「放浪の画家」を描いた伝説の動く絵画


「放浪の画家 ピロスマニ Pirosmani」

- ゲオルギー・シャンゲラーヤ Georgy Shengelaya -
<「放浪の画家 ピロスマニ」>
 2015年11月、1978年に日本で公開された映画「ピロスマニ」(1969年)が再公開されました。タイトルは「放浪の画家 ピロスマニ」となり、デジタルリマスター版での公開です。「絵画のように美しい映像」という言い方がありますが、この映画は絵画をもとに作られた「動く絵画」と呼ぶべき作品です。それも、この映画の主人公であるピロスマニという画家の作品の構図やトーン、タッチまでも意識した映像作品になっています。
 「なるほど、その手があったか!」という感じですが、そのこと自体は画家の伝記映画を撮る監督なら誰もが考えることかもしえません。黒澤明の「夢」(1990年)の中にもゴッホの作品が見事に再現されたシーンがあります。ただし、絵画はリアルな画像ではないので、それが映画の中で違和感なく使われているかどうかは難しいところです。その点、この映画はごく自然に絵画と映画の中の場面が融合しています。それはピロスマニの作品が、もともと素朴な人々の素朴な生活を素朴な画風で描きとっている絵画だからでしょう。
 もうひとつこの映画の撮影当時ジョージア(グルジア)の風景が20世紀初めとほとんど変わらずに残っていたからかもしれません。21世紀の今、この映画を撮ろうとしても同じような風景や色彩が得られるかどうか。
 こうしてある時代、ある土地に住む人々の暮らしを描いた画家の作品が、動く映像としてそのまま土地の風景と共に記録されるというのは、実に素敵なことです。映画というメディアの存在意義のひとつがここにある気がします。そして、そんな映画が公開された50年後に再び映画館で公開されるなんて・・・。ピカソやゴッホなど巨匠たちの絵画が100年たっても美術館で輝きを発して続けているように、映画の中にもこうして輝きを放ち続ける作品があるというのは映画ファンにとって、実に幸福なことです。
 美術館で絵画を観るように、じっくりとこの映画を観てほしいと思います。

<ピロスマニとジョージア>
 この映画は、ジョージア(グルジア)という東欧の小さな国を代表する画家ピロスマニの伝記映画です。しかし、この映画の初公開時ジョージアという国は存在せず、この作品はソ連映画の異色作として公開されています。1991年のソ連崩壊まで、ソ連は連邦共和国として15の共和国から成り立っていました。ロシア、グルジア(ジョージ)、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、アルメニア、アゼルバイジャン、ウズベクキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギスタン、モルダヴィアです。
 それぞれの共和国は異なる民族からなり、当然言語も異なっています。ジョージアも2/3がジョージア人で残りはアルメニア人、ロシア人などからなり、言語はジョージア語です。(1978年当時)そのため、1978年の公開時、この映画は海外向けに作られたロシア語による吹き替え版でしたが、今回(2015年)はオリジナルのジョージア語版での公開が実現しました。(といっても、どっちも理解できないのですが・・・)
 ソ連では当時ロシア以外の共和国でも多くの映画が作られていて、各共和国にひとつづつ映画の撮影スタジオがあったそうです。もちろんそれらの映画が日本で公開されることは、ほとんどなかったので、この映画の公開はまさに貴重でした。岩波ホールという日本が誇る偉大な映画館がなければ、この映画は公開されることがなかったかもしれません。それだけ、この作品は高い評価を受けていたということでもあります。

<ジョージアという国>
 ジョージアはロシアの南、黒海とカスピ海にはさまれた小さな国です。ヨーロッパとアジアを結ぶ土地として古くから文明が発展した地域ですが、ギリシャ、ペルシャ、トルコ、モンゴル、ロシアなど支配者が時代と共に入れ替わる混沌とした土地でもありました。1917年にロシア革命が起きると、1921年にソビエトよりの共産政権が誕生し、1936年にグルジア共和国として正式にソビエト連邦共和国のひとつとなりました。そして、1991年のソ連崩壊後、グルジア共和国として独立。その後、2009年に呼び方を英語読みの「ジョージア」に変更するようにと日本政府に依頼があり、最近では「ジョージア」と呼ぶのが一般的になりつつあります。(呼び方の変更は、ロシアに対するジョージア国内の反発が原因と言われています)
 国土の多くは高原地帯で穏やかな気候と豊かな果物などの農作物に恵まれた土地で長寿国としても有名な国です。そして、黒海沿岸の温暖な気候のもと、ワインの産地としても有名です。そんなのどかな国だからこそ、絵を描きながら物々交換で生活するピロスマニのような画家が生きて行けたのかもしれません。

<ニコ・ピロスマニ>
 この映画の主人公ピロスマニこと、ニコ・ピロスマナシビリ Niko Pirosmanashvili は、1862年に生まれ、1918年に亡くなっているので、ロシア革命後の社会主義国時代を生きることはありませんでした。
 彼はジョージア南部の小さな農村で、貧しい農家の四男として生まれました。彼がまだ2、3歳の頃、家族は貧しい暮らしから脱するため、カランタロフという地主が所有する果樹園で住み込みで働き始めます。しかし、その後彼の両親、兄が次々に亡くなり、姉が結婚で家を出ると、彼一人がカランタロフ家に残されました。幸いなことに彼はカランタロフ家の子供たちに預けられ、そこでジョージア語やロシア語を学び、絵を描く機会を与えられました。
 20歳になって、彼は印刷屋で働き始めますが長続きせず、再びカランタロフ家の3番目の娘エリザベートの家で暮らすようになります。彼は定職に着けないダメな人間だったにもかかわらず、愛すべき人格の持ち主だったのかもしれせん。しかし、彼をかわいがってくれた10歳年上のエリザベートに恋をしてしまったために、彼は家を出なければならなくなりました。
 1890年4月、彼はザカフカース鉄道の貨物列車に乗り、制動手として働き始めますが、肉体的にきつい仕事だったことから身体を壊した彼は4年後に退職。退職金などを元手に乳製品の店をオープンさせます。しかし、一日中店にいなければならない商売が彼に合うはずもなく、すぐに彼は店を手放してしまいます。それ以後、彼は絵具箱を持って居酒屋などを回っては、看板や店内の装飾画などを書くことで暮らす放浪の画家として生きて行くことになります。
 そんな生活の中で彼が出会った踊り子マルガリータの肖像画は彼の代表作となりました。(映画の中にも登場します)彼女への彼の愛は結局報われなかったのですが、その熱い思いは後に一曲の歌の歌詞として知られることになります。それが、世界中でカバーされているロシアを代表する名曲「百万本のバラ」なのです!
 そんな広告宣伝業のような仕事ばかりですから、画家として彼が作品を発表する機会などあるはずもなく、そのまま無名の画家として彼が生涯を終えていたとして不思議ではありませんでした。

<一度だけのブレイク>
 1912年、そんな彼に一度だけ光が当たったことがありました。美術アカデミーの学生だったズダネヴィッチ兄弟と画家のミハイル・ル=ダンテューの3人が偶然入った居酒屋で彼の絵を目にしたのがきっかけでした。その時期、パリではアンリ・ルソーの素朴な絵画が脚光を浴びていて、誰からの影響も受けていない素朴な画風の画家に対する評価が高まっていました。そのため、ピロスマニの誰の影響も受けていない絵画は大きな衝撃を3人に与えたのでしょう。こうして3人は人づてに彼の居場所を突き止め、彼の作品を紹介しようとパリやモスクワの美術展に出展させます。こうして、彼は「東欧のルソー」として「発見」され世に出ることになりました。
 しかし、この頃、ヨーロッパは激動の時代を迎えようとしていました。第一次世界大戦が始まると、彼が住むチフリス(現在の首都トビリシ)の街も不況の影響を受け、多くの居酒屋が閉店に追い込まれてしまいます。当然、彼の仕事も減り、生活すら困難になってゆきました。
 そんな中、彼は1916年に設立されたジョージアの美術家協会の設立会議に招かれます。ところがその席で、彼は自分が何の基礎ももたない素人画家として陰口を叩かれていることに気づきショックを受けてしまいます。その後、彼は二度とこうした会に出席することはなく、再び放浪の画家としての生活に戻ってしまいます。
 1917年、ロシア革命が起きても彼の暮らしは変わらず、アルコールの飲み過ぎもあり50代に入り体調も悪化。1918年の春、お祭りで久しぶりに飲み過ぎた彼はひとり地下室の薄暗い部屋で倒れているところを発見されますが、もうそこから回復ことはなく、静かにこの世を去りました。

<ゲオルギー・シャンゲラーヤ>
 ストーリーだけからすると、この映画はゴッホやルソーに代表されるような生前はまったく評価されないまま貧しい生活を送った悲劇の画家のロシア版ということになるのかもしれません。それがより魅力的な映画になっているのは、「動くピロスマニの個展」として楽しめるからといえます。そこには監督ゲオルギー・シャンゲラーヤのピロスマニに対する熱い思いと優れた演出手腕が発揮されているのです。
 この映画の監督ゲオルギー・シャンゲラーヤは、1937年に生まれたジョージアを代表する映画監督です。彼の父親も映画監督で、母親は女優という映画一家に生まれています。しかし、彼がまだ小さかった頃に父親は映画のロケ中に死亡し、母親はその後飛行機事故で亡くなってしまいました。そのため、彼は兄と共に孤児として少年時代を送ることになりました。彼にとって、両親を早くに失い自力で画家となったピロスマニは、他人とは思えない存在だったのかもしれません。
 兄と共に父親の遺志を継いでモスクワの国立映画大学に入学した彼は、1957年に「冷たい心の物語」で監督としてデビュー。学生時代すでにピロスマニの記録映画を撮っていた彼は、1969年ついに念願だったピロスマニの伝記映画を撮り、一躍世界的な監督として評価されるようになりました。

<アフランジル・ワラジ>
 この作品を撮るにあたり監督が最も悩んだのは、主役のピロスマニを誰に演じさせるかでした。そこで彼はオーディションを行って主演俳優を探し始めますが、ふとすぐそばにピッタリの人物がいることに気づきます。それがこの映画の美術担当アフランジル・ワラジでした。
 学生時代、建築と美術を学んだ彼は、大学院を卒業すると画家として活動。その後、博物館の展示などの演出などの仕事もするようになり、美術史家でもあって、この作品の美術担当に抜擢されました。ピロスマニに対する理解は監督以上だったのかもしれません。
 もちろん彼に俳優経験はなかったようですが、その素人っぽさが、この映画では主人公の画家っぽくなさにピタリとはまっています。

「放浪の画家 ピロスマニ Pirosmani」(初公開時タイトルは「ピロスマニ」) 1969年
(監)(脚)ゲオルギー・シャンゲラーヤ Georgy Shengelaya
(製)ジョージア・フィルム・スタジオ Gruziafilm Studio
(脚)エルロム・アフヴレジアニ Erlom Akhvlediani
(撮)コンスタンチン・アプリチャン Konstantin Apryatin
(音)ワフタング・クヒアニーゼ Vakhtang Kuhimianidze
(美)アフタンジル・ワラジ Avtandil Varazi、ワシーリー・アラビーゼ Vasily Arabidze
(出)アフタンジル・ワラジ Avtandil Varazi(ピロスマニ)、アッラ・ミンチン Alla Minchin、ニノ・セトゥリーゼ、マリヤ・グワラマーゼ
1974年シカゴ映画祭ゴールデン・ヒューゴ賞、アゾロ国際映画祭最優秀伝記映画賞

<参考>
「エキプ・ド・シネマ」No.27「ピロスマニ」

1978年
岩波ホール

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