アメリカの新聞から見た世界史(1)
- ピュリツァー賞受賞写真の歴史 -

- 1942年~1960年代 -
<アメリカから見た世界史>
 ピュリツァー賞写真部門が創設されたのは1942年。第二次世界大戦という世界的な大事件と共にスタートしています。受賞作は、1967年までは年一枚だけで、アメリカの新聞に掲載された写真が選考対象になっています。そのため、傾向としてアメリカで起きた事件が題材になっている場合が多くなっています。ただし、「世界の警察」を自称するアメリカは、世界各地に出かけて行くことが増え、自ずと国外の事件にも関わることになり、必然的にアメリカ以外で起きた事件も増えるようになりました。
 1968年以降は、ニュース速報部門とは別に、一つのテーマに焦点を合わせて企画されたより深い報道写真が「特集企画部門」として選ばれるようになりました。とはいえ、年に数枚しか選ばれないのですから、そこから世界の歴史を見渡すのは無理というものでしょう。それでも、「アメリカを中心とした世界」という「」付きの枠組みから見た世界の歴史なら、そこから見ることができそうです。それは内容的も「アメリカ人の視点」から見た世界だということは要注意です。
 このページは、ナショナル・ジオグラフィック社から発売されている「ピュリツァー賞受賞作品全記録」をもとに1942年からの受賞作を紹介しながら、そんな「アメリカの新聞から見た世界史」を追って行きます。
 参考として、写真タイトルからリンクを張ってありますが、実際の記事には写真が複数枚だったり記事もあります。写真自体も小さくて迫力不足なので、是非「ピュリツァー賞受賞写真全記録」をご覧ください!

<決定的瞬間>(1940年代~1960年代)
 初期の受賞作は、カメラマンが偶然その事件に遭遇して「決定的瞬間」の撮影に成功したことで生まれています。
「ワインコフ・ホテルの火災」、「危機一髪」、「トラック運転手の救出」、「銃の持った少年と人質」、「波にさらわれた子供」・・・など
 有名な事件が題材になるわけではなく、「写真」が持つ「瞬間を切り取る」という機能を最大限に生かした一枚が選ばれています。その意味では、「運」に恵まれなければ得られない賞だったともいえます。「運」がもたらしたその「瞬間」にいかに正確に場面を切り取るか、その技術が試される賞だということです。そのため、受賞作のほとんどは「戦争」、「事故」、「犯罪」がテーマになっています。
 その例外は、「アドレーの靴」、「ベーブ・ルース最期のあいさつ」、「チャイナタウンの男の子と警察官」、「孤独な二人」ですが、どれもアメリカ人が愛するアイドル・キャラクターたちです。彼らは、「大統領と候補者」、「メジャー・リーガー」、「子供」たちです。
 1960年代最後の一枚となった「サイゴンの処刑」は、思えばそうした「決定的瞬間」をとらえた一枚の中でも究極的作品だったといえます。これを超える写真はもう撮れないのではないでしょうか?
<特集企画による深堀り>1970年代~
 1960年代末に登場した「特集部門」に対応するように、1970年代に入るとそれまでにない深掘り企画が誕生するようになります。
 例えば、1970年の「季節労働者の移動」は、農作物の収穫作業のために雇われる貧しい黒人労働者たちが仕事を求めて、様々な土地を旅する現状を追った企画です。公民権法の成立により、人種間の法的差別がなくなったとはいえ、構造的に黒人労働者が労働階級における最下層に位置する状況に変わりがない。まるで「風と共に去りぬ」と変わらない風景に驚かされます。1971年の「人間倉庫」ではシカゴ近隣の都市に存在した障害者のための施設における悲惨な状況が暴露されています。その後も、「出産」や「群衆のなかの顔」など「人間」をテーマにした作品がじっくりと作られるようになります。
<悲劇の大地、アフリカ>1980年代~
 1970年代の終わり頃から増えてくるのが、「飢餓」や「内戦」によって悲惨な状況に追い込まれていたアフリカで撮られた写真です。
「ローデシアの奥地」、「浜辺の処刑」から始まり、「飢饉」、「反政府勢力への取材」、「南アフリカの抗争」、「モガディシオにおける米兵の死」、「ハゲワシと少女」、「ルワンダの死の村」、「ケニアの通過儀礼」、「涙の旅路」、「包囲されたモンロビア」・・・
 残念ながら、アフリカの一部地域は20世紀の地球上で、最も貧しく最も病が蔓延し最も暴力が支配する土地だったのでしょう。だからこそ、被写体としてこれほどまでに何度となく撮影され続けているのです。
<イスラム世界との衝突>1980年代~
 アフリカの悲劇と同じころから登場したもうひとつの大きなテーマは、「中東紛争」や「イスラム過激派のテロ」など、アメリカを中心とする西欧社会とイスラム教社会との対立から生まれた写真です。
1980年の「ホメイニからのメッセージ」から始まり、「サブラ難民キャンプでの虐殺」、「戦争と子供たち」、「アメリカ大使館へのテロ攻撃」、「世界貿易センタービルへのテロ攻撃」、「イラク戦争」、「イラク再び」、「たった独りの闘い」・・・
 当初は中東地域だけの紛争だったものが、アメリカの参加とそれに引きずられた西欧諸国の参加により、紛争の地域は世界中に広がりつつあります。
<生と死をみつめて>(2000年代~)
 2000年代に入ると、新たなテーマとして「生と死」をめぐる「家族」の絆を題材にした企画が登場します。
「エリアン君 強制確保」、「火事の後」、「ライオン�ハート作戦」、「最後の敬礼」、「ある母親の旅」、「私を覚えていて」などがあります。
 いずれも「事故」や「病」により、「生と死」を見つめ直すことになった家族とその本人の生き様を取材した素晴らしい作品ばかりです。

<テーマの変遷>
 こうして時代によって取り上げられるテーマが変わり続けてきたのは、大衆が関心をもつテーマが変化してきたことを映し出しているのでしょう。マスコミもまた営業的には、追いたいテーマというよりも大衆が求めるテーマを追わざるをえなかったのでしょうから。
 ただし、テーマの変遷はあっても、これまで扱われてきたテーマはどれもその重要性において今もなお変わりないと思われます。だからこそ、同時多発テロ事件を追った「世界貿易センタービルへのテロ攻撃」は、同じテーマで唯一「ニュース速報部門」と「特集部門」両方で受賞することができたのでしょう。そこには、上記の様々テーマのほとんどが盛り込まれているのですから。

<登場していないテーマ・土地>
 受賞作に中で取り上げられていないテーマ・被写体について考えてみました。
(1)1942年の「デトロイトの労働争議」以降、労働問題は登場していません。逆に左翼への弾圧「赤狩り」の写真もありません。これは右派・左派どちらにも偏ることのないようバランスをとろうとする報道カメラマンたちの姿勢がそこに示されているのかもしれません。
(2)スポーツの写真はあっても、映画、音楽、演劇、芸術、文学などに関する写真がありません。「パパラッチ」的な写真に対する「アンチ」なのか、報道カメラマンとしてのプライドのせいなのか。
(3)アポロ計画だけでなく宇宙開発や科学技術の発展に関する写真がありません。将来、カメラマンが宇宙船に乗るようになれば、宇宙に関する受賞作が誕生するかもしれません。それともあくまでこの賞は「人間」が主人公でなければならないのかもしれません。(注)ハリケーンや冬の嵐の写真はありますが、どれも災害写真であって気象の写真ではありません。
(4)オーストラリア、ニュージーランドなど「オセアニア地域」の写真はありません。これは、幸いなことと考えるべきでしょう。「南極」と「北極」も登場していませんが、地球温暖化問題が深刻化すれば、登場する可能性もありそうです。
1940年代
「デトロイトの労働争議」(ピケ最前列の乱闘)
ミルトン・ブルックス(デトロイト・ニューズ紙)1942年(ミシガン州デトロイト)
「水を!」
フランク・ノエル(AP通信)1943年(インドネシア沖)
「タラワ」
フランク・ファイラン(AP通信)1944年(南太平洋タラワ島)
「英雄の帰還」
アール・バンカー(オマハ・ワールド・ヘラルド紙)1944年(アイオワ州ビリスカ)
「硫黄島の星条旗」
ジョー・ローゼンタール(AP通信)1945年(硫黄島・日本)
 この写真はクリント・イーストウッド監督作品「父親たちの星条旗」を観た方には説明するまでもないでしょう。
 1945年2月23日、太平洋戦争の中でも最大の激戦地となった硫黄島の天然の要塞「擂鉢山」の頂上に米軍の兵士6人が星条旗を立てる瞬間を撮った一枚です。
 撮影者のローゼンタールが擂鉢山を登っている時、すでに星条旗は立てられていたのですが、もっと大きな旗に替えるようにと上官が指示。おかげで旗を立てる場面を撮影することができたのでした。
 この記念すべき写真は、すぐに本国で話題となり、戦時国債発行キャンペーンの目玉となり、6人の兵士のうち生き残った3人が本国に呼び戻されることになります。彼らの雄姿は、米国の郵便切手で初めてまだ生きている人物を使った記念切手となりました。
 植民地ではなく日本領土の島である硫黄島を占領したことで、米軍は沖縄上陸作戦の足掛かりを得てほぼこの戦争における勝利を手にしたといえます。それだけにこの写真の持つ意味は大きかったのですが、この写真を撮ったローゼンタールは旗を立てるまでに失われた兵士の数を思うと喜びよりも不安の方が大きかったといいます。そして現実はその不安どうりの展開になりました。なぜなら、この島での勝利は本当はまだまだ先のことだったからです。
 この写真を撮影した際に上陸した40名の兵士たちは、この後再び激しい戦闘に巻き込まれることになり、1か月後に戦闘が終わった時、無事に島を出たのはわずか5人だけでした。
 どんなに力強く、どんなに美しい写真でも、「戦争」を写した写真には、その裏側に多くの血が流されていることを忘れてはいけない、そんな一枚です。
「ワインコフ・ホテルの火災」(炎上するホテルからの死の脱出)
アーノルド・ハーディー(アマチュア、AP通信)1947年(ジョージア州アトランタ)
「銃を持った少年と人質」(十代の発砲事件)
フランク・ワッシング(ボストン・トラベラー紙)1948年(マサチューセッツ州ボストン)
「ベーブ・ルース最後のあいさつ」(背番号3の引退)
ナサニエル・ファイン(NYヘラルド・トリビューン)1949年(ニューヨーク・アメリカ)
 1948年6月13日、引退して15年が過ぎていたメジャーの英雄「ベーブ・ルース」ことジョージ・ハーマン・ルイスが古巣ヤンキー・スタジアムで試合前に挨拶をした姿を撮った写真です。この時、ルースは不治の病に冒されていて、この挨拶から二か月後にこの世を去ることになります。
 バットを杖代わりにして立つ、かつてのホームラン王の姿は、この瞬間を最後に人々の前から消えることになったわけです。カメラマンのナサニェル・ファインはルースの病が重いことや背番号の3が永久欠番になることも知っていたようです。そのせいなのでしょうか、この写真はスポーツの世界を写し取った他の写真とは異なり、ベースボールに代表されるアメリカ文化の黄金時代へのオマージュとして人々の心をとらえて離さない一枚となりました。
 もちろん背景に見えるヤンキー・スタジアムは今はもうありません。ファインはあえてシャッター・スピードを遅くしフラッシュを使わないことで背景をボカしたのですが、それがこの写真によりノスタルジックな雰囲気をもたらしています。歴史に残る写真は、奇跡的な偶然とカメラマンの技量、そして被写体に対する理解があって初めて生まれるものなのでしょう。すべてのベースボール・ファンに捧げたい一枚です。
1950年代
「危機一髪」(航空ショーのニアミス)
ビル・クラウチ(オークランド・トリビューン紙)1950年(カリフォルニア州オークランド)
「大同江(テ・ドンガン)の橋」(橋を渡って逃げる市民)
マックス・デフォー(AP通信)1951年(北朝鮮)
 1950年12月、朝鮮戦争の真っただ中に北朝鮮で撮影された衝撃的な一枚です。
 朝鮮戦争は当初、アメリカ軍が支援する韓国軍が北朝鮮軍を圧倒し一方的な展開となっていました。しかし、北朝鮮を支援する中国共産軍が本格的に戦闘に参加すると一気に形勢が逆転。北朝鮮軍が南へと侵攻を開始し、あっという間に首都の平壌を奪回します。そのため韓国軍と共に北朝鮮による支配を望まない人々も戦火を逃れながら南へと移動し続けます。
 米軍と共に移動していたカメラマン、マックス・デスフォーはその移動中、破壊された大同江の橋でこの写真を撮影しました。川に架かる唯一の橋は破壊され骨組みだけしかなく、そこを人々は命がけで渡っていたのです。戦乱の中、人間は蟻のようにはってでも生き続けるしかないのです。
 20世紀は、世界各地で行われた様々な戦争によって生み出された難民たちの苦難の時代だったともいえますが、この写真はそんな難民たちの旅を象徴する一枚です。
「タックルされるジョニー・ブライト」(人種の壁を破るジョニー・ブライト)
ドン・アルタング、ジョン・ロビンソン(デモイン・レジスター&トリビューン紙)1952年(アイオワ州デモイン)
 1951年10月21日土曜日、アイオワ州デモインにあるドレイク大学とオクラホマ農工大学との試合で撮影されたこの写真は技術的に画期的なものでした。連続撮影ができるカメラは当時まだなかったのですが、映画用の35ミリカメラを改造することで連続写真を撮ることが可能になり、この試合でその試験的な撮影が行われました。カメラマンの二人は当然、地元チームのスター選手キャプテンでもあるジョニー・ブライトのプレーに狙いを定めていました。
 当時、大学フットボール界ナンバー1ハーフバックと言われていたジョニー・ブライトは、まだ珍しかった黒人選手の一人でした。そのため彼は白人選手たちから暴力的なファールを受ける場合が多く、その多くが審判の目が届かないボールとは別のところで行われていました。
 この試合の撮影では、広い範囲を収めることに成功していて、その端の方にジョニーがひじ打ちを受けている瞬間がとらえられていました。この攻撃により彼の顎の骨は折られていたのですが、彼はすぐに立ち上がるとその後見事なロングパスを決めてタッチダウンを演出しています。ひじ打ちの犯人であるオクラホマ農工大のディフェンス、ウィルバンクス・スミスは、その後再びボールと関係ないところでブライトを突き倒し、ついに彼は起き上がれなくなり途中交代します。
 現在では、あらゆる方向からカメラがフィールドをとらえるようになり、選手たちのモラルも当時とは大違いです。しかし、20世紀半ば頃のスポーツ界では多くの黒人選手たちが差別による嫌がらせや暴力に耐えながら、少しづつ自分たちの地位を確保するために勇気ある闘いを続けていたのです。
 そんな孤独な闘いを映し出すことに成功した新たな技術の登場に賛辞を送りたくなる一枚です。
「アドレーの靴」
ウィリアム・ギャラガー(フリント・ジャーナル紙)1953年(ミシガン州フリント)
「トラック運転手の救出」(奇跡の脱出)
バージニア・ショー(アマチュア)1954年(カリフォルニア州ベイリーヒル)
「波にさらわれた子供」(海辺の悲劇)
ジョン・ゴーント(ロサンゼルス・タイムス紙)1955年(カリフォルニア州ロサンゼルス)
「バーバラ通りの奇跡」
ニューヨーク・デイリー・ニュース紙(同スタッフ)1956年(ニューヨーク州ロングアイランド)
「アンドレア・ドリア号の最期」
ハリー・トラスク(ボストン・トラベラー紙)1957年(マサチューセッツ州ナンタケット島沖)
「チャイナタウンの男の子と警察官」(無垢の信頼)
ウィリアム・ビール(ワシントン・デイリー・ニュース紙)1958年(ワシントンDC)
 ピュリツァー賞の歴史の中で唯一といってもよい、平和で心温まる一枚です。
 思えば、数多くの報道写真の中からこの写真が選ばれたということは、多くの年に撮影されたような衝撃的、悲劇的な写真が少なくともアメリカでは撮られなかったということかもしれません。そう考えてみると、この年は第二次世界大戦が終わり、朝鮮戦争とヴェトナム戦争の間、公民権法が成立した直後のアメリカがひと時の平和な時を迎えていた時期だったのかもしれません。この写真の少年の笑顔と警察官の優しい表情には、そんな時代の表情が映し出されているようです。
 ワシントンのチャイナタウンに新しいビルが建ったことを祝うパレードを見ようと歩道に並ぶ人の列から、当時2歳だったアレン・ウィーバー君が飛び出してきたため、その場にいたモーリス・カリナン巡査が後ろに下がるように説得している場面です。
 古き良きアメリカの風景を描いたポスターを見ているようなノスタルジックな気分にもさせてくれる一枚です。
「小さな赤いワゴンと死」(路上の死角)
ウィリアム・シーマン(ミネアポリス・スター紙)1959年(ミネソタ州ミネアポリス)
1960年代
「城での処刑」(革命軍による処刑)
アンドルー・ロペス(UPI通信)1960年(キューバ)
 1959年1月にキューバのサン・セベリーノという城で撮影された一枚です。カメラマンのアンドルー・ロペスは普段は「野球」の写真を撮るスポーツ・カメラマンでしたが、キューバ革命の成功を知り、新政府を取材するためにキューバに渡りました。
 彼はサン・セベリーノ城で行われる裁判を取材。そこではホセ・ロドリゲスという政府軍伍長が被告として裁かれていて、多くの証人が彼の悪事を証言。死刑の判決が下されました。そして、すぐに銃殺刑を実行するため、被告は銃殺隊の前に移動させられました。そして、神父が彼に最後の秘蹟を与えます。
 共産主義者も、そうでない者も、キューバではカトリックの神父こそが、罪の許しを与えられる唯一の存在なのでしょう。ロペスは銃殺される瞬間も撮影しようとしますが、その場の検察官がそれを認めず、さらにはそれまでに撮ったフィルムも渡すように言い出します。ここで彼は別の用意してあったフィルムを渡してその場を切り抜けました。(これはカメラマンとしての基本です)
「神は許す、しかし、銃は許さない」
 神による許しと銃による刑罰をこれほどわかりやすく収めた写真は珍しい。そんな一枚です。
「舞台上の暗殺」(浅沼社会党委員長の暗殺)
長尾靖(毎日新聞)1961年(東京・日本)
 60年安保の真っただ中、東京で行われた日米安保をめぐる公開討論会の会場で起きた暗殺の現場をとらえた究極の一枚であり、アメリカ人以外のカメラマンによる初の受賞作でもあります。
 ピュリツァー賞は米国で発行されている新聞に発表された写真が対象となっているので、世界中のカメラマンにチャンスがあるといえます。とはいえ、海外で起きた事件をアメリカ人以外のカメラマンが撮った写真が受賞することは非常に困難なことです。それだけ、この写真は決定的な瞬間をとらえた究極の一枚だったということです。
 右翼の学生、山口二矢(オトヤ)と刺殺された社会党書記長の浅沼稲次郎の表情までもしっかりととらえたこの写真はあまりにも劇的でまるで舞台上の芝居を見ているかのような錯覚に陥りかねません。カメラの前の政治家の暗殺は、この後も、J・F・ケネディーやレーガンなど世界各地で起きますが、スポットライトを浴びている中で撮影されたのはこの一枚だけかもしれません。日本刀の使用といい、あまりに日本的、演劇的な殺人の瞬間をとらえた一枚です。
「孤独な二人」
ポール・バシス(AP通信)1962年(メリーランド州キャンプ・デーヴィッド)
 1961年4月、キャンプ・デーヴィッドで行われた新旧米国大統領ジョン・F・ケネディとドワイト・アイゼンハワーとの会談で撮影された見事な一枚です。
 アメリカがキューバの共産勢力を倒すために行ったピッグス湾での上陸作戦に失敗したアメリカは国内外から批判され、ケネディは厳しい立場に追い込まれていました。新しいアメリカの指導者として大きな期待を受けていながら、いきなりの危機的状況でした。しかし、アメリカ自体がそのリーダー・シップを問われる状況となり、太平洋戦争で連合軍を率いた軍人出身のアイゼンハワーと新リーダーの立場は一致していました。忘れられかけていた元大統領と立場を失いかけていた新大統領、二人はお互いの立場を理解し、協力関係を約束します。とはいえ、最重要人物である二人が、ガードもなしに二人だけでカメラの前に立つことは二度となかったはずです。そのチャンスを逃さなかったポール・バシスの感こそがこの一枚を生み出したといえます。
 彼は第二次世界大戦中、爆撃機から地上を撮影する写真撮影班として働いていたため、シャッター・チャンスを待ち続けることには慣れていたといいます。「チャンスを待つ」能力こそ、カメラマンにとって最も重要な能力なのかもしれない。そんなことも感じさせてくれる一枚です。
「革命と罪の赦し」(最後の祈りを捧げる神父)
ヘクター・ロンドン(ラ・レプブリカ紙)1963年(ベネズエラ)
 まるでネオ・リアリズモのイタリア映画の一場面を見ているようなドラマチックな一枚です。まるで映画のポスターのようなこの写真が撮られたのは、イタリアではなく1962年のベネズエラのクーデターの戦闘のさ中でした。
 当時、中南米はキューバ革命の影響を受け、各国で植民地からの脱却、独裁政治からの脱却の動きが高まっていました。ベネズエラでも民主的な選挙による新大統領が誕生しましたが、それに対し保守派の軍部が各地で武装蜂起を起こしました。中でも6月4日に起きたプエルトカベョでの武装蜂起は500名の海兵隊員たちによる大規模なものとなり、200名もの死者を出す大きな戦闘となりました。
 政府軍の鎮圧部隊に同行したラ・レプブリカ紙のカメラマン、ヘクター・ロンドンは、取材中、突然戦闘に巻き込まれ、道路に伏せた状態で写真を撮り続けました。そんな銃弾が飛び交う中、政府軍の従軍司祭ルイス・パディリヤが倒れた政府軍兵士に臨終前の秘蹟を授けようとしていました。彼の顔が横を向いているのはまだ銃撃が続いていたからのようです。この瞬間、死を前にした兵士にとって司祭は神そのものであり、奇跡の存在となっていたのかもしれません。最後の瞬間に「救い」を得ることができた兵士は幸いでした。
 まるで宗教画のようにも見える一枚です。
「全世界に生中継されたオズワルド殺害」(リー・オズワルドの暗殺)
ロバート・ジャクソン(ダラス・タイムズ=ヘラルド紙)1964年(テキサス州ダラス)
 この写真もまた映画のワンシーンのような一枚です。
 J・F・ケネディ暗殺犯として逮捕されたオズワルドの左に立つ刑事のファッションと狙撃犯の黒づくめのスーツ姿は白と黒の対象をなし劇的な効果を生み出しています。その間に立つオズワルドは黒の上下で襟は白です。なんだかできすぎの配置に見えてきます。まるですべてがやらせで演出されたものなのではないか?そんな気がしてきます。
 この写真を撮ったカメラマンのロバート・ジャクソンは、ケネディ暗殺の当日、ケネディの車列の後ろに別の車でついていました。そしてケネディ狙撃の瞬間を目撃し、その直後、ビルの窓越しにライフル銃の銃身が動くのを見つけたもののシャッター・チャンスを逃していました。もし、銃身だけでもカメラに収められていたら・・・と悔しがっていたところに再び決定的なシャッター・チャンスが巡ってきました。それがこの写真でした。
 この時の映像はテレビで放送されていたので、多くの人が見ているはずですが、写真という静止画で見ると時代の空気までも見えてくる気がします。「動き」に目が行ってしまうテレビと「絵」として見させてくれる写真の違いを感じさせてくれる一枚です。
「ベトナム写真報道」(制裁を受ける農民)
ホースト・ファース(AP通信)1965年(ベトナム)
「爆撃からの逃走」(安全への逃避)
沢田教一(UPI通信)1966年(ベトナム)
 ピュリツァー賞を受賞した3人の日本人カメラマンの中でも最も有名な沢田教一が残した歴史的な一枚です。
 命知らずのカメラマンとして有名だった沢田は、より近く被写体に近づくことにこだわったカメラマンでもありました。朝鮮戦争の難民たちを撮った「大同江の橋」がロングショットの一枚だったのに対し、この写真は手を伸ばせば届くほどの距離で撮られていて、その表情がはっきりとわかります。カメラを見つめる少年の表情は何を表しているのでしょうか?
「岸に上がるのに手を貸してよ!」
「まさか僕らを撃つんじゃないよね?」
それとも「あそこまで行けば助かるんだ」という安堵の表情なのでしょうか?
 被写体に近づくことは、彼らを救うことを求められることでもあり、カメラマンの苦悩もまた増してゆくことになります。もちろん沢田はこの親子たちを助け、その後も彼らは戦乱のベトナムを生き抜くことになりました。しかし、沢田本人は危険に近づきすぎたのでしょう、1970年カンボジアでの取材中に命を落とすことになりました。
「国道51号線で撃たれたメレディス」
ジャック・ソーネル(AP通信)1967年(テネシー州メンフィス)
「静かなる雨、静かなる時」(より良きころの夢)
酒井俶夫(UPI通信)1968年(ベトナム)特集部門
 ドラマチックで衝撃的な作品がほとんどのピュリツァー賞受賞作の中では異色の一枚といえます。そこには何もドラマチックな出来事は写っていません。しかし、そこは激戦が続くベトナムのジャングルの中であり、いつまた戦闘が始まるかわからない緊張状態の中でもありました。
 タイトルには「静かなる雨」とありますが、雨音は間違いなくうるさかったはずで、「静かなる時」ではなかったはずです。ただし、銃撃戦の音に比べれば、雨音など子守歌にしか聞こえなかったかもしれません。だからこそ、兵士は子供のように安らかな顔をして眠りについているのです。(雨の中、戦闘はないだろうという安心感もあったのでしょうが・・・)
 劇的な戦闘が始まる前の静けさの中に、「平和」だけでなく「恐怖」や「悲しみ」が見えてくる。戦争のもうひとつ別の顔に、戦場のリアルを見つけたこの写真を撮ったのが日本人だったというのも、うなずける気がします。まさにジャパニーズ・クールな一枚です。
 1968年からピュリツァー賞には、一つのテーマに基づいてより多くの写真による特集を組んだ特集記事に対する賞として、「特集写真部門」が誕生しました。そして、この作品はその最初の受賞作となりました。
「命のキス」(生命のキス)
ロッコ・モラビト(ジャクソンビル・ジャーナル紙)1968年(フロリダ州ジャクソンビル)ニュース速報部門
「サイゴンでの処刑」
エドワード・アダムズ(AP通信)1969年(サイゴン・ベトナム)ニュース速報部門
 1968年、ベトナムの旧正月テトに始まった「テト攻勢」2日目に撮影されたこの写真はベトナム戦争を象徴するだけでなく、あらゆる戦争写真の中でも10本の指に入る歴史的一枚といえるでしょう。この写真と広島のきのこ雲の写真があれば、戦争の接写とロング・ショットがそろったといえるでしょう。
 この写真で引き金を引いている南ベトナムの警察長官だったグエン・ゴク・ロアン中佐は、その後アメリカに移住しましたが、この写真のおかげでアメリカでも多くの人から非難されることになったといいます。もし、この写真が撮られた時、カメラマンのエドワーズからフィルムを取り上げていれば・・・。しかし、この時のロアンはそのベトコン兵士が多くの市民に銃口を向けていたことに怒り、自らの成した正義に自信を持っていたのです。時の流れを経て、撃たれた側のベトコンの立場だけでなく、撃った側の立場になって、この瞬間を見直してみることで「戦争の真実」にもう一歩近づける気がします。
「尊厳の肖像」(キング牧師の葬儀)
モネタ・スリート(エボニー誌)1969年(ジョージア州アトランタ)特集部門
 アフリカ系アメリカ人初のピュリツァー賞受賞作となった特集写真の中、キング牧師の妻を撮った一枚です。この写真はキング牧師とその家族と近しい関係になければ撮れなかったであろう一枚でもあります。
 1968年4月、黒人解放運動の先頭に立ち続けていたマーチン・ルーサー・キング牧師がメンフィスのモーテルで暗殺されました。アトランタで行われた葬儀は非暴力闘争にこだわってきただけあって、厳粛かつ静かなものでした。黒人版の「ライフ誌」ともいえる「エボニー誌」のカメラマンだったモネタ・スリートは、牧師の家族たちとも親しかったことから礼拝にも出席し、葬儀中も写真撮影を許されました。
 この時、まだキング牧師を射殺した犯人は逮捕されておらず、牧師の死をきっかけに暴動が起きる可能性もあっただけに、葬儀は張り詰めた空気の中で行われていました。そんな中で撮影された牧師の妻コレッタの威厳に満ちた表情は、見る人の心を揺さぶらずにはおきません。娘のひとりバーニスを抱く彼女の姿は、聖母マリアを描いた名作絵画のように慈愛に満ちています。大きな不幸の中でも、女性の強さを示し、多くの人に希望と救いを与えた感動の一枚です。

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<参考>
「ピュリツァー賞 受賞写真 全記録 moments : The Pulitzer Prize - winning Photographs」
 2011年
(著)ハル・ビュエル Hal Buell
(訳)河野純治
(序)デヴィッド・ハルバースタム
日経ナショナル・ジオグラフィック社

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