アメリカの新聞から見た世界史(3)
- ピュリツァー賞受賞写真の歴史 -

- 1990年代~2010年代 -
1990年代 
「地震」 
オークランド・トリビューン紙スタッフ(同紙)1990年(カリフォルニア州オークランド)ニュース部門
写真で見る激動の世界
デーヴィッド・ターンリー(デトロイト・フリー・プレス紙)1990年(北京・ベルリン・ブカレスト)特集部門
 1990年は20世紀後半の世界史において、最も重要な年だったかもしれません。この年の受賞作となったデヴィッド・タンリーの特集作品は、そんな1990年を象徴する3つの事件を撮ったものです。
(1)天安門事件(中国)
 1989年6月3日、民主化を求める学生たちが北京の天安門広場に集まり、大掛かりなデモを行いました。それに対し、中国人民解放軍が真夜中に突如、彼らの暴力による排除を開始します。当初は、彼らを広場から排除していましたが、広場を出た路上で彼らへの武力攻撃が行われ、一方的な殺戮へと変わります。
 この悲劇を撮影していたターンリーは兵士にカメラを破壊されますが、ホテルに戻り、別のカメラを持ってきて血まみれの仲間を運び出す学生たちなどの撮影に成功します。テレビ放送は、途中で回線が遮断されてしまいますが、彼は電話回線でそれらの写真を送ることに成功し、いち早く全世界のこの悲劇を伝えることになりました。
(2)ベルリンの壁(ドイツ)
 40年の時を経て、「ベルリンの壁」が市民の手によって破壊されている。このニュースもまた世界を驚かせるニュースでした。ベルリンの市民ですら1年前には思ってもいなかったでしょう。ソ連の崩壊から始まったヨーロッパの激変は、東西冷戦の象徴である「ベルリンの壁」を破壊するという究極のパフォーマンスによって、その頂点を迎えました。
 壁を隔てて顔見知りでありながら、話をしたこともなかった人々が、当たり前のように抱き合う姿は、世界中の人々に感動をもたらしました。ただし、このベルリンの壁の撤去までには、様々な政治的な駆け引きや危機的状況があり、一歩間違えば「天安門広場」のような事態になっていた可能性もありました。そして、壁を壊すこと以上に、この後の秩序を作り上げることが困難であることも、まだ人々は知りませんでした。
(3)チャウシェスク政権の崩壊
 悪名高き独裁者チャウシェスクが支配していたルーマニアでは、彼が行ってきた暴力的支配に復讐するかのように、暴力による革命が行われ政権が崩壊することになりました。多くの国が平和的に民主化への移行が行われたのに対し、この国では「血の革命」が行われ、チャウシェスクは公開処刑という悲惨な最後を迎えることになりました。しかし、多くの市民はそうした暴力的な革命がさらなる混乱を生むのではないかと恐れていました。
 そんな人々の不安を表したのが、ターンリーが撮った人々がVサインを掲げる一枚です。泣きながらピースを示す男の顔に見えるのは、「安堵」「悲しみ」「不安」「感動」「感謝」・・・実に複雑なものに思えます。
「南アフリカの抗争」(Human Torch)
グレッグ・マリノビッチ(AP通信)1991年(南アフリカ)ニュース部門
「不治の病に苦しむルーマニアの子供たち」(Forgotten Children)
ウィリアム・スナイダー(ダラス・モーニング・ニューズ紙)1991年(ルーマニア)特集部門
「ソ連の死」
AP通信スタッフ(AP通信)1992年(ソ連)ニュース部門
 1990年前後のソ連の変動は、なぜあそこまで急激に起きたのか?ミハイル・ゴルバチョフの異色さ偉大さだけが原因だったとは思えません。直接的な引き金が1986年の「チェルノブイリ原発事故」だったことは明らかですが、1991年にはペレストロイカの主役だったゴルバチョフが保守派によって軟禁状態となる危機もありました。そこにさっそうと現れた新たな主役がボリス・エリツィンでした。モスクワに終結した戦車の上に立つエリツィンの雄姿は、インテリ・タイプのゴルバチョフとは正反対の武闘派ヒーローの登場となりました。1991年12月25日クリスマスに最後のソ連の指導者ゴルバチョフは、その役目を終え、大統領を辞任しました。ゴルビーが成し遂げた平和的な解決のプロセスを記録したAP通信の写真がたった1年間におきた出来事だとは今でも信じられません。彼らは10年ぶんの仕事をした充実感を感じていたと思います。
「21歳」(Age 21 in America)
ジョン・カプラン(ブロック・ニューズペーパーズ紙)1992年(ペンシルバニア州ピッツバーグ)特集部門
「バルセロナ・オリンピック」
ウィリアム・スナイダー、ケン・ガイガー(ダラス・モーニング・ニューズ紙)1993年(スペイン・バルセロナ)ニュース部門
「クリントンの大統領選」
AP通信スタッフ(AP通信)1993年(アメリカ・ボストン、ニューハンプシャーなど)特集部門
「モガディシオにおけるアメリカ兵の死」
ポール・ワトソン(トロント・スター紙)1994年(アフリカ・モガディシオ)ニュース部門
「ハゲワシと少女」(Waiting Game for Sudanese Child)
ケビン・カーター(フリーランス)1994年(スーダン)特集部門
 世界に衝撃を与えたこの写真を撮ったのは、フリーランスのカメラマンとして、南アフリカ人のケビン・カーターです。1993年、彼は休暇をとってスーダンに向かいました。1992年にスーダンを支配していたイスラム教系の政府は、イスラム教を信仰していない南部地域にもイスラム法を施行させるため、反発する地域から国際支援物資を取り上げてしまいます。1956年の独立以来、30年にわたり内戦が続いていたスーダンは農業が崩壊状態にあり、食糧の配給停止は地球住民に餓死を命じることと同義でした。武力を用いない恐るべき「民族浄化」の状況を伝えるため、カーターは食糧配給所にやってくる飢えた人々の写真を撮影。ある日、弱々しく泣く少女の声をきいた彼は、ハゲワシに狙われている少女がうずくまる姿を目撃。急いでシャッターを切った彼はその後ハゲワシを追い払ったといいます。
 あまりにも悲劇的なこの写真は、世界に衝撃を与え、アフリカにおける飢餓の現状を伝えることに成功。彼はこの写真でピュリツァー賞を獲得し、世界的にその名を知られることになりました。しかし、撮影時から自分が少女に何もできなかったことに、彼は苦しんでいました。そのうえ追い打ちをかけるように、「ハゲワシと少女」により脚光を浴びたカメラマンはハゲワシそのものだ!という批判の声も聞こえてきました。
 1994年6月に彼はニューヨークでピュリツァー賞を受賞。帰国して翌日28日。彼はヨハネスブルグの自宅に置いてあった愛車の中でガス自殺をとげてしまいます。あまりにも悲しい写真は、その後日談までもが悲しすぎます。
「ハイチの新政権樹立」
キャロル・グージー(ワシントン・ポスト)1995年(ハイチ)ニュース部門
 まるで映画のワンシーンのようにドラマチックな写真です。女性カメラマンがローアングルで撮影しているので、煽るようなカットと背景に写る人々の並び方のために、より映画的に見えます。
 1994年に新政府の樹立を記念して行われたパレードの最中、旧政府(軍事政権)支持者が群衆の中に手榴弾を投げ込む事件が起きました。多数のけが人が出た中、犯人として疑われた男が群衆によってリンチにかけられそうになっていました。それをアメリカから来た平和維持軍の兵士たちが救い出した場面を撮ったのがこの写真です。
 カメラマンのキャロル・グージーは、1986年にもコロンビアの火山災害現場を撮影してピュリツァー賞を受賞していて、女性カメラマン初の二度目の受賞となりました。報道の世界でも女性の進出は確実に進んでいることを示す存在です。
 格好良く見える写真ですが、中央に立つ黒人兵はあまりに若くビビッているように見えます。今にも、周囲に向けて銃の引き金を引いてしまいそうです。暴徒の中の正義はあまりに弱々しく、狂気のヒーローにもなりうる。そんな危険性を感じさせる一枚のように思える一枚です。
「ルワンダの死の村」
AP通信スタッフ(AP通信)1995年(アフリカ・ルワンダ)特集部門
 事件報道のカメラマンにとって、スクープ写真を撮ることは、悲劇の現場にいち早く到着することで初めて可能になるといえます。しかし、あまりに凄惨な現場を突然目にした衝撃は、プロのカメラマンをも尻ごませ、恐怖に震えさせることもあります。
 1994年7月のルワンダはまさにそんな地獄のような状況にありましたが、そうなるのに要した時間はわずか数日だけだったといいます。
 4月5日、ルワンダの多数派民族フツ族出身の大統領ジュベナール・ハビャリマナが原因不明の事故で墜落死。少数派でありながら、ルワンダを支配していたツチ族による陰謀説が流れます。そして、それをきっかけに多数派のフツ族過激派が、ルワンダ各地でツチ族の大虐殺を始めます。軍隊でも、警察でもなく一般市民がある日突然、山刀、槍、こん棒、銃を持って、同じ村や町に住む人々を殺してゆく「市民によるホロコースト」。AP通信のカメラマンたちは、事件が明らかになって3か月後、静まり返ったルワンダに入り、その恐るべき現場を初めて撮影することになりました。ナチス・ドイツによるシステマティックなホロコーストとは異なるこの惨劇も、その原因は「経済格差」や「人種差別」を根に持つ「恨み」でした。爆発寸前の「恨み」や「怒り」は、イスラム教とキリスト教の間だけでなく、日本でもごくごく身近なところに潜んでいます。それがいつ爆発するのかは、まったく予測不能です。ルワンダで起きた悲劇は、今も世界各地で異なる形態をとって再現されています。惨劇の現場があまりにむご過ぎて忘れがちな事実を再確認させてくれる特集です。
「連邦政府ビル爆破事件の犠牲者」
チャールズ・ポーター・4世(フリーランス)1996年(オクラホマ州オクラホマシティー)ニュース部門
「ケニアの通過儀礼」
ステファニー・ウェルシュ(フリーランス)1996年(ケニア)特集部門
「救出」(Teen Rescued from Flood Waters)
アニー・ウェルズ(プレス・デモクラット紙)1997年(カリフォルニア州サンタローザ)ニュース部門
「踊るロシアの熊」
アレクサンダー・ゼムリアチェンコ(AP通信)1997年(ロシア・モスクワ)特集部門
「涙の旅路」(Trek of Tears)
マーサ・ライアル(ピッツバーグ・ポスト=ガゼット紙)1998年(タンザニア)ニュース部門
 女性カメラマンの活躍は、被写体としてより多くの女性が登場するきっかけともなり、同じ事件を異なる視点からとらえることにもなりました。女性カメラマンのマーサ・ライアルが中央アフリカ各地で撮影した難民たちの写真にも多くの女性たちが登場します。ルワンダの虐殺と同様、中央アフリカを舞台にフツ族とツチ族の間で起きた対立と民族紛争は多くの難民を生み出すことになりました。彼らの苦難の旅に密着し、難民たちの現実を伝えようとした彼女は、レイプされた女性や敵対する部族の男性と結婚したり、子供を育てている女性たちの声を聞き、その姿をカメラに収めました。そんな生き生きとした表情を引き出した彼女にとって、アフリカへの取材旅行は初体験であり、自ら会社を説得しての取材旅行でした。「技術」でも「経験」でもなく「情熱」と「愛情」が写し取った写真だからこそ、彼女の写真の中で苦難の旅を続ける人々は、美しく気高く力強い表情をしているのかもしれません。
「麻薬が生みだす孤児たち」
クラレンス・ウィリアムズ(ロサンゼルス・タイムズ紙)1998年(カリフォルニア州ロングビーチ)特集部門
「アメリカ大使館へのテロ攻撃」
AP通信スタッフ(AP通信)1999年(ケニア・ナイロビ)ニュース部門
「クリントン大統領のスキャンダル」
AP通信スタッフ(AP通信)1999年(ワシントンDC)特集部門
2000年代
「コロンバイン高校銃乱射事件」(Columbine)
ロッキー・マウンテン・ニューズ紙写真部スタッフ(ロッキー・マウンテン・ニューズ紙)2000年(コロラド州コロンバイン)ニュース部門
 この事件はほぼ同時進行でテレビで映像が流されたため、写真よりもテレビ映像の印象が強いかもしれません。学校での乱射事件は今や世界各地で起きるようになり、当時ほどショッキングではなくなりつつあります。
 残念ながら、いつまでも銃規制を行わないアメリカにとって、こうした学校での乱射事件は自業自得にも思えてきました。しかし、それぞれの事件には被害者がいて、生き延びた人たちの中にも精神的なショックから心の病を抱えてしまった人も多いようです。目の前で親友を殺された少女の泣き叫ぶ姿は、彼女が受けた精神的ショックの大きさを感じさせます。
 この事件の後、銃の所持に関する規制を強めるべきという運動が盛り上がりました。しかし、身近な惨劇は、銃を規制するよりも、学校に武装警官を配置するという方向に向かわせることになりました。イスラエルとパレスチナとの和解とアメリカにおける銃規制、核兵器の廃絶、この三つのなかで、銃規制が最も実現困難なのかもしれません。アメリカ人にとって銃とは、建国以来の思想である自由と独立の根本に位置する存在なのかもしれないからです。
 銃撃戦のないハイウッド映画と同様、銃のないアメリカ社会などあり得ないのかもしれません。
<参考>映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」(マイケル・ムーア監督作品)
「コソボ難民」(Fleeing Kosovo)
キャロル・グージー、マイケル・ウィリアムソン、ルシアン・パーキンズ(ワシントン・ポスト紙)2000年(アルバニア・マケドニア)特集部門
 内戦により大量の市民が虐殺されたコソボから脱出をはかる人々に密着したワシントン・ポスト紙入魂の特集企画です。
 コソボ共和国とは、ユーゴスラビアから分かれたセルビアから2008年に分離独立した国。
 ピュリツァー賞受賞経験者3人によって撮られた難民たちのドラマは、命がけの大脱走であり、離れ離れになった家族の感動の再開であり、新たな人生に向けた旅立ちでもありました。どの写真も陰影に富んだ美しい映像ですが、その背景となっている東欧の秋らしい澄んだ空気と自然が映画のワンシーンのようにドラマを盛り上げています。
 しかし、難民たちの多くが財産を失い、家族を失い、家を失い、将来への夢を失って、苦悩に満ちた表情をしているのに対して、子供たちの屈託のない笑顔が逆に見る者の胸を熱くさせます。女性カメラマン、キャロル・グージーは3度目の受賞となりました。もはや彼女は報道カメラマン界のメリル・ストリープと呼ぶべき存在かもしれません。
「エリアン君強制確保」(Elian)
アラン・ディアス(AP通信)2001年(フロリダ州マイアミ)ニュース部門
「火事の後」(After the Fire)
マット・レイニー(スター=レジャー紙)2001年(ニュージャージー州サウスオレンジ)特集部門
「世界貿易センタービルへのテロ攻撃」
ニューヨーク・タイムズ紙スタッフ(ニューヨーク・タイムズ紙)2002年(ニューヨーク)ニュース部門
 ニューヨーク・タイムズ紙はこの事件の報道によって、史上初のニュース部門、特集部門ダブル受賞を果たしています。
 ビルに突っ込む直前の飛行機、その衝突によって炎を噴き出しながら爆発するビル、その爆発を見て呆然とする市民の表情、血だらけで座り込む女性、崩落するビル、そこから発生した膨大な土煙の中で必死の救出活動を行う救急隊員たち・・・。地元ニューヨークで起きた事故とはいえ、いち早く現場で撮影を行い、リアルタイムで事件を報道できたのは、記者の数だけでなく能力のなせる技。それぞれの記者や特派員がそれぞれの場所で素晴らしい仕事をすることで、様々な視点から事件をとらえることができています。(アフガニスタンでの取材も含め)
 テレビ画面を通して、リアルタイムで事件を目撃した人にとって、あの映像の衝撃は忘れ難いものがあります。しかし、今思うとあの動画映像は衝撃的過ぎてリアルなものに感じられなかった気もします。あの事件は悪夢に過ぎなかったのではないか?そんな気すらしてしまいます。この写真はそんな疑念を吹き飛ばし、より深い事実として受け取れるよう促す意味がありそうです。
 ここからイラクへの誤った攻撃が始まり、21世紀におけるイスラムVS西欧の戦争が始まることになります。
「戦争と平和 アフガニスタンにて」
ニューヨーク・タイムズ紙スタッフ(ニューヨーク・タイムズ紙)2002年(ニューヨーク)特集部門
「コロラドの山火事」
ロッキー・マウンテン・ニューズ紙写真部スタッフ(ロッキー・マウンテン・ニューズ紙)2003年(コロラド州)ニュース部門
「エンリケの旅」
ドン・バートレッティ(ロサンゼルス・タイムズ紙)2003年(ホンジュラス~ノースカロライナ)特集部門
「イラク戦争」(En Route to Baghdad)
シェリル・ディアスマイヤー、デヴィッド・リーソン(ダラス・モーニング・ニューズ紙)2004年(イラク)ニュース部門
「包囲されたモンロビア」
キャロリン・コール(ロサンゼルス・タイムズ紙)2004年(リベリア・モンロビア)特集部門
 2003年長きにわたるリベリアの内戦にひとつの区切りがつけられました。しかし、そのために首都のモンロビアでは激しい市街戦が行われ、多くの市民がその戦闘に巻き込まれて命を落とすことになりました。
 ロサンゼルス・タイムスのキャロリン・コールは、銃撃戦をかいくぐりながら、激戦の地モンロビアでの戦闘と街に逃げ込んだ難民たちの悲劇を撮り続けました。銃撃戦に巻き込まれて殺された遺体が並ぶ道路。その遺体はどれも子供たちでした。そして、銃を手に戦う兵士の中にも、十代にしか見えない子供がいます。長い内戦により、多くの大人たちが命を落とし、兵士の年齢は下がり続けました。こうして新たな子供たちが兵士として戦争に参加することで、悲劇の連鎖は続くことになります。カメラをにらみつける赤いワンピースの少女の視線がその恐ろしさを物語ります。思わず目をそらしてしまいそうな一枚です。
「イラク 再び」(War Zone)
AP通信スタッフ(AP通信)2005年(イラク)ニュース部門
 内戦によって混沌としたイラクにおける取材活動は危険があまりにも大きく、AP通信では取材メンバーに現地で採用したイラク人カメラマンを参加させるようになります。(ベトナム戦争でもそうでした)彼らは反米武装勢力と行動を共にし、アメリカ軍を攻撃する様子を撮影することにも成功しています。さらには、アメリカの民間軍事会社社員を殺害し、その死体を燃やした後、見せしめにぶら下げる場面までも撮影しています。彼らイラク人カメラマンはアメリカ軍の攻撃を受けることもあったといいます。
 こうしてアメリカ人とイラク人による写真の数々はイラクでの戦闘をよりリアルにとらえることに成功しました。(もちろんイラク人カメラマンは匿名で仕事をしなければ、自分だけでなく家族までも危険でした)
 街そのものが戦場となり、敵が誰かすらわからないような混沌として場所で生きることは、兵士ならずとも精神を病むことになるのは当然ではないでしょうか?そんな悲壮感、無力感を感じてしまいます。
「ライオン・�ハート作戦」(Operation Lionheart)
ディアン・フィッツモーリス(サンフランシスコ・クロニクル紙)2005年(イラク~オークランド)特集部門
「ハリケーン・カトリーナ」
ダラス・モーニング・ニュース紙スタッフ(ダラス・モーニング・ニュース紙)2006年(ルイジアナ州ニューオーリンズ)ニュース部門
「最後の敬礼」
トッド・ハイスラー(ロッキー・マウンテン・ニュース紙)2006年(コロラド州)特集部門
 イラク戦争で戦死した兵士の遺族の世話をし、葬儀の手伝いをする海兵隊のジャック・ベック少佐に1年間密着して撮影された企画です。飛行機かの横から星条旗に包まれた棺が降ろされる様子を同じ飛行機に乗る乗客が窓越しに眺める一枚は実に印象深い。
 夫の葬儀を前にその遺体の横で一夜を過ごす妻の写真も忘れられません。棺の横には兵士が直立不動で立っているのは、さすがアメリカ。遺族のためにサポートをするベック少佐の仕事ぶりは確かに信頼されるだけのことはあるのでしょう。
 ただし、軍が遺族のために、どれだけサポートを行っているのかを見せ、兵士たちの家族を安心させる意味もあるので、米軍のキャンペーンのように見えなくもありません。戦場版の「おくりびと」は、葬儀の手配だけでなく家族の心のケアにまで関わる仕事。彼らの仕事ぶりによって、「憎しみの連鎖」が少しでも断ち切れればとは思いますが・・・。
「たった独りの闘い」
オデッド・バリルティ(AP通信)2007年(ヨルダン川西岸地区)ニュース部門
「ある母親の旅」(小児癌に侵された男児と母親・・・)
レネー・C・バイヤー(サクラメント・ビー紙)2007年(カリフォルニア州サクラメント)特集部門
 報道写真の役割も時代と共に変化しています。ただ単に起きた事件を追いかけるのではなく、どこにでもある重要な問題に直面している人々に寄り添うことで読者に問題提起をする。そんな報道の仕方も増えています。そうしたスタイルの中でも高い評価を受けたのが、この企画です。
 小児癌の一種である神経芽細胞腫という難病と闘う少年と、その母親を一年間にわたって追いかけたシリーズです。限られた時間を生きようとする子供を見守るシングルマザーのシンディ・フレンチの生活に密着したのは女性カメラマンのレネー・C・バイヤーです。
 少年と親しくなるほど客観的な撮影や取材が難しくなり、家族の闘いに関わらざるを得なくなる中、一定の距離を保ち続けるのは難しかったでしょう。そのおかげで、それぞれの写真にはごく自然に「喜び」「苦しみ」「悲しみ」が写し出されています。2006年に少年デレクが亡くなるまで続いたこの特集は多くの人々に感動を与え、母親のもとに多額の支援が寄せられました。そして、そのお金をもとにして、母親のシンディは難病と闘う家族のための基金を立ち上げました。
 残された期間を必死に生きようとする姿に感動させられる写真ばかりです。
「日本人ジャーナリストの死」
アドリース・ラティーフ(ロイター通信)2008年(ミャンマー・ヤンゴン)ニュース部門
「私を覚えていて」(末期疾患に対処する家族の詳細な年代記)
プレストン・ガナウェイ(コンコード・モニター紙)2008年(ニューハンプシャー州)特集部門
 2007年の「ある母親の旅」は、難病と闘う子供とその母親のドラマでしたが、こちらは3人の子供をもつ母親が肝臓癌で亡くなるまでの日々を追ったもう一つのエンディング・ノート作品です。当初は単発のはずが母親の生きざまに感動した記者が続編を作り続け、彼女が亡くなった後まで1年をこえるシリーズとなったのでした。
 家族の一員となるまでに親しくなったからこそ、カメラは家族の表情をごくごく自然に収めています。母親の最期の瞬間だけでなく、彼女の死後に行われた記念植樹を行う家族の姿まで収めることで、母親の思いが家族の中で生き続けていることを伝えてこの特集は終わります。
 自らの死をもって、家族に生きる喜びを伝えた母親の愛と勇気に涙です。
「絶望の底のハイチ」(ハリケーン被害)
パトリック・ファレル(マイアミ・ヘラルド紙)2009年(ハイチ)ニュース部門
「バラク・オバマの大統領選」(アメリカ大統領選)
デーモン・ウィンター(ニューヨーク・タイムズ紙)2009年(アメリカ各地)特集部門
 ピュリツァー賞の歴史において、大統領選挙候補者を追った写真はわずかです。アイゼンハワーに敗れたアドレー・スティーブンソンのすり減った靴を撮った「アドレーの靴」(1953年)と「クリントンの大統領選」(1993年)そしてこのオバマ大統領の特集です。
 考えてみれば、マスコミ向けのコメントとマスコミ向けの表情や服装を徹底した選挙戦の候補者ほど面白味がない被写体はないかもしれません。一大ブームとなった当時のオバマ人気とイケメンぶりから、初めてこの企画は成立したのかもしれません。確かに雨の中、目を細めたオバマ大統領の表情は実にカッコイイです。これだけいい顔していれば、誰でも投票したくなるはず。絵になる男はやっぱり得です。
2010年代
「命の手」(River Rescue in downtown Des Mines)
 メアリー・シンド(デモイン・レジスター紙)2010年(アイオワ州デモイン)ニュース部門
「10代の新兵」
クレイグ・F・ウォーカー(デンバー・ポスト紙)2010年(コロラド州デンバー)特集部門
「ハイチの地震災害」
キャロル・グージー、ニッキー・カーン、リッキー・カリオティ(ワシントン・ポスト紙)2011年(ハイチ)ニュース部門
「銃火に巻き込まれて」
バーバラ・デーヴィッドソン(ロサンゼルス・タイムズ紙)2011年(カリフォルニア州ロサンゼルス)特集部門
「緑の服の少女」
マスード・ホサイニ(AFP通信)2012年(アフガニスタン・カブール)ニュース部門
 イスラム教の祭り「ア-シェーラー」で起きた爆弾テロ事件の現場で撮影
「女性や子供が宗教をめぐる残酷な戦争に巻き込まれ、意味もなく殺されている現実を世界の人々に伝えなくてはならない。それが自分の義務だと私は信じている・・・
 いったいどんな神が、こんな罪もない人々に死を命じるというのか?」

マスード・ホサイニ
 シーア派とスンニ派の対立が原因となり、お祭りの会場が標的となったため、多くの子供たちが犠牲になりました。
「おかえりなさい」
クレイグ・F・ウォーカー(デンバーポスト紙)2012年(アメリカ・デンバー)特集部門
 2010年に「10代の新兵」でピュリッツァー賞を受賞しているクレイグ・ウォーカーは、今回は兵士たちのその後を追い、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ元海兵隊員スコット・ホストロムに密着。必死で普通の生活に戻ろうとする生き様を9か月間にわたり取材しました。
 この特集は新聞や雑誌ではなくインターネット上の特集として公開され、紙媒体とならずにピュリッツァー賞を受賞した最初の作品となりました。
「激化するシリア内戦」
AP通信スタッフ(AP通信)2013年(シリア・アレッポ)ニュース部門
 2011年に街頭での民主化要求デモから始まった「シリア内戦」は、死亡者の半数が一般市民という悲惨な内戦となりました。しかし、この内戦の取材は他の戦争に比べ大きな危険を伴っていました。なぜなら、シリア政府が海外マスコミによる取材を認めず入国を拒否したため、取材陣は反政府勢力の協力を得ることで活動するしかなかったからです。当然、彼らは政府軍に攻撃される可能性があり、反政府勢力内の内紛に巻き込まれるなど様々な危険がともないました。
 AP通信のスタッフは密入国によりシリアに潜入し、シリア第二の都市アレッポでの撮影を行い、衛星通信により直接写真を送ることに成功しました。
「シリアの狙撃手たち」
ハビエル・マンサノ(フリーランス・AFP通信)2013年(シリア・アレッポ)特集部門
 2012年9月にシリア入りしたフリーランスのカメラマン、ハビエル・マンサノはアレッポの街でFSA(自由シリア軍)の兵士に案内され、廃屋となったビルの中、狙撃手たちの隠れ場所に案内されました。トタン板で覆われたその部屋には銃弾によって開けられた穴から中東の強い日差しが差し込み、映画のワンシーン(「天国の門」のクリストファー・ウォーケンが銃撃される場面)のような美しく不気味な世界が、カメラによって写し取られました。
 彼はこの写真特集によりフリーランスのカメラマンとしては17年ぶりにピュリツァー賞を受賞しました。
「ナイロビのショッピングモール襲撃事件」
タイラー・ヒックス(ニューヨークタイムズ紙)2014年(ケニア・ナイロビ)ニュース部門
 2013年9月21日、NYタイムズのカメラマン、タイラー・ヒックスは、偶然居合わせたショッピング・モールで事件に遭遇。人々が逃げ惑う中、そこへ突入する警官隊と共に事件の現場に潜入しました。イスラム過激派アル・シャバーブのメンバーによる無差別テロ攻撃により、店内にいた一般市民が67人(2歳~78歳)が死亡し、175人以上が負傷しました。血だらけの被害者や犯人グループを追う警官たちを撮った写真も迫力満点ですが、二人の子供を守るため抱きかかえるように床に伏せたまま5時間もの間耐え続けたという母親の姿をとらえた一枚は見る者の心を強く打ちます。
「この女性と子供たちが身を隠している姿を見ると・・・他に類のない写真だと思います・・・それに、このような状況に遭遇するというのも、めったにないことです。個人的には、この写真はあの日ウェストゲートで起こったことのすべてをとらえていると思う。だからこれ以外の写真を見せるまでもないのです」
タイラー・ヒックス
「ゴールの向こうへ」
ジョシュ・ヘイナー(ニューヨークタイムズ紙)2014年(アメリカ・ボストン)特集部門
 2013年4月15日、ボストンマラソンの会場で起きた爆弾テロ事件に遭遇し、両足を失った青年ジェフ・バウマンに3か月間密着取材を行って、彼が事故の後、手術を受けて義足をつけ、少しづつ立ち直る姿を追った感動の企画特集。
「ファーガソン 炎に包まれた街」
セントルイス・ポスト=ディスパッチ紙スタッフ(同紙)2015年(アメリカ・ファーガソン)ニュース部門 
 ミズーリ州ファーガソンの街で18歳の黒人少年マイケル・ブラウンが白人警官ダレン・ウィルソンに射殺されるという事件が起きます。警官に向かって手を挙げていたにも関わらず撃たれたという報道がきかっけとなり、街では黒人たちによる抗議デモが行われ、それが暴動へと発展。ついには放火や略奪行為までもが始まってしまいました。
 事態は2週間でおさまるものの、11月に大陪審が警察官のウィルソンを不起訴処分にしたことから、再び暴動が始まることになりました。
「エボラ出血熱 疫病の恐怖」
ダニエル・ベレフラク(フリーランス・ニューヨークタイムズ紙)2015年(西アフリカ)特集部門
 1976年に中央アフリカのコンゴで初めて感染が確認されたエボラ出血熱は、その後、流行と停滞(制圧)を何度か繰り返しながら、2014年に至り流行のピークを迎えました。当初は、ギニアの森林地帯で広がり始め、そこから西アフリカ各地で猛威を振るい2万6000人以上が感染。その死亡率は50~90%に達しました。幸い空気感染はしないものの、身体的接触や分泌物、血液などを介して感染するため、感染者や死体を扱うことは非常に危険な行為となりました。
 当然、家族を病院へと見送る人々は、誰もが永遠の別れを覚悟せざるを得なかったので、つらく悲しい別れとなりました。

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<参考>
「ピュリツァー賞 受賞写真 全記録 moments : The Pulitzer Prize - winning Photographs」
 2011年
(著)ハル・ビュエル Hal Buell
(訳)河野純治
(序)デヴィッド・ハルバースタム
日経ナショナル・ジオグラフィック社

「ピュリツァー賞 受賞写真 全記録 第二版 moments : The Pulitzer Prize - winning Photographs」 2015年
(著)ハル・ビュエル Hal Buell
(訳)河野純治
(序)デヴィッド・ハルバースタム
日経ナショナル・ジオグラフィック社

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