- ポリス Police
スティング、アンディ・サマーズ、スチュアート・コープランド -

<短いポリス活動期間>
 2007年、久々に再結成されたポリスの20世紀における活動期間は以外に短く、1978年から1983年までのわずか6年にすぎません。それぞれのメンバーはソロとしての活動期間の方がはるかに長いことになります。当然、ポリスについて語るには、活動期間だけについて語るのでは不十分ということになるでしょう。そしてもう一方では、ポリスについては結成前にも以外に長い歴史があることを忘れてはいけないでしょう。そこには彼らが1970年代から1980年代にかけて、最強のロック・トリオと呼ばれることになる秘密が隠されているように思えます。そして、ポリス解散後にそれぞれのメンバーが向かうことになる方向性もまたすでに示されていたように思えます。そんなわけで、先ずはポリスが結成される前の1960年代にさかのぼってお話を始めたいと思います。

<アンディ・サマーズ>
 ポリスのギタリスト、アンディ・サマーズ Andy Summersはメンバー中最年長で1946年12月31日にリバプール北部で生まれ、その後はポーツマスで育ちました。10代前半からギタリストとして地元では有名な存在として活躍。1964年18歳でロンドンに進出。ズート・マニーズ・ビッグ・ロ−ル・バンド Zoot Money & the Big Roll Band に参加し、2年間ギタリストを勤めました。その後、1968年前衛的なジャズ・ロック・バンドの先駆的存在となったソフト・マシーンのアメリカン・ツアーに参加。しかし、正式メンバーとはならず、その年の夏にブリティッシュ・ブルース・バンドとして活躍していたエリック・バードン&ジ・アニマルズ Eric Bardon & the Animals に参加。1973年の解散まで正式メンバーとして6年近く活動をともにし、その後はポリス参加までの間、セッション・ギタリストとして数多くのアーティストの作品に参加しています。(ジョン・アーマトレイディング、ケヴィン・エアーズ、ニール・セダカ、ジョン・ロードなど)
 ということは、ポリスと同じ期間、アニマルズのメンバーだったわけですから、ポリス参加時点での彼は新人というよりは経験豊富なベテラン・セッション・ギタリストだったわけです。

<スティング>
 ポリスのヴォーカリストであり、ソング・ライターでもあったスティング Sting は、1951年10月2日ニューキャッスルで生まれています。本名はゴードン・マシュー・サマーといいますが、ミュージシャンになったばかりの頃のお気に入りのシャツが黄色と黒の縞模様だったことから「ハチの一刺し=スティング Sting」と呼ばれるようになったのだそうです。10代前半の頃はストーンズやビートルズにはまっていましたが、その後、グラハム・ボンド・オーガニゼーションやアンディ・サマーズが在籍していたズート・マネー&ビッグ・ロール・バンドなどを見て、しだいにジャズを聴くようになってゆきました。その後、彼は教員養成学校に通いながらニューキャッスル・ビッグ・バンドにベーシストとして参加。卒業後は高校教師を勤めながら自らのバンド、ラスト・エグズィットを結成。このバンドはカセット・アルバムとシングルを発売するところまでいったものの、すぐに行き詰まってしまいました。1977年、ついにバンドは解散。しかし、この時すでに彼は元カーブド・エアーのスチュアート・コープランドと新バンド、ポリスを結成する約束をしていました。

<スチュアート・コープランド>
 ポリスの中でただひとりアメリカ生まれなのが、スチュアート・コープランド Stewart Copelandです。彼は1952年7月19日生まれ。兄はIRSレコードを設立し、後にREMを世に送り出すことになるマイルス・コープランド、弟のイアンもまた音楽業界でブッキング・エージェンシーを運営する事業家という音楽ファミリーの一人として育ち、ドラム&パーカッションのスペシャリストとして早くから活躍していました。
 1974年、22歳のとき、オーディションに合格して、カーブド・エアー Curved Airに参加。高い評価を得たもののアルバム二枚を出したことろでバンドは解散。その後、すぐにスティングを誘ってポリスを結成しました。

<ポリス結成>
 ポリスのスタートは1976年スチュアート・コープランドとスティングの二人から始まりました。その翌年、フランス人のギタリスト、ヘンリー・パドバニがメンバーに加わり正式にバンドとして活動を開始。ライブ活動を行う中で出会ったアンディ・サマーズが4人目のメンバーとなり、マイルス・コープランドが設立したインディーズ・レーベル、イリーガル・レコードから、シングル「Fall Out」でデビューしました。その後、ヘンリーが脱退し、3人になったところでポリスはメジャー・レーベルのA&Mと契約、ついに本格的なデビューを飾ることになったのでした。
 彼らのデビュー曲は、娼婦のことを歌った過激な歌詞の曲「ロクサーヌ」(1978年)、続くシングル「Can't Stand Loosing You」(1978年)とともにヒットしますが、どちらもイギリス国内で放送禁止処分になっているそうです。なぜそうなったのかというと、前年の1977年10月セックス・ピストルズがアルバム「勝手にしやがれ」を発表。「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」など歴史的な放送禁止曲を連発。おかげで放送業界はパンクに対し、過剰な反応を示すようになっていました。そして、ポリスもまたそんな過激なパンク・バンドの一つと見なされていたわけです。もちろん、彼らはセックス・ピストルズとは大違いのバンドでした。楽器は弾けるし、ジャズが好きだし、・・・ただし、規制のロックの枠組みを壊そうという意気込みは一致していたのかもしれませんが、・・・。
 彼らは、もともと「破壊」よりも「創造」に意欲をもつバンドだったと言えると思います。それは彼らが選んだバンド・スタイルにも現れています。ロックの原点回帰ともいえるリード・ギター、ベース、ドラムスだけのトリオ編成は、これ以上削ることのできないバンドの形であり、彼らはそこにコンピューターによるバックを導入することもありませんでした。すでに彼らはロックを原点に一度戻し、そこから再スタートを切ろうとしていたのだと思います。こうしてかつて、エリック・クラプトンとジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルースによるクリームが一時代を築いて以来、久々にそれ匹敵するロック・トリオが誕生したわけです。

<ホワイト・レゲエの最高峰>
 彼らの実力が証明されたのはデビュー・アルバム「アウトランドス・ダムール Outlandos D'amour」(1978年)に続いて発表されたセカンド・アルバム「白いレガッタ Reggatta De Blanc」(1979年)でした。このアルバムによって彼らはホワイト・レゲエ・バンドの最高峰という地位を確立しただけでなく、ジャマイカのレゲエとは異なるブリティッシュ・レゲエという新たなジャンルの先駆けとなりました。大ヒット曲「孤独のメッセージ Message In a Bottle」に続いて大ヒットした「Walking on the Moon」は、そんな彼らの新しさを表わす曲です。3ピースだからこそ生み出せる音と音の間から生まれる浮遊感は、レゲエを聴きなれていた人々にとっても新鮮な驚きでした。
 1980年には大ヒット・シングル「ドゥドゥドゥデダダダ」を生んだサード・アルバム「ゼニヤッタ・モンダッタ Zenyatta Mondatta」を発表。続く1981年のアルバム「ゴースト・イン・ザ・マシーン Ghost in the Machine」もトータル・アルバムとして評価が高い作品で、ここからも「Invisible Sun 」、「Magic」、「Material World」などのヒットが生まれています。この後、バンドは一時的に休止状態となり、しばらくはそれぞれが単独で活動を行うようになります。そして、この時すでに3人のその後の活動の方向性の違いが明らかになりつつありました。
 スティングは1979年に映画「さらば青春の光」に出演して好評だったこともあり、俳優の仕事に力を入れるようになります。1982年には主役として「ブリムストン&トリークル」に出演しその後の俳優活動のきっかけとなりました。
 1983年しばしの沈黙を埋めるように、ポリスは1980年に行ったワールド・ツアーを収めたライブ・ビデオ「Police Around the World」を発表。このアルバムで新鮮だったのは、アメリカやヨーロッパでのライブだけでなくインドでのライブも収められていたことです。収益のことだけを考えれば、インドや第三世界の国々を回るメリットはないはずです。しかし、こうした彼らのスタイルは自分たちの音楽性にも新鮮さをもたらすことになり、この後世界中で盛り上がることになるワールド・ミュージックのブームの下地にもなります。(レゲエは、すでにボブ・マーリーによって、ワールド・ワイドな音楽になりつつありました)

<新たな活動>
 1983年、彼らはオリジナル・アルバムとしては最後となる作品「シンクロにシティー Synchronicity」を発表。まさかこれがラスト・アルバムとは思えなかったこの傑作アルバムからは「見つめていたい」、「アラウンド・ユア・フィンガー」、「シンクロニシティーU」、「キング・オブ・ペイン」とヒット曲が次々に生まれました。(このアルバムで、彼らはグラミー賞のSong of the Year, Best Pop Groupの主要二部門を受賞しました)
 さらにこのアルバムの曲を中心とする「シンクロニシティー・ツアー」のライブ・ビデオ「シンクロニシティー・コンサート」もまたロック史に残る名作として高い評価を得ました。このビデオの監督は、当時ミュージック・ビデオ界最強のコンビと言われていたゴドレー&クレーム(元10CC)で、彼らにとってもこの作品は代表作のひとつになりました。
 結局彼らは解散コンサートも解散宣言も無く自然に活動を停止し、それぞれも活動へと移行してゆきます。そう考えると、2007年の活動再開もまた自然な流れであり、他のバンドのような大げさな再結成ではなかったのかもしれません。

<スチュアート・コープランド>
 スチュアート・コープランドは、ポリスとしての活動の絶頂期、すでにソロ活動をスタートさせていました。1980年クラーク・カント(クラーク・ケントのこと?)という名前でソロ・アルバム「ミステリアス・デビュー」を発表。その後、ピーター・ゲイブリエルのバンドに入り、WOMADフェスティバルに出演したり、F・F・コッポラの監督作品「Rumble Fish」の映画音楽を担当するなど、いろいろな分野で活躍。ドラムおたくとして、パーカッションの研究を続けていた彼は、ケニア、コンゴ。ザイールなど、太鼓の故郷アフリカを旅しながらフィールド・レコーディングを行い、その音源をもとにザイールの大物ミュージシャン、レイ・レマと共同でアルバム「リズマティスト」を発表。高い評価を得ました。(この時の旅はドキュメンタリー映画として公開もされているそうです)
 学究派であり社会派でもある彼は、ポリスの中で最も真面目なアーティストかもしれません。そんな性格もあり、彼の活動は裏方的なものが多く、ピーター・ガブリエルとの共演(アルバム「SO」など)や映画「ナイン・ハーフ」、「クリフ・ハンガー」などの音楽を担当するなど、地味な仕事を担当しています。彼が表に立った仕事としては、彼とベーシストのスタンリー・クラーク、ヴォーカリストのデビー・ホーランドによるバンド、アニマル・ロジックの活動があります。彼らは1989年「ハウス・オブ・ラブ」、1991年「アニマル・ロジック」と二枚のアルバムを発表しています。

<アンディー・サマーズ>
 アンディー・サマーズもコープランド同様、ポリス時代からすでに他のアーティストとのコラボレーションを行っていました。
 1982年には、昔から知り合いだったというキング・クリムゾンのロバート・フリップとアルバム「心象現象 I Advance Masked」を制作。二人はポリスの活動休止後にもアルバム「擬制の映像 Beaitched」を発表しています。その後、彼は「ビバリー・ヒルズ・バム」などの映画音楽も担当していますが、やはり本業はギタリスト。ソロとして、1986年にアルバム「XYZ」を発表して以降、全曲インストロメンタルのアルバム「Mysterious Barrcades」(1988年)、ハービー・ハンコック、ビル・エヴァンス、スティングらが参加したアルバム「Charming Snakes」(1990年)、元ソフトマシーンのジョン・エスリッジとのアコースティック・ギター・デュオ・アルバム「Imvisible Threads」(1993年)を発表するなど活発にソロ活動を「続けています。

<スティング>
 スティングのソロ活動もやはりポリスの活動と平行して行われていましたが、彼の場合、それは映画俳優という仕事が中心でした。
 ザ・フーのアルバム「四重人格 Quadrophenia」(1973年)を映画化したモッズ・ムーブメントに捧げた青春映画「さらば青春の光」(1979年)への出演で高い評価を得た彼には映画出演のオファーが次々にくるようになりました。
 1982年の「ブリムストン&トリークル」、1984年にはSF大作「デューン:砂の惑星」、1985年には「ブライド」、「プレンティー」と、まるで映画俳優のように映画界での活躍が続きました。しかし、ポリスの活動が完全に休止すると、いよいよ彼はソロ・ミュージシャンとしての活動を本格化させます。そしてその時、彼がバック・ミュージシャンとして選んだのは、意外なことにロック界のミュージシャンではなくジャズ畑のミュージシャンたちでした。かつて彼が憧れていたジャズ的なサウンドを実現するために必要な最高のメンバーがこうしてそろうことになったのでした。
 ブランフォード・マルサリス(Sax)、ケニー・カークランド(KeyB)、ダリル・ジョーンズ(Bass)、オマー・ハキム(Dr)いずれも若手の優秀なジャズ・ミュージシャンでしたが、彼らを以前から気に入っていたマイルス・デイヴィスは、スティングに彼らを奪われてしまったことに激怒したといいます。スティングからのギャラの方がたぶん高かったのでしょうが、マイルスにとっては「ジャズの未来」を「ロック界の若造」に奪われたと思えたのでしょう。
 結局、このメンバーとスティングはレコードだけでなくツアーもいっしょに行うことになり、そこからソロ・アルバム「ブルー・タートルの夢 The Dream of the Blue Turtles」(1985年)と「Set Them Free」のヒット、ツアーのドキュメンタリー映画「A Band is Born」そして、素晴らしいライブ・アルバム「Bring it the Night」(1986年)を生み出すことになりました。世界最強のトリオと呼ばれたポリスでしたが、この時のスティングのバンドはそれに匹敵する究極のバンド・サウンドを生み出すことに成功しています。その結果、ポリス時代の「Bring on the Night」、「サハラ砂漠でお茶を」などは、トリオでの演奏とはまた別の輝きをもって蘇っています。
 1987年、新しいメンバーによるアルバム「Nothing Like the Sun」を発表。このアルバムからは「We'll Be Together」、「Englishman in Newyork」がヒット。しかし、私生活ではこの前後に彼の両親が続けて亡くなるという悲劇に見舞われ、しばらく新作は生まれず、1991年にやっと両親への思いをこめた悲しみにあふれたアルバム「The Soul Cage」が発表されました。

<スティングの社会活動>
 こうしたソロ活動と平行して常に行われていたのは社会的、政治的な彼の活動です。ポリス時代にソロで参加したアムネスティのためのチャリティー・コンサート「Secret Policeman's Other Ball」(1981年)以来、1984年のBand Aidへの参加。1989年にはアマゾンの熱帯雨林保護キャンペーンを立ち上げ、翌年にはチャリティー・ライブを開催。エイズ患者のためのチャリティー・アルバム「パフ・エイド」(1991年)にも参加。常に彼は人権問題や自然保護運動に関わり続けて来ました。
 しかし、彼のそんな活動を吹き飛ばすような事件が起きてしまいます。2000年9月11日彼は少人数の観客を前にコンサートを行うことになっていました。ところがその日、あの同時多発テロ事件が発生。大きなショックを受けた彼はその日のコンサートを行うべきか、その判断を会場の観客たちにゆだねました。すると人々はみな、こんな状況だからこそやるべき、とスティングを元気づけました。この時の演奏は、その後ライブ・アルバムとして発表されることになりました。
 2007年、グラミー賞の授賞式にあわせて再結成されたポリスは、その後本格的な再結成に向け始動を開始しました。

<締めのお言葉>
「・・・共時的現象(シンクロニシティー)に気づいたときは、その意味を見出すことができる点をまず指摘したい。事象Aだけが生じ、それによって困難を感じている時、A,B,Cなどの現象が共時的に生じていることを把握し、現象Aの「意味」に気づいたとき、人間の困難は相当に軽減されることが多いし、意味を知ることによって、新しい展開も生じてくるのである。・・・」

I・プロゴフ著「ユングと共時性」より

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