- ギャンブル&ハフ、トム・ベル、PIRをブレイクさせた男たち -

<1970年代音楽状況の変化>
 1970年代に入り、アメリカにおける黒人音楽の勢力地図は少しずつ変化し始めていました。1960年代後半に一大ブームを巻き起こしたスタックスは、オーティス・レディングの死や社内における白人、黒人経営陣の対立により、内部分裂を起こし急激にその勢いを失いつつありました。(1976年、スタックスは倒産に追い込まれます)
 同じく1960年代に黄金時代を迎えていたモータウンもまたその栄光に陰りが見え始めていました。スティービー・ワンダージャクソン5など、大物アーティストたちの移籍やH−D−Hの独立によって、しだいに勢いを失いつつあったうえに、ワンマン社長ベリー・ゴーディーが映画界進出を目指したことから1972年にデトロイトからロスアンゼルスへとその本拠地を移したことで、いよいよその凋落は避けられない状況になります。(この時、多くの優秀なスタッフが彼の元を去ってゆきました)
 そんな1970年代前半、ソウル界で一際輝きを放っていたのがフィラデルフィア発のフィリー・ソウルをブレイクさせたPIRことフィラデルフィア・インターナショナル・レコードでした。1970年代も半ばを過ぎるとディスコのブームによってソウルの黄金時代はいっきに終わりを迎えるだけに、このPIRの活躍はR&B、ソウルの時代にとって最後の輝きだったといえるかもしれません。しかし、モータウンやスタックスに比べるとPIRへの評価は明らかに低く、その詳細についてもあまり知られていません。それはもしかするとPIRが生み出したフィリー・ソウルの特徴がゴージャスなストリングスや美しいコーラスにあったことから「黒っぽさ」に欠けると思われていたからかもしれません。多くの黒人音楽ファンにとって、ソウル、R&Bの「黒っぽさ」はその魅力度を測る鍵です。それだけに、ヨーロッパ的で華麗なストリングスや美しいスタイリスティックスのファルセット・ヴォイスなどは、「黒人音楽らしいソウルっぽさ」が感じられないと思われがちだったように思います。
 その後、ハウスの人気やダンス・ミュージックの変化、そしてサンプリングによる過去の音楽の再利用のブーム訪れる中でフィリー・ソウルが再評価されるようになったのは、そうした「黒っぽくない部分」もやっと認められるようになってきたからでしょう。
 それにしても、あの美しいストリングス・サウンドを生み出したのは、どんな人々だったのでしょう?あの伝説の番組「ソウル・トレイン」のテーマ曲「TSOP(The Sound of Philadelphia)」に代表されるフィリー・ソウルの仕掛け人たちの歴史に迫ってみたいと思います。

<フィリー・ソウルの仕掛け人>
 モータウンのサウンドが、H−D−H(ホランド兄弟とラモン・ドジャー)やスモーキー・ロビンソンらの優秀なソング・ライターたちとファンク・ブラザースを中心とするスタジオ・ミュージシャンたちの共同作業によって生み出されたように、PIRのサウンドもまた優れたソング・ライターたちと優れたスタジオ・ミュージシャンの集合体MFSB(Mother,Father,Sister,Brother)らによる共同作業が生み出したものでした。ここでは先ず、PIRの設立者でもあるソングライター・コンビ、ギャンブル&ハフから話を始めたいと思います。

<ギャンブル&ハフ>
 ケニー・ギャンブルは、1943年フィラデルフィア生まれの作詞家で当初はアーティストとしても活動していました。(あのホール&オーツのダリル・ホールが在籍していたフィラデルフィアのヴォーカル・グループ、ロミオズのリーダーだったこともあります)
 彼とコンビを組むことになるピアニスト兼アレンジャーのレオン・ハフは、1942年ニュージャージー州で生まれています。1960年代前半、二人はモータウン・サウンドのようなソウルフルかつポップなサウンドを目指し、フィラデルフィアのインデペンデント・レーベル、カメオでスタッフ・ライターとして働いていました。
 60年代後半、二人は独立してギャンブルというレーベルを設立し、イントゥルーダーズ The Intruders というヴォーカル・グループをデビューさせます。フィリー・ソウルの先駆けとなったそのグループはそこそこのヒットを飛ばしますが、企業としてのギャンブル・レーベルは経営基盤が弱く、1968年チェスの傘下となってしまいます。ところが、親会社となったチェスもまたすでに往時の勢いを失っており、経営が悪化、他社に買い取られてしまい、ギャンブル・レーベルは自然消滅してしまいます。しかたなく、二人は新レーベル、ネプチューンを立ち上げ、そこから、後に大スターとなるオージェイズをデビューさせます。オージェイズはすぐに「ワン・ナイト・アフェアー」「ルッキー、ルッキー」をヒットさせ、後の成功を予感させる活躍を開始しますが、ネプチューンもまた資金繰りに苦労し、利益を出す前に倒産してしまいます。
 しかたなく、彼らはアトランティックのアーティストたち、ウィルソン・ピケットやダスティー・スプリングフィールドなどのプロデュースを任されたり、CBSの白人女性アーティスト、ローラ・ニーロのアルバム「Gonna Take A Miracle」の制作を請け負うなど、バイト生活を余儀なくされます。しかし、それらの仕事のどれもが高い評価を受け、彼らは業界から凄腕のプロデューサーとして注目されることになります。

<PIRスタート>
 ちょうどその頃、大手レーベルCBSの新社長クライブ・デイヴィスは自社のブラック・ミュージック部門を強化するための方策を練っていました。彼はギャンブル&ハフのコンビに目をつけ、二人にレーベルを興させ、その配給を行おうと考えます。これは両者にとって都合の良いアイデアでした。CBSにとっては、モータウンやアトランティックに対抗できる黒人音楽の一部門を苦労無しで手に入れることができます。ギャンブル&ハフにとっては、CBSの後ろ盾を得ることでレーベルの経営についての心配をすること無しに音楽制作に集中することができるようになったのです。こうして、PIR(Philadelphia International Records)がスタートを切ることになりますが、あの美しいフィリー・ソウルのスタイルを完成させるためには、もうひとり重要な人材が必要でした。それはギャンブル&ハフと同じく、かつてカメオ・レーベルでピアニストとして働いていたトム・ベルです。

<トム・ベル>
 1941年、フィラデルフィア生まれのトム・ベルは、子供の頃からクラシック音楽を聴いて育ち、正式な音楽教育を受けていました。彼こそ、フィリー・ソウルお得意の美しいオーケストレーションの生みの親でした。そんな彼の才能が生み出した最初の大ヒットは1968年3人組のコーラス・グループ、デルフォニックス The Delfonics が大ヒットさせた「La La Means I Love You」です。山下達郎のカバーで有名なこの曲は全米4位の大ヒットとなり、フィリー・ソウルの名を全米に知らしめるきっかけとなりました。
 ケニー・ギャンブルとトム・ベルはかつてコンビを組んでアーティストとして活動していたこともある仲だったこともあり、PIRの設立と同時にトムは作曲家兼アレンジャーとして参加。こうして、「マイティー3」と呼ばれることになるPIRの立役者三人がそろいました。

<MFSB(伝説のスタジオ・ミュージシャンたち)>
 それでは「マイティー3」の才能を実現するために不可欠だった存在、MFSBを中心とするPIRのスタジオ・ミュージシャンたちに話を移しましょう。彼らが働いていたフィラデルフィアの新名所シグマ・スタジオは、ギャンブル&ハフがかつて働いていたカメオ・レーベルのエンジニアだったジョー・ターシャが1968年に設立したスタジオでした。しかし、カメオ・レーベルは同じ年に倒産してしまい、その後を引き継ぐようにPIRが使用するようになったのでした。(PIRの社屋もカメオが使っていたビルだったといいます)
 こうして、フィリー・ソウルの美しい名曲の数々のほとんどがジョー・ターシャがエンジニアを勤めるシグマ・スタジオから生まれることになりました。そして、そのスタジオ専属のバンドとして活動していたのがアレンジャーのボビー・マーティン率いるMFSBでした。ストリングスやホーンのメンバーも含めると総勢30人には達していたと思われるバンドの主なミュージシャンは以下のような顔ぶれでした。
 先ず、モータウンの「ファンク・ブラザース」に匹敵する中心メンバーとして、ギタリストのノーマン・ハリス、ベースのロニー・ベイカー、ドラムのアール・ヤングの3人がいます。(やはりブラック・ミュージックの基本はリズム隊にあるようです)この三人はB−H−Yとも呼ばれ、後にトランプスというバンドを結成し、1977年アトランティック・レーベルから「Disco Inferno」という大ヒットを飛ばすことになります。(この曲、あの映画「サタデー・ナイト・フィーバー」のサントラ盤に収録されていますから、多くの人が聞いているはずです)
 さらにギタリストとしては、ボビー・イーライ、ローランド・チェンバース。ヴィブラフォン奏者のヴィンス・モンタナ。キーボード奏者ではレニー・パクラ、ロン・カーシー、デクスター・ワンセル、バニー・シグラー。コンガやボンゴなどラテン・パーカッションの担当はラリー・ワシントン。サックス&フルート奏者のジャック・フェイス、ストリングス&ホーン隊を率いるリーダーがドン・レナルド。その他、女性コーラス隊のフィラデルフィア・エンジェルスもいました。MFSBに所属するミュージシャンたちの特徴は、「Mother,Father,Sister,Brither」というバンド名が示しているように、男女混合であり、白人、黒人、ヒスパニック系、アジア系と民族的にも、年齢層的にも幅の広いメンバーから構成されていました。それはまさに70年代に訪れた人種融和を象徴するバンドだったといえます。こうして、MFSBをバックに1970年代初めから半ばにかけて次々とフィリー・ソウルの名曲が生み出されて行くことになります。

<PIRのスターたち>
 
PIRが最初に売り出したアーティストは、以前からギャンブル&ハフのお気に入りだったコーラス・グループ、オージェイズ The O'Jays でした。彼らは「裏切り者のテーマ Back Stabbers」(1972年全米3位)や「ラブ・トレイン Love Train」(1973年全米1位)などの大ヒットを放ち、一躍PIRの名を全米に知らしめました。力強いシャウトと美しいストリングスが組み合わされたオージェイズのサウンドには実はもうひとつ特徴がありました。それは歌詞がもつメッセージ性です。元々ブラック・ムスリムの熱心な信者だったケニー・ギャンブルは作詞家として社会的なメッセージをオージェイズの曲にこめていました。特にアルバムにはトータル・コンセプト・アルバムとして高い完成度に達していました。こうしたアルバム作りは、当時ロック界で一般的になりつつあったスタイルでもあり、マーヴィン・ゲイカーティス・メイフィールドらニュー・ソウルのアーティストたちの作品とも共通する斬新なものでした。奴隷制度を取り上げた「Ship Ahoy」、環境問題について歌った「The Air I Breathe」、汚職問題を告発した「Bad Luck」など、曲のさわやかさと異なり彼らの曲は、ギャンブルの信仰心を表明する場ともなっていましたが、とにかく曲が素晴らしかったこともあり、そんな思想性などお構い無しに彼らのアルバムは売れました。(彼らはトップ40入りするアルバムを8枚発表しています)
 オージェイズ以外では、後にソロ・アーティストとして活躍することになるテディ・ペンダーグラス Teddy Pendergrass が在籍していたヴォーカル・グループ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツ Harold Melvin and the Blue Notes 。ラブ・バラード「Me And Mrs.Jones」を大ヒットさせたビリー・ポール Billy Paul 。70年代半ばにはアメリカ国内よりも日本での人気の方が高くなるスリー・ディグリーズ The Three Degreesは、MFSBをバックに歌ったソウル・トレインのテーマ「TSOP」(1974年全米1位)で一躍人気者になりました。もちろん、前述のMFSBも単独でインストロメンタル・アルバム「MFSB:Love is the Message」(1973年)を発表するなど、スタジオ外でも活躍していました。

<PIR以外のアーティストたち>
 トム・ベルの場合は、PIRの社員ではなくフリーの立場だったので、他社のアーティストたちのプロデュースもかなり担当しています。その代表的アーティストのひとつがスタイリスティックス The Stylisticsです。「ミスター・ファルセット・ヴォイス」と呼ばれたラッセル・トンプキンス・Jrをリード・ヴォーカルとする美しいハーモニーは日本でも大人気となり、「You Make Me Feel Brand New(1974年)は日本で大ヒットしました。その後トム・ベルはアトランティック・レコードからの依頼を受け、スピナーズ The Spinnersのプロデュースを担当。彼らもまた一躍大スターとなります。彼らのアルバム「Spinners」(1973年)もまたフィリー・ソウルを代表する作品となりました。このアルバムからは「I'll Be Around」、「One of A Kind( Love Affair)」、「Could It Be I 'm Falling In Love」の3曲がR&Bチャートのナンバー1に輝いています。
 スピナーズの場合は元々フィラデルフィアとは関わりはありませんでしたが、ヒットのきっかけを求めてフィラデルフィアを訪れ、そこで見事に花開いたアーティストとなりました。こうした彼らの成功もあり、その後、フィラデルフィアにはフィリー・ソウルの音を求め、その恩恵にあずかろうとする多くのアーティストたちがやって来ることになります。モータウンからエピックに移籍したジャクソンズ The Jacksonsの移籍第一弾「The Jacksons」(1976年)はギャンブル&ハフのプロデュースのもと、シグマ・スタジオで録音が行われました。
 PIRへの移籍で大スターになったアーティストとしては、ワン・アンド・オンリーの渋い声の持ち主ルー・ロウルズ Lou Rawls もいます。
 その他、ウィスパーズ、デルズ、テンプテーションズ、フォー・トップス、エディ・ケンドリックス、カーティス・メイフィールド、ゴスペル系でもマイティ・クラウズ・オブ・ジョイなどがフィラデルフィアで録音を行いましたが、その後は白人の大物アーティストたちもがシグマ・スタジオで録音を行うようになります。
 エルトン・ジョンのこの時の録音は「The Complete Thom Bell Sessions」(1989年)として発売されています。そして、デヴィッド・ボウイの「Young Americans」(1975年)もまたシグマ録音の作品です。こうして、1970年代半ば、PIRとフィリー・ソウルはいよいよ黄金時代を迎えますが、それは残念ながら衰退への始まりでもありました。そして、それにはいくつかの理由がありました。
 1975年、ヴァン・マッコイの「ハッスル」、1977年の映画「サタデイ・ナイト・フィーバー」のメガヒットによるディスコの世界的大ブームも、その一因でした。ディスコののブームでは当初フィリー・ソウルの特徴でもある華麗なストリングスが主役の一人でした。しかし、その中心的存在だったMFSBはディスコ・ブームの中、ギャンブル&ハフの元を離れ、サルソウル・レーベルへと移籍。ヴィンス・モンタナ率いるサルソウル・オーケストラへと変身してゆきます。残念ながら、そこで彼らは売れ筋のサウンドを繰り返し演奏することにそのパワーを使い果たしてゆくことになります。(ただし、ここから後のハウス・ブームの原点の一つとなるサルソウル・レーベルの時代が始まることになります。しかし、このお話はまた別の機会で・・・)

<フィリー・ソウルの衰退>
 ブラック・ムスリムの思想にこだわり、黒人たちの改宗を目指すことに力をそそぐケニー・ギャンブルの考え方は、しだいに時代の流れと合わなくなり、それが親会社CBSとの対立へと発展。こうした経営陣の混乱もまたPIR弱体化の原因となりました。
 しかし、「ソウル・ミュージック」自体が急激に過去の音楽になっていった1980年代はどちらにしても厳しい時代でした。それでもPIRは何度も消滅の危機に追い込まれながら、90年代に復活、フィリー・ソウルの伝統とともに20世紀を乗り切ることになります。
 フィリー・ソウルが生み出したソウルフルなヴォーカルと華麗なストリングス、ノリの良いラテン・パーカッションの見事な融合は、1970年代初めの民族融和の理想が生み出した奇跡の音だったのかもしれません。多くの優れたミュージシャンによって生み出されたその音楽を21世紀の今、再現することは限りなく困難なことです。
 先ず第一にMFSBに匹敵するゴージャスかつダンサブルな音楽集団を結成、維持してゆくこと自体、現代では不可能に思えます。21世紀の今、Mother,Father,Sister,Brotherの絆はあまりにも弱くなってしまいました。かつて音楽を生み出すために流されたBlood,Sweat&Tearsももう必要なくなったのかもしれません。コンピューターの普及は誰もが自分の手で音楽を生み出せる時代をもたらしましたが、職人達の絆によって生み出される「匠の技」を永久に消し去りつつあるかもしれません。

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