
- ポール・ウェラー Paul Weller -
<重き魂 Heavy Soul>
歴史に名を残すミュージシャンたちの中で「努力」という文字が似合う人物はそう多くないかもしれません。誰もが知っているミュージシャンたちの多くは天性の才能をもつ文字通り「天才」と言えるし、例えそれほどの才能を持っていなくても「自分は天才だ!」そう思っているのが当たり前の世界でしょう。熾烈な音楽業界を生き抜いて行くには、それは当然のことなのかもしれません。しかしそんな中でも、ごく稀に努力型のミュージシャンでありながら、長きに渡って活躍を続けているアーティストがいます。当然、その確かな存在感は、いつしかまわりのミュージシャンたちの尊敬を集めるようになってゆきます。
アメリカン・ロックの世界では、ニール・ヤングがそのタイプの代表と言えるかもしれません。純粋な人間性と反骨のロック魂は、老若男女を問わずアメリカ中のミュージシャンたちの支持を集めています。そして、ブリティッシュ・ロックの世界において、今やそんな存在になりつつあるのがポール・ウェラーではないでしょうか。彼はニール・ヤングよりはずっと若いのですが、イギリスの歴史とともに「重き魂
Heavy Soul」を引きずりながら、音楽的な苦難の道を歩んできました。
<ぶっつぶせ!Jam!>
1958年イギリスのサリー州に生まれたポール・ウェラーのミュージシャンとしての本格的スタートは、1973年ザ・ジャムの結成でした。ザ・フーやアメリカのR&Bの影響を強く受けたモッズ系パンク・バンドとして、ロンドンを中心に活躍した彼らは、1975年以降のパンク・ブームに乗って人気バンドとなり、1977年デビュー・アルバム"In The City"を発表、その後も「オール・モッド・コンズ All Mod Cons」などのヒット・アルバムを連発して行きます。
パンク・バンドとしてデビューしたザ・ジャムでしたが、実際の彼らはパンク・バンドというくくりに収まる存在ではありませんでした。そのおかげで、パンクの時代があっという間に終わり、ニュー・ウェーブ・ブームと言われる状況になっても、彼らの人気は衰えませんでした。しかし、ポール・ウェラー(Vo,Gui)、ブルース・フォクストン(Bass)、リック・バックラー(Dr.)の3人からなるザ・ジャム(日本語に訳すと「ぶっつぶせ!」と言った感じでしょう)と言うバンドは、あまりにモッズ・バンドというイメージが強くなりすぎていました。(彼らの代表作でもあるアルバム「セッティング・サンズ Setting Suns」(1979年)のジャケットにある重々しい3人の彫像は、暗にそのことを象徴しているかのようです)しだいに彼らの作風は、パンク、モッズから正調R&Bへと移り変わって行きますが、結局ポール・ウェラーは自らのやりたい方向性を求め、ジャムを脱退しました。(1982年)
<スタイル検討会議 The Style Council>
1983年ポールは、元デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズのミック・タルボット(Key)とコンビを組みザ・スタイル・カウンシルを立ち上げます。(日本語訳では、「スタイル検討会議」といったところでしょう)パンク=ジャム=モッズ=ニューウェーブという枠組みから解き放たれた彼は、自由に曲作りができる喜びを感じながら、デビュー・アルバム「カフェ・ブリュ Cafe Bleu」(1984年)を発表しました。
彼らのサウンドは、ラップ、ジャズ、R&B、ソウル、ファンク、レゲエがほどよくミックスされたポップなもので、ポール・ウェラーはジャム時代とはうって変わったリラックスした雰囲気で歌っています。1985年発表の「アワ・フェバリット・ショップ Our Favourite
Shop」では、ついにアルバム・チャートの全英ナンバー1を獲得、ジャム時代以上の人気を獲得しました。(この変化は、ジャム時代のファンには非難されたりもしましたが・・・)
1987年、バンドのメンバーは、D.C.リー、スティーブ・ホワイトを加えた4人となり、アルバム「ザ・コスト・オブ・ラヴィング」を発表しますが1990年、バンドは自然消滅してしまいます。スタイル検討会議は、数多くのスタイルを検討した後、その役割を終えてしまったようです。
<さまよえる魂 Paul Weller Movement>
しかし、スタイル・カウンシルの解散はポール・ウェラーにとって、ジャムの解散の時のように次にやる目標を定めてからの前向きなものではなかったのかもしれません。そのせいか、彼はしばらくの間、次なる目標を求めてさまようことになります。その気持ちは当時の彼の活動形態にも現れていました。彼はソロでもなくバンドでもない「ポール・ウェラー・ムーブメント」と言う名義でコンサート活動を行い、シングル"Into Tomorrow" (1991年)を発表しています。考えてみると、ザ・ジャムは3人組、スタイル・カウンシルは2人組みと、彼はソロへの道を知らず知らずのうちに歩んでいたのかもしれません。
<孤高の道へ Solo>
1992年、彼はついにソロ・アルバム「ポール・ウェラー Paul Weller」を発表し、ソロ・アーティストとしてのスタートを切りました。迷いに迷った末、彼が選んだ道(スタイル)は自らの音楽的原点、R&Bでした。再び、原点に立ち返った彼は、余計な邪念を捨て素直に自分の愛する曲を歌い始めました。
「ワイルド・ウッド Wild Wood」(1993年)では、その思いはアメリカ南部の音楽(ニューオーリンズ・ファンク、スワンプ・ロックなど)へも向けられるようになり、その延長線上にサード・アルバム「スタンリー・ロード Stanley Road」(1995年)が生まれました。このアルバムは、全英アルバム・チャート一位に輝いただけでなく1年以上に渡りベスト10に入り続けるというロングラン・ヒット・アルバムとなりました。
<新生ポール・ウェラーの魅力>
けっして売れ線の曲が並んでいるわけではないこのアルバムの良さは、噛めば噛むほど味のでるその深い味わいにありそうです。スワンプ風味(泥臭さ)が効いたホットなR&Bタイプの曲の数々を取り上げながら、そこにはイギリス人独特のクールさが下味として効いています。さらに重要なのは、ポール・ウェラー自身がいつの間にか英国を代表するヴォーカリスト、スティーブ・ウィンウッドと肩を並べるほどの白人R&Bヴォーカリストに成長していたということでしょう。(「スタンリー・ロード」には、そのスティーブ・ウィンウッドがゲストとして参加しています)
もちろんヴォーカルとしての力だけではなく、彼はバンド・リーダーとしても、プロデューサーとしても、超一流の存在になっていました。1997年の「ヘヴィー・ソウル Heavy Soul」では、そのバンド・サウンドへのこだわり、ライブ感覚が強調され、彼が自らつかみ取った音楽に対する自身がうかがわれる内容になっています。アルバム・ジャケットに書かれたHEAVY
SOULの力強い文字が彼がつかみ取った自身の深さをうかがわせています。
<進化する男>
パンクのブームに乗って、「ぶっつぶせ Jam!」とデビューした男は、「スタイル検討会議
Style Council」で数多くのジャンルへアプローチを行った後、ソロ・アーティストとして、その集大成を作り上げました。スワンプ・ロックにソウル、R&B、レゲエそれにニューオーリンズやグランジの香りを振りかけたサウンドは、20世紀末最もロック的なロックと言えるのかもしれません。白人ミュージシャンによるR&Bのカバーから始まった音楽をロックと呼ぶなら、ポール・ウェラーは、もう一度その進化の道筋を自らの力でたどり、そこから新しい道筋を切り拓いた数少ないミュージシャンと言えるでしょう。だからこそ、オアシスのノエル・ギャラガーをはじめ多くのアーティストたちが彼のことを師と仰いでいるのです。
<締めのお言葉>
「幼形進化とは、ある種の状況下では、袋小路に行き当たった進化がその道を逆戻りして、より前途が開けていそうな新たな方向へ、再度スタートすることを意味している」
アーサー・ケストラー著「ホロン革命」より
「文化が表れたことで、それまで存在しなかった型の進化的発展の萌芽がみられた。すなわち文化の進化、言い換えれば本来の意味での人間の進化である。・・・」
ドブジャンスキー著「人間の自由の生物学的基礎」より
ジャンル別索引へ
アーティスト名索引へ
トップページヘ