
- オージェイズ The O'Jays、スピナーズ The Spinners、スタイリスティックス
The Stylistics -
<フィリー・ソウルのアーティストたち>
1970年代初めに一時代を築いたフィリー・ソウル。ここでは、その代表的なアーティストたちをご紹介します。最初にあげなければならないのは、トム・ベルが制作し、彼の出世作となった「La
La Means I Love You」を歌ったデルフォニックス
The Delfonicsでしょう。
1965年にウィリアムとウィルバートのハート兄弟、それにリッチー・ダニエルズ、ランディ・ケインの4人で結成されたコーラス・グループ「フォー・ジェンツ」が1967年に改名。リッチーが兵役で抜けたため、その後3人で活動。前述の「La
La Means I Love You」が1968年にR&Bチャート2位のヒットとなり一躍スターの座を獲得。その後も「You
Got Yours and I'll Get Mine」(1969年R&B6位)、「Didn't
I (Blow Your Mind This Time)」(1970年R&B3位)などのヒットを放ち、フィリー・ソウル・ブームの先駆けとして活躍しました。
その他、ソロ・アーティストとして後に大スターとなるテディ・ペンダーグラス
Teddy Pendergrassが在籍していたコーラス・グループ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツ
Harold Melvin & The Blue Notes。ギャンブル&ハフの秘蔵っ子として活躍したフィラデルフィア出身の4人組イントルーダーズ
The Intruders。全米ポップ・チャート8位のヒット「Sideshow」(1974年)で有名な5人組みのコーラス・グループ、ブルー・マジック
Blue Magic。そして、フィリー・ソウルの核となったMFSBとその中心メンバー、ドラムスのアール・ヤングを中心にデニス・ハリス、ロン・カーシー、ジョン・ハート、スタンリー・ウェイド、マイケル・トンプソンらにヴォーカルのジーン・フェイス、ジミー・エリスなどを加えた11名のバンドとして結成されたトランプス
The Trammpsは、MFSBのヴォーカル版として活躍しました。
PIRにとって初の全米ポップチャート1位となった大ヒット曲「Me
and Mrs.Jones」を歌ったビリー・ポール Billy
Paulの存在も忘れられません。この曲は不倫ラブ・ソングの先駆けでもありました。その他、スリーディグリーズ
The Three Degrees、エボニーズ The Ebonys、モデュレイションズ
The Modulations、ダブル・エクスポージャー
Double Exposure、ラブ・コミッティ Love Committee。
それにサルソウル・レーベルにとって重要なヒット曲となった「I
Got My Mind Up (You Can Get it Girl)」(1979年R&B1位)のヒットで有名な白人黒人混合のバンド、インスタント・ファンク
Instant Funkも。1977年にフィラデルフィアで結成されています。
しかし、なんといっても、フィリー・ソウルを代表するのは以下に紹介するオージェイズ、スピナーズ、スタイリスティックスでしょう。それぞれ異なる個性をもつ三つのコーラス・グループは、いずれもフィリー・ソウルを象徴する存在でした。ソウルフルでメッセージ性のある曲を得意としたオージェイズ、軽やかでダンサブルな曲を歌ったスピナーズ、美しくゴージャスな歌声で聞く者を魅了したスタイリスティックス。それぞれのグループは所属するレーベルも違い、独特のカラーをもっていました。その違いはそのまま当時のフィリー・ソウルの多彩さを表わしていたともいえます。
<オージェイズ The O'Jays >
フィリー・ソウルを代表するコーラス・グループ、オージェイズは、ギャンブル&ハフとの出会いによってチャンスをつかんだ幸運なグループです。オリジナル・メンバーのエディ・レヴァート(1942年6月16日生まれ)とウォルター・ウィリアムズ(1942年8月25日生まれ)は、オハイオ州カントンで育った幼馴染でした。1958年、二人は他の3人の友人と5人組みのドゥーワップ・コーラス・グループ、トライアンフスを結成します。その後、グループ名を「マスコッツ」と変え、1959年キング・レコードでレコーディングを行いました。結局、その録音はレコードになりませんでしたが、彼らの才能を認めてくれたクリーブランドのDJ、エディ・オージェイがスポンサーになってくれます。そして、この時、彼らはその恩人の名前をもらい再びグループ名を改名、「オージェイズ」が誕生したのでした。
「オージェイズ」名義の最初のシングル「ミラクルズ」はオハイオ州内限定とはいえ、そこそこのヒットとなり、そのおかげで彼らはニューヨークのアポロ・レーベルと契約することができました。こうして、ショービジネスの本場ニューヨークに進出した彼らですが、その後ヒット曲には恵まれず、ナット・キング・コールやルー・ロウルズなどのバック・コーラスを勤めながらチャンスを待つことになりました。その間、レコード会社もアポロからリトルスター、インペリアルと次々に変りますが、どのレーベルでヒット曲を出すことができず、1965年ついに彼らは地元のクリーブランドに戻って来てしまいます。この時、グループのメンバーも一人減り、グループは解散の危機に追い込まれました。
しかし、1967年「I'll be Sweeter Tommorrow」がR&Bチャートの8位まで上昇するヒットとなり、やっと彼らにもチャンスが巡ってきます。1969年、彼らはケニー・ギャンブルトレオン・ハフのコンビと出会い、彼らが立ち上げたネプチューン・レーベルから「One
Night Affair」をヒットさせます。ところが、ネプチューンもまた営業体制が整わないうちに倒産してしまいます。再び居場所を失った彼らを救ったのは、意外なことに大手レーベルCBSの思惑でした。
CBSのやり手の新社長クライブ・デイヴィスは、ソウルの人気に便乗するため、モータウンやスタックスに匹敵するソウル系のレーベル設立を目論んでいました。そこで彼はプロデューサーとして活躍していたギャンブル&ハフのコンビに目をつけます。彼らに資金を提供し、レーベル設立を持ちかけ、その販売をCBSで請け負うことを提案したのです。資金と営業活動全般のバック・アップを得られることになった二人は、本格的に音楽活動に専念できるようになり、いよいよその才能を存分に発揮できるようになりました。
そして、二人が最初に取り組んだアーティストが、オージェイズでした。1971年オージェイズはギャンブル&ハフの全面的なバック・アップを得て、新レーベル、PIRから次々とヒットを飛ばしてゆくことになります。
「裏切り者のテーマ Back Stabbers」(1972年ポップ・チャート3位)、「ラブ・トレイン
Love Train」(1973年P1位)、「I Love
Music( Part 1)」(1975年P5位)、「愛しのマイガール
Use Ta Be My Girl」(1978年P4位)
彼らのヒット曲は、どれもR&Bチャートだけでなくポップ・チャートのベスト10に入る大ヒットとなり、「フィリー・ソウル」は一大ブームを巻き起こすことになりました。幸いなことに、彼らはフィリー・ソウルのブームが去り、ソウルの時代が終ってもなお長く活躍することができました。1987年には、ギャンブル&ハフのプロデュースによる曲「ラヴィン・ユー」がR&Bチャートのナンバー1ヒットとなり、1989年にはラップの取り入れた「Have
You Had Your Love Today」でもR&Bナンバー1を獲得しています。下積みの長さは、彼らの息の長さにつながっているのかもしれません。
<スピナーズ The Spinners>
スピナーズの前身となるコーラス・グループ、ドミンゴスは1955年ミシガン州ファーンデル出身の幼馴染3人組みパーヴィス・ディクソン、ビリー・ヘンダーソン、ヘンリー・ファームボローにジョージ・ディクソンが参加して結成されました。1957年、新たに加わったメンバー、ボビー・スミスが改名を提案。当時、大流行だったホット・ロッド・カーのホイール・キャップの呼び名「スピナーズ」を新たな名前としました。
1950年代の人気コーラス・グループ、ムーン・グロウズのモノマネが得意だったという彼らは、そのリード・ヴォーカリスト、ハーヴェイ・フークワがムーン・グロウズ解散後に設立したデトロイトのレーベル、トライファイからデビュー・シングル「That's
What Girls are made for」(1961年)を発表します。すると、ボビー・スミスのヴォーカルがやはりハーヴェイ・フークワとそっくりだったことから、このシングルはR&Bチャート8位のヒットとなりました。その後、彼らにはトライファイから5枚のシングルを発表しますが、1964年にトライファイがモータウンに吸収合併されて以降、まったくヒットが出なくなります。モータウンの場合、生え抜きやベリー・ゴーディーに気に入られたアーティストはそれなりの成功を手に入れられましたが、才能があってもチャンスをつかめないまま飼い殺し状態になってしまうアーティストも数多くいました。(グラディス・ナイトもモータウンを出て成功したアーティストです)彼らも危うくそうなるところでしたが、モータウンを離れたことで、大成功への近道が開けることになります。1971年、彼らはモータウンからアトランティックに移籍しました。ところが、その時、リード・ヴォーカルを担当していた途中参加のメンバー、G・C・キャメロンはモータウンに残る道を選び、自分代わりにと、オハイオ州シンシナティ出身のフィリップ・ウィンという人物を紹介します。ところが、そのウィンの参加こそ、スピナーズ成功の最大の原因となります。
フィリップ・ウィンは、当時、後にP−ファンクの中心人物となるブーツィー・コリンズ率いるペーズセッターズというバンドでヴォーカルを担当していました。優れたヴォーカリストであると同時にステージ・パフォーマーとしても有名だった彼の参加によりスピナーズは新たな魅力を加えてることができました。しかし、彼らを大スターにした最大の功労者は、たぶん彼らの曲を作りプロデュースも担当したフィラデルフィアからの助っ人、トム・ベルだったのでしょう。
PIRの経営者でもあったギャンブル&ハフと異なり、トム・ベルはあくまでフリーの立場でした。そのため、彼にはフィリー・ソウルのブームのおかげで他のレーベルからのプロデュース依頼が殺到。その中から彼が選んだ仕事がアトランティックからきたスピナーズのプロデュースだったのです。トム・ベルと彼らのコンビはすぐに大ヒット曲を生み出し始めます。
「I'll Be Around」(1972年ポップチャート3位)、「Could
It Be I'm Falling in Love」(1972年P4位)、「One
of a Kind (Love Affair)」(1973年P11位)、「Might
Love Part 1」(1974年P20位)、「I'm
Coming Home」(1974年P18位)そして、ディオンヌ・ワーウィックとの共演曲「Then
Came You」(1974年P1位)、「They Just
Can't Stop It The (Game People Play)」(1975年P5位)、「The
Rubberband Man」(1976年P2位)・・・どの曲もR&Bチャートだけでなくポップ・チャートの上位に食い込む大ヒットとなりました。
この後、フィリップ・ウィンはスピナーズを脱退し、ソロに転向するものの大きな活躍をすることはできず、かつてのつながりからファンカデリックのメンバーとなったこともありましたが、1984年ステージから観客席へとダイブした際に心臓麻痺を起こし、そのままこの世を去ってしまいました。(享年43歳)
スピナーズはというと、その後新たなヴォーカリスト、ジョン・エドワーズを迎え、1980年代前半までは活躍を続けますが、ヒット曲は生まれず、1985年にはアトランティックを解雇されてしまいます。その後も、彼らは解散はせずに活動を続けますが、フィリー・ソウルの黄金時代とともに彼らの黄金時代もまた去ってしまったのでした。
<スタイリスティックス The Stylistics>
スタイリスティックスは1968年にフィラデルフィアで活動していた二つのヴォーカル・グループが合併して結成されました。モナークスというグループからは後に「ミスター・ファルセット・ヴォイス」と呼ばれることになるラッセル・トンプキンズ・Jr、ジェームス・スミス、エアリオン・ラヴの三人。そのライバル・グループだったパーカッションズからは、ハーブ・マレルとジェームズ・ダン・ジュニアが参加。彼らは1970年フィラデルフィアのマイナー・レーベル、セブリングからシングル「ビッグ・ガール
You're A Big Girl Now」を発表。それが地域限定のヒットとなり、アブコ・レーベルによって全国発売されると一気にR&Bチャートの7位まで上昇。デビュー曲でいきなりチャンスをつかみます。アブコ・レーベルは、さっそくセブリングからスタイリスティックスの契約を買い取り、彼らをスターに育てようと考えます。そこで彼らのために呼ばれたのがフィリー・ソウルの仕掛け人、トム・ベルで彼がプロデュース、編集、作曲を担当し、作詞家のリンダ・クリードとともにスタイリスティックスは新たなスタートを切ることになります。
「Stop,Look,Listen(To Your Heart)」(1971年P39位)、「Betcha
By Golly,Wow」(1972年P3位)、「愛の世界
People Make The World Go Round」(1972年P25位)「愛のとりこ
I'm Stone In Love with You」(1972年P10位)、「Break
up to make up」(1973年P5位)、「Rockin'
Roll Baby」(1973年P14位、初のアップテンポ・ナンバー)そして、最大のヒットとなった「誓い
You Make Me Feel Brand New」(1974年P2位)。彼は次々とヒットを連発して行きましたが、そこにはトム・ベルによるしっかりとした戦略があったようです。
「ミスター・ファルセット」とも言われるラッセル・トンプキンズの甘い歌声とフィリー・ソウルの十八番ともいえるMFSBのストリングスの組み合わせは、そのままだと甘くなりすぎてしまうと考えたトム・ベルは、ストリングスにエレクトリック・ピアノを加え、さらにドラムスとベースによるリズムの味付けを強調。ヴォーカルの甘さを引き立たせる工夫をほどこしていたと言われています。ところが、1970年代半ばトム・ベルはアトランティックからのお呼びで今度はスピナーズのプロデュースにかかりっきりになります。しかたなく、アブコは社内のメンバーでプロデュースを行うことになりますが、トム・ベルに匹敵する人材がいなかったことと、新たに加わった編曲担当のヴァン・マッコイが目一杯甘い味付けをするようになったことで、しだいにその勢いを失ってゆくことになります。それでも1970年代後半、彼らの人気はイギリスや日本などで高まり、世界ツアーを行うなど活躍を続けることができました。「ミスター・ファルセット」のもつ唯一無二の声の魅力は、そう簡単に忘れられることはなかったようです。
その後、ジェームズ・ダンとジェームズ・スミスが脱退し、3人のメンバーになって以降も、彼らは活動を続け、21世紀にまでその美しいファルセットを響かせ続けることになります。やはり「ソウル」にとって「美しい声」ほど大きな財産はないのかもしれません。
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