20世紀日本写真史

<1984年~1998年>

- 上野竜馬、野島康三、木村伊兵衛、土門拳、森山大道、篠山紀信、荒木経惟・・・ -
<19世紀>
<1841年>
 6月1日、オランダ商館出入りの貿易商、上野俊之丞がカメラの原型であるダゲレオタイプを使って、後に島津藩藩主となる島津斉彬の撮影を行いました。
 そのため、6月1日は「写真の日」となっています。
<1849年>
 ダゲレオタイプを購入した島津斉彬は、川本幸民らの蘭学者にダゲレオタイプを開発させ、1857年にやっとそれが成功します。
 ただし、この頃すでにダゲレオタイプに代わる湿式コロジオン法が主流になりつつありました。
<1854年>
 黒船に乗ってやってきたペリー提督はダゲレオタイプを使う写真家エリファット・ブラウン・Jr.を伴っていました。彼は日本滞在中に全国各地、琉球、下田、横浜、函館などで400枚から500枚の貴重な撮影を行いました。
 狩野派の絵師だった下岡蓮杖は薩摩藩の江戸屋敷で「銀板写真」を見て衝撃を受けます。そして、アメリカ人貿易商ラファエル・ショイヤーの家に使用人として住み込み、写真技術について学びました。
<1857年>
 長崎在住の上野竜馬がオランダ人医師ポンペ・ファン・メーデルフォルトが教える長崎海軍伝習所に入学。そこで写真に興味を持った彼は、湿板写真法について研究を始めます。
<1862年>
 下岡蓮杖が江戸の野毛で写真館を開業します。
 上野竜馬も長崎で「一等写真師上野竜馬」の看板を掲げて写真館を開業しました。そこであの有名な「坂本龍馬のポートレイト」などを撮影し、幕末から明治維新における貴重な写真を撮ることになりました。
<1863年>
 イタリア系英国人フェリックス・ベアトが来日。報道カメラマンとして英国海軍と共にインド、中国などを巡ってきた彼は画家のチャールズ・ワーグマンと共同で横浜に写真撮影のためのスタジオを設立。
 日本各地を旅しながら、様々な風景や人物を撮影。侍、力士、芸者、富士山、日光など、日本的イメージの基本になる写真を撮影。モノクロ写真に彩色を施し、豪華な製本による写真集を制作。それを増え始めていた外国人旅行者に販売するビジネスを展開します。これらの写真は「横浜写真」と呼ばれるようになり、日本の重要な輸出品の一つになります。こうして海外に流失した写真によって、日本のイメージが形成されることになります。
<1866年>
 木津幸吉が1858年に開港した函館で写真館を開業。彼は東京に移転しますが、その後継者として田本研造が開業。
 田本はロシア領事館の医師ゼレンスキーに写真について学びながら、開拓の記録となる写真を数多く撮影しました。五稜郭で闘い幕府軍に破れた榎本武揚や土方歳三などの貴重な肖像写真も彼が撮影しました。
 1871年には開拓使から正式に依頼され、開拓の状況を写真として記録する仕事につくことになりました。こうして早くから写真による記録が実施されたこともあり、北海道は横浜、東京と共に写真文化が早くから発達する土地となります。
<1869年>
 上野竜馬に学んだ内田九一が、神戸、大阪、横浜を経て東京で写真館を開業。彼は1872年、宮内省からの命により、明治天皇の肖像写真「御真影」の撮影を行いました。
<1872年>
 田本に続き、開拓使は記録のための撮影をオーストリア人カメラマンでベアトの後継者だったスティルフリート=ラテニッツに依頼します。彼は札幌、白石村、勇払、白老などで50日に渡り撮影を行いました。アイヌの村や住民たちの生活も撮影しています。この時に、彼の助手を務めた武林盛一はスティルフリートの機材をゆずりうけて札幌で武林写真館を開業。その後も道内で多くの撮影を行いました。
<1889年>
 日本最初の素人写真家団体となった日本写真会が東京で設立されました。創立当初の会員は56名で、会長は函館の五稜郭で最後まで戦った江戸幕府の生き残り、榎本武揚でした。その中には、大学教授や外国人建築家ウィリアム・K・バートン、それにプロの写真師もいました。
 この年の6月には、同じく東京で酒問屋の鹿島清兵衛を中心に華族などをメンバーにした大日本写真品評会が結成されます。鹿島は能役者の梅若万三郎の等身大ポートレイトを内国勧業博覧会に出品するなど写真文化のために活躍。
<1895年>
 鹿島清兵衛が京橋に2階建ての西洋館、大写真館「玄鹿館」をオープンさせます。回り舞台式のスタジオや多種の貸衣装もそろえた写真の殿堂として大きな話題となりました。ただし、彼の活動は一族の多くの資産を失うことになり、親族から批判された後、家から追い出されることになります。その後の彼の人生は悲劇的な終わりを迎えます。

<20世紀>
<1900年代>
 20世紀に入り、カメラはしだいに安価なものとなり、日本各地に写真館もでき、庶民の中からも優れたカメラマンが登場するようになります。
 この時期、写真家たちの間で写真を絵画と同じような芸術の一ジャンルとする考え方が主流となり、正確に写し取るのとは異なる価値が重視されるようになります。そうした考えのもとで東京写真研究会(1907年)、浪華写真倶楽部(1904年)が設立されました。江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜もアマチュア写真家として活躍し、写真誌に写真を投稿していました。

<芸術写真の時代>
 大正時代は「芸術写真」の黄金時代でもありました。その中の代表的写真家として野島康三と福原信三がいます。
 野島康三は、中井銀行の頭取の長男で、1909年に東京写真会に入会。1912年「にごれる海」で第三回研展で2等に入選。ヌード写真にも本格的に取り組んだ写真家で、さらには自ら洋画の画廊を開設し、写真だけでなく芸術界全体との関係を深め、大正時代のアート全般に影響を与え続けました。
 福原信三は、資生堂の経営者、福原有信の三男。早くから資生堂の後継者になるため、アメリカやヨーロッパで学び、その間、各地の美術館を巡るだけでなく、著名な写真家を訪ねるなどしました。その間、ヨーロッパで撮影した写真は、日本人によって撮影された貴重な記録と言えます。1921年には、雑誌「写真芸術」の発行を開始します。

<1920年代>
<1921年>
 1921年(大正10年)以降、カメラは資産家だけでなくいよいよ一般大衆にまで広がり、誰でも手が出せる趣味となっていました。この年の4月には、アルスがカメラ雑誌「カメラ」を創刊。本格的にアマチュア・カメラマンの時代が始まります。
<1923年>
 「アサヒグラフ」創刊。
<1930年代前半>
<1930年>
 「フォトタイムス」編集主幹、木村専一を中心に、堀野正雄、渡辺義雄らによって振興写真研究会が結成されます。この時の彼らの主張はこうでした。
「傾向的には写真印刷、又は大量生産を前提とし、技術的にはメカニズムの認識とレンズアイの肯定。対社会的にはあらゆる社会層、又は生活層に向かっての広汎な応用写真術の開拓が吾等の宣言した主張」
<1931年>
 東京と大阪で朝日新聞社主催による「ドイツ国際移動写真展」が開催されました。そこで、マン・レイらヨーロッパのアーティストたちの作品が初めて公開され、日本のカメラマンたちに衝撃を与えることになりました。
<1932年>
 野島康三、中山岩太、木村伊兵衛により、月刊写真誌「光画」が創刊。
 中山岩太は、1918年東京美術学校臨時写真科を卒業後、渡米。ニューヨークで肖像写真館を経営した後、1926年からはパリで藤田嗣治らとも交流し、翌年に帰国すると兵庫県芦屋でスタジオを開業しました。
 木村伊兵衛は、東京下町の生まれで、日暮里で写真館を営業。その後、花王石鹸の広告部で商業写真家として働き始めました。その傍ら、当時まだ日本になかったライカのカメラを持って、東京の下町でスナップ写真を撮りまくり、それを「光画」に投稿し始めます。
 「光画」は、「新興写真」の写真家たちが作品を発表する場となり、そこから飯田幸次郎ら多くの写真家が登場することになります。しかし、残念ながら「光画」は1年半、18冊の写真集を世に送り出した後、終了することになりました。
<1933年>
 南満州鉄道が、写真雑誌「満州グラフ」を発行。
<1930年代後半>
 1930年代後半になると「新興写真」は行き詰まり、より前衛的なシュルレアリスム的な写真が登場します。
 1937年には花和銀吉、平井輝七らが「アヴァンギャルド造影集団」を結成。ところが、1939年になるとアヴァンギャルド=共産主義という理由から政府による圧力が写真家たちにも及ぶようになります。それどころか、戦況が悪化してきたことで、様々な材料を必要とする「写真」は、その存在すらあやうくなりました。
 唯一、戦時中も活動が続いたのは、「新興写真」のブームと並行して発展していた「報道写真」の分野でした。
 1932年、ドイツから帰国した名取洋之助は、ウルシュタイン社の特派員として日本で報道カメラマンとして活動。その後は、独立して満州事変を取材し、日本における報道写真の草分けとして後身を育てることになりました。
 1934年、彼は木村伊兵衛と共同で紀伊国屋で「報道写真展」を開催。さらに彼はこの年、名取は海外向けの日本文化紹介誌「NIPPON」を刊行しています。この写真誌には、山名文夫、河野鷹思ら一流デザイナーが参加しています。写真は、名取以外にも、堀野正雄、渡辺義雄らも出典。スタッフの中には、後に大活躍する土門拳、亀倉雄策らもいました。
 当時「ルポルタージュ・フォト」という呼び名を「報道写真」と翻訳した評論家の伊奈信男は雑誌「セルパン」(1935年)にこう書いています。
「報道写真とはニュース写真をも乞含する、あらゆる報道を行う写真であるが、その中心をなすものは、単なるニュース写真ではなく、自然と人生とのあらゆる現象と事実とを幾枚かの「組写真」によって報道するものである。しかもそれは主として印刷化を通じて行われるのである。報道写真に於いて写真は最も偉力を発揮する。言葉や文字による報道においては直接的なイメージを喚起し得ない。・・・印刷によって大衆的伝達の可能となった報道写真こそは、イデオロギー形成のための絶大な武器である。・・・」

<1935年>
 写真雑誌「ホーム・ライフ」創刊
<1936年>
 写真雑誌「グラフィック」創刊。
<1938年>
 内閣情報部による国策宣伝雑誌「写真週報」を発行開始。
 当初、報道写真は客観的で自由な撮影と発表を理想とする媒体でした。しかし、戦争へと向かう時代の流れはそれとは異なる方向へと向かわせることになります。
<写真誌「FRONT」>
 軍と三井財閥の援助によって発行された豪華な国策写真誌。スタッフには、木村伊兵衛らと共に左派のメンバーもまぎれており、リベラル派の隠れ蓑的存在だったとも言われます。1942年1月に創刊号として「海軍号」が発刊。大判の紙面はアメリカの「ライフ」やソ連の「ソ連建設」を意識していました。様々な意味で戦前における報道写真の技術を結集した作品だったと言えます。
<1945年終戦後>
 終戦後、1946年にカメラ雑誌「カメラ」(アルス)が復刊。編集長は伊藤逸平で土門拳、福田勝治、真継不二夫らが写真を掲載していました。同年、グラフ誌「世界画報」も渡辺勉が編集長として創刊されています。
その他にも次々と写真雑誌が創刊または復刊されます。
 月刊「光画」(1947年)、「アマチュア写真叢書」(1948年)、「フォトアート」(1949年)、「アサヒカメラ」(1949年)、「日本カメラ」(1950年)・・・
 1947年創刊の「週刊サンニュース」は、日本版「ライフ」を目指し、名取洋之助が出版。木村伊兵衛らを中心に本格的フォトジャーナリズム雑誌でしたが営業的には失敗し、1949年に廃刊となりました。
 1950年代はいると、それまで高価な輸入カメラが主流だった中、急速に品質が向上した国産カメラが大衆に広がり始めます。

<1950年代>
<1950年>
 木村伊兵衛を会長としてプロ写真家の組織、日本写真家協会JPSが設立されます。
 さらにタイム社のカメラマン三木淳の提唱により土門拳、木村伊兵衛らを顧問として「集団フォト」が結成されます。(佐伯義勝、田沼武能、樋口進らが所属)集団フォトは1951年6月に第一回展として「日仏米英連合写真展」を開催しました。そこで日本で初めてアンリ・カルティエ=ブレッソン、カール・マイダンスらの作品が展示され、ブレッソンが主張していた「決定的瞬間」が多くのカメラマンに影響を与えることになりました。
<リアリズム写真運動>
 1950年代「カメラ」誌を舞台に展開されたリアリズム写真運動は、その後の写真家に大きな影響を与えることになりました。
 そのきっかけとなったのは、1948年に「カメラ」誌の編集長になった桑原甲子雄が投稿写真の審査を土門拳と木村伊兵衛に依頼したことでした。
 土門と木村はリアリズムを追求する写真を評価。
「あくまで対象のモチーフに対する客観的な真実だけを追求するもので、作者の主観的なイメージやファンタジイを追求する世界じゃない」
 東松照明、川田喜久治らは、ここから活躍を開始することになります。
「僕たちはモチーフが叫ぶ声に耳をかたむけ、その指示するがままにカメラを操作すればよいのです。その指示のままにカメラが操作される時、カメラとモチーフの直結が現前するのであります」
土門拳

 しかし、こうした徹底したリアリズムはしだいに行き詰まることになります。「カメラ」誌は1956年に廃刊となり、土門は新たな方向性を模索し始めることになります。
<1953年>
 第38回二科展に写真部が新設されました。初代会員のなったのは、林忠彦、秋山庄太郎、大竹省二、早田雄二ら。
<1955年>
 日本写真批評家クラブ結成。参加メンバーは、伊藤逸平、伊奈信男、金丸重嶺、重森弘淹、渡辺勉ら。

<主観主義写真運動>
 1950年代には「主観主義写真」のブームもありました。その提唱者はドイツのオットー・シュタイナート。日本では「カメラ」誌が「モダン・ヨーロピアン・フォトグラファの主観主義写真」として紹介しました。ラースロー・モホリ=ナジ、ハンス・ハマーシュケルト、ペーター・キートマンらの抽象パターン的な写真が代表的な存在。
「主観が持つ個性的なしかも自由な実験的な技術のなかから、新しい人間性も、新しい造型性もともに発見したいという考え」に基づいた写真です。日本では「リアリズム」に対抗する存在として注目されました。
 1956年、瀧口修造、阿部展也、三瀬幸一、本庄光郎らが日本主観主義写真連盟を結成。この年の12月に「第一回国際主観主義写真展」が東京で開催されました。
 山陰地方で独自の写真を撮り続けていた植田正治は、この写真展に参加し、その名を知られることになります。
<1950年代後半>
 1950年代後半になると、日本社会は安保闘争などで大きく揺れる混乱期となりました。
 そして、そうした運動を記録するドキュメンタリー的な写真が大きな注目を浴びることになり、ストーリーを重視した「報道写真」が時代の主流となってゆきます。
<映像世代の登場>
 ストーリーを重視する「報道写真」に対し、それに反発する写真家たちは「自由意志」が生み出す「映像」を重視するようになります。そうした写真家たちの中から「映像世代」とも呼ばれるグループが登場します。
 アメリカの国籍をもち、シカゴのインスティテュート・オブ・デザインの写真科で学んだ石元泰博は、帰国後そのきっかけとなった人物です。
 1956年、彼が中心となって作品が集められた「ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)展」は、大きな話題となりました。
<奈良原一高>
 早稲田大学でスペイン美術を専攻していた奈良原一高は、桜島の開拓村と長崎の軍艦島を撮影し「人間の土地」という写真展を開催し、話題となりました。
「写真家は撮る事によって考えてゆきます。私はこの二種の「土地」を撮ることに従って、今日生きることを考えたかったのです。だから単なる事実の報道の意味をこえてエッセイとして意図をこの作品に抱きました。パーソナル・ドキュメントと云うべき方法をめざしたのも必然でした。・・・」
奈良原一高

<1957年>
 第一回日本写真批評家協会作家賞が発表され、石元泰博、中村正也、東松照明が受賞。
「10人の眼」展
 奈良原石元康博、東松照明、細江英公、川田喜久治、佐藤明、丹野章、常盤とよ子、中村正也、川原舜による「10人の眼」展が開催されました。奈良原、東松、細江、川田、佐藤、丹野は、6人のメンバーからなる写真家集団VIVOを結成します。このメンバーはこの後、それぞれ個性的な作品を発表して行きます。
 奈良原の「王国」(1958年)「カオスの地」(1960年)、川田「地図」(1961年)「聖なる世界」(1971年)、細江「おとこと女」(1960年)「薔薇刑」(1963年)、佐藤「サイクロピアン」(1962年)、丹野「サーカス」(1956年~57年)
 東松は、1961年に長崎を取材し、それまでにない作品を発表しました。「11時02分で停止した時と、1945年8月9日11時02分を基点とする現在進行形の時間」(1961年)「家」(1960年)「アスファルト」(1961年)
<1958年>
 女流写真家協会が設立され、今井寿恵、常盤とよ子ら14人が参加しました。
 重森弘淹が校長の東京フォトスクール開校。
<1959年>
 三木慶介が第3回国際山岳写真ビエンナーレ(イタリアのトレントで開催)で最高賞を受賞。

<1960年代>
 1960年代は、東京オリンピックに象徴されるように、日本は高度経済成長期に突入。経済的な発展が進む中、その恩恵を受ける形で広告写真の世界から個性的なカメラマンが次々に登場しています。
 横須賀功光、立木義治、高梨豊、深瀬昌久、篠山紀信らが登場、活躍し始めたのがこの時代です。なかでも篠山紀信は、「アド/バルーン」(1966年)やヌード写真で有名になり、「激写」シリーズが大ヒットし、「晴れた日」(1975年)、「家」(1975年)なども話題になりました。
 ベトナム戦争の激化に対し反戦運動が盛り上がる中、日本からも多くのカメラマンがベトナムに向かい、命がけで戦場を記録し、それもまた大きな話題となりました。
 PANA通信社に入社していた岡村昭彦は、サイゴンで活動し、キャパの後継者とも言われる戦場写真家として高い評価を受け、1965年発表の「南ヴェトナム戦従軍記」はベストセラーとなりました。
 1961年にUPI通信社に入社した沢田教一も、1965年にサイゴン入りし、本格的にヴェトナム戦争の取材を行うようになります。戦場から逃げるために川を渡る人々を撮影した「安全への逃避」でピュリツァ―賞を受賞しますが、1970年にカンボジアで取材中に射殺されることになりました。
 その他にも、嶋元三郎(PANA)、酒井淑夫(UPI)、峰弘道(UPI)、秋元啓一(朝日)、石川文洋(フリー)、一ノ瀬泰造(フリー)らが活躍。
 ベトナム戦争以後も、野町和嘉、久保田博二、大石芳野、長倉洋海らも戦場カメラマンとして活躍することになります。
<1960年>
 第1回カメラ芸術大賞を長野重一がベルリンで撮影した「強制収容所」で受賞。
<1961年>
 浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件の写真により、長尾靖が日本人として初のピュリツァ―賞受賞。正確には、「世界最優秀報道写真賞」(オランダのハーグで開催)。
 日本動物写真家集団結成。会長は、山田広次。動物写真というジャンルが成立しつつありました。
<1963年>
 この年、日本がドイツを抜き、世界一のカメラ生産国となりました。
 「日本リアリズム写真集団」結成。理事長は田村茂。
<1965年>
 世界的なカメラマン、アンリ・カルティエ=ブレッソン来日。
 「全日本写真著作者同盟」結成。委員長は、渡辺義雄。
 沢田教一のベトナムの戦場写真「安全への逃避」が世界報道写真コンテストで最高賞受賞。翌年にはピュリツァ―賞も受賞。
<1967年>
 東京写真専門学院が東京渋谷に開校。(現在の日本写真芸術専門学校)
 「日本山岳写真集団」結成。中心メンバーは、内田良平、川口邦雄ら。
 第5回パリ青年ビエンナーレで高梨豊が写真部門最高賞を受賞。
 奈良原一高が写真集「ヨーロッパ 静止した時間」で毎日美術賞を受賞。
<1968年>
 酒井淑夫(UPI)がベトナム戦争の取材でピュリツァ―賞フィーチャー写真部門賞を受賞。
 日本写真家協会主催による「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」開催。

 多木浩二、中平卓馬、高梨豊、岡田隆彦らにより「プロヴォーク Provoke」創刊。(2号から森山大道も参加)
「言葉がその物質的基盤、要するにリアリティを失い、宙に舞う他ならぬ今、ぼくたち写真家にできることは、既にある言葉ではとうてい抱えることのできない現実の断片を、自らの眼で捕獲してゆくこと、そして言葉に対して、思想に対していくつかの資料を積極的に提出してゆくことでなければならない」
 しかし、個性的なメンバーによって生み出された「プロヴォーグ」は、それぞれバラバラの方向へと解体。1969年の3号で休刊。
 1970年、その総括ともいえる写真集「まずたしからしさの世界をすてろ」(田畑書店)でその活動を終えました。
 「アレ・ブレ・ボケ」の映像をそのまま作品として新たな写真の潮流を生み出しかグループでした。
<1969年>
 森山大道が写真誌アサヒカメラに「アクシデント」の連載を開始。
 朝日新聞社、青井捷夫によるデモの写真がオランダのハーグで開催された世界報道写真展で金賞を受賞。

<1970年代>
<私小説としての写真>
 荒木経惟は、自身の新婚旅行を撮影し、「センチメンタルな旅」(1971年)として発表。
「この『センチメンタルな旅』は私の愛であり写真家としての決心なのです。自分の新婚旅行を撮影したから写真家だぞ!といっているのではありません。写真家としての出発を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです。もっとも私の場合ずっと私小説になると思います。私小説こそもっとも写真に近いと思っているからです」
荒木経惟

 深瀬昌久は、「遊戯」(1971年)、「洋子」(1978年)などの写真集で「私」と「他者」との関係を男女の性的な営みからユーモラスに捉え直そうとしました。

<旅と写真>
 1970年代は日本国内を旅する「国内旅行ブーム」が本格化した時代です。写真家たちも、様々な土地へと向かい独自の作品を生み出すようになります。
 須田一政「風姿花伝」(1978年)は、日本各地の人と風景を写した写真集。
 内藤正敏「婆 東北の民間信仰」(1979年)は、恐山、高野山に集まる人々の土俗的エネルギーを記録した写真集。
 その他にも、土田ヒロミ「俗神」(1976年)、北井一夫「村へ」(1973~1979年)、江成常夫がアメリカで撮影した「戦争花嫁」(1980年)、藤原信也によるアジアの旅「全東洋街道」(1981年)などが撮影、発表されました。
<広告写真>
 写真文化にとって、広告写真は重要な部分です。
 早くからプロのカメラマンにとって、広告の仕事は食べてゆくために必要な仕事となり、創作上でも新たな挑戦を促す場になっていました。
 明治30年代「婦人画報」「大阪毎日新聞」などに写真広告が登場。広告写真の原点となりましたが、当初は美人芸妓のプロマイドに宣伝文をつけた程度の写真でした。
 1922年(大正11年)、片岡敏郎の企画により、河口写真館で撮影された「赤玉ポートワイン」のセミヌード・ポスターは、画期的な写真で世間を驚かせました。(大正デモクラシーの象徴的写真家もしれません)
 1925年、杉浦非水らによる七人社設立。
 1926年、濱田増治らによる商業美術協会結成。商業写真という分野が職業として誕生しました。この年、七人社のメンバー金丸重嶺鈴木八郎と金鈴社を設立。専用のスタジオを建設し、広告写真の仕事を質・量ともに向上させます。
 戦時中、広告写真の世界は仕事を失いますが、戦後、高度経済成長の時代が始まると、広告写真は大忙しの分野となります。
 1951年、日本宣伝美術会設立。
 同年、ライト・パブリシティが設立され、鈴木恒夫、杵島隆、早崎治、篠山紀信などの写真家が所属しました。
 1952年、東京アート・ディレクターズ・クラブADC設立。
 1958年、日本広告写真家協会APA創設。
 1959年、日本デザインセンター設立。藤井秀樹、高梨豊、深瀬昌久、沢渡朔らが所属。
 1963年、早崎治が撮影した東京オリンピックのためのポスターは、世界的に有名になりました。 
 1966年、資生堂がモデルの前田美波里を起用したCMロケをハワイで行う。CM撮影の海外撮影第一号。撮影は横須賀功光、ADは中村誠、デザインは石岡瑛子でした。

 1970年代は、新たな世代のカメラマンが次々に登場した時代でした。操上和美、十文字美信、浅井慎平、久留幸子、有田泰而、坂田栄一郎・・・。
<1970年>
 石元泰博が写真集「シカゴ、シカゴ」で毎日芸術賞受賞。
 5月にニューヨークの日本文化センターで原爆写真展「Hiroshima and Nagasaki」が開催。海外での原爆に関する写真展は初の試み。
 沢田教一の写真展「沢田教一遺作展」、「インドシナ戦線 生と死と」開催
<1971年>
 第10回現代日本美術展に高梨豊、森山大道、内藤正敏、中平卓馬ら8人の写真家が招待展示が行われる。「写真」が始めて出品されることになりました。
<1972年>
 白川義員が写真集「ヒマラヤ」で毎日芸術賞受賞。
<1973年>
 「写真批評」が創刊。編集長は桑原甲子雄
 藤原新也のデビュー作「印度行脚」がアサヒグラフに連載を開始される。
 ユージン・スミスの写真集「水俣生 その神聖と冒涜」発表される。
<1974年>
 「ワークショップ写真学校」(東京)設立。講師は、東松照明、森山大道、荒木経惟、深瀬昌久、細江英公、横須賀功光・・・。
 渡辺義雄の「伊勢神宮」が毎日芸術賞受賞。
 3月、ニューヨーク近代美術館で「New Japanese Photography」展開催。
 「東京芸術専門学院」開校。(写真、デザイン、印刷の専門学校)
<1975年>
 新人写真家を対象に「アサヒカメラ木村伊兵衛写真賞」創設。
 日本写真家協会主催の「日本現代写真史展 終戦から昭和45年まで」開催。
<1976年>
 森山大道教室のメンバーを中心にギャラリー&作業場「CAMP」設立。そこから、北島敬三、倉田精二、山内道雄、大場和裕らが登場。
 東松照明が「太陽の鉛筆」で毎日芸術賞受賞。
 前年創設の「木村伊兵衛賞」を「村へ」の北井一夫が受賞。
<1977年>
 並河萬里が写真集「シルクロード」他で毎日芸術賞受賞。
 季刊「カメラレビュー」創刊。
 「ソノラマ写真選書」(朝日ソノラマ)の刊行開始(1980年までに全27巻を刊行します)
<1978年>
 東松照明の教室のメンバーによる「PUT」が、連続展「視覚の現在」を開催。そこには、浜昇、長船恒利、田口芳三、野田真吾、岡友幸らが参加。
 ギャラリー「プリズム」には、谷口雅、住友博、桑原敏郎、島尾伸三らが参加。
 こうしたカメラマンの多くはプロでもアマチュアでもないインデペンデントのカメラマンとして、独自の作品を発表し、1980年代には新たな写真文化の中心となります。
 「日本の美 現代日本写真全集」(集英社)が刊行開始。(全12巻)
 ツァイト・フォト・サロン(東京)オープン
<1979年>
 林忠彦が「日本の画家108人」で毎日芸術賞受賞。
 フォト・ギャラリー・インターナショナル(東京)オープン
 「オリンパス・ギャラリー」(東京)オープン
 その後、オリジナル・プリントを扱うギャラリーは日本各地に誕生し、その価値がより高く評価されるようになります。
 1980年代に入ると、写真家の印画(オリジナル・プリント)を専門に扱うギャラリーが登場。写真は、いよいよ芸術作品として扱われる時代になろうとしていました。

<1980年代>
<1980年>
 篠山紀信「激写 135人の女ともだち」が毎日芸術賞受賞。昨年から「激写」は流行語としてブームとなっていました。
 写真誌「写楽」(小学館)が月刊誌として創刊。写真誌のブームが始まります。
<1981年>
 白川義員がアメリカ雑誌写真協会ASMPのフォトグラファー・オブ・ザ・イヤーに選出される。
 「写真時代」(白夜書房)が隔月で創刊。
 「フォーカス」(新潮社)、写真週刊誌として創刊。
 「CAPA」(学習研究社)月刊誌として創刊。
<1982年>
 藤原新也が「全東洋街道」で毎日芸術賞受賞。
 第一回土門拳賞を「国境を越えた子供たち」などの三留理男が受賞。
 朝日新聞「昭和写真・全仕事」(全15巻)の刊行開始。1984年まで。
<1983年>
 久保田博二が「桂林夢幻」で毎日芸術賞受賞。
 山形県酒田市に土門拳記念館開設。
<1984年>
 写真雑誌「フォーカス」の成功を受け、講談社が写真週刊誌「フライデー」を創刊。
<1985年>
 「カメラ毎日」が休刊。30年の歴史に幕を下ろす。
 北海道東川町が「写真の町」宣言。国際写真フェスティバルを毎年開催し、高校生のための「写真甲子園」開催へ。
 小学館より「日本写真全集」(全12巻)の刊行開始。1988年まで。
<1986年>
 ニューヨークのインターナショナル・センター・オブ・グラフィーICP主催のマスター・オブ・フォトグラフィーを濱谷浩が受賞。
 第三の写真週刊誌「フラッシュ」(光文社)創刊。その他にも、「エンマ」(文藝春秋)、「タッチ」(小学館)も創刊され、ブームは頂点へ。
<1987年>
 森山大道が個人ギャラリー「FOTO DAIDO」を開設。
 「ZOOM」、「エンマ」が休刊。写真雑誌ブームは終わりへ。
<1988年>
 アメリカ、ヒューストンの「フォトフェス’88」で「日本の芸術写真」展開催。
<1989年>
 杉山博司が写真集「SUGIMOTO」他の作品で毎日芸術賞受賞。
 「季刊・風景写真」創刊。
 「日本カメラ博物館」が東京半蔵門に開館。

 1980年代後半、国立美術館が積極的に写真作品の収集・展示を始めます。
 これ以後、多くのカメラマンは、大学の写真科や写真の専門学校などを卒業した「アートスクール・フォトグラファー」が中心になってゆきます。

<1990年代>
<女性写真家の時代へ>
 1990年代、「写真新世紀」(キャノン主催)、「写真3.3㎡展」(リクルート主催)などの若い写真家を中心にしたコンテストの上位入賞者に女性カメラマンが急増します。写真科や写真専門学校の男女比率も女性が男性を上回るようになります。
 石内都、今道子に続いて、長島有里枝、Hiromix、中野愛子、蜷川実花、野口里佳、野村恵子など、1970年代前後生まれの女性カメラマンが急増。
<1990年>
 東京都写真美術館が恵比寿にオープン。
 大石芳野の「カンボジア」が講談社出版文化賞を受賞。
<1991年>
 「日本写真芸術学会」設立。写真を芸術として研究する組織で、会長には渡辺義雄が選ばれる。
 荒木経惟が「アラーキー」と呼ばれ一大ブームとなります。
 篠山紀信による宮沢りえのヌード写真集「Santa Fe」(朝日出版)が大ブームとなる。
 ヘアヌード写真集がブームとなり、次々に発売され、それに対し警察が警告を発します。
<1992年>
 荒木経惟回顧展「Akt - Tokyo1971-1992」がヨーロッパのグラーツで開催される。
 第一回写真新世紀展開催(キャノン主催)で木下伊織がグランプリを受賞。
 第一回「写真3.3㎡展」(リクルート主催)で今義典がグランプリを獲得。
<1993年>
 東京国立近代美術館で「セバスチャン・サルガド写真展 人間の土地」開催。近代美術館で初の写真家の個展となった。
 ネイチャー雑誌「シンラ」(新潮社)創刊。
<1994年>
 第10回国際エイズ会議が横浜で開催。それに合わせて「Living with AIDS & HIV写真展」開催。
<1995年>
 東京都写真美術館で「日本近代写真の成立と展開」、「写真都市TOKYO」開催。第一回東京国際ビエンナーレ展も開催。
<1996年>
 海外から260名が参加し「阪神大震災義援チャリティー写真展&オークション」開催。
 植田正治がフランスの芸術文化勲章シュバリエ受賞。
<1997年>
 写真の著作権が公表後50年から撮影者の死後50年に改正される。
<1998年>
 東京四谷に「モール写真図書館」開設。


<参考>
「日本写真史概説」
日本の写真家別巻 1999年
(著)飯沢耕太郎、石井亜矢子、白石真理
岩波書店

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