スキャンダルの巨匠が描いたキリストの生涯

「奇跡の丘 IL VANGELO SECONDO MATTEO」

- ピエル・パオロ・パゾリーニ Pier Paolo Pasolini -

<地味で凄い名作>
 この作品の監督パゾリーニといえば、同性愛者としてのスキャンダラスな死、マルキ・ド・サド原作「ソドムの市」の映画化など、スキャンダルだらけの人生を送ったイタリアを代表する作家です。スキャンダルにより共産党を除名されたものの左派の活動家としても知られ、当然、無神論者であると公言もしていました。
 そんな宗教とは程遠いとも思える人物が、イエス・キリストの生涯を映像化したのが映画「奇跡の丘」です。そして、その映画は21世紀の現在に至るまで、キリストの生涯を描いた作品の中で、最も聖書に忠実でなおかつ美しい作品と言われているのです。ヴェネツィア国際映画祭では審査員特別賞を受賞し、英国BBC放送が2013年に発表した「オールタイム・ベスト100」でも30位にランクイン。文句なしに映画史に残る名作であり、この映画の後、同じスタイルで忠実に聖書を映画化することを困難にさせた作品ともいえるでしょう。(聖書に忠実な映画作りをしただけでは、この作品を越えられないということです)
 しかし、なぜ無神論者であるはずの彼が、ここまで聖書に基づく地味で凄い映画を作れたのか?そのそも何のために作ったのか?
 ここでは、まず彼がこの作品を撮るまでの生い立ちから始めてみようと思います。

<生い立ち>
 ピエル・パオロ・パゾリーニ Pier Paolo Pasoliniは、1922年3月5日北イタリアのボローニャに生まれています。その年は、イタリアでムッソリーニによるファシスト政権が誕生した年でもあり、彼の父親は職業軍人として軍隊で働く昔気質の人物でした。そんな父親に彼は反発を憶えていたようで、逆に母親に懐いていた彼は読書、絵画、詩作などの芸術について母から多くのことを学んだようです。その後ボローニャの高校に通い始めた彼は、シェイクスピアの「マクベス」やドストエフスキーの小説、ランボーの詩と出会い、芸術にのめり込むようになります。
 1939年、ボローニャ大学の文学部に入学した彼は、美術史などを学びながら同人誌の発行を始め、1942年、20歳になった彼は初の詩集「カザルサ詩集」を発表。詩人として活躍を開始します。しかし、その間、イタリア軍は連合軍に破れ、ファシスト党の指導者ムッソリーニが失脚。ドイツ軍とパルチザン、連合軍がイタリア各地で戦闘を行い、混沌とした状態が続くことになります。そのため彼も兵役につくことになりましたが、同じくパルチザンの兵士となった弟のグイドは戦闘で命を落としてしまいます。
 混乱の中、軍を離れた彼は、その後、終戦まで大学で言語、方言の研究にのめり込み、終戦後に卒業すると中学で教師として働き始めます。そして、共産党に入党した彼は地区の書記として、左翼の政治活動にものめり込みます。
 ところが、1948年、選挙活動中に彼は反対勢力による陰謀により、わいせつ行為により告発され、教師を首になると同時に共産党からも除名されてしまいます。職も生きる目的も失ってしまった彼は、母親と共にローマで様々な仕事をしながら暮らし始め、そこでローマのスラム街で暮らす不良少年たち「ラガッツィ・ディ・ヴィータ」たちと知り合うようになります。
 1951年、彼はローマ近郊チャンピーノで中学校教師の職を得て、本格的に作家活動を再開します。1955年発表の「生命ある若者」で彼は文学賞を受賞し、一躍注目作家の仲間入りを果たします。しかし、それだけでは暮らして行けず、彼は同時に映画の脚本も手掛けるようになります。イタリアの映画界は、黄金時代を迎えつつあり、映画に関わるスタッフが不足していたのです。
 そのおかげで、彼はすぐに一流監督の脚本を手掛けることが可能になりました。その一つがフェデリコ・フェリーニ監督の「カビリアの夜」(1957年)で、その中で彼はローマのスラム街で使われる言葉を見事に操り、注目されました。彼自身も、その時期に映画を集中的に見るようになり、ルネ・クレール、ジャン・ルノワール、チャールズ・チャップリン、カール・テオ・ドライヤー、エイゼンシュタインらの作品からは特に大きな影響を受けることになりました。

<監督デビュー>
 1961年、彼は映画「アッカトーネ」で監督デビューを果たします。スラム街を生きる娼婦のヒモを描いたその作品の後、彼は「マンマ・ローマ」(1962年)、オムニバス映画「ラ・リコッタ」(1963年)の中の一編「ロゴパグ」を発表します。ところが、キリストの受難を描いたその短編映画の中でマグダラのマリアがストリップをするというシーンが問題となり、フィルムが没収され、彼もイタリアの国教であるキリスト教を冒涜したとして逮捕されてしまいます。裁判によって禁固4か月の判決を受けた彼は、最高裁まで戦いなんとか無罪を勝ち取りますが、その裁判の最中にも新たな作品の準備を始めていました。そして、それが「奇跡の丘」というイエス・キリストの生涯を描く作品だったのです。

<奇跡の丘>
 彼がこの映画でこだわったのは、あくまでも聖書に忠実に作ることでした。そのために彼はイスラエルやヨルダンでロケハンを行い、セットではなく聖書そのままの雰囲気を残す場所を探し、それらの場所で撮影を行っています。さらに彼は既存の俳優をあえて使わずにすべての役で素人を採用しています。例えば、主人公イエス・キリストを演じたのはスペインの学生で、その繋がった眉毛は、明らかに既存のヨーロッパ系白人のキリスト像とは異なるものでした。しかし、キリスト教がもともとアラブ地域の宗教であることを考えると、それはごく自然な選択であり、リアリズムに基づいていると考えるべきです。そして、それ以上にこだわっているのが、全ての場面、全ての台詞を聖書のとおりに再現することでした。
 あえて複数あるイエスの伝記の中から、彼は「マタイによる福音書」を選択。その中の記述から場面や台詞を選び抜いて、ベスト・オブ・新約聖書的な作品に仕上げています。たぶんクリスチャンの方なら、この映画は字幕がなくてもほとんど理解できるはずです。聖書にない創作された新たな台詞がないので、映像だけを見ていても、登場人物が何を言っているのかがほぼほぼ理解できるのです。なんなら新約聖書を片手に、この映画を見てみて下さい。
 ここまで忠実に聖書を映像化しているのですから、監督が同性愛者でも、無神論者でも、共産主義者もでも、この作品に文句のつけようはないのです。(逆に言えば、この映画の原案と脚本がピエル・パオロ・パゾリーニとなっているのもどうかと思いますが、・・・原作者は「マタイ」でしょう)
 当時のイタリアは敗戦の危機的状況を脱し、高度経済成長の時代を迎え、バブル景気ともいえる経済発展によって人々は戦争中の苦しみを忘れつつありました。しかし、経済的な成功者と貧しき者の貧富の左は、一気に拡大しつつあったことも確かでした。そんな時代の空気の中、彼が描いたイエス・キリストは左翼の革命家のように大衆に変革を要求しています。政府の保守派が喜びそうな究極の宗教映画には、社会の不平等に対する反体制的な意志が込められているようにも思えます。
 多くの偉大な思想家の言葉はそのオリジナルをその後の人々が様々な解釈や注釈を加えることで時代や社会や政治指導者、宗教指導者に都合の良い内容へと変更されてきました。イエスは、本当は何を訴えていたのか?パゾリーニは、ここで究極の原点回帰をすることで、現代社会への痛烈な批判を行ったと考えることもできそうです。それも皮肉たっぷりに・・・
<異色の音楽>
 リアリズムにこだわったこの映画では、音楽だけが異色ともいえる選曲になっています。ただし、当時の音楽はわからないし、讃美歌を使用するにもそれらは後にヨーロッパで作られた曲ばかりで、パレスチナの風景と物語に合うとは限りません。とはいえ、映画の内容にもあったヨハン・セバスチャン・バッハ「マタイ受難曲」は使用されていて、他にもモーツァルトの「アダージョとフーガハ長調」やプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」エイゼンシュタインによる中世ロシアの英雄の伝記映画のために作られた曲)などのクラシックが選ばれています。
 しかし、オープニングなど何度も登場する不思議な宗教曲は、クラシックとは関係ありません。アフリカ、コンゴのミサ曲「ミッサ・ルーバ」の一部だとのこと。1930年代にフランス領だったコンゴには南米からアフリカ起源のラテン音楽ルンバが逆輸入されています。たぶん、そうしたルンバのリズムを聖歌と合体させることでこうした不思議な曲が生まれたのだと思われます。思うに様々な記述でこの曲は「ミッサ・ルーバ」となっていますが、本当は「ミッサ・ルンバ」なのではないかと思うのですが?
 もう一つ、ネットのどの記述にもないのですが、ブラインド・ウィリー・ジョンソンの「夜は暗く Dark Was The Night」が重要な場面で使用されています。1927年に録音された盲目のブルース・シンガーによるダークな名曲は、1984年にライ・クーダーが映画「パリ・テキサス」(ヴィム・ヴェンダースの代表作)のためにカバーして映画と共に世界中に知られることになりました。この曲もまた映画のクライマックスに大きな効果をもたらしています。元々、この曲はイエス・キリストがゲッセマネの園で死の恐怖に直面した時のことを歌ったワッツ博士による讃美歌がもとになっているそうですから、この映画にぴったりの曲です。誰にもマネのできない独自のブルース・ギターの奏法とうめくような歌声が生み出す「死の苦しみ」の表現は圧倒的な迫力です!
 その他にも、黒人女性シンガー、オデッタの歌う「黒人霊歌」(曲名は?)やロシアの革命歌なども使用されていますが、どの曲も映画のイメージにあっていて違和感がありません。パゾリーニは、この映画以外の作品でも既存の知られざる曲を数多く映画の背景に使用していて、日本の古い曲も含め、エスニックでミニマルな曲を使用するのが好きなようです。

<その後のパゾリーニ>
 この後、彼はギリシャ神話ソフォクレス原作の「オイディプス王」を原作とする「アポロンの地獄」(1967年)を発表しますが、現代劇「テオレマ」(1968年)でまたもわいせつ裁判に巻き込まれます。(ここでも彼は無事、無罪を勝ち取っています)
 エウリピデス原作のギリシャ悲劇を原作とした「王女メディア」(1969年)を撮った後、1971年からは「生の三部作」と呼ばれる作品群を発表し高い評価を得ることになります。「ボッカチヨ原作の「デカメロン」(1971年)、チョーサー原作の「カンタベリー物語」(1972年)、「千夜一夜物語」を基にした「アラビアンナイト」(1974年)これらの作品はカンヌやベルリンで映画賞を受賞し、彼は世界の巨匠と呼ばれる存在となります。

<謎に満ちた死>
 1975年、彼はポジティブに人生と性を描いた「生の三部作」を完全否定する、まったく異なるタイプの映画「ソドムの市」(マルキ・ド・サド原作)を発表し世界を驚かせます。性の歓びを讃美していた彼が、まさか倒錯的なサディズムを讃美する映画を撮るとは・・・当然、その作品への批判の声も高まることになりました。そんな中、撮影済みのフィルムが盗まれるという事件が起きます。なんとかフィルムは撮影フィルムからもう一度再生することができましたが、事件はそれだけでは終わりませんでした。
 1975年11月2日、ローマ郊外の空き地で彼の惨殺死体が見つかったのです。どうやら彼はケンカの後、車によって引き殺されてしまったようです。警察の捜査により、彼がセックス目的で拾った少年とケンカになり、殺害されたらしいことがわかりました。ただし、目撃者もなく、実は少年だけではない複数の犯人がいたという説や彼を嫌う何者かによる暗殺されたという説もあって、未だに詳細は謎のままのようです。
 同性愛者として憎まれたのか、左派活動家として狙われたのか、宗教を冒涜する者として殺害されたのか?それとも単に変態野郎として少年に引き殺されただけなのか?
 残念なことに、彼は三日後に復活することもなく、スキャンダルにまみれたままその死を迎えてしまいました。そうしたあまりに突然の非業の死により、彼の作品に対する評価は長い間偏らざるを得なくなったともいえそうです。
 もしかすると、彼が自らの作品で本当は何を言おうとしていたのか?もう一度、その原点に立ち返って見直すべきなのかもしれません。「奇跡の丘」のイエス・キリストの言葉の数々のように・・・

「奇跡の丘 IL VANGELO SECONDO MATTEO」 1964年
(監)(原案)(脚)ピエル・パオロ・パゾリーニ
(製)アルフレード・ビーニ
(撮)トニーノ・デッリ・コッリ
(美)ルイジ・スカッチャノーチェ
(音)ルイス・バカロフ
(編)ニーノ・バラーリ
(出)エンリケ・イラソキ、マルゲリータ・カルーソ(若きマリア)、スザンナ・パゾリーニ(老いたマリアを演じたのはパゾリーニの母)、マルチェッロ・モランテ

<参考>
「イタリア映画を読む」 2003年
柳澤一博(著)
フィルムアート社

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