- ピチカート・ファイブ Pizzicato Five -

<映画監督、小西康陽と俳優たち>
 小西康陽という映画監督が、お気に入りの俳優たちを使って作り上げる映像のない映画のサウンド・トラック・アルバム。それがピチカート・ファイブの作品です。(といっても、映像もちゃんとあるヴィデオ作品も多いのですが・・・)
 今まで主役に抜擢されたのは、佐々木麻美子、田島貴男(オリジナル・ラブ)、そして野宮真貴の3人。いずれも、かなりの個性派です。
 あくまで裏方に徹していはいるのですが、ところどころでしっかりと顔を出す小西監督は、ブロンドの美人女優にこだわり続け、必ず自らの作品に顔を出さなければ気が済まなかったサスペンス映画の巨匠ヒッチコックを思い出させます。考えてみると、彼が好きなフランスのヌーヴェルバーグの監督たち(フランソワ・トリュフォー、クロード・ルルーシュら)にとっての憧れの映画監督もまたヒッチコックでした。
 ピチカート・ファイブの生み出す、映像が目に浮かぶような音楽の世界は、たぶん彼の映画へのこだわりが生み出したものであり、かつては映画の専売特許でした「コラージュ」、「編集」という手法を徹底的にポップスの世界に持ち込んだからこそ生み出すことができたのでしょう。

<早すぎたお洒落サウンド>
 ピチカート・ファイブの結成は1984年。オリジナル・メンバーは小西康陽(Bas,Key,Vo)、高浪敬太郎(Gui,Key,Vo)、鴨宮諒(Key)、佐々木麻美子(Vo)の4人でした。デビューのきっかけは偶然だったようです。小西氏の友人がYMOの細野晴臣に紹介してくれたことがきっかけで、彼がプロデュースを請け負ってくれ、おかげで、翌1985年に12インチ・シングル「オードリー・ヘップバーン・コンプレックス」で早々とデビューを飾ることができたのです。(僕これ買いました!)
 この後、彼らはソニーと契約し、初アルバム「カップルズ」(1987年)を発表。このアルバムは、ロジャー・ニコルズをいち早く取り上げており、後のソフト・ロック・ブームの火付け役ともなりました。
 しかし、この時点で佐々木と鴨宮が脱退。すでに、オリジナル・ラブとしての活動を始めていた田島貴男が二つのバンドを掛け持ちすることになります。
 「ベリッシマ!」(1988年)は、田島のヴォーカルを中心として、70年代のフィーリー・ソウル、それにマーヴィン・ゲイを復活させたアルバムで、以前とは全く違うスタイルへと変化していました。演歌にはあってもロックの世界には、ほとんどなかった男の色気を前面に押し出す音楽になっていたと言えるでしょう。この後すぐ、田島貴男はオリジナル・ラブでこの路線を大ブレイクさせるのですが、「女王陛下のピチカート・ファイブ」(1989年)、「月面軟着陸」(1990年)などのアルバムあたりまでは、優れた内容でありながら一般受けはせず、洋楽だけでは物足りない一部のマニアのみのアイドル的存在に止まっていました。

<渋谷系としてのブレイク>
 流れが変わったのは、小山田圭吾(現コーネリアス)と小沢健二らが結成したフリッパーズ・ギターのブレイクからあたりからでした。俗に渋谷系と言われるそれまで歌謡曲にも日本のロックにもなかった洋学的編集感覚(サンプリングによる)の新しいサウンドが90年代に突然ブレイク。その中心がフリッパーズ・ギターとピチカート・ファイブになったのです。(その他にも、オリジナル・ラブ、ラブ・タンバリンズ、フィッシュマンズなどがいました)
 しかし、フリッパーズ・ギターがアルバム数枚を発表してあっさりと解散し、その後はまったく違う展開をみせたのに対し、ピチカート・ファイブは、ヴォーカルに新しい個性、カリスマ的なアイドル野宮真貴を迎えることによって、渋谷系的な魅力をより強めることに成功します。
 特に傑作と呼ばれるアルバム「ボサノヴァ2001」(1993年)では、プロデューサーに元フリッパーズ・ギターの小山田圭吾を迎え、野宮の自由自在に変化するヴォーカルを活かした多彩な音楽を展開しました。いよいよピチカート・ファイブは、ヒットチャートにも顔を出す人気グループの仲間入りを果たしたのです。

<野宮真貴>
 小西康陽の才能は確かに凄い。しかし、ヒッチコックもグレース・ケリーという美しい宝を持っていたように、野宮真貴という最高の主演女優の存在なくしてピチカート・ファイブのブレイクは語れないでしょう。
 そのファッション・センスと独特のライフ・スタイル、そして魅力的なヴォーカルで一気にピチカート・ファイブの顔となった野宮真貴ですが、彼女はそれ以前10年もの間秘かにマニア向けのアイドル?として活躍をしていました。
 ソロ・デビュー・アルバム「ピンクの心」の発表は1981年。プロデューサーはムーン・ライダースの鈴木慶一で、このアルバムの中の「女ともだち」は資生堂のCMタイアップ曲でした。(なおこの曲はCMタイアップ曲=ヒット曲のジンクスを見事に覆した伝説の曲だったようです)
 その後彼女は、鈴木智文、中原信雄とともにポータブル・ロック Portable Rockというニューウェーブ系ポップ・バンドを結成。鈴木慶一のプロデュースのもと編集されたオムニバス・アルバム「陽気な若き水族館員たち」(1983年)でデビュー。その後、アルバム「Q.T[+1]」(1986年)を発表していますが、このアルバムからのシングル「春して、恋して、見つめて、キスして」は、今度はコーセーのCMタイアップ曲となるも、またしても大コケ。時代は野宮にまだまだ追いつけないでいました。
 僕が初めて彼女の声を聞いたのは、「陽気な若き水族館員たち」でした。「クリケット」と「グリーン・ブックス」という2曲だけの収録でしたが、僕はすっかり彼女の声が気に入ってしまったことを憶えています。(このアルバムで紹介されていた他のアーティストたち、ミオ・フーリアル・フィッシュヴォイスも素敵でしたが)「ボサ・ノヴァ2001」を、その後しばらくして聞いたとき、「あれ、この声、確か・・・あの時の・・・」というわけでうれしい再会となったわけです。
 やっと時代が彼女に追いつき、僕も彼女に再会できたというわけです。めでたしめでたし。

<海外へ!>
 その後、彼らは1994年にミニ・アルバム「5X5」でアメリカ・デビューも果たし、最終形態となった小西&野宮のユニットで1995年にはアメリカ、ヨーロッパなどへのツアーも敢行します。そして、彼らは国内よりも海外で評価される日本のバンドの先駆けとなったのです。

<歌謡曲と小西監督>
 あまりに彼らのサウンドがお洒落なため、ほとんど語られることはないのですが、小西康陽は元々歌謡曲畑の作曲家、筒美京平に憧れて作曲家になることを目指したといいます。かつて歌謡曲がロックやソウルなどを取り入れつつ、少しずつ変わろうとしていた頃の雑食性こそが、作曲家小西の原点なのかもしれません。だからこそ彼は、ジャンルにこだわることなくピチカートの音楽性をより広範囲なものにしていったのでしょう。そして、歌謡曲からロック、果ては子供向けの数え歌「おは数え歌」(TV東京「おはスタ」)まで、何でもやってのけるスーパー・プロデューサーとしても活躍できているのです。(ただし、子供たちの踊りのバックでキーボードを弾く彼の姿は、いただけません。ヒッチコックだって、あそこまでは浮いていなかった・・・)

<映画と小西監督>
 小西康陽は、大学卒業後しばらく映画ばかり見てふらふらしていたといいます。確かにその頃はまだ都内に名画座がいっぱいあり、ヌーベルバーグの作品などヨーロッパ映画の数々をいくらでも見られた幸福な時代でした。(僕もその頃、めちゃくちゃ映画をみていたので良くわかります。一年に100本近くみた年もありました。映画ファンにとっては実に幸福な時代でした)

<テクノロジーの進化と小西監督>
 映画は、ごく当たり前のいくつかのシーンを編集することで、驚くような効果を生み出すことが可能ですが、その手法を音楽に応用することは、なかなか困難でした。しかし、最近になって、コンピューターを用いた楽器、シンセサイザーそしてサンプリング・マシンが登場し、状況は一変しています。そのおかげで、小西監督のような映像的音楽家がその才能を発揮できるようになったのでしょう。テクノロジーの進化は、つい数年前なら変わり者の音楽マニアで終わったかもしれない人物を超一流のアーティストにしてしまったのかもしれません。
 そう書いている僕自身もインターネットがなければ、こうして音楽に関する文章をあなたに読んでもらうことはできなかったでしょう。人生何が起こるかわからないものです。みなさん、思い残すことがないようがんばりましょう!

<小西監督よ、どこへ>
 主演俳優を失った小西監督は、今後どうするのでしょうか?
たぶん、音楽プロデューサーとして、今後は活躍してゆくのでしょう。でも、彼の好きなヌーベルバーグの監督、フランソワ・トリュフォーは、映画狂が高じて本当に映画監督になってしまった人物です。いっそのこと、映画を作ってみるというのはどうでしょうか?

<締めのお言葉>
「映画は実生活と違って淀みなく進行する。夜の急行列車のようなものだ」

フランソワ・トリュフォー監督作品「アメリカの夜」より

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