早すぎた 自由と平等 の闘士、 その名は  パウリ・マレー 

ドキュメンタリー映画「わたしの名はパウリ・マレー」
My Name Is Pauli Murray


- パウリ・マレー Pauli Murray -
<歴史のパズルの重要なピース>
 歴史を調べることの最大の喜びは、異なる歴史上の出来事が一つのピースで突然つながって見える瞬間かもしれません。
 このドキュメンタリー映画の主人公パウリ・マレーは、そんな歴史上の重要なピース(もしくはミッシング・リンク)のような存在と言えるかもしれません。この作品を見て、以前から気になっていた歴史上の謎が解けました。
 ルース・ベーダ―・ギンズバーグサーグッド・マーシャルの伝記映画やドキュメンタリー映画の中で、主人公が人種差別に関する法廷闘争において、過去の範例を探すシーンがあります。すると、自分たちが担当する事件と類似した範例が過去にあるのを見つけ、それを武器に法廷での闘いを展開することになります。でもその範例は、いったい誰が残したものなのか?以前から気になっていました。ところがその謎が今回ついに解け、前述の範例を残した偉大な法律家の正体が明らかになりました。
 あまりにも時代の先を行っていたがゆえに、忘れられかけていたその人物は、黒人であり、女性であり、同性愛者であり、弁護士であり、詩人であり、宣教師でもありました。アメリカの公民権運動にとどまらず、性差別の問題でも大きな役割を果たすことになったい人物、彼女の名はパウリ・マレーと言います。今回ここで彼女のことをご紹介できることはうれしい限りです。

わたしが望むのは、独立宣言や憲法に書かれた通りのアメリカです。
アメリカよ、宣言した通りの国家になれ!

パウリ・マレー(詩人)

<パウリ・マレー>
 パウリ・マレー Pauli Murray は、1910年11月20日ボルティモアで生まれました。両親を早くに失ったことから、彼女は叔母のポーリーンのもと、ノースカロライナ州ダラムで育ちました。彼女の一族は、黒人だけだなく、アメリカ先住民やアイルランドなどの血が混ざっていて、経済的にも文化的にも黒人社会の中では成功した方でした。そのうえ、叔母さんが教師だったことから、彼女にとっては学校は生活の場であり、勉強は遊びの一部でした。
 1928年、成績優秀で経済的にも恵まれていたことから、彼女は叔母の薦めもあって、黒人でも入学可能な女子大ハンターカレッジに入学します。247人中、黒人はわずか4人という環境で彼女は必死で勉強し、無事に卒業することができました。
 1933年、彼女は大学を卒業し就職を目指します。ところが当時は世界恐慌の真っただ中。まったく就職先が見つからなかった彼女は、それをチャンスにアメリカ放浪の旅に出ます。彼女は髪を短く切り、男装をすることで、身軽に安全にホーボーたちの仲間入りをして、貨車に乗り込んでの無賃旅行の旅をしました。そんな暮らしの中で、彼女は銀行家の令嬢でありながら、放蕩生活をしていた白人のペグと知り合い意気投合。二人でネブラスカ州までヒッチハイクの旅に出るなど、関係を深めます。人種の壁を越えた友情が生まれましたが、恋人になってほしいというパウリの願いはペグに断られてしまいます。二人の関係はここで終わり、そのショックから彼女はうつ病状態となって入院することになります。
 彼女は同性愛者であることを生涯カミングアウトしませんでした。それでも叔母のポーリーンはその事実を理解していて、早くから彼女のことを「ボーイ・ガール」と呼び、気にかけてくえていたようです。
 LGBTQの映画監督トッド・ヘインズが撮った異色のボブ・ディランの伝記映画「アイム・ノット・ゼア」(2007年)では、ボブ・ディランを本人ではなく様々な俳優が演じ、ホーボー生活などを演じました。その中には、黒人少年や女性が演じるパートもありました。もしかすると、トッド・ヘインズの頭の中には、パウリ・マレーの存在があったのではないか?ふとそんなことを思いました。

<ルーズベルトへの手紙>
 1938年、彼女はリベラルな大学として知られるノースカロライナ大学に入学願書を提出します。その願書には、「人種」と「宗教」を記入する欄があり、彼女は黒人であることから試験すら受けられませんでした。あまりに理不尽さに怒った彼女は、当時の大統領でリベラルと言われていたフランクリン・ルーズベルトに抗議の手紙を出しました。さらに社会活動に熱心なことで有名な妻のエレノア・ルーズベルトにも手紙を送ると、彼女からは「必ず南部も変わります。あせらず待っていてください」との返信が来ました。この後も、彼女とエレノアとの関係は続き、後に二人は親友となります。この時、彼女が行った大統領との手紙のやり取りは、黒人向けの新聞に大きく取り上げられ、彼女は一躍有名人となりました。

<公民権運動の先駆>
 1940年、彼女は友人と二人で南部へ旅に出ました。ところが、バスでの旅行中、バージニア州ピーターズバーグの街でバスの席を黒人専用席に移動するよう運転手に命令されます。しかし、二人は納得できず席に座り続けました。運転手は、移動しなければバスは動かさないと言い、ついに警察官を呼び、二人は逮捕されました。その後、二人は全米黒人地位向上協会NAACPに助けを求め、事件は裁判に持ち込まれました。残念ながら、検察側は事件を人種問題としてではなく、単なる治安妨害として処理してしまい罰金刑で片付けられてしまいました。悔しい結果に終わったものの、裁判におけるNAACPの弁護団の活躍に彼女は感激し、自分も法律を武器に人種差別と闘いたいと考えます。
 この事件は、あの有名なローザ・パークスによるバス・ボイコット事件の15年も前のことでした!

<法律家を目指して>
 1941年、彼女は法律家を目指して、黒人の名門大学ハワード大学に入学。ロースクールで学び始めます。しかし、ここでも彼女は差別を体験することになります。大学での彼女は、人種差別はもちろんなかったものの、女性として差別されることになったのです。女性が法律を学ぶ必要などない、と黒人大生学生たち、教員たちが考えていたからです。クラスで唯一の女性だった彼女は、そんな状況の中、人一倍勉強し、クラスの成績トップにい続けました。そのおかげで、彼女はNAACP学生支部の顧問に選ばれ、公民権運動に本格的に関わり始めることになります。

<公民権運動の活動家そして>
 1943年、彼女はいよいよ本格的に公民権運動に関わることになります。ハワード大学のある地元ワシントンのリトルパレス・カフェテリアは、白人専用のレストランでした。アメリカの首都にそうした差別を続けている店があることは、明らかに問題でした。そこで彼女は、仲間と一緒にその店に入店。店員が席に着くことを断っても、それを無視。そのまま店に居座り、その後、大学の仲間たちが次々に入店。完全に店を占拠してしまいました。店側は、それに対し白人専用の看板を外すしかなくなりました。この活動により、その後首都ワシントンから白人専用の店はなくなりました。

<差別の否定を論文化>
 1944年、彼女は大学の論文に人種差別について、こう書きました。
「差別は本質的に不道徳であり、黒人の尊厳や自意識を低下させるものだ」
 しかし、この考え方を持つ黒人は、当時はまだほとんどいませんでした。黒人初の最高裁判事となったサーグッド・マーシャルですら、当時、人種差別について「人種による分離は認めよう。しかし、平等に扱ってほしい」という認識を持っていました。黒人たちの間でも「差別」は必要悪として認める傾向にあったのです。しかし、彼女は本質的に違いました。彼女は、「差別」という考え方そのものを絶対悪として否定していたのです。彼女の考え方は、黒人の側だけではなく白人の側からも考えた発想でした。
 1954年の公民権運動最大のターニング・ポイントとなったブラウン裁判において、サーグッド・マーシャル率いる黒人弁護団は、パウリの論文を最高裁に提出し、その考え方の根拠として説明することになります。彼女はその裁判のちょうど10年前にその論文を書いていたわけです。

<弁護士としてスタートするも>
 彼女は、公民権運動に関わりながらも、見事にハワード大学を首席で卒業します。そして首席が自動的に入学可能なハーバード大学への入学を希望しますが、再び差別により断られてしまいました。そこでも彼女が黒人であり、なおかつ女性であることが問題視されたのでした。仕方なく彼女は、カリフォルニア大学バークレー校に入学することになりました。そして、そこで修士課程を終えた後、ニューヨークに戻った彼女は、弁護士事務所への就職を目指します。しかし、またしても黒人であり女性である彼女を弁護士として雇う事務所はありませんでした。結局、彼女は個人事務所を設立しますが仕事はなく、再びうつ病が発病し、入院することになります。
 その間、彼女は自分が同性愛者である原因を知ろうと、検査を受け、自分の肉体は完全に女性であること、同性愛者であることは肉体的な問題ではなく精神的なものであることを確認することになりました。
 こうして彼女は、黒人であること、女性であることによる差別を体験し、なおかつ自分が同性愛者であることを知り、これら差別の理由となる境界が曖昧で無意味なものであることを体感することになりました。
「人種や性別の区分は本質的に恣意的で差別の法的根拠にならない」
 このことを確信したことで、彼女はこの後の人生を迷うことなく差別との闘いに費やすことができたのかもしれません。

<パートナーとの出会い>
 その後、やっとニューヨークの弁護士事務所に就職できた彼女でしたが、そこでも唯一の黒人女性だったことで苦労することになります。そんな彼女を世話してくれたのが、その後、彼女の生涯のパートナーとなるレニー・ボーロウでした。事務所で人事担当の事務職に就いていた白人女性の彼女は、パウリを助けるうちに友人以上の関係となります。
 しかし、そんなパートナーとの出会いはあったものの、アメリカ国内の人種差別問題はどんどん悪化し、各地で暴動が起きる事態となっていました。彼女は、このままのアメリカには住みたくないと考え始めます。

<アフリカへ>
 1960年、黒人としては異例の高級を得ていた彼女ですが、その仕事を捨てて、アフリカへと渡ります。そして独立して2年しかたっていない国ガーナの大学に新設されたロースクールで教授の職に就きました。彼女は大学で教える授業は当然ながら、アメリカ的な自由と民主主義に基づく内容でしたが、ガーナを支配する独裁政権にとってはそれは不都合なものでした。すぐに彼女の授業は問題視されることになります。結局、彼女は18か月でアフリカの地を去ることになります。マルコムXがアフリカに旅立つ4年前に彼女はアフリカを訪れ、アフリカの現状がけっして理想の地ではないことを知ったわけです。

<母国での再スタート>
 アフリカから帰国した彼女は、ケネディ政権が設立したエレノア・ルーズベルトを長とする女性の権利委員会で働くことになり、そこで知り合ったベティ・フリーダンら28名と共に全米女性機構NOWを設立します。
 黒人たちが人種差別と闘う只中に、彼女はいち早く女性への差別と闘うフェミニズムの闘いへと歩み出していたのです。
 1965年、彼女は米国自由人権協会ACLUの委員となり、それまで公民権運動に集中していた活動を性差別の問題へも向けさせ始めます。ルイス・ベイダー・ギンズバーグをACLUに参加するよう誘ったのもパウリでした。
 こうして始まった彼女の闘いにおいて、共通する理論的な武器となったのは、アメリカ憲法修正14条でした。
「いかなる州も法の平等な保護を否定する法律を制定できない」
 裁判における陪審員の選定において黒人を排斥することと同じように女性を排斥することはどちらも修正14条に違反している。彼女はそう主張し、裁判で勝利を勝ち取っています。この裁判の判決は1971年にルース・ベイダー・ギンズバーグがリード対リード裁判において、範例として使用されています。
 1968年、彼女は黒人研究のための学部開設のため、ブランダイス大学に招かれます。彼女は学生たちへの講義を行う際、「ブラック Black」ではなく「ニグロ Negro」を用いていました。当時、白人の多くは「小文字のニグロ negro」を用い、公民権運動の活動家たちの多くは、「ブラックBlack」を用いるようになっていました。そして、ブラック・パンサー党に代表されるそうした人々の多くが、人種の融合ではなく、人種の分離を求め、運動を過激化させる方向へと向かいつつありました。
 しかし、彼女はそうした時代の流れに否定的で、人種の融合こそが目指すべきところと主張していました。そして、彼女の考えのとおり、ブラック・パンサーの活動はその後行き詰まり、運動は崩壊することになります。

<パートナーとの別れ>
 彼女が活躍を続けられた陰には、その世話役として支え続けたレニー・バーロウの存在がありました。彼女との関係は、秘密にされたままで、それも1973年にレニーが、ガンによって命を落としたことで終わりを迎えました。
 心の支えを失ったことで、再び落ち込んでしまった彼女でしたが、そこで新たな決断がなされました。なんと60代半ばにして、彼女は神学校に入学。4年間の勉学の後、黒人女性として初めて米国聖公会の司祭となったのです。
 こうして新たな人生を歩み出した彼女は、ここにきて初めて自らの人生を振り返った自伝の執筆に取り組み始めます。そして彼女は自分が膵臓癌に侵されていることを知ります。

伝えたいという思いがあるから文章を書くのです。
つまり自分の考えや感情といったものを他者と共有したいのです。
自分のことを書くことは、何よりも難しいことです。


 1985年、彼女は74歳でこの世を去りました。彼女の仕事と残された文章は、その後も様々な場で読まれ、裁判で範例として採用されています。
 2020年、ACLUは、彼女の論文をもとに最高裁判所でLGBTの人々への差別を違法として禁じる判決を勝ち取ることになりました。

希望の歌をこの世界に
優しい歌をこの国に
希望と愛の歌をブラウン色の少女の心に

パウリ・マレー(詩人)

 様々な面において、時代の先を行き過ぎていたパウリ・マレーに時代はやっと追いつきかけているのかもしれません。
 彼女の存在が理解されるほど、時代は先へと進めるのかもしれません。

<参考>
「わたしの名はパウリ・マレー My Name Is Pauli Murray」 
2021年
(監)(脚)ジュリー・コーエン Julie Cohen、ベッツィ・ウエスト Betsy West
(製)(脚)タリー・ブリッジス・マクマホン
(製総)ジェフ・スケル、エリス・パールスタイン他
(脚)(編)チンクェ・ノーザン
(撮)クラウディア・ラシュク
(音)ヨニク・ボンテンプス
(出)パウリ・マレー(アーカイブ映像)、ルース・ベーダ―・ギンズバーグ他

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