- ピンク・フロイド Pink Floyd -

<プログレッシブ・ロックの時代>
 「プログレッシブ・ロック」=「進歩的な、発展的なロック」とは、なんと大仰な名前でしょう。
 かつては、当たり前のように使われていたこの言葉も、最近はちょっと気恥ずかしく感じられるようになってきました。しかし、1970年代前半にこの音楽が世界に与えたインパクトは本当に大きかったことも確かです。ロックの未来は、これだ!と思わせる勢いがありました。特に、ピンク・フロイドイエスキング・クリムゾンエマーソン、レイク&パーマーなどが活躍した1970年代は、まさにその黄金時代でした。

<プログレッシブ・ロックとは?>
 さて、プログレッシブ・ロックとは、いったいなんぞや?
この音楽は、シングルが中心だった60年代以前のポピュラー音楽の常識を覆し、LP、アルバムを主役の座につけた音楽でもありました。それぞれのアルバムには、必ずコンセプトがあり、そのコンセプトに合わせて全体が構成され、アルバム全体がひとつの作品となったのです。(今じゃ当たり前ですが・・・)
 曲の構成的な面だけでなく、演奏においても、クラシックの影響を大きく受けており、オーケストラとともにアルバム全体を録音する場合もありました。(イエス、リック・ウェイクマンなど)逆に、クラシックの曲をロック化して録音するバンドも現れました。(エマーソン、レイク&パーマーの「展覧会の絵」など)
 音楽的に前衛的なのはもちろん、視覚、照明、音響効果、衣装などコンサートの演出などでも、新しい試みが行われました。サイケデリックなライティングと音響を得意としたピンク・フロイドのコンサートは特に有名でした。(ジェネシスのピーター・ガブリエルが行っていた舞台劇を思わせる演出もこのころです)

<ピンク・フロイドの誕生>
 1965年に、ロジャー・ウォーターズがリージェント・ストリート工芸学校で建築学を学ぶ仲間、ニック・メイスンリック・ライト、そして高校時代からの友人で唯一芸術家肌のロジャー・キース・”シド”バレットを誘ってバンドを始めたのが、ピンク・フロイドの始まりでした。
 ちなみに、ピンク・フロイドという名前の由来は、ジョージア州出身の2人のブルース・シンガー、ピンク・アンダーソンとフロイド・カウンシルの名前からとられたと言うことです。

<ピンク・フロイド・サウンド>
 彼らの初期のサウンドの売りは、フィード・バックをかけた大音響のサウンドと派手なライティングでした。サイケ一色になろうとしていたロンドンのアンダーグラウンド・シーンに、彼らのサウンドが受け入れられるのは当然だったのかもしれません。いっきに彼らはロンドン中にその名を知られるようになりました。

<シド・バレットの崩壊>
 しかし、そんな時代だったからこそ、常識となっていた幻覚剤の使用は危険と紙一重の存在でした。特に精神的にもろい天才肌のアーテイストにとって、それは地獄への入り口にもなりうるものだったのです。残念ながら、初期ピンク・フロイド・サウンドの中心だったシド・バレットにとって、それは現実のものとなりました。
 彼らが1967年に記念すべきデビュー・アルバム「夜明けの口笛吹き」を発表した頃、すでにシドは精神に変調をきたし、入院直前の状況だったのです。

<シドの不在とデイブ・ギルモアの登場>
 バンド活動を継続させるため、彼らはシドの友人でもあったデイブ・ギルモアをフランスから急遽呼び寄せます。彼は、ファッション・モデルを辞め、ピンク・フロイドのギタリスト兼ヴォーカリストへと転身し、シドの穴を埋めることになりました。
 バンドのサウンドの基礎を築いたとも言えるシド・バレットを失ったことは、同じ頃ローリング・ストーンズがブライアン・ジョーンズを失った状況と似ているかもしれません。この時代、きっとどのバンドにも同じような状況が、大なり小なりあったに違いないようです。しかし、彼らはブライアンを失ったストーンズが、その後より大きく成長したように、シド不在の状況でさらなる発展を遂げることになります。

<プログレッシブ・ロックの時代へ>
 そして、1960年代末、ついにプログレッシブ・ロックの人気が爆発する時がきます。彼らは時代の波にのるように次々とヒットアルバムを発表して行きます。「神秘」「ウマグマ」「原子心母」「おせっかい」どれもがヒットしました。さらに、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の前衛映画の歴史的傑作「モア」「砂丘」の音楽を担当したこともまた彼らの名を世界中に知らしめるきっかけとなります。

<ピンク・フロイドならではの巨大コンサート>
 彼らは、この頃すでに現代のビッグ・コンサートには欠かせない大がかりなセットや照明機材を用いたそれまでにない巨大規模の音楽ショーをコンサートにおいて実現していました。それは完全に採算を度外視したものだったようです。彼らは、アルバムを売って稼いだ莫大な利益をコンサート・ツアーのために惜しみなくつぎ込んでいたのです。だからこそ、彼らのコンサートは、常に世界中のファンに期待され、常に満員になっていました。
 もしかすると、この巨大コンサートこそ、彼らが元々やりたかった音楽活動のスタイルだったのかもしれません。シド以外のメンバーは、かつて建築課という、アートと技術の複合的な学問を志していました。そんな彼らが、音楽と舞台芸術が複合されたコンサートという形に、アルバム以上の情熱をそそぎ込んだのは、そんな構造的な美を求める心からだったのかもしれません。

<歴史的アルバム「狂気」の登場>追記:2014年9月
 もちろん構築の美学だけでは、彼らの世界的な成功はあり得なかったでしょう。そして、そこにこそ、シド・バレットという限りなく繊細なアーティストの存在価値があり、その後を継いだロジャー・ウォーターズという芸術家肌のリーダーの才能の価値があったのでしょう。幸いなことに、時代は彼らのように前衛的なアーティストの作品を受け入れる状況にありました。今では、絶対に考えられない状況です。(少なくともアメリカでは)そのうえ、彼らがついていたのは、シドの脱退に合わせるように時代も変わり始め、彼らがポップよりに路線を変えることで、より広く受け入れられるようになっていったことです。まさに、彼らは「時代の寵児」でした。そして、そんな時代の流れの中、ついに伝説のアルバム「狂気」が登場しました。
 1973年3月に発表されて以降、このアルバムはビルボード誌の全米ポップチャート、アルバム部門のベスト100に、連続725週チャート・インという驚くべき記録を残しました。この記録はたぶん永遠に破られることはないでしょう。(なんと14年近く売れ続けたことになるのです!)
 ベトナム戦争の終戦が1973年で、アメリカは国全体が鬱状態にあったともいえます。アメリカにとって、わかりやすく作られたポップな「狂気」は求められた音楽だったのかもしれません。

「狂気」の通奏低音は、悲哀と慈愛だ。そこには風刺とともに治癒の作用がある。ピンク・フロイドがシド・バレットという通常の生活観から逸脱した者に思いを馳せたことが、アメリカ社会を覆った巨大な鬱に呼応していた、を考えることもできる。
湯浅学「音楽が降ってくる」より

<その後のピンク・フロイド>
 その後もピンク・フロイドは活躍を続け、「アニマルズ」「ザ・ウォール」など、ヒット作を連発しますが、1987年にロジャー・ウォーターズが脱退しソロ活動を開始。それにより、バンドは事実上解散状態となります。しかし、デビッド・ギルモアは残りのメンバーで、ピンク・フロイドを再結成します。だが、シドぬき、ロジャー・ウォーターズぬきのバンドは、かつてのピンク・フロイドのコピー・バンド的な存在にならざるをえませんでした。そのため、ロジャー・ウォーターズは、「ピンク・フロイド」というバンド名の使用差し止めを求める訴訟を起こします。「シドぬき、ロジャーぬきのピンク・フロイド風巨大ロック・ショー」と言われては、デイブ・ギルモアも怒るかもしれませんが。今さら新しい名前じゃ食ってゆけないから、という理由で続けられちゃ。ロジャー・ウォーターズが怒る気持ちもわかります。

<締めのお言葉>
「もしあなたがデザイナーになろうとするなら、そこに意義を見いだそうとするのか、金もうけをしようとするのか、はっきりと決心しなければならない」
R.バックミンスター・フラー

<参考資料>
「ロック伝説」ティモシー・ホワイト著(音楽之友社)

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