彼こそ、誰よりもブルースを愛した白人ブルース・マンなのかもしれません。

<締めのお言葉>
「ブルースの底にあるのは、誰かの人生だ。それが、他人の心を打つんだ。愛もそこから出て来るんだ」ジュニア・パーカー

チャールズ・カイル著「都市の黒人ブルース」より

ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページヘ