アメリカの新聞から見た世界史(2)
- ピュリツァー賞受賞写真の歴史 -
 

- 1970年代~1980年代 -
1970年代 
「キャンパスの銃」
スティーブ・スター(AP通信)1970年(ニューヨーク・イサカ・コーネル大学)ニュース部門
「季節労働者の不安」(流浪の季節労働者)
ダラス・キュー(パームビーチ・ポスト紙)1970年(フロリダ~ニュージャージー)特集部門
「キャンパスでの死」(ケント大の悲劇)
ジョン・ファイロ(フリーランス)1971年(オハイオ州ケント州立大学)ニュース部門
「人間倉庫」(リンカーンとディクソンの州立障害者学校)
ジャック・ダイキンガ(シカゴ=タイムズ紙)1971年(イリノイ州シカゴ近郊・リンカーンとディクソン)特集部門
「競馬場での復讐」(death in dacca)
ホースト・ファース(AP通信)1972年(バングラディッシュ・ダッカ)ニュース部門
「戦争の傷痕」(Vietnam-Lone U.S. soldier)
デービッド・ヒューム・ケナリー(UPI通信)1972年(ベトナム)特集部門
「ナパーム弾から逃げる少女」(戦争の恐怖)
ニック・ウット(AP通信)1973年(ベトナム)ニュース部門
 戦争の悲惨さを収めた伝説的な一枚を撮影したのは地元ベトナムのカメラマン、ニック・ウットでした。
 彼の兄もカメラマンでしたが、取材中に命を落としており、彼はその兄の意志を次いで南ベトナム軍にカメラマンとして同行していました。
 1972年6月8日、彼は南ベトナム軍の戦闘機がナパーム弾を投下する写真を撮ろうとしていました。ところが、戦闘機は落とす場所を間違えたらしく、友軍と一般市民が住む場所に落としてしまいます。
そのため、多くの村人が被害にあい着の身着のままで炎から逃れようと走ってきました。ウットもまた炎から逃れるために走り出し、燃え盛る炎を撮るために振り返りました。
 するとそこに火がついた服を脱ぎ捨てて裸のまま逃げる少女が現れたのでした。ファン・ティー・キム・クックという名の少女の背中はナパーム弾によって酷い火傷を負っていました。
 ウットは撮影後、すぐに彼女に駆け寄り水筒の水をかけてやるだけでなく、サイゴンの病院まで送りました。彼女はそうした対応のおかげで無事に火傷から回復し終戦を迎えることができました。
 その後、ベトナムが独立すると、ウットはアメリカに亡命し、カメラマンとして活躍します。キムは北ベトナム政府によってプロパガンダのためのスタートして扱われ、キューバに留学します。
 その後彼女は自由を求めてカナダに亡命したため、二人はアメリカで感動の再開を果たすことになりました。
 炎と兵士たちに追われるように走る子供たち、そして裸の少女という組み合わせは、戦争という狂気が最も弱い存在に襲いかかる様を見事に映像化しています。
 この写真にとって後日談は不要かもしれません。
「出産」(Moment of Life)
ブライアン・ランカー(トピーカ・キャピタル=ジャーナル紙)1973年(カンザス州トピーカ)特集部門
「ハリウッドの現実」(Fatal Hollywood Drama)
アンソニー・ロバーツ(フリーランス、AP通信)1974年(ロサンゼルス・ハリウッド)ニュース部門
「英雄の帰国」(Burst of Joy)
サル・ダービー(AP通信)1974年(カリフォルニア州サクラメント・トラビス基地)特集部門
「鎮火」(Lull in the Battle)
ジェラルド・ゲイ(シアトル・タイムズ紙)1975年(ワシントン州シアトル郊外)ニュース部門
 まるで第一次世界大戦の塹壕で撮られた兵士たちの写真のようですが、彼らはシアトル郊外で起きた火事を消化した直後の消防士たちです。人ではなく、炎という自然の驚異を相手にする消防士という職業は、運命によって生死が分かれる兵士なみに命がけの仕事です。だからこそ彼らの姿は見る者に、痛々しく神々しく美しく見えるのです。どんなに時代が変わり、装備が新しくなっても、それ以上に危険が増していて、彼らの闘いが安全になることはないでしょう。アメリカでの同時多発テロ事件の時も、多くの消防士たちの命が失われたことは記憶に新しいところです。
 思えば、同じく危険な仕事でも、軍隊や警察と異なり消防士の仕事は、人を守るために危険に自ら飛び込むことが仕事。「闘う」のではなく「守る」のが専門。だからこそ、消化活動を終えた彼らの顔には「安堵」「恐怖」「緊張」など複雑な感情が見て取れるのです。それにしてもみんな「いい顔」をしています。彼らの顔からは一本の映画のようにドラマチックな物語が見えてくる気がします。
「ワシントンの顔」
マシュー・ルイス(ワシントン・ポスト紙)1975年(ワシントン)特集部門
「非常用バルコニーの崩落」(転落する女性と子供)
スタンリー・フォアマン(ボストン・ヘラルド・アメリカン紙)1976年(マサチューセッツ州ボストン・サウスエンド)ニュース部門
「人種統合教育」(Busing of Louisville School)
ルイビル・クーリエ=ジャーナル・アンド・タイムズ紙写真部(同紙)1976年(ケンタッキー州ルイビル)特集部門
 白人少年と黒人少年が教室で軽く握手をするささやかな友情表現の一場面を撮った一枚が実に素敵です。日常の一場面をとらえただけの一枚かもしれませんが、そこから見えてくる暖かな世界のイメージは人々に喜びを与えてくれます。悲劇を世界に伝えるだけでなく、未来へのメッセージを発信するためにも写真というメディアは貢献できることを示した一枚です。
 1975年、連邦裁判所は人種差別撤廃のための手段として公立学校における黒人と白人の比率を共通化させるため「強制バス通学」を実施しました。無理やり数を合わせるために遠くの学校に転校させられたのですから反発が起きるは当然でした。たとえ人種差別には反対でも、そこまでやる必要はないじゃないか、そう思う親も多かったようです。
 そこまで強引な実験的な改革を行った当時のアメリカ社会もすごかった。ただし、そこまでのことをしておきながら、21世紀に入ってもなお人種差別問題が解消されないのはなぜか?それは上からの法律的、政策的改革では人の心を変えられないということなんでしょう。
 アメリカ南部ケンタッキー州のルイビルでは、1975年9月4日から始まったこの政策に対し、バスのボイコット運動が行われバスに乗るはずの13万人の児童のうち4万人が乗車を拒否しました。ルイビルの新聞社はこの事件に数か月の時間をかけ取材をし続けました。大人たちの思惑が衝突する中、子供たちは何を考えながら育ったのか?
 少なくともこの写真の中の二人の少年は大人たちの対立とは異なるごくごく自然な友だち関係を築きつつあったと信じたいと思います。急がず、あせらず、時間をかけなければ心は通じ合えない、でも二人の未来には期待したい。そんな一枚です。
「バンコク路上の暴力」(縛り首左翼学生への乱打)
ニール・ウールビッチ(AP通信)1977年(タイ・バンコク)ニュース部門
「市庁舎前広場の旗」(The Soilling of Glory)
スタンリー・フォアマン(ボストン・ヘラルド・アメリカン紙)1977年(マサチューセッツ州ボストン)ニュース部門
「群衆のなかの顔」(回想の時、戦争の犠牲者)
ロビン・フッド(チャタヌーガ・ニューズ・フリー・プレス紙)1977年(テネシー州チャタヌーガ)特集部門
「スポットライトのなかで」
ジョン・ブレア(フリーランス・UPI通信)1978年(インディアナ州インディアナポリス)ニュース部門
「ローデシアの奥地」(Interrogation)
J・ロス・ボーマン(AP通信)1978年(ローデシア)特集部門
「小さな町の恐怖」(Tragedy of Sanatoga Road)
トーマス・J・ケリー3世(ポッツタウン・マーキュリー紙)1979年(ペンシルバニア州・ポッツタウン)ニュース部門
「雪に閉ざされたボストン」
ボストン・ヘラルド・アメリカン紙写真部(同紙)1979年(マサチューセッツ州ボストン)特集部門
1980年代
「ホメイニからのメッセージ」(Firing Squad in Iran)
匿名(UPI通信)1980年(イラン)ニュース部門
 クルド人はトルコ、イラン、イラク、シリアなど中東に散らばる民族で、はるか昔からそれぞれの国で差別され、迫害され、排除され、虐殺されてきました。過激な指導者が現れると必ず彼らはわかりやすい国民の敵としてクルド人への攻撃を始めてきました。1970年代末に登場したイランの宗教指導者アヤトラ・ホメイニもまたクルド人を敵と見なし民族浄化の対象にした一人です。
 1979年3月27日、UPI通信のカメラマンがイランのサナンダージュで行われた裁判と処刑の現場を目撃。その時殺されたのはクルド人の反政府派9人と国王に仕えていた警察官2人でした。銃殺の瞬間をとらえたこの写真は、宗教指導者ホメイニによる恐怖政治を世界に伝えるメッセージとなりました。
 撮影者がわかると暗殺の対象になると考えられたため、長い間、この写真のカメラマンの名は秘密とされてきました。2006年12月、カメラマンがテヘランの新聞社で働いていたイラン人のジャハンギル・ラズミだったことが明らかにされました。なるほどイラン人だからこそ撮影が可能になったのでしょう。
 もしかすると、このカメラマンはイスラム教徒にとって、この処刑が正義の実行として世界に知らしめるべきこととして撮影を許されたのかもしれません。我々にとっては残虐このうえない場面でも、異なる考え方を持つ人々にとってはそうではないかもしれません。写真というメディアは、見る人の考え方やコメントによって、意味がまったく違ってくる可能性もあるのかもしれない。そんなことを考えさせてくれる一枚です。
「峠のわが家」
アーウィン・ハグラー(ダラス・タイムズ・ヘラルド紙)1980年(テキサス州)特集部門
 歴史的一瞬をとらえた決定的な一枚が並ぶピュリツァー賞の歴史の中で、この特集部門受賞作は例外的なシリーズでしょう。19世紀から続くアメリカのカウボーイ文化が1970年代末にどう変化しているのか?どこが変わっていないのか?を多くの写真によって特集しています。
 21世紀の今でもアメリカにはカウボーイがいて、彼らは時には馬に乗り、時にはピックアップ・トラックやヘリコプターに乗って牛たちを移動させています。カメラマンのアーウィン・ハグラーは、カウボーイという特殊な職人たちの素顔を撮影するため、彼らと共に生活し仲間の一人になるところから取材をスタートさせました。
 今や過去の存在となりつつある「マルボロ」のカウボーイや「トイ・ストーリー」のウッディ、ジョン・ウェイン、クリント・イーストウッドなどアメリカを代表する男たちのカウボーイ・イメージは、日本でいうと「侍」ですが日本にはもう「侍」はいません。それだけに「カウボーイ」という人種の存在はフロンティアを失ったアメリカにとって最後の古き良きアメリカの象徴なのかもしれません。あくまでもピュリツァー賞はアメリカの報道のための賞らのですから、誰かが挑むべき企画だったのかもしれません。
「浜辺での処刑」(モンロヴィア海岸での処刑)
ラリー・プライス(フォート・ワース・スター=テレグラム紙)1981年(リベリア)ニュース部門
「ジャクソン刑務所での生活」
タロウ・ヤマサキ(デトロイト・フリー・プレス紙)1981年(ミシガン州ジャクソン)特集部門
「レーガン大統領暗殺未遂事件」
ロン・エドモンズ(AP通信)1982年(ワシントン)ニュース部門
 1981年3月30日、ワシントンのヒルトン・ホテルで行われた米国労働総同盟産業別組合会議に出席したロナルド・レーガン大統領がホテルを出ようとした時、凶行が行われました。
 殺人や暗殺の瞬間をとらえた写真は数々ありますが、現役の大統領、それも米国の大統領が狙撃された瞬間をとらえた文句なしの一枚です。ただし、大統領専用車ごしにしか撮れなかったのが残念です。そのうえ、この瞬間はテレビで生中継もされていました。そのため、多くの人はこの瞬間の映像を動画として覚えているはずです。しかし、「動き」をとらえるテレビカメラに対して、エドモンズのカメラはその瞬間の登場人物たちの表情をしっかりと映し出しています。大統領を守るために身代わりとなって胸を撃たれたティモシー・マッカーシー警護官の表情は、映画「シークレット・サービス」のクリント・イーストウッドをほうふつさせます。レーガン大統領自身は、この後、車に押し込まれる直前に犯人(ジョン・ヒンクリー)が放った最後の一発をわき腹に受けることになりました。この間、6発の銃弾が放たれるまでわずか1.9秒。
 長年、AP通信に所属して多くの政治家を撮り続けてきたエドモンズにとって、政治家たちの日常を撮ることは毎日の日課のようなものでした。そして、いつものようにカメラを構え、大統領を待ち構えていたからこそ、わずか1.9秒という決定的な瞬間に彼は対応できたのです。決定的瞬間をとらえるには、そこに偶然いただけではなく、長い準備期間や経験もまた必要条件なのでしょう。
「ある男のシカゴ」
ジョン・ホワイト(シカゴ・サン=タイムズ紙)1982年(イリノイ州シカゴ)特集部門
「サブラ難民キャンプでの虐殺」(パレスチナ難民キャンプでの怒り)
ビル・ファオーリー(AP通信)1983年(レバノン・サブラ難民キャンプ)ニュース部門
「エルサルバドル、殺戮の地」
ジェームズ・B・ディックマン(ダラス・タイムズ=ヘラルド紙)1983年(エルサルバドル)特集部門
 19世紀の画家アルノルト・ベックリンが描いた「死の島」という有名な絵画があります。「死」のイメージを象徴する作品のひとつとなったその絵画に匹敵する「死」をイメージする写真。それがこの一枚です。ハゲタカが舞い下りた不気味な背景とそこに転がる骸骨が生み出す不気味な世界はこの世のものとは思えません。
 カメラマンのジェームズ・B・ディックマンはエルサルバドルで行われている政府軍による反政府勢力に対する討伐作戦を取材するため軍隊に同行していました。そして、政府軍が行う裁判なしの処刑現場を目撃します。兵士だけでなく、反政府勢力に協力する市民を次々に殺害する軍隊の姿に彼は自分の命も危険と感じていたでしょう。こうして、生まれた不気味な「死」の写真は、「死体」が写っていないにも関わらずかえって印象に残るインパクトをもっています。死体ばかりが被写体となる報道写真でこの作品は、異色のアート作品といえます。でも、彼の他の写真を見てみると大自然を写した雄大なスケールとアート的な色彩の美しさに感動させらはずです。なるほど、彼が撮りたかったのはもともと風景写真で、報道写真ではなかったのか・・・。
「戦争と子供たち」
スタン・グロスフェルド(ボストン・グローブ紙)1984年(レバノン)ニュース部門
 1982年、混乱が続くレバノンにイスラエル軍が侵攻。それに対してパレスチナ・ゲリラは爆弾テロによって対抗。ベイルートの街では様々な勢力による戦闘が繰り広げられ、いつどこで撃たれるか、爆発に巻き込まれるかわからない日々が続いていました。
 アメリカ人カメラマン、スタン・グロスフェルドは、死と隣り合わせの生活が生まれた時から当たり前のレバノンの子供たちの日常を撮影しました。戦闘のない日常生活の中、道端で遊ぶ子供たちの姿は世界中どこの国で暮らす子供たちとも変わらないようにも見えます。どころが別の写真では、10代前半の子供たちが身長とそう変わらない銃を持って、小さな子供たちを先導する姿が写されています。銃を手にした少年の目はキラキラと輝いていて、自分の仕事に何の疑いも感じていないようです。こうして純粋培養された少年兵が次々に育ているのです。悲劇の地、レバノンは今から先、20年たっても勇敢な兵士の不足に悩むことはないでしょう。街が悲劇に満ちていることで次ぎの世代の兵士が生み出される世界。その連鎖を断ち切るにはどうしたらいいのか?考えさせられる重い一枚です。
「追憶」(悲しみにくれる未亡人)
アンソニー・スオウ(デンバー・ポスト紙)1984年(コロラド州デンバー)特集部門
 1975年4月にサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結して以降、アメリカでは5月の最終月曜日は戦没者追悼記念日とされ、当日は多くの遺族が亡き人に祈りを捧げるため墓地を訪れています。この写真が撮影されたのは1983年の記念日です。墓石を抱きかかえる女性の指には人生の年輪ともいえる皺が刻まれているのですが、たぶん最愛の夫のために泣いているのでしょう。墓石に刻まれた文字からは、彼が第二次世界大戦、朝鮮戦争にも出兵し、最後にベトナムで亡くなったことがわかります。
 彼はベテラン兵士として隊を率いて戦場に向かい、亡くなった時は40代になっていたのかもしれません。彼女にとっては、なぜここまでがんばったのに死んでしまったの・・・。そう思っていたのかもしれません。戦場で亡くなろうが、病で命を落とそうが、事故でこの世を去ろうが、人生を共に過ごした最愛の人の死は、悲しくつらいことには変わりがないでしょう。
 しかし、同じ墓が彼女の後ろにずらりと並ぶその写真からは、同じような悲しみがお墓の数だけあることが見えてきます。その数の膨大なことに、戦争の罪深さが感じられる一枚でもあります。
「ロサンゼルス・オリンピック」
サンタアナ・レジスター紙写真部(同紙)1985年(ロサンゼルス)ニュース部門
「飢饉」(Ethiopian Famine)
スタン・グロスフェルド(ボストン・グローブ紙)1985年(エチオピア)特集部門
 長いピュリツァー賞の歴史の中でも、「エチオピアの聖母像」ともいえるこの一枚ほど見る者を釘付けにする写真はないかもしれません。カメラマンのスタン・グロスフェルドは2年前にも受賞しているので、いかにこの写真が圧倒的な存在だったかがわかります。忘れてならないのは、彼が二度目の受賞をしたことではなく、この写真がエチオピアの飢饉を世界に認知させたことの意義です。
 1984年、旱魃が続いていたエチオピアでは降雨量の減少と共に穀物生産量が激減。元々豊かではなかったところから30%も減少。農地そのものが乾燥化により使用不能になりつつありました。人々は生きてゆくために難民キャンプに行き、国連からの食糧支援で生き延びるしかありませんでした。ところが、この支援物資を国内の様々な政治勢力が奪い合うことで内戦が勃発。飢餓と内戦により多くの命が奪われることになりました。そして、この構図はこのアフリカ各地で繰り返されることになります。さらにそこにエイズやエボラ出血熱のような病が加わることで、さらにその悲惨さは増して行くことになります。初めて、こうした悲劇の構図を特集記事によって、世界に示したのがこの特集記事だったのです。
 まるでやらせのようにも見えてしまうこの写真ですが、写真の中の子供はこの写真の撮影後、数時間でこの世を去ったといいます。すでにその子は天国に最も近いところにいたのです。地上で愚かな争を続ける人間たちの罪を許すかのように慈しみに満ちた視線を向ける母子。その視線にすべての人が目を合わせられる時代が来ることを願います。
「反政府勢力への取材」
ラリー・プライス(フィラデルフィア・インクワイアラー紙)1985年(アンゴラ)特集部門
「コロンビアの火山災害」
キャロル・グージー、ミシェル・ドゥシール(マイアミ・ヘラルド紙)1986年(コロンビア)ニュース部門
「冬のホームレス」(フィラデルフィアのホームレス)
トム・グラリッシュ(フィラデルフィア・インクワイアラー紙)1986年(ペンシルバニア州フィラデルフィア)特集部門
「フィリピンの独裁者の失脚」
キム・コメニッチ(サンフランシスコ・エグザミナー紙)1987年(フィリピン)ニュース部門
「危機に瀕する農家」
デービッド・ピーターソン(デモイン・レジスター紙)1987年(ミシガン州シカゴ周辺)特集部門
 「数字」や「効率」だけで判断するなら、日本で農家を営むことに将来性があるとは思えなくなりがちです。TPPの発効により日本の農家はさらに厳しい状況に追い込まれるでしょう。北海道に住む僕は農家の知り合いも多く、こうした問題はかなり身近に感じられます。でも、東京など都会に住む人には、食料品は安いにこしたことはないはず。そうした現状はアメリカの農家にもいえることのようです。けっしてアメリカの農家は大規模農家だけではないのです。そんな農家の現状を彼らに密着することで、特集したのがこの特集です。
 1980年代後半にアメリカで起きた農業金融危機。それはリーマン・ショックの農業版のような事件でした。農業の好景気に目をつけた金融機関が、農家に大規模経営化をすすめ、そのために多額の資金を低金利で貸付ました。ところが、ある日突然穀物相場が暴落。多額の借金を抱えていた多くの農家がそれにより破産し、仕事どころか長年培ってきた農地までも失うことになってしまいました。そんな農家の状況を1年以上追いかけるため、デーヴィッド・ピーターソンは有休を使って農家に密着しました。(記事としてはけっして大衆受けするものではなかった)
 土地と共に生きてきた人々からすべてを奪った金融業界への怒りを感じる内容ですが、彼らはこのことで懲りることなく、この後は「住宅」を使った新たな商品を開発します。住宅ローンを使った「サブ・プライム・ローン」を生み出し、あのリーマン・ショックの原因を作ることになります。
 土から食を生み出す人々に幸あれ!金を動かすだけの人々に呪いあれ!
「ジェシカちゃん救出」
スコット・ショー(オデッサ・アメリカン紙)1988年(テキサス州ミッドランド)ニュース部門
「墓場」
ミシェル・ドゥシール(マイアミ・ヘラルド紙)1988年(フロリダ州マイアミ)特集部門
「早過ぎる死」(Given Life)
ロン・オルシュワンガー(フリーランス)1989年(ミズーリ州セントルイス)ニュース部門
「学校生活」
マリー・クリソストモ(デトロイト・フリー・プレス紙)1989年(ミシガン州デトロイト)特集部門

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<参考>
「ピュリツァー賞 受賞写真 全記録 moments : The Pulitzer Prize - winning Photographs」
 2011年
(著)ハル・ビュエル Hal Buell
(訳)河野純治
(序)デヴィッド・ハルバースタム
日経ナショナル・ジオグラフィック社

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