- パブロ・ピカソ Pablo Picasso (前編) -

<「ゲルニカ」の作者、パブロ・ピカソ>
 以前マドリードで本物の「ゲルニカ」を見たとき、僕の最初の印象は「あれ、この絵って白黒だったんだ」でした。僕の頭の中にあった「ゲルニカ」は真っ赤な血の色やどす黒い煙の色など、悲惨な戦争を表現する色彩に満ちていたのです。しかし、本物の「ゲルニカ」は大きさこそ予想よりずっと大きかったものの、色については意外なほど大人しいモノトーンで、戦争の悲惨さを衝撃的に訴えるというよりは、爆発してしまいそうな戦争への怒りを必死で静めようとしているかのように見えました。
 「爆発し続ける火山」と呼ばれたピカソの作品からは激情型の人間像が浮かんできますが、実際のピカソはどんな人物だったのでしょうか?
 「天才は多作であり、多才である」というのは、まさに彼のためにある言葉なのかもしれませんが、そのエネルギー源はなんだったのでしょうか?

<ピカソの少年時代>
 さて、ここでクイズです。ピカソの本名は?
<答>パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウロ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアノ・デ・ラ・サンティッシマ・トリニダード
 そんなのわかるか!と怒られそうですが、この名前の長さは実は彼の家柄が古くて由緒正しいものであることを示しているのです。
 1881年10月25日スペイン南部アンダルシア地方の港町、マラガでピカソは生まれました。彼の名前の長さは名前は長いほど幸福がやどるとするアンダルシアの伝統からつけられました。と言っても、彼の父親は資産家の名家の出だったわけではなく、もともとレストランなどの装飾用の壁画などを描いて生活していました。しかし、その後バルセロナの美術学校で絵画を教える職につくことになります。こうしてピカソは少年時代をカタルーニャの首都であるバルセロナで過ごすことになりました。(スペインの中のもうひとつの文化圏、カタルーニャ文化の独自性については、ガウディのページを参考にして下さい)
 さて、少年ピカソはどんな子供だったのでしょうか?やはりただ者ではなかったようです。算数は大嫌い、それどころかアルファベットを憶えることも嫌いで、小学校の卒業も教師たちの手伝いによってなんとかできたという状態でした。しかし、父親の絵を描く姿を見て育ったことで、彼もまた絵画の魅力に取り憑かれてしまいます。幸い、彼には父親ゆずりの絵に対する才能があり、16歳という若さで見事マドリードの美術学校の入学試験に合格します。(彼の父親は息子の優れた才能に気づいており、彼が美術を本格的に学び出すと自ら筆をとることをやめてしまいます。それだけ彼の才能の凄さに脱帽だったということです。

<青の時代へ>
 パリに着いたピカソは、さっそくパリ中の美術館を見て回りながら印象派の画家たちから大きなインスピレーションを得ます。しかし、仕事のない彼の生活は苦しく、唯一の友人だったカルロスが失恋を苦に自殺してしまうなど、彼にとってブルーな日々が続きました。こうした時期に生まれた彼の作品群は、画面全体が青いフィルターをかけられたように青みがかっていたため、後にこの時代は「青の時代」と呼ばれることになります。
 こうした彼の青い時代を終わらせたのは、どうやら一人の女性だったようです。フェルナンド・オリビエは、ピカソにとって恋人であると同時に最高のモデルともあり、彼女の与えるインスピレーションにより彼の絵画はそれまでの青っぽい世界から鮮やかな色彩にあふれたものへと変わって行くことになります。

<キュビズムの時代へ>
 再び彼のスタイルが大きく変わるのは、彼が「アビニョンの不思議な娘たち」の肖像画を描いてからでした。そのきっかけとなったのは、1907年トロカデロにある人類博物館で彼がアフリカの彫刻や仮面を見て大きな感銘を受けたことです。原始的な芸術のもつ極端なまでの対象物の単純化は彼に「キュビズム」というまったく新しい絵画手法のインスピレーションを与えました。(「キューブ=立方体」によって、対象物を描くという発想は、は、セザンヌの有名な言葉「自然を円筒と球と円錐によって扱う」にヒントを得たものでもあります)
 こうして、彼の代表作のひとつ「アビニョンの娘たち」は生まれ、ここから彼のキュビズムの時代が本格的に始まります。ただし、彼のキュビズムの作品群は多くの先鋭的芸術がそうであるように一般的には完全に無視されてしまいます。しかし、ドイツの画商ダニエル・ハインリヒ・カーン・ワイラーを初めとする新しい芸術に対し鋭い目をもつ人々にとっては、ピカソの作品はまさに衝撃であり、未来の芸術を予感させるものでした。彼らは積極的にピカソの作品を買い付け、その芸術性の高さを広めて行くことになります。そのおかげで彼の作品はしだいに評価が高まり、いつしか貧乏生活からの脱出にも成功します。

<エヴァとの生活、別れ>
 彼の作品を認めてくれた画商たちの力で彼の生活は一変しましたが、それ以上に彼の生活を変えたのは新たな恋人、マルセル・アンベール(エヴァ)との出会いでした。彼女は彼の作品のモデルとなっただけでなく彼の心の支えとして、彼の成功への道を支えました。しかし、そんな二人の生活は長続きしませんでした。
 1914年6月28日第一次世界大戦が始まると多くの若者たちが戦場へと旅立って行き、彼の仲間もしだいに散り散りになります。そのうえ、翌年の冬には最愛の女性エヴァまでもが結核によってこの世を去ってしまったのです。
 落ち込んでいた彼に立ち直りのきっかけを与えてくれたのは、彼のファンでもあり友人でもあったジャン・コクトーでした。詩人、作家、劇作家、映画監督として世界的人気を得ていたジャン・コクトーは自らも関わっていたバレーの舞台装置と衣装のデザインを彼に依頼します。新しいジャンルへの挑戦に意欲をかき立てられたピカソはすぐにコクトーとの仕事に参加。この時、音楽はエリック・サティーが担当。実に豪華なスタッフによるバレーでした。
 ハンサムで多芸多才、お洒落な伊達男のコクトーと天才肌でハンサムとは言えない頑固者のピカソ。二人はその後ピカソがこの世を去るまで親しい間柄でした。

<オルガとの出会い>
 ピカソが参加したジャン・コクトーのバレーに出演していたバレー団のメンバーの中に彼の最初の妻、オルガ・コクローバがいました。そして、このオルガの存在もまた彼の作品に大きな影響を与えます。ただし、彼女の場合はそのブルジョワ趣味によって、夫であるピカソにまで悪いイメージを与えてしまい、彼のそれまでの友人たちを遠ざけてしまうという悪い変化を与えてしまったようです。そのせいなのでしょうか、ピカソはこの時期なぜかキュビズムから写実的絵画へと戻る作品を描いており、それもまた彼への批判を強めることになりました。
 結局、ピカソ自身も、打算的で頭の固いオルガの存在をしだいに重荷に感じるようになってゆき、その不満から彼は再び外で別の女性たちとの火遊びを楽しむようになり始めます。それに気づいたオルガとピカソの関係は当然険悪な状態になって行きました。
 1925年、こうして貯まっていった不満によるストレスを吐き出すかのように生み出された絵が、ピカソとシュールレアリズムとの出会いとも言われる「ダンス」です。なるほど、「束縛」という言葉の存在など知らなかったはずのピカソが家庭に縛り付けられることによって貯め込んだエネルギー。それが「ダンス」というエネルギーに満ちあふれた作品を生んだのだとしたら、・・・やっぱり「芸術は爆発だ!」なのかもしれません。

<マリー・テレーズとの出会い>
 1927年、ピカソはまたもや運命的な出会いをします。17歳の美少女マリー・テレーズとの出会いです。(この時、ピカソはすでに46歳。いやはや犯罪に近い恋です・・・)結局、ピカソはパリの郊外に古い屋敷を購入し、マリーとの同棲生活を始めました。そして、1935年、二人の間に女の子が誕生し、ついにピカソはオルガとの離婚を決意します。ところが、オルガはこの申し出を拒否。彼女はピカソの愛より財産をすでに選び取っていたようです。もちろん、ピカソ自身にも責任があるわけですが、彼はこの状況にすっかり創作意欲を失ってしまいました。

20世紀を代表する傑作「ゲルニカ」誕生
 落ち込んでいたピカソですが、彼はこの後再び偉大な作品を描きあげます。しかし、今回のきっかけは「女性」ではなく「戦争」でした。
 1936年7月スペインでは、左派共和主義勢力とフランコ率いる右派ファシスト党との間に内乱が勃発。共和主義を守ろうとする人民戦線には世界各地から義勇兵がやってきます。ヘミングウェイやジョージ・オーウェルは特に有名ですが、ピカソもまた共和国の側に立ち、その依頼によりマドリードにある世界最大級の美術館プラドの名誉館長に就任しました。さらには翌年開催されることになっていたパリ万博に出展するスペイン館のために巨大な絵画(壁画)を製作することになり、その準備に取りかかり始めます。
 しかし、ちょうどこの頃祖国スペイン国内では内戦が勃発。ファシスト党はついにドイツと同盟を結び、スペイン国内はドイツの空爆や海からの砲撃にさらされるようになり始めます。そして、1937年4月26日ドイツ軍によるゲルニカ村への空爆が行われ、村はほぼ壊滅状態となり、1700名もの一般市民の命が失われました。3時間にわたり3000発もの爆弾を落としたこの無差別爆撃についてドイツ軍は「ゲルニカ村がゲリラの拠点であったから」と発表しています。しかし、これは後に事実ではなかったことが明らかとなります。実際は、ゲルニカ村はこの地域に住むバスク人たちの中心的場所であり、地域文化の拠点であり、独立と民主主義の象徴でもあったのです。だからこそ、ファシスト党はこの地域を見せしめのために爆撃したのでした。
 これと同じ様なことは、その後も世界各地で行われているので、そう珍しいことではないのかもしれません。(「核兵器を隠しているから」とか「テロリストをかくまっているから」という理由で攻め込んだ国もありました)しかし、 どんなに「喜劇的」なバカげた理由であれ、そのために殺されてしまった人々の苦しみは「悲劇的」で済まされるものではありません。
 ピカソはこの悲惨な出来事のことを知ると、すぐにその悲劇を作品化するため下書きを描き始めました。こうして、わずか一ヶ月で彼は高さ3.3メートル、幅6.8メートルという超大作「ゲルニカ」を書き上げたのです。

「・・・きみたちが読み取ったアイデアや思想を、私も頭の中にもっているのかもしれない。ただし、それは本能的なもの、無意識のなせるわざなんだ。私は絵のための絵を描く。そこにあるものだけを描く。無意識の領域だよ。絵を見るとき、人はそれぞれ、まったく別々の解釈をする。私はとくに意味を伝えようなどとは思っていない。自分の絵をプロパガンダの道具にするつもりはない」
・・・
「そう。『ゲルニカ』をのぞいて、あの絵は、人々に訴えるつもりで描いた。意識的なプロパガンダだ」
「インタヴューズ」(1945年)より

 反ファシストの象徴となった「ゲルニカ」は、パリで開催された万博で展示された後、ヨーロッパ各地を巡りましたが、フランコが政権を維持するスペインには戻ることなく、ニューヨーク近代美術館に預けられます。そして、1975年にフランコがこの世を去り、やっと返還運動が起き、1981年9月ついにピカソの故国スペイン・マドリードのプラド美術館に返還されます。

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