- ポール・マッカートニー Paul McCartney -

<最初のビートルズ>
 僕が洋楽を聞き出した頃、すでにビートルズは解散していました。そのため、僕にとってのビートルズ体験はそれぞれのアーティストのソロ作との出会いから始ったといえます。そして、最初にファンになったのがポール・マッカートニーでした。特に彼の5枚目のアルバム「バンド・オン・ザ・ラン」は本当にすり切れるほど聴いたレコードです。
 しかし、その後大人になったロックをさかのぼって聞き出すと、しだいにジョン・レノンの生き方と音楽の魅力にひかれるようになり、その分ポールに対する思いは小さなものになってゆきました。ジョンが非業の死をとげてからは、いよいよその思いが強まり、ビートルズ=ジョン・レノンとさえ思えるようになりました。未だ60年代のロックにこだわりをもつ人の中には同じような思いをもつ方も多いのではないでしょうか。ビートルズ時代から常にジョンと比較され、彼が死んでもなおジョンの影響から逃れられなかったポールは、そのことで常にプレッシャーを感じていたのかもしれません。
 彼の中では、常にジョンに対するライバル意識があり、それは解散後のソロ活動におけるモチベーションにもつながっていたはずです。そんなポールのソロ活動を振り返ってみたいと思います。

<ビートルズ解散>
 ビートルズが解散した直接の原因は、ポールが自ら脱退したためといわれています。しかし、その時すでにジョンはオノ・ヨーコとの活動に力を入れており、解散は必然だったといえます。他のメンバーやマスコミ、ファンと同様にポールもまたオノ・ヨーコの存在を強く意識していたのは間違いなく、そのために彼の初ソロ・シングル「アナザー・デイ」(1970年)には共作者として、あえて彼の妻リンダの名が書かれていたのだともいわれています。そして、アルバム「ラム」(1971年)もまたポール&リンダ名義として発表されています。
 そう考えると、オノ・ヨーコとライバル視されることことを運命づけられ、カメラマンのくせにミュージシャンとしてはどうなの?と疑い深い目で見られ続けたリンダ・マッカートニーもまた厳しい人生の選択をすることになったのでした。夫のためか自分のためなのかはわかりませんが、とにかく彼女もまた夫とともに苦労をともにすることになったのです。そんなリンダが亡くなった時、ポールがどれだけ悲しんだことか。その分、彼の再婚相手もまたそれなりに重い荷を背負うことになったはずです。(もちろん、財産目当ての結婚ならどうってことはないのですが・・・)

<ソロ・デビュー>
 ジョンへのライバル意識が強すぎたのか、解散後ソロ活動を始めた当初のポールの活動は、どこか空まわりしていた感があります。確かに彼が結成したウィングスによるデビュー・アルバム「ワイルド・ライフ Wild Life」(1972年)は、売れそうな曲もなく、かといってトータル・アルバムとしてもいまひとつの完成度でした。この年、彼は現在のイラクのような状態にあった北アイルランドの独立問題、爆弾テロの多発に対し、メッセージ・ソング「アイルランドに平和を」を発表。(実は、この曲は政治色が強すぎるとして当時イギリス国内で放送禁止になっていたそうです)
 そうかと思えば、この年彼はツアー中にスウェーデンでマリファナの不法所持で逮捕され、シングル「ハイ・ハイ・ハイ」はセックスを連想させるとして放送禁止になるなど、ジョン・レノンに対抗するかのように各地で事件を引き起こしていました。しかし、こうした事件を起こすことは、残念ながら彼にとってあまり良い結果をもたらさなかったように思います。彼に必要だったのは、事件ではなくヒットだったのでしょう。

<ヒット・メーカーの復活>
 1973年、アルバム「レッド・ローズ・スピード・ウェイ Red Rose Speed Way」とシングル・カットされた「マイ・ラブ My Love」のヒットにより、再びポール・マッカートニーはヒット・メーカーとしての輝きを取り戻し始めました。その後、ロジャー・ムーアの主演でこちらも蘇った感のある007映画「007/死ぬのは奴らだ Live and Let Die」のテーマ曲も大ヒットします。
 ただし、なぜか彼のバンドはメンバーが固定せず、人気者となったはずのウィングスのメンバー、ヘンリー・マックロウとデニー・シーウェルはすぐに脱退。オリジナル・メンバーのリンダと元ムーディー・ブルースのデニー・レーン、そしてポールの3人だけが残り、彼らは予定されていたアルバム録音のためにアフリカのナイジェリアへと向かいました。
 今でこそ、ジャマイカやアフリカで録音を行うことはそれほど珍しいことではなくなりましたが、この時代はイギリスとアメリカ以外の国で録音を行うというのは、非常に珍しいことでした。現在と違い、録音設備が高価で貴重だったため、良い音を求めると限られた先進国のスタジオでしか録音はできなかったのです。もちろん、それは技術的な理由で、それ以外にも当時、世界は今以上に不安定で、発展途上国ではいつ戦争が起きてもおかしくない状況でした。そんな状況の中、いつ政権が倒れたり、戦争が起きたりしてもおかしくない西アフリカのナイジェリアで録音を行おうというのですから、トラブルは十分覚悟の挑戦だったはずです。実際、この録音ではトラブルが多発、録音を行った一ヶ月の間、彼らはナイジェリアの首都ラゴスでキャンプ同然の生活を送りながら作業を行うことになりました。しかし、こうした普通ではありえない厳しい環境が刺激になったのか、当時はまで無名だったあのアフリカン・ファンクの英雄、フェラ・クティの協力のおかげか、それともアルバム・コンセプトが状況とぴったりだったせいか、この時録音されたアルバム「バンド・オン・ザ・ラン Band on the Run」(1974年)は、彼らにとっても70年代ロックの歴史においても文句なしに代表作となったのでした。
 ジェームズ・コバーンやクリストファー・リーなど、豪華な役者たちとともに撮影したアルバム・ジャケットもまたアルバムのコンセプトである「脱走」をイメージさせる優れたデザインですが、タイトル・ナンバーでもある異色の二部構成曲「バンド・オン・ザ・ラン」の映画のワンシーンのような展開には何度聴いてもワクワクさせられます。こうして、ポールはアフリカでの試練によって再び輝きを取り戻したのでした。

<ヒット連発>
 1975年のアルバム「ヴィーナス・アンド・マース Venus and Mars」は、シングル「あの娘におせっかい」「ヴィーナス&マース〜ロック・ショウ」とともに再び大ヒットを記録。1976年には彼らの全米ツアーの様子を収めた3枚組みのアルバム「ウィングス・USAライブ Wings over America」を発売。このライブ・アルバムにはビートルズ時代の曲も5曲収められていて、彼がビートルズという巨大な存在から少しだけ自由になれたことを示していました。同年発表のオリジナル・アルバム「スピード・オブ・サウンド Wings at Speed of Sound」からは、「心のラブ・ソング」「幸せのノック」がヒットしましたが、珍しいのはこのアルバムにはウィングスのメンバー全員がそれぞれ曲を提供していることです。ポールは、バンドの結成当初からポール・マッカートニー&ウィングスではなく、あくまでウィングスというひとつのバンドであることにこだわっていました。それは、ウィングスを周りがポールのワンマン・バンドととらえることを嫌ってのことことだったのかもしれません。ここでも、彼はビートルズ時代を引きずっていたのでしょうか?
 1978年、再びトリオに戻ったウィングスは、アルバム「ロンドン・タウン London Town」を発表。このアルバムからは「しあわせの予感」がシングル・ヒット。このアルバムはタイトルどおり「雨」をイメージさせる静かな曲が多く、日本ではあまりヒットしなかったのですが、僕は個人的に大好きな作品です。

<マリファナ不法所持とジョンの死>
 1980年、日本公演のために来日したポールは成田空港でマリファナの不法所持が見つかり逮捕されてしまいます。マリファナが日本で違法であることを知らなかったわけはないでしょう。では日本の空港警備や警察を甘く見ていたのでしょうか?どちらにしても、ポールの幼いとも思えるその行為は、彼のイメージをかなり悪くしてしまいました。確信犯的に事件を起こし、逮捕することを恐れないジョン・レノンの行為と比べるとなんだか情けなくも思えたものです。このことで、彼は日本政府から永久入国拒否の処分を受けることになりました。(後に日本国内におけるファンの署名活動などにより、この処分は解かれ1990年になってやっと来日が実現することになります)
 しかし、この事件もこの年12月に起きたジョン・レノン暗殺事件の衝撃によって吹き飛ばされてしまいました。喧嘩別れした相手とはいえ、ポールにとってもジョンの死は衝撃的だったのでしょう。事件後、彼は活動を一時休止し、翌年にはウィングスを解散、その後彼はソロとして活動を続けてゆくことになります。ジョンの死は、ビートルズを越えるバンドを作るというポールの目標を失わせることになったのかもしれません。
 一年の沈黙の後に発表されたアルバム「タッグ・オブ・ウォー Tug of War」(1982年)からは、スティーヴィー・ワンダーとのデュエット曲「エヴォニー&アイヴォリー」が大ヒット。MTV(ミュージック・ビデオ)の黄金時代だったこともあり、白と黒を基調としたミュージック・ビデオも大きな話題となりました。翌1983年には、もうひとりの旬の黒人アーティスト、マイケル・ジャクソンともデュエット。「ガールズ・イン・マイン」、「セイ・セイ・セイ」を大ヒットさせました。

<マンネリからの復活>
 1984年、彼が主演した映画「ヤア!ブロード・ストリート」が公開され、サントラ盤から「ひとりぼっちのロンリー・ナイト」がヒットするものの映画はほとんど評価されませんでした。
 1985年、彼はライブ・エイドに出演し「レット・イット・ビー」を歌い、翌年は当時最も勢いのあったプロデューサー、ヒュー・パジャムを迎えてアルバム「Press To Play」を発表。このアルバムでは「タッグ・オブ・ウォー」にも参加していた元10CCのエリック・スチュアートが多くの曲に参加しましたが、大きなヒットにはつながりませんでした。
 実はこの頃、僕はほとんど彼の存在を忘れかけていたのですが、どうやらそれは僕だけではなかったようです。1987年にベスト・アルバム「オール・ザ・ベスト」を出し、翌年にソ連向けのアルバム「バック・イン・ザ・USSR」を発表して話題にはなったものの、ポールの存在感は確かに薄れつつあったかもしれません。
 そんなマンネリ状態の彼の存在感を再び蘇らせたのは、彼と同じアイルランド系イギリス人の後輩エルヴィス・コステロでした。それは、ポールがコステロの久々のヒット作であり、代表作のひとつとなったアルバム「スパイク」に曲を提供したことがきっかけでした。好結果に対するコステロからの恩返しとして実現した共作曲4曲を含むアルバム「フラワーズ・イン・ダート Flowers In Dirt」は久々に評価、売り上げともに好調で、その勢いに乗って彼はワールド・ツアーに出発。ついに1990年日本での初コンサートを実現したのでした。この時のツアーは2枚組みアルバム「ライブ!! Tripping The Live Fantastic」(1990年)として発表されています。

<幅広い活動の始まり>
 この頃から、彼の活動はより幅の広いものへと移行し始めます。それは、ミュージシャンとして、人間としての余裕が生み出したものだったのかもしれません。
 1991年、彼は故郷リヴァプールのオーケストラ、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニーのために、彼にとって初めてのクラシック曲「リヴァプール・オラトリオ」を作曲しました。この年にはMTVのアンプラグド・ライブにも出演し、アンプラグド・アルバム「公式海賊版」(1991年)を発表。
 1993年には、彼としては久々にバンドを結成してアルバム「オフ・ザ・グラウンド Off The Ground」を発表。このバンドが行ったライブ・ツアーでは、演奏曲目の半分近くがビートルズ・ナンバーだったそうです。そうかと思えば、同じ年彼はファイヤーマンという名前で元キリング・ジョークのメンバー、ユースとハウス・アルバム「ストロベリーズ・オーシャンズ・シップス・フォレスト」を発表しています。
 こうしたそれまでとは異なる活動の中でも特に重要なのは、彼が故郷リヴァプールに設立した芸術専門学校「リヴァプール・インスティテュート・フォー・パフォーミング・アーツ LIPA」でしょう。不況によって崩壊してしまった故郷の街おこしと、彼を育ててくれた音楽への恩返しも兼ねたこのプロジェクトは1996年に実現。彼は出資者であると同時に校長としても関わり、その学校には世界中からミュージシャンを目指す若者たちがやって来ることになりました。この学校の運営には多くのミュージシャンたちが支援者として名を連ねています。(ジョージ・マーティン、マーク・ノップラー、カーリー・サイモン、リチャード・ブランソン、ヴァンゲリス、ジョン・アーマトレーディングなど)日本人では、トラッドとロックを融合させた異色のアーティスト、曉星(アケボシ)がこの学校の卒業生です。

<沈黙、そして再び活動開始>
 その後、彼にとっては最も危機的状況となった愛妻リンダの死、若い妻ヘザー・ミルズとの再婚と離婚など、プライベートでの事件が続き、音楽的には沈黙が続くことになりました。多くの人はもう彼は第一線から退いたと思ったかもしれません。しかし、2007年になって彼は再びアルバム「追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル Memory Almost Full」を発表。ロック界の最前線に再び帰ってきました。
 ビートルズにおける最高のメロディー・メイカー。ポールのセンスは65歳になっても衰えはみせていませんでした。最大のライバルだったジョンを失い、最愛の妻だったリンダを失った彼は今こそ純粋に音楽のために生きようとしているのでしょうか。少なくとも、彼は死ぬまでロック・スターであり続けるでしょう。そして、そんなポールの姿を天国で見守るジョンは、もうかつての喧嘩のことなど忘れ、天国でポールの歌にハモッていることでしょう。

<締めのお言葉>
「人は探求をやめない。そして探求の果てに元の場所に戻り、初めてその地を理解する」

T・S・エリオット

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