「ダイブ 水深170メートルに逝った愛」 The Dive A Story of Love and Obsession

- オードリー・フェレーラス&ピピン・フェレーラス -

<水の中の愛の物語>
 ピピン・フェレーラスという名前は、ダイビング、特にフリー・ダイビングに興味のある方なら聞いたことがあるでしょう。彼は、エンゾ・マイヨルカとジャック・マイヨールというフリー・ダイビング界を代表する英雄の後継者と言われた人物です。しかし、僕はこの本の存在は知らず、たまたま図書館で見つけて借りて読みました。何せ、フリー・ダイビングは、僕にとって大いに興味のある分野ですから。それにしても、今まで何度も図書館に通っていながら、なぜこの本の存在に気づかなかったのか?それは、この本がアウトドア・海洋スポーツの棚になかったからです。なぜかこの本は海外文学の中のノンフィクション・コーナーにあったのです。でも、この本を読んでみてなるほどと思いました。
 確かにこの本は、フリー・ダイビングにおける世界最高記録170メートルに到達する過程を追ったノンフィクション作品です。しかし、それ以上にこの本は、ハーレクイン・ロマンスよりもロマンチックな出来すぎとも思えるラブ・ストーリーでもあるのです。どうりで、この本のタイトルは「水深170メートルに逝った愛 A Story of Love and Obsession」なわけです。フリー・ダイビングのファンの方、本屋や図書館で探す時は要注意ですよ。

<フリー・ダイビングとは?>
 この本には、フリー・ダイビングの現場が詳しく描かれているので、先ずはフリー・ダイビングというスポーツについての基礎知識を少々。
[フリー・ダイビングの種目]
<コンスタント・ウェイト>
 人工的な機器を一切使わず、自力で潜って自力で浮上するダイビング。泳ぐための筋力を必要とするため、長い呼吸停止能力だけでなく泳力(筋力)も重要。当然、記録保持者は男性中心になっています。

<ヴァリアブル・ウェイト>
 潜行する際、重りを使用します。浮上のときには自力で泳ぐので、泳力(筋力)と長い呼吸停止能力、両方のバランスが重要とされます。ジャック・マイヨールやエンゾ・マイヨルカらは、この競技こそが究極のダイビングと考えていたようです。映画「グランブルー」で描かれていたのは、この競技です。

<ノーリミッツ>
 重りをつけた装置(スレッド)を使用して潜行。最深部から風船(リフトバッグ)を膨らませることで浮上するダイビングです。当然、泳力は重要ではなく、深い海の中での耐久力、長い呼吸停止能力が求められます。男性はより多くの酸素を必要とする効率の悪い生物なので、この種目については女性も男性と対等の記録を出せます。だからこそ、この本の著者ピピン・フェレーラスは妻のオードリーとともに世界記録に挑み続けたのです。
(注)2010年時点の世界最高記録はなんと214メートル!これって深海ですよ。一昔前は潜水艦だって潜れなかった世界です。人間は宇宙空間でも数十秒程度は生存できるといいますが、もしかするとその記録も伸ばすことが可能だったりして・・・

 その他、フリー・ダイビングについて気になる用語についての解説も加えておきます。
[セーフティー・ダイバー]
 フリーダイビングの記録会を行う際、その到達地点で記録を確認するために待っているスキューバ・ダイバーがいます。その他にも、安全を確保するため、数十メートルおきにセーフティー・ダイバーと呼ばれる人々が待機することになっています。しかし、タンクを用いるスキューバ・ダイバーが普通に潜る限界は一般的には30メートル程度とされています。もし、それ以上潜る場合は、浮上の際、体内の窒素が急激に気泡化することによって血管を詰まらせる潜水病の危険が発生します。そのため、ダイバーは浮上の際、途中で一時浮上を中止し、ゆっくりと時間をかけて窒素を血管内に混ぜてゆかなければなりません。
 僕も昔、伊豆の海洋公園で40メートルまで潜ったことがありますが、その時は10メートル地点、5メートル地点でそれぞれ何分かずつ止まってから浮上しました。現在では、ダイビング用のコンピューターが安全な浮上の方法を指示してくれますが、当時はそういうものはまだなかったので、アメリカ海軍が作った数値表を用いて計算しながら浮上していました。
 当然、1本のタンクでは100メートルを越えるようなダイビングはできないので、何本かのタンクを用いてセーフティー・ダイバーは水中深くまで潜り、その後何時間もかけて浮上するわけです。その間、彼はたった一人真っ暗な海の中で何時間も待ち続けなければならないのです。水温は低いので当然ドライ・スーツを着なければなりませんから、おしっこもできません。(中でしても死ぬわけではないですが・・・)パニックに陥っても、誰も助けてはくれず、あわてて浮上すれば確実に潜水病で死ぬことになります。
 ラストでピピンの妻が水中170メートル地点で意識を失った際、彼らセーフティー・ダイバーに何ができたのでしょう?彼らが彼女を連れて急浮上すれば自分が命を落とすことになったはずです。素潜りで100メートルを越えるダイバーも確かに凄いのですが、この本を読んで、記録に挑むダイバーを支えるセーフティー・ダイバーという仕事の大変さをやっと理解することができました。世界記録を生み出すためには、世界最高のバック・アップ・チームの存在があったのです。

<海からやってきた人間>
 常識的に考えると、100メートルを越える海の中に潜ることができそうな気はしません。しかし、僕自身もそうですが人は海の中では意外に落ち着けるものです。実際、人は顔を水につけただけで普段の倍ぐらい息を止めることが可能になります。それは、人間が顔を水につけただけで代謝システムを海用のモードに変えることができるせいです。元々海洋生物から陸上に上がったとされる人間は誰でも水の中に適応できるようにプログラムされているので、水中では驚くほど落ち着きが得られるものなのです。このことは、スキューバ・ダイビングをやったことがある人なら誰もが実感していることだと思います。
 このように人間にもイルカのように水中深く潜ることが可能であると最初に確信した人物は、ジャック・マイヨールでした。彼は直感的にそのことを感じたものの、それを科学的に裏付けることはできませんでした。しかし、ある時、彼はイルカの解剖に立ち会うことがあり、その時に見たイルカの肺が人間の肺にそっくりであることに気づいたといいます。同じ肺をもつ生物ならば、イルカにできて人間にできないはずはない。そう彼は確信したのだそうです。

<キューバとダイビング>
 以前から僕はピピン・フェレーラスがキューバ人だということが気になっていました。なぜ貧しい社会主義国のキューバからフリー・ダイビングの世界チャンピオンが生まれたのか?それが理解できなかったからです。その謎もこの本で解けました。
 彼はモリで魚を突くスピア・フィッシングで生活するもぐりの漁師としてダイビングを始めました。その後、自ら志願してフリー・ダイビングの世界選手権「ブルー・オリンピック」にキューバ代表として参加。彼はいきなりチャンピオンになり、キューバのトップ、フィデル・カストロにも気に入られることになりました。そして、社会主義国でありながら、特別に国外での大会にも出場できる地位を獲得することに成功したのでした。なんとカストロもスピア・フィッシングが大好きだったとのことです。海に囲まれた島国キューバは、日本以上に海と共に生きる国なのかもしれません。

<究極のラブ・ストーリー>
 さて、この本が「究極のラブ・ストーリー」であることは、初めに書きました。しかし、正直言って僕としてはラブ・ストーリーとしてこの本に感情移入はできませんでした。なぜなら、主人公のピピン・フェレーラスと言う人物があまりにも自分勝手で奥さんのオードリーに同情してしまうからです。わがままで自己主張が強く、負けず嫌いで仲間のことも信じないし、愛情ももたない。オードリーとの出会いまでに2回離婚しているのも当然です。そのうえ、自らの体力に限界を感じたことから世界記録への夢を自分の妻に背負わせるなんて、なんと傲慢な奴。
 周りの人間たちがオードリーを愛し、彼女の周りに集まってきたのもわかります。見た目もまるでギリシャ神話の女神のように美しいオードリーは、ピピンとは正反対。彼らに対する「美女と野獣」という比喩は、見た目だけでなく内面的にも当てはまっていたのでしょう。
 ただピピン自身は、自伝の中でこうした自分の醜さを実に正直に描いているので、本当はそんなに悪い奴ではないのかもしれません。第一、女神のような女性オードリーが愛した男性ですから、少なくとも彼女は彼を信頼していたはずです。事故の詳細を知ろうとしなかったことや遺体に近づくこともできなかったことなど・・・隠したくなるようなこともあえて記しているのは、いかに彼がオードリーを愛し、罪悪感を感じているかの証明でもあるのでしょう。その後、彼が体力の限界を乗り越えて自ら世界最高記録へと向かった勇気には脱帽せざるを得ません。
「海の底に行けばいつでもオードリーに会える」
 実は、彼のこの思いは人類が太古の昔から母なる海に対して感じていた思いとつながるものでもあるのでしょう。

 海に潜らなくなって久しい僕ですが、今でも眠れない夜は、目を閉じて海に潜るイメージを思い浮かべます。場所は、何度も潜って地形まで頭に入っている伊豆大島の野田浜。浜の前にある細い道で機材をおろし、それを担いで海辺へと降りてゆきます。小石の浜辺から海に入り、水の中で機材を装着。海面遊泳で沖へと出て行きます。そして、湾から出るあたりで水中へと潜ります。まだそのあたりは水深5メートルもない深さ。そこから、水底を沖へと進んでゆきます。
 実は、僕自身、奥さんとは海の中で知り合いました。(スキューバ・ダイビング仲間でした)もしかすると、海の中の恋はお勧めかもしれません。海の中では陸の上とは違い、初めからお互いの素顔を見られるはずですから。そしてもし、恋人もダイバーなら伊豆大島野田浜沖のアーチを是非手をつないでくぐってください。それで二人は幸せに結ばれるはずです。この伝説は実証済みです。ハハハハ。
 ああ、海に潜りたくなった。

<あらすじ>
 フリー・ダイビングの世界記録保持者であるピピン・フェレーラスは、ある日、海洋生物学を学ぶ美しい学生と出会います。ピピンのことを知っていたその学生オードリーは、すぐに彼と親しくまります。彼と愛し合う生活の中、彼女はフリー・ダイビングの魅力にひかれるようになり、ついには自らその競技に参加するようになってゆきます。ピピンと同じく海を愛する彼女はすぐにその才能を発揮するようになり、男性をも上回る記録を出すようになります。元々は、ピピンが愛する世界をのぞくための挑戦は、いつしか彼が到達できずにいた170メートルへの到達が目標となります。しかし、その挑戦は機材の調整ミスにより悲劇的な結果となります。
 愛する女性を失ったピピンは、そのどん底からいかに立ち直るか?そして、再び彼は世界最高深度への挑戦への準備を始めます。

「ダイブ 水深170メートルに逝った愛」 The Dive A Story of Love and Obsession
(著)ピピン・フェレーラス Pipin Ferreras
(訳)杉田七重
ソニーマガジンズ

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